出会いと始まり
鳥の心地いいさえずりでウィルは目が覚めた。
歯を磨き、顔を洗い、手早く寝巻から普段着に着替えて外に出る。
外に出ると、涼しい風が茶色の髪を撫でていく。朝の澄みきった空気を思い切り吸い込み、今日一日の予定を思い描きながら目いっぱい伸びをする。
「さてと、準備して村まで向かいますか」
両手の拳を軽く握り、気合を入れる。
今日は山の麓にあるノーマ村に住む、幼馴染みのアイナに頼まれた用事を済まさなければならない。
村から歩いて二十分ほどの山の中でウィルは一人暮らしをしていた。育ての親である祖父母と共に生活していた家にそのまま住み、住み心地もよく単に村まで引っ越すのが面倒というのが理由だった。
村の人々と仲が悪いわけではない。もちろん交流もある。必要なものがあれば村まで調達に行くし、こちらから提供することもある。
準備をしようと扉の前から一歩踏み出した途端、不意に空が暗くなった気がして空を仰ぐ。
空を埋め尽くす悪魔の大群がどこかを目指して飛んでいくのが見えた。どこかで大きな戦いが始まるのだろう。
ウィルが大群を見送っていると、こちらに気付いた一体の悪魔が降りてきた。
着地の瞬間、巻き起こる風圧で木々がざわめく。
見た目は人型。全身は赤黒く、二メートルほどの引き締まった体格。背中からは悪魔らしい翼が生え、指先からは数多の命を奪ってきたであろう鋭い黒い爪が伸びている。
「おい、人間。貴様は、神を信仰するものか。それとも悪魔を信仰するものか?」
腹の中まで響くような低い声で悪魔は問いかけてくる。
「いえ、僕はどちらでもないです」
ウィルは悪魔を恐れる様子もなく呆気らかんと答える。
「なんだと…?」
悪魔の顔が怒りで歪む。
「僕には神も悪魔も関係ありませんから」
それでもウィルは態度を崩さない。
「ほう、その態度。よほどこの世から消えたいようだな」
悪魔は隆々とした右手振り上げる。
(うーん、まいったなぁ。これじゃ約束の時間に間に合わないし、そもそも約束を果たせなくなるな)
約束を破った時のアイナは少々めんどくさい。機嫌を直す手間を考えると、ウィルはどうにかしてこの場を切り抜けなければと思った。
「少しお待ちください、悪魔殿」
ウィルは片方の手を前に出して悪魔へ制止促す。
「なんだ?今さら命乞いか?」
ウィルが怯えていると思った悪魔は、愉悦の笑みを漏らす。
「いいえ、そんなことは致しません。ただ自分の命を奪う方のことを知りたいと思いまして。その見た目。そしてあのような大群を率いてる様子から察するに、さぞご高名な方なのでは?」
拍子抜けしたのか、悪魔は振り上げていた腕を降ろす。
「貴様、俺を知らないというのか。まあいい、気分がいいから教えてやろう。俺の名は大悪魔ベルゼブブ。あの一団を率いる指揮官だ」
背中の翼と両腕を大きく広げて声高らかに名乗る。
「おお、あなたがベルゼブブ様でしたか」
自分で大悪魔と言ってしまうと安っぽく聞こえるなと思ったが、そこは変に突っ込まずに拍手をして精いっぱい感心して見せた。ウィルの態度の変わりようにベルゼブブも鼻を鳴らす。
いけると思ったウィルはすかさず話題をすり替えた。
「実はですね、山の下のノーマ村という小さな村がありまして。そこに今、聖女カタリナが来ているそうなのです」
「何…?」
ウィルの告げ口にベルゼブブは顔をしかめる。
聖女カタリナ。神を信仰する勢力の五聖者の一人である。人間でありながら稀に見る強大な聖なる力の持ち主で、聖女の肩書をつけられているほどの実力者。
幾多の悪魔たちを光で焼き付くしてきた彼女の名を聞けば、いくら大悪魔といえど、躊躇ってしまうだろうと思った。
「あれだけの軍団です。これから大きな戦いが控えているのではないでしょうか。もし、僕を消し炭にすればきっと勘づかれます。今ここで聖女カタリナと対峙して消耗するのは得策ではないかと」
「うむ…確かに。あやつには我々も手を焼いているからな。人間の意見に従うのは癪ではあるが、せっかく集めた戦力を失うのは好ましくない」
ベルゼブブは顎に手を当て、上の行軍中の隊とウィルを何度も見比べて悩んでいた。
「いいか、勘違いするなよ。決して逃げるわけではないぞ」
ビシッと指を指して念を押す。
「ええ、わかってますとも。勇気ある決断だと思われます」
ウィルは笑顔で頷きながら、そう言われると敵前逃亡しているようにしか聞こえないと思った。
「人間。今回は貴様の不信心に礼を言っておこう。さらばだ」
ベルゼブブは勝ち誇った笑みを浮かべて勢いよく飛び立っていった。瞬く間に姿は見えなくなり、ウィルは小さなため息をついた。
「本当に、あの人が指揮官で大丈夫なんだろうか」
ウィルは誰になく呟く。
もちろん、村にカタリナが来ているというのは真っ赤な嘘である。正直、聖女カタリナの実力がどれほどのものかウィルはうわさ程度でしか知らない。しかし、先ほどのベルゼブブの態度からして、相当な人物なのだなと内心感心していた。
そもそも、村にカタリナが来ているのであれば、大群が山を通り過ぎた時点で気付き、戦いが始まっているはずだ。
咄嗟の思い付きで話しただけで、ここまでうまくいくとはウィル自身も思っていなかった。
「思いのほか時間かかちゃったな。急がないと」
一難去ったところで別の一難が待っている。中途半端だった準備を終わらせ、少し急ぎ気味に村へと向かっていった。




