6. 我がユルグ領は弱肉強食です
カラミンの朝は早い。
魔物の急襲から一夜明け、5時頃には街の家々から釜戸の煙が昇る。
昨夜は結局、あれから一睡もできなかった。
どうせ眠れないなら何か手伝えることはないかと、ジョバンニは大広間に向かう。
魔物の後処理に、男手が必要かもしれない。
そう思いながら、疲れた目を擦りつつ向かうと、ハルフトに声をかけられた。
「おはようございます! グレゴール卿、昨夜はお騒がせして申し訳ありませんでした。あの後、お休みになれましたか?」
相変わらずお仕着せをパンパンにしながら、昨夜の急襲など無かったかのように、元気いっぱい話しかけてくる。
「よく眠れたと言いたいところだが……実のところ、あれから一睡もしていない」
困ったように頭をかいて、朝から忙しそうにする使用人達に目を向けた。
「しばらく寝付けそうにないんで、何か手伝いでもして身体を動かそうかと思ったんだが、必要なさそうだな」
下手に手を出すと、逆に邪魔になりそうだ。
使用人達の統率がとれた動きに、早々に手伝いを諦める。
「それならばグレゴール卿、稽古場で身体を動かしてはいかがですか? これから私も向かうところです」
睡眠不足で疲れているとはいえ、身体を動かすのは好きなので、ジョバンニは二つ返事で了承した。
練兵場を抜け稽古場に向かうと、ちょうどフレデリカが、早朝に帰ってきたばかりの長男、クルシュと手合わせをしているところだった。
クルシュは現在王宮に仕官しているが、彼の勤務体制は特殊で、必要な時だけ呼ばれて王都へ出向き、あとはユルグ辺境伯領に籠もっている。
「僕は大したことも出来ないから、目立たないくらいで丁度いい」
そう言って、出世も断り、のんべんたらりと過ごしていると聞いたことがあるが、フレデリカとの手合わせを見ていると、およそ文官の動きではないように思える。
稽古用の木剣で打ち合いをするが、結局フレデリカに軽くいなされ、そのまま稽古場の端まで投げ飛ばされてしまった。
「お兄様! もう一回お手合わせ願います!」
動かなくなった兄を容赦なく叩き起こし、再度手合わせを要求するフレデリカ。
「帰ってきたばかりで疲れているのに……」と、嫌々身体を起こしたところで稽古場に入ってきた二人に気付き、クルシュはぴょんと飛び起きる。
「あ、グレゴール卿はじめまして! クルシュ・ユルグと申します。よし、人も増えたから、僕は戻ろうかな」
これ幸いと逃げていくクルシュを、フレデリカはもの言いたげな目で見送った。
「……おはようございます」
稽古の邪魔をされ、不機嫌そうにクルシュの木剣を拾ったフレデリカは、そのままジョバンニに歩み寄り、ずいと差し出した。
「次期侯爵様が次のお相手ですか?」
挑発するようにフレデリカは微笑む。
元よりそのつもりで稽古場に来たため、ジョバンニにも異論はない。
無言でシャツを腕捲りすると、先程のクルシュとは異なり、鍛え上げられた筋肉質な腕がのぞく。
「腕まくりはいいですが、シャツは脱がないようお願いします」
「……? いや、もとよりそのつもりだが」
「なら、いいです」
よく分からないことを言って、プイッと顔を背けたフレデリカの頬が、少しだけ色付いたような気がした。
早朝から剣を振るい令嬢と手合わせするなど、視察に訪れる前は思いもよらなかったが、昨夜のフレデリカを思い出し、自分がどこまでやれるのか楽しみでもある。
木剣を受け取り、軽く肩慣らしをした後、ジョバンニはハルフトへ目を向けた。
「ルールは?」
「どのように攻撃されても構いません。急所への攻撃も認めます。但し木剣を落としたら負け。ただそれだけです」
後方に控えていたハルフトが答える。
「お嬢様は、木剣での攻撃は寸止めまで。当てる場合は素手のみ可とします」
昨夜の一件が無ければ、舐められているのかと憤慨するところだが、ジョバンニは彼女の実力をもう知っている。
「承知した」
フレデリカ上位のルールをあっさり受け入れたジョバンニに、ハルフトはクスリと笑う。
剣先がギリギリ触れ合う距離を保ち、二人は木剣を構えた。
「準備はよろしいですか? それでは……はじめ!」
はじまりの合図とともに、フレデリカが飛び込んでくる。
一瞬で間合いを詰められ、思わず一歩後退ると、フレデリカは自らの剣先を地に突き立てるように翻し、ジョバンニの木剣を下から柄でトン、と軽く突く。
思わぬ方向からの攻撃に、木剣がジョバンニの手からすっぽ抜けそうになり、慌てて握り直したところで今度は懐に入られ、襟元を捕まれたと思った瞬間、宙に投げられた。
さすがに気を遣ってくれたのか、クルシュのように稽古場の端までは飛ばないが、あっという間にフレデリカの足元で受け身をとる羽目になる。
投げられる衝撃で思わず手がゆるみ、木剣は数メートル先に転がった。
「一本! ……お嬢様、もう少しお手柔らかに」
ハルフトが右腕を垂直にあげつつ、フレデリカを嗜める。
「十分手加減してるでしょう? 我がユルグ領は弱肉強食。弱いヤツから死んでいくのよ!」
誰が相手だろうと私の知ったことではないわと、フレデリカは高笑いをする。
一方、投げ飛ばされたジョバンニは、放心していた。
手も足も出ないとは、まさにこのこと。
十八歳で入団した近衛師団でも、ここまでの実力差を見せ付けられたことはなかった。
――グレゴール侯爵は、貴族にしては珍しく子供の自主性を重んじ、可能な範囲で自身の行く先を選ばせてくれる。
元々身体を動かすことが好きだったジョバンニは、騎士になり、ゆくゆくは頭の良い弟に爵位を譲るつもりだった。
そして父であるグレゴール侯爵もまた、それについて了承してくれている。
そのことを改めて話したのがいけなかったのだろうか。
爵位は弟が継ぐ可能性が高いと予め提示した上での婚約だったはずなのに……十六歳になり、成人したばかりの婚約者に改めて告げると、突然顔色を変えて彼を罵倒した。
「爵位を棄てるなんて正気ですか!? 騎士風情の妻に、わたくしがなるとでもお思いですか!?」
そのまま踵を返し、彼女の父親であるルアーノ子爵から抗議の手紙が届いたのは、その三日後のこと。
まさか本当に、弟へ爵位を譲る気でいるとは思ってもいなかったようだ。
婚約前にあれだけ説明をしたにも拘わらず、話は平行線となり、ついに婚約破棄の申し出を受けた。
貴族令嬢なのだから仕方ないと思いつつも、結局は爵位狙いの婚約だったのかと肩を落とすジョバンニへ、「何か言いたいことはあるか」と一度だけ、父グレゴール侯爵は尋ねてくれた。
非は自分にあるから、相手の不利益にならないよう穏便に処理して欲しい。
ただ、そう答えた気がする。
そして婚約破棄のわずか半年後、彼女にはあっという間に新しい婚約者が出来ていた。
評判はよろしくないが、伯爵家の嫡男だったので、彼らにとっては納得のいく落とし処だったのだろう。
愛しているとまでは言えないが、いずれ彼女と家庭を築くと信じ、何年も大切にしてきたつもりだった。
あっさり棄てられ、次期侯爵という身分がなければ、自分には何の価値もないのだと分かってしまった。
爵位を捨てるのは諦め、次から次にくる婚約の申し込みを全て断りながら、仕事に没頭する日々を続けてきた。
「あらあら、次期侯爵様だというのに、かよわいこと!! さぁ、続けるわよ!」
――上を見遣ると、美しい御令嬢が高笑いをしながら、自分を見下ろしている。
こちらが素なのだろう。
あっけらかんとした物言いが心地よい。
騎士科で粗暴な先輩達に囲まれ、毎日しごかれていた青年時代を思い出し、ジョバンニはゆっくりと木剣を拾う。
「もう一度手合わせ願おう!」
もちろん、容赦なく叩きのめされるわけなのだが。
何も考えず、ただ身体を動かすこの一時が、ジョバンニにはとても楽しかった。