02 森の中で熊さんに出会った。
冒険者組合を出ると街灯が点いていて、空は群青色と山吹色が混ざり合って黒に変わろうとしている。
僕は街の中心に位置する地下迷宮に向かっていた。
「冒険者組合のお姉さん、せっかく忠告していただいたのにごめんなさい。でも、いまダンジョンに潜らないことには、僕はもう今晩どこかに泊まるお金もないんです」
街のなかに突如として現れる地下迷宮は地面に大きく口を開けて冒険者たちを待ち構えていた。
魔法の込められた洋燈の紫光が照らす下り坂を降りていくと、そこはもうダンジョン第一階層。
ダンジョン内はひんやりとした空気が充満して、足音ひとつひとつがよく耳に入ってくる。
いよいよ来たんだ。
喉を鳴らし、乾いた唇を舐める。
まだ若苗であるのにも関わらず、すでに巨大な樹のような大きさを誇る〈未完成の世界樹〉が聳え立っていた。
太陽光の当たらないダンジョンに生えた、このまだ成長しきっていない樹は未だ多くの謎に包まれている、という話を聞いたことがある。
この街に来るまでに地下迷宮に関する情報をたくさん読み込んできた。故郷の田舎町で読んだ冒険譚は僕の目にとても魅力的に映った。そしていま、本に書いてあったものを実際にこの目で見て、実感が湧いてきた。
ぎゅっと、購入したばかりの剣の柄を握りしめる。
うぅ……。慣れない。
一応、故郷でも木剣で練習をしていたけど、実際に怪物の命を奪うための真剣を手にすると重みが全然違う。
第一階層は樹々がたくさん生えた森林エリアだ。
通称『暁の樹林』。
樹々が生い茂り、見通しが悪いために怪物との不意の遭遇による事故に注意しなくてはいけない。
じり、じりと周囲を警戒しながら一歩ずつ進んでいく。
いまの僕にできるお金を稼ぐ方法は怪物を倒してドロップアイテムを入手するか、薬草や食材なんかを採集して地上の街で売却するかのどちらかしかない。
よしっ、まずはモンスターと戦ってみよう。
『グギャ、ゴギャ』
低い呻き声が聞こえてきて、足を止める。
目を凝らすと少し離れた木のそばに〈小鬼〉の群れがいるのが見えた。数は一、二、三……五。五匹。
小柄な僕よりもひとまわり小さな身体はくすんだ緑色をしている。おでこの両端から生えた短い角。口からは涎が垂れ、覗いた歯はやすりで削ったみたいに尖っている。
はじめて見る怪物、そのあまりの醜悪さに思わず怯んでしまう。
(あはは。モンスターのドロップアイテムを期待するのはやめとこうかな……)
そそくさとその場を立ち去ろうと踵を返す。が、踵を返した方向が悪かったのか、深い森の中で迷子になってしまった。もう自分がどこから来たのかもわからない。
自分の現在地がわからなくては、せっかく支給された地図を見ても意味がない。
物音に怯えながら延々と暗い森を彷徨い歩く。
あとから思えば、初心者が足を踏み入れるには早過ぎる奥地にまで進んでいたのだろう。
樹々に紛れるようにしてそいつはいた。
巌のような巨体をした熊が身体を丸めて眠っている。その逞しい腕だけで僕の胴体くらいの太さがあった。そしてなにより、特徴的な背中に生えた大きな樹。
「〈大樹熊〉!?」
大きな声を出しそうになって慌てて自分の口を塞ぐ。
ジャイアントツリー・ベアーは第一階層における最強モンスターと言われる。滅多にお目にかかることのない希少種でもある。
もちろんFランクで初期装備の僕なんかが倒せる相手じゃない。戦いにもならず、一方的に蹂躙されるだけだろう。
できるだけ足音も吐息も、音という音を消して今すぐに立ち去るべきだ。
でもただひとつ、僕の目を捉えて離さないものがあった。
寝息に合わせて揺れる大樹熊の背中の大木に、一番星のように輝く黄金の果実が一個だけ実っているのだ。
僕はバッグから貰ったばかりの迷宮教典を取り出して、たったいま書き加えられた大樹熊の項目に目を走らせる。
―――――――――――――――――――――――――
《大樹熊の満月果実》
【取引価格】二〇〇〇〇〇エルン
《説明》
大樹熊の背中の巨木から採取した黄金に輝く果実。
新月の晩にしか実をつけないため、その存在はほとんど知られていない。
一度にひとつしか実らず、存分に栄養の行き渡った果実は糖度二〇度以上と甘い。
―――――――――――――――――――――――――
二十万エルンが目の前にぶら下がっていた。
レアアイテムに目が眩んだ僕は忍び足で【初階最強】に近づいていく。
『すうぅ……。すうぅ……』
寝息だけで威圧感が凄まじい。この規則的な呼吸が途切れて、その目が開いたらと思うと頬を冷たい汗が伝う。
もう怪物とは目と鼻の先だ。
ごわごわとした、一本一本が針のような毛も、光沢のある黒曜石のような爪も微細に見てとることができる。
「頼むよ、そのまま眠っておいておくれよぉ」
つま先立ちで手を伸ばすけれど、輝く果実には手が届かない。
でも小心者の僕が勇気を振り絞ってここまで接近した以上、引き返すことなんてできない。僕が枝に手をかけて、届く所までよじ登ろうと幹に足をかけた瞬間、
『グルルル、ギャオオォォォ』
てらてらと光る赤い眼とばっちり目が合う。
「えっと……ごめんなさい?」
凶暴なモンスター相手にそんな謝ったところで許してくれるはずもなく、
『グウワァァオオォォーーー』
と痺れる咆哮を浴びせてくる。
「あわわわわ」
空気が震え、至近距離にいた僕の頬っぺたを揺さぶった。熊が起き上がるのを待つことなく、森の中へと逃げ出す。
(やっぱり冒険者が長生きするためには欲をかきすぎちゃいけなかったんだっ!)
泣き出したい気持ちをグッと堪えて腕を振る。
他の怪物に気を配っている余裕はない。後ろからやってくるアイツより恐ろしい怪物はいないのだから。
樹々を抜けると正面にゴブリンの群れが現れた。が、僕は何を血迷ったか、ゴブリンたちの間を突っ切ることを選択した。不意をつけたからいいものの、下手したらゴブリンたちに捕まっていた。危険過ぎる行為だ。
クララさんに言われた冷静さはどこかに落としてきてしまった。
『グギャ?』
呆気にとられるゴブリンたちの横をすり抜け、置き去りにする。彼らは追ってきた大樹熊に瞬殺されてしまった。
ごめんよ、とゴブリンたちに心の中で謝る。僕としても生きるために逃げるしかないんだ。
暗闇の森は視界が悪く、樹に身体のあちこちをぶつけ、擦りながら走る。向こうは樹なんかお構いなしに、薙ぎ倒して直進すればいいんだからずるい。
(どこか、どこかに身を隠せる場所はないか?)
まだ全然冒険をしていない。こんなところで死ぬわけにはいかない。
酸欠で狭まる視界で懸命に命を繋ぐ方法を探す。
長い鬼ごっこのなか、森が終わり、拓けた場所に出てしまう。それはつまるところ、隠れる場所がないことを意味していた。みるみる距離が詰まり、背後から強烈なベア・クローが襲ってくる。モグラ叩きでもするみたいに連発で叩きつける。
「うわっ! ほっ! おっとっと!!」
これを間一髪で躱す。しかし、何百キロという体重が乗った一撃の衝撃は凄まじく迷宮の地面が先に悲鳴を上げた。
足場が崩れ、地面に大きな穴が開く。
どうやら下は空洞でそこを踏み抜いたらしい。(落ちる——)と思った時にはもう遅く、浮遊感に襲われていた。爪攻撃を避けた僕までも土や草と一緒に落下していく。
肝心のジャイアントツリー・ベアーはというと、巨体に似合わぬ大跳躍を見せ穴を飛び越えていく。
「嘘でしょ!? そんなのありかよぉぉぉぉ。絶対許さないからなぁぁぁーーーー」
穴を覗き込んだ熊に見下されるようにして落ちていく僕。夜の地下迷宮に捨て台詞だけが反響する。
読んでいただきありがとうございます (°▽°)
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