稲月鈴〜陸〜
──ほいっと。
「ほら、着いたで」
「星が…自転が…」
全く、これくらいの衝撃にも耐えれんとはな…
鍛錬の内容も変えるか?いや、情けを掛けるのは鳴渡の為にならんし…
かと言って無理矢理な鍛錬を強いて芽を摘むのもな…
全く、扱いが難しい…
「…吐き終わったか?」
「…ふぁい」
辺り一面に広がる胃酸の酸っぱい臭い。
いかんせん鼻が良いので、臭いが直で来る。
鳴渡が朝に口にした物が半固形になり、辺りに散乱する。
「…ほら、行くぞ」
「…あい」
鳴渡の制服を直し、ピシッとさせる。
襟締を直し、襟を正し、口の周りを布巾で拭いてやる。
「ふふっ、まるで息子が出来たみたいや…」
「…」
鳴渡の顔が赤くなる、羞恥か、それとも緊張か。
まぁ、自分と一つしか違わない女子に服を直されて、しかも、『息子』なんて言われる始末、常識が多少あるなら赤面くらいする筈。
「!」
よくよく思ってみれば、今、私は後輩に向かって『息子』なんて言ったのか?
今になって恥ずかしなってきた…
「さ、さ!気ぃ取り直して早う行くぞ!」
「…はい」
何回気を取り直したか判らんが、気を取り直し、学園に向かう。
…制服を直した時に匂いがこちらに来て不可抗力で嗅いでしまったが、特に気にしてない。
良い匂いだったなとか全然思っとらん。
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「さて、暇やな…」
十傑という特別待遇もあり、授業は好きに出て、好きに休むことが出来る。
既に授業で学ぶ所は終了している為、ただ意味も無く学舎をぶらつく。
「…」
一瞬、誰かに化けて鳴渡の授業に参加しようか、と考えたが頭を振るい払拭する。
室呂や越中、二位も、遠方への出張で不在。
他の十傑仲間も色んな事情であまり学園には顔を出さへんし…
「!」
壁の時計を見やる。
短針は十を、長針は三十を指している。
──脳裏に過ぎる、普段なら全く浮かばない思考。
『こん』『コン』『金』『昏』『渾』『混』『孤』。
…こんな事に『これ』を使いたくは無いが、まぁ一時の退屈凌ぎにはなるだろう。
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『お邪魔しまーす…』
室内運動場、その『男子更衣室』へ。
目的は一つ…出来れば二つ。
『お、あったあった』
普段ならこんな事なんてしない、と念を押しに押す。
それは、『こんな事をしてるけれどしょうがない』と自らに言い聞かせているかの様に、頭の中で反芻する。
『…ゴクッ』
生唾を飲み込み、『それ』を手に掛ける。
真白いそれは、普段から『彼』がちゃんと手入れしている事の賜物だろう。
──いざっ!
『それ』を鼻につけ、思い切り息を吸う。
…通常の『人間』なら、然程も感じない程の微量な『匂い』。
が、『今』の稲月を虜にするには、十分過ぎる量だった。
『…………………はっ!』
『オキツネサマ』と一体になった稲月は五感が何倍にも膨れ上がっており、…まぁ皆まで言うな。
『これはっ…凄いなぁ』
一嗅ぎで脳の奥まで痺れる様な、『匂い』。
制服の持ち主は言わずもがなであるが、稲月は既に鳴渡の匂いに夢中になって居た。
『…これから、鳴渡とどう接すれば…』
『私は貴方の服の匂いを嗅いで居ました』なんて事がバレれば…想像に難く無い。
なんとしてでも今日あったことを忘れ、明日からまた普通に彼と接さなければ…
「…で、訓練がキツくて〜」
「まぁ先輩の訓練だしなぁ」
「がんばれ、ひびき」
…最悪の事が起きた。
嗅ぐのに夢中で、近づいてくる三つの人間の足音に気付かなかったのだ…
『…』
もし、もし鳴渡の制服を嗅いでいたのがバレたら…
信頼やら何やらが地の底まで落ちる。
(どうかバレません様に…)
「そうそう、稲月先輩…だっけ?」
「おう、先輩が?」
「なにか、へんなこと、されてないか?ひびき」
「変な事?特には…」
…何で私が変な事すると思うとるんやろねぇ?
やっぱ『天童・二位・神無月』のせいなんか?
あの三人にはいつか灸を据える必要があるなぁ…
「そうか、一先ず、安心だな」
「そうだな、なにかあったらこころよくいってくれ」
「あぁ」
…危ない、バレる所やった、あまり長居は出来んな…
本じゃここらで退散するか、長居してバレたら洒落にならんからなぁ…
『…あっ忘れ物……』
目の前に罠の如く存在する、入れ物から落ちた『動着』。
それは、彼が今まで着ていた、彼の匂いがたっぷりと染み着いた服。
──周囲に人の影無し。
『い、家で返せば…』
頭の中を駆け巡る、幾つもの邪な思考。
『魔が差す』『惑わされる』『眩惑』。
生唾は知らぬ間に喉を通過し、音を鳴らす。
『…すまん、鳴渡くん、私は駄目な先輩や…』
『それ』を持ち、私は元いた場所へと帰る。
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「んしょっ、と」
三階、空き教室の中で『オキツネサマ』との合体を解く。
体から『別の魂』が出て行く。
「…」
『…気づいとったか?』
「…何がですか?」
『オキツネサマ』…その正体は過去に神ノ国を一体で壊滅させかけた『禁忌妖』の邪気の抜けた姿。
今正に目の前で寛いでは居るが、その気に成れば神ノ国を一晩で海の中に沈める事など、造作もないだろう。
『"タヌキ"が一匹紛れ混んどる』
「?やけど、月一族の苗字を持っとる奴は学園には居らんけど…」
『そこじゃ、そこが判らん、誰かに化けとるのか…』
月一族。
稲月家と対立している組織である。
表は恰幅の良い商人の様な装いで、標的に近づき、騙し、金をむしるだけむしり取り、最終的に海と仲良くさせる、という非道なやり方で私腹を肥やす極悪な奴ら。
『何にせよ、あのクソダヌキ共が居るだけで神気がさがるわ、見つけ次第追い出しとけ』
「…はぁ」
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と、まぁ見つかる訳も無く、放課後。
鳴渡と門前で待ち合わせし、少し遅れて着く。
「すまんすまん、待ったか?」
「…五分ほど」
…包み隠さんなぁ〜、そういう方がやりやすいけれど。
「帰るか?」
「はい、…またですか?」
「"また"や」
抱え、飛ぶ。
「少し位心の準備を…」みたいな声が聞こえたが、無視して家に向かう。
「…"ついて"きとるな…」
「へ?」
「ん?何でもないで?」
『やっと…次こそ…』