4. 辺境伯夫人の圧がすごい
目を血走らせて仕事をしていた調査官達は、驚くべき速さで業務を終え、日が暮れる前に急ぎ王都へと出立した。
ユルグ辺境伯の強い要望により、ジョバンニだけその場に引き止められ、そして今。
夜会での出来事を言及されるのではと汗びっしょりになりながら、客室にてユルグ辺境伯夫妻と向かい合わせに座っていた。
「王都の令嬢達に勝るとも劣らないくらい、二人とも美しく聡明ですのよ。それにとても素直で優しい子達なんです」
ああ、そういうことかと、ジョバンニは出会った二人の少女を思い出す。
現在婚約者のいないジョバンニは、遠征の際などに令嬢を紹介されることは多い。
そういえば二人の令嬢は、まだ婚約者がいないと聞いている。
「二人の娘は朝からは森で……いや、街であの少し、えーっと、ああそう話題の! 話題のスイーツを食べに行っておりまして、夕食までには戻る予定です」
口ごもりながらユルグ辺境伯が言うと、夫人が目を泳がせた。
……二人の娘さんには今朝方お会いしました。
ひとりは魚を抱え、もうひとりは絶命した大きな熊を連れておりました。
なお、スイーツを食べている気配はありませんでした。
……言えないけど。
ユルグ辺境伯夫妻は幼馴染で、夫人は従妹であったと聞いている。
貴族にしては珍しく恋愛結婚をしており、多少尻に敷かれている雰囲気はあるものの、とても仲が良さそうに見えた。
「グレゴール卿。此度のご来訪は領地視察および夜会で倒れた愚女のお見舞い、という名目でよろしかったでしょうか?」
あの状況でお見舞いもなにもないのだが、名目を無理矢理ねじ込んで言葉を続ける辺境伯夫人の瞳に、あの夜見たフレデリカ同様、チラチラと緋が走る。
ジョバンニが仕方なく頷くと、羽のあしらわれた豪奢な扇をパサリと開き、口元を隠した。
「所属している近衛師団とグレゴール侯爵には既に許可を得ておりますので、どうぞ数日、我が領にてごゆっくりお過ごしください」
ジョバンニ本人も知らぬ間に、話がついていたらしい。
国内でも有数の軍事力を誇るユルグ辺境伯家だが、視察に行った者は皆今回のように、当日か翌日には逃げ帰り、思い出したくもないと一同に口をつぐむため、以前から気にはなっていた。
「停戦に伴いクレスタ王国との商談を進めているため、カラミンの宿は当分どこも満室でございます。どうぞ我が邸宅にお泊まりください。もちろん、外出の際は護衛をひとり、お側に付かせていただきます」
後ろに控えていた従者ハルフトが、一歩前に出て軽く頭を下げる。
従者兼護衛?
護衛という名の監視だろうか。
そう勘ぐるほどに、この家は謎が多い。
ユルグ辺境伯を遥かに超える、凄まじい圧を放つ夫人を前にして、ジョバンニは首を縦に振るほかなかった。
「御存じのとおり、他家とあまり交流のない我が家の娘達は、二人とも未だ婚約者がおりません。特に長女のフレデリカはグレゴール卿とも歳が近く、魔物にも精通しておりますので、森に入る際は是非ハルフトとともにお連れください」
――それでは、ごゆっくりお過ごしください。
そうして辺境伯夫人は口元を覆っていた扇をパチリと閉じ、にこりと微笑む。
「……承知しました」
今まで相手にしてきたどんな高位貴族とも異なる、抜き身の剣を喉元へ当てられているような感覚に、冷や汗が背中を伝う。
そんなジョバンニを、ユルグ辺境伯はそっと労るような眼差しで見つめていた。
***
「御挨拶が遅れ申し訳ございません。長女のフレデリカ・ユルグと申します」
「次女のパトリシア・ユルグです」
夜空のような紺のドレスに身を包んだフレデリカは、あの夜会での暴挙が嘘のように、ジョバンニが見惚れるほど美しい。
少し日焼けをした健康的な肌に、しなやかで引き締まった体躯。
ピンと伸びた背筋は、令嬢というよりは騎士のようである。
そして少し幼さが残るが、妹のパトリシアもまた可愛らしい顔立ちをしていた。
「ジョバンニ・グレゴールと申します。今宵のフレデリカ嬢は、月の女神のようにお美しい。パトリシア嬢もとても可愛らしく、髪飾りがよくお似合いですね」
昼間の姿とは打って変わった二人に、ジョバンニが称賛の言葉を漏らすと、褒められ慣れていないのだろうか、フレデリカとパトリシアは赤くなって俯いた。
可愛らしい一面もあるものだと、ジョバンニが微笑ましく眺め、「もう一人、王宮に士官している長男のクルシュがいるのですが、本日は不在です」とすかさず夫人が補足する。
その日の夕食は地の物をふんだんに使い、素材の味を活かした優しい味付けだった。
決して豪華ではないが、バランスよく栄養がとれ、ひとつひとつの料理に工夫が凝らされているのが分かる。
また、意外にも令嬢達のマナーはなんら問題がなく、夜会や今朝の出来事が夢だったのではないかと思えるほどだ。
和やかに食事が終わり、数々の心尽くしに礼を述べ、部屋へ下がろうとしたジョバンニだが、「夜の庭園がとても美しいため、是非御覧ください」と夫人に引き留められた。
さらに夫人は、同じく部屋へ下がろうとしていたフレデリカを呼び止め、庭園を案内するよう申し付ける。
夜の女神のように美しい令嬢の目元が、一瞬嫌そうにピクリと動き……とはいえ夫人には逆らえないのか、ふわりとショールを羽織ると、ジョバンニに庭園へ出るよう促した。
王都の貴族達とは異なり、およそ腹芸の出来なそうなこの令嬢は、早く歩けと肘でこっそりジョバンニをつついてくる。
腹も膨れゆったりと歩くジョバンニを、夫人に見られないよう急かす姿が子供のようで、思わず口元が緩んだ。
「ああ、これは夫人が薦めるのも頷ける。揺らめく光に照らされた秋桜が、とても可愛らしい」
足早に案内された庭園はランタンの灯りに淡く照らされ、なんとも幻想的である。
普段は花など令嬢の付き合いで誉める程度の興味しかないジョバンニだが、ふわりふわりと風に揺られながら優しい灯りで照らされる秋桜に、思わず目を奪われた。
貴族達の腹の探りあいに、ほとほと嫌気が差していたからだろうか。
ユルグ辺境伯家の歯に衣着せぬ物言いと、フレデリカの素直さが心地好かったからだろうか。
この優しい風景にしばし無言で見入っていたのだが、隣にフレデリカがいたことを思い出し、ジョバンニは慌てた。
貴族令嬢とはプライドが高く、自己顕示欲の強い生き物である。
花に気をとられ、存在を忘れてしまったなどと知られた日には、どんな怒りを買うか分かったものではない。
「あまりに庭園が美しかったので……君のことを忘れていたわけではないんだ」
ジョバンニが必死で釈明すると、フレデリカは不思議そうに首を傾げた。
「何か問題でも? グレゴール卿のための時間なのですから、お好きなようにご覧ください」
「いや、これ以上は冷えるといけない。案内ありがとう。……すばらしい庭園だった」
そっけない言葉とは裏腹に、相手を尊重する心遣いが感じられ、これ以上手間を取らせるわけにはいかないとジョバンニは庭園を後にした。
……彼の一日目はこれにて無事、終了するはずだった。
はずだったのだが。
***
――深夜二時過ぎ。
けたたましく鳴り響く警報音で、ジョバンニは目覚めた。