婚約破棄の裏事情 前編
王家のパーティーで高らかに宣言する第一王子の言葉に視線が集まった。
「カローナ・マグナ。私はそなたとの婚約破棄を宣言する」
第一王子は冷たい顔で男爵令嬢の腰を抱きながらカローナに指をつきつけた。
カローナは身に覚えはなく、そのお顔は王族のするべきお顔ではありませんと心の中で呟いた。王族に反論は許されないので顔にも口にも出さず、昨日会った他国の王子は第一王子ほどイケメンではないが、空気を支配し話術も表情の作り方もうまかったと感心していた。
上品な笑みを浮かべて自分を見るカローナに第一王子は声を荒げて続ける。
「過去の様々な悪事、視界に映るのも悍ましい。さっさと立ち去れ」
カローナは王族として残念な婚約者を眉一つ動かさず上品な笑みを浮かべたまま見つめていた。
婚約者に突然押し付けられた外交から帰った直後の仕打ちに考えることを放棄した。
カローナはドレスの裾を摘んで優雅に礼をする。
「ごきげんよう、殿下。かしこまりました。殿下の命に従いましょう。確認ですが、私とは婚約破棄でよろしいんですか?」
「こっ、ここの者たちが証人だ。そ、そなたと婚姻などせぬ」
「かしこまりました。では私は殿下の視界に映らないように努めます。失礼します」
「え!?カローナ」
周りの喧噪など気にせずカローナは笑みを浮かべ礼をして踵を返し会場を後にする。
婚約破棄を宣言した第一王子がカローナの態度に戸惑っていようとも気にしなかった。
カローナは縋られる視線を初めて無視し、名前を呼ぶ声も聞こえないフリをした。待てとは言われていなかったので足を止めずに進めた。
公爵邸に帰るとカローナは着替えて荷造りをした。これから第一王子の婚約者としての仕事がなくなるなら大歓迎。それにすばらしい言質ももらった。王家の命令は絶対である。
カローナは帰宅した父に呼び出され荷造りする手を止めて執務室に足を運ぶ。
「カローナ、言いたいことはあるか?」
「私は殿下の命に従います。精一杯視界に入らないように努めます。せっかくなので領地に引き籠ります」
公爵は堂々と迷いなく言うカローナに一応確認した。
「予定がつまっているが、」
「お父様、王都にいれば殿下の視界に入るかも知れませんわ。王族の命を違えることはできません」
「仕事を放棄するのか」
「はい。王家の婚約者としての務めばかりです。途中の仕事がありますが王家が対応するでしょう。うちに影響はありませんわ。それにうちは婚約破棄されても困りませんわ」
カローナの父は公爵、母は隣国から嫁いだ皇女である。公爵に一目惚れして皇女の願いで整えられた縁談だった。隣国の皇帝は皇女を気に入っており、嫁いでからもマグナ公爵家に便宜を図っていた。また孫のカローナ達も可愛がり、カローナにとって皇帝は単なるおじい様だった。多忙な孫を心配し、外交と称して隣国にカローナを呼び休ませてくれる優しさにありがたく甘えていた。
第一妃は第一王子を王位につけるためにカローナを婚約者に指名した。権力に広大な領地、尊い血を引くマグナ公爵家の令嬢は息子の後ろ盾に申し分なかった。
婚約破棄されても全く感情のゆるがない娘に公爵は苦笑する。
「私は早朝に発ちます。ではお父様、失礼します」
執務室の外では事情を聞いた妹のイナナが待っていた。
「お姉様!!あんな侮辱を許されるんですか!?好奇の目に曝されて婚約破棄。しかも謂れのない罪です」
「相手にするだけ無駄よ」
「報復を」
興奮する妹の肩に手を置き、カローナと同じ真っ赤な瞳に視線を合わせゆっくりと口を開く。
「イナナ、お姉様はお願いがあるの」
「お任せください!!」
「しばらく領地でゆっくりしたいわ。ここにいたらきっと仕事が舞い込んでくるわ。私はイナナともゆっくり過ごしたいわ」
「お任せくださいお姉様。イナナが王家の使者など送り返します。すぐに領地に追いかけます」
「頼もしいわ。イナナとゆっくりできるなら婚約破棄も悪いことではないわね」
微笑む大好きな姉を見てイナナは気合を入れる。大好きな姉が婚約者のために仕事に駆り出されるのは気に入らず、おかげでイナナと過ごす時間が全然ない。それに第一王子が王命で姉を従わせているのも。今までは姉の婚約者だから遠慮していた。イナナが嫌がらせをすれば姉が駆り出されるが婚約破棄するなら問題ない。イナナの楽しい復讐の時間の始まりだった。大好きな姉との時間を奪った王家は大嫌いだった。
マグナ公爵夫人は廊下での娘達の話を聞き、ため息をついている夫の肩に労るように手を置き微笑みかける。
「旦那様よかったではありませんか」
「当分騒がしくなるだろう」
「それは私達がおさめましょう。成人してないカローナに今まで頑張ったご褒美をあげなくては。子供なのに大人顔負けの仕事をして・・。それに王妃様や第一王子殿下からの無茶な命令に振り回されずに安心します」
「そうだな。カローナは優秀すぎた」
「私たちの子供ですから当然です。大事な我が子の門出に一杯いかがですか?」
二人は大量の公務をこなしていたカローナがいなくなった王家の未来を酒の肴に酒盛りを始める。
酔って気分の良いマグナ公爵夫妻は嫌がらせに燃える楽しそうな末娘の案に乗ることにした。
翌日、朝日と共にカローナは旅立った。
久々の休みである。マグナ公爵領の邸まで馬車で3日。
馬車の中で読書やうたた寝をして久々の穏やかな時間に幸せを感じていた。カローナは許されるなら怠惰に過ごしたい。立場上許されずこれからの幸せな生活を思い描いているカローナは疲労と睡眠不足で思考がおかしくなっているのに気付いていなかった。
マグナ領は伯父夫婦が治めている。本邸に着くと心配そうな顔をした伯父夫婦がカローナを迎え、ゆっくり休みなさいと部屋に案内した。伯父夫婦は婚約破棄されて傷心のため療養に来たと思っていた。王家のためにせわしなく働き健気に尽くすカローナは有名だった。
カローナは伯父夫婦に甘えて、部屋に籠もり侍女のポプラに命じて面会謝絶にする。
伯父夫婦は悲しみにくれる姪をそっとして、食事はポプラが部屋まで運ぶため初日以外はカローナに会う者はいなかった。
カローナは夜着のまま2日ほどダラダラと惰眠を貪り、お菓子を食べて過ごしていた。カローナが怠惰の塊と知るのは一部の人間だけである。ポプラは全く傷心していないカローナを心配している邸の者達に罪悪感を抱いていた。
カローナを咎める視線にため息をこぼす。2日もダラダラ過ごしたのはカローナの人生で初めてだったがこれ以上の記録更新は諦めた。
「わかったわ。散歩に出かけるわ。お忍びの仕度をして」
伯父からカローナは自由に過ごしていいと言われていた。
ポプラが用意したワンピースと帽子を身に着け、薄く化粧をして3日振りに外の空気に触れる。いつもは婚約者の好みに合わせ綺麗に年上に見える装いをしていたが化粧でごまかさなければ、カローナは愛らしい顔立ちの童顔の持ち主である。知っているのは身内と社交デビュー前のカローナを知る者だけである。
「カローナ、大丈夫かい?」
「はい。外の空気を吸ってきますわ」
カローナは出かける前に伯父の執務室を訪ね、弱々しく微笑みかけ傷心の令嬢を演じる。婚約破棄して喜ぶ姿は不謹慎なので見せてはいけないとわかっていた。
伯父はカローナの頭を撫で優しく笑う。
「遊んでおいで。暗くなる前に帰ってくるんだよ」
「はい。行ってきます」
カローナはよわよわしい笑みを浮かべ礼をして出掛けた。
伯父はまだ15歳の姪を馬車馬の様に働かせ、傷つけた王子を忌々しく思っていた。カローナの婚約者でなければ第一王子を支持するつもりもなく王位争いには傍観者の立ち位置を貫くつもりだった。
カローナは部屋でのんびりしていたかった。ポプラの指摘もあるが、散歩に出掛けた一番の理由はずっと部屋にいて、ぶくぶく太るのは避けたかった。令嬢たるもの美しいプロポーションを保たなければいけない。残念ながらカローナは王妃達のように男性を魅了する豊満な胸を持っていない。婚約者に貧相な体と言われても反論できない。王子の言葉に反論する気は一切なかったが大きくならない自分を気にはしていた。そして小柄なカローナは子豚にならないように気をつけていた。
カローナはのんびり歩きながらこれからのことを考える。どうすればのんびり怠惰に過ごせるか。
カローナが歩いていると肩を掴まれ足を止める。
「まさか、カローナ!?」
カローナは自分の肩に手を置き、青白い顔で見つめる他国の王子に驚きを隠し、上品な貴族の笑みを浮かべ礼をする。
「このような姿で申し訳ありません」
「話は聞いたよ。君に会いに行ったけど行方不明と聞いて探しに」
カローナは家族に全て任せていたので自分がどう言われているのか知らない。驚きを隠して話を合わせ、責任は全て王家に押し付けることにした。昔は許されなくても今なら許されるはずである。カローナが王子の婚約者ではない今なら。
「申し訳ありません。私は殿下のお目に触れるわけにはいきません。領地で…」
言葉を濁したカローナに王子は顔をしかめる。王子は外交のためカローナと面会するため訪問すると王宮の使者から中止と伝えられた。カローナなら事前に直筆の手紙とお詫の贈り物を王子に届ける。無礼で礼儀と気遣いの塊のカローナらしくない方法に嫌な予感がして所在を調べると行方不明だった。カローナはいつも王子の国に一人で訪問していたため婚約者との関係を知らず実情を知り驚愕し慌てて行方を探していた。
理不尽な言葉を浴びせられ、傷つけられても健気に尽くしていた令嬢が、王子に捨てられ世を儚むのは避けたかった。王子は美しく、気立てもよく、優秀なカローナを気に入り、冷遇する理由は一つも思いつかない。
「俺の国に来るか?」
カローナは怠惰に過ごしたい。イナナとも離れたくない。全然遊んであげられなかった可愛い妹と過ごす時間を作りたかったが気遣う王子に本音は言えない。
「私のような傷物は殿下のお側にいられませんわ」
儚げに微笑むカローナに王子の庇護欲がそそられた。
「それに、疲れてしまいましたの…」
王子は一人で自国の王に挨拶に訪問したカローナを思い出した。王子が体調不良で訪問できないと謝罪し、一生懸命役割をこなすカローナを微笑ましく見ていた。
王子は小柄な黒髪の少女がカローナとは気付かなかった。この国では珍しい髪色と立ち振る舞いがそっくりで、試しに声をかけ、真っ赤な瞳と声と微笑みと礼の仕草で本人と確信した。王子は厚化粧し高いヒールを履いて、夫人が好む上品なドレスを着て武装したカローナしか知らずに、小柄で童顔の素顔を知らなかった。
「カローナ、君がいくつか聞いても?」
「15歳ですが」
令嬢に年齢を尋ねるのはマナー違反である。カローナの答えに王子は絶句する。カローナの婚約者は19歳なので同じ歳と思い込んでいた。華奢で小柄だが、美しい顔立ちに優雅な所作に宰相に負けない話術を繰り広げたので年下とは思わなかった。
カローナと王子の初めての出会いは4年前である。
11歳の令嬢が一人で初めての外交のために訪問し、その後もカローナはほぼ一人で訪問していた。幼い令嬢が顔を曇らせる内容のものも多く、特に流民や奴隷取引についての話し合いは…。
そしてカローナは商談や接待が終わると休む間もなく帰国していた。
成人している王子はすでに婚姻していた。弟にはまだ婚約者はいない。この愛らしい少女を遊ばせてやりたかった。
「カローナ、うちの弟に嫁がないか?弟は優しいから酷い言葉も言わないよ。俺が守ってあげるから傷物なんて言わせないよ」
カローナは怠惰な日々を過ごしたい。王妃はできれば避けたく、後継争いも巻き込まれたくない。特に女同士の戦いに。
「私、妾のほうが」
「え?」
戸惑う王子にうっかり本音をこぼしたカローナは笑みを浮かべてごまかす。
「お心遣いありがとうございます。お恥ずかしながら疲れてしまいましたの。何も求められず、気ままに愛でられるためだけに咲く花になれたら夢のようですわ」
社交も求められず、怠惰に過ごす妾生活は憧れであるがカローナの身分では許されない。
遠くを見つめるカローナに王子の庇護欲はさらにそそられた。自分の妻は寛大で似た者同士である。この愛らしいカローナを見れば上機嫌に可愛がるだろう。自分の妾にして、カローナが望めば下賜してもいい。
「俺の側室にしようか?」
カローナは首を横に振る。側室は社交も後継争いからも逃げられない。
「妾なら?」
「私、妹や家族と」
「手続きと護衛さえつければ自由にしていいよ。時々、俺の話し相手をしてよ。仕事は気が向いたらでいいよ」
カローナには好条件だった。
無意識に嬉しそうに笑うカローナに王子が目を奪われる。王子にとっていつもの綺麗な笑みよりも可愛らしく魅力的だった。本人が望むものを差し出し迎え入れたいと興味が引かれるほど。
「ありがたいお話ですが、婚姻は父の判断に従いますわ」
「カローナ、君の滞在先は?」
「伯父夫婦にお世話になっております」
「そうか。また会いに来るよ」
「かしこまりました。お気をつけて」
カローナは立ち去る王子を礼をして見送る。王子の言葉を冗談と受け取り散策を続ける。ポプラは鈍い主にため息を呑み込む。カローナの婚約者の目は節穴であり、ポプラの主は成長途中の美少女である。妖艶な年上趣味の王子の好みとは正反対であるが色白で、美しい真紅の大きい瞳に、頬をほのかに赤らめ、素の笑みを浮べれば多くの者が口元を緩ませる。節穴の婚約者の所為で自己評価の低いぼんやり歩いている主に食事をさせるために呼び止める。カローナはやればなんでもできる。ただやる気がなければ、日常生活もろくに送れない駄目な人間であり、この事実を知るのはポプラだけである。
****
イナナは姉の為に頑張っていた。
姉が旅立った日から今までの第一王子の仕打ちの噂を流した。
イナナの姉を貧相で何も魅力のない女とあざ笑ったことも。
他国では知られていなくても、カローナの年齢は自国では知られており、4歳も年下の婚約者への仕打ちに貴族達は顔を顰めていた。
公爵家には王宮から参内の命令が出ていたが公爵は王家の仕打ちに寝込んだフリをして参内を断る。カローナが放棄した仕事が全て第一王子と第一妃に問い合わせが届き慌てていてもイナナには関係ない。
「カローナ!!呼んでも来ないとは何様だ」
公爵邸に先触れなく乗り込む第一王子をイナナが出迎える。突然の訪問はよくあるので、公爵家は慌てず第一王子の訪問時のお出迎えシフトもできあがっていた。
「ごきげんよう、殿下。お姉様は殿下の視界に入らないという命を忠実に守っておりますが」
「あれは、そのような意味では…」
目を見張り息を呑み、気まずそうに呟く第一王子にイナナは微笑みかける。
「お姉様は殿下のお心が健やかであることを望まれております。自身がお心を煩わせるのなら」
「私は寛大だ。カローナが謝るなら許して」
言葉を遮る第一王子の言葉をイナナも遮った。咎める者もいないため不敬は怖くなかった。王族にも不敬が許されるほど力を持つマグナ公爵家である。
「そのお心は新しい婚約者様に。お姉様には不要ですわ」
「高慢なカローナは謝れぬか。もう少し素直になれば…」
イナナは目の前の王子を殴りたかったが我慢し、不満を笑顔で聞き流す。この話も噂で流すつもりでありマグナ公爵夫人も隠れて聞き家臣に命じて記録させている。イナナはカローナが全く魅力のない王子の相手をしないのは当然と思っている。臣下として婚約者として尽くしているだけである。
「カローナは何か言っておったか?」
期待する王子にイナナは綺麗な笑みを返す。
「何も。自身には務まらないので謹んで辞退されると。どうかお姉様のことはお忘れください。何も取り柄のないお姉様に任された仕事は優秀な殿下には簡単ですわね。私達平凡な公爵家は必要ありませんね。どうぞお帰りくださいませ」
「声を」
「必要ありませんわ。お姉様は心を痛めております。もしお姉様へのお心があるなら、放っておいてくださいませ」
第一王子にイナナは笑顔で圧力を掛ける。昔からイナナが暴走するなら止めるようにカローナに頼まれていた執事が止まない押し問答を続ける二人に近づく。
「恐れながら、殿下、お嬢様はようやく眠られました。どうか休ませてくださいませ」
第一王子は執事の言葉に機嫌を良くして立ち去る。イナナの王子の罪悪感を煽るための言葉は逆効果だった。カローナが眠れないほど心を痛めていると聞き、王子は馬車の中で笑う。
王宮に着くと男爵令嬢が第一王子を迎えた。
「お帰りなさいませ。カローナ様は」
「会えぬ」
「まあ!?お立場を放棄されるなんてなんと無責任な」
第一王子の執務室には書類の山ができていた。今までほぼ全てカローナに任されていた物だった。
笑みを浮かべて自分に寄り添う男爵令嬢に、反応せず第一王子は執務を始める。
しばらくすると第一王子は自分の隣に寄り添い、笑みを浮かべる男爵令嬢に不快感を覚えた。カローナなら邪魔はしない。何も言わずに執務を手伝い笑みを浮かべてお茶を出す婚約者が恋しかった。
「殿下、休憩しましょう」
胸を押し付けて、口づけをねだる令嬢に手を伸ばす気は起きない。
男爵令嬢はどんどん王子に向けられる視線が冷めていき茫然とする。自分のために婚約破棄してくれ、王子が気にするカローナは消えた。カローナがいなくなれば王子は自分に夢中になるはずだった。
***
最近のカローナは王宮に参内していなかった。定例の王子とのお茶会にも顔を出さない。夜会で第一王子が他の令嬢をエスコートしても何も言わず、心細そうに見ることもなくなった。王子が手を差し出すと笑顔で寄り添うだけだった。カローナは王子に何も願わない。第一王子はカローナに相手にされずに拗ねていた。
昔は第一王子が他の令嬢をエスコートすると一瞬だけ顔を曇らせた。それでも不満も言わずにいつも笑顔を浮かべていた。
興味を引きたくて冷たい言葉を投げかけても笑顔のまま。第一王子はカローナが落ち込むならいくらでも慰めた。
婚約破棄すると言えば、嫌がると思っていた。冤罪をかけられれば、自分を信じてと縋ってくれるとも。
第一王子は自分のことで精一杯でカローナの現状がわからなかった。カローナが自分や母親の仕事を任されて多忙な日々を送っているとは知らなかった。
第一王子の生母の第一妃は息子よりもカローナが優秀だと早々に気づいた。息子よりもカローナに任せると評価が高く、第一妃は第一王子の名代で仕事を任せ息子の優秀さを知らしめたかった。自分が育てた優秀なカローナを気に入り、いつも笑顔で寛大な心を持ち、何があっても第一王子を心から愛し支えてくれると信じていた。
幼い頃から教え込んだ王家に逆らわない忠誠心が裏目に出るとは思わず、息子が王家のパーティーで婚約破棄を宣言し、カローナがうなずくとは思いもしない。息子もカローナを気に入り相思相愛と思っていた。カローナの外面に王族は騙されていた。
国王にはマグナ公爵家より婚約破棄の書類が送られていた。健気で聡明で笑顔で第一王子に寄り添う婚約者は有名だった。国王の目から見ても優秀なカローナは視野の狭い第一王子に必要だった。
「父上、どうされるんですか?破棄されるなら僕が欲しいんですけど」
国王は後継者を決めていない。王子が協力して国を治めるのが望ましいが、王子達は仲が悪かった。
「王位継承権を返上して、婿に行きます。母上の承諾は得ています。兄上とカローナの不仲が噂になっているので破棄は必須でしょう?健気な年下の婚約者への仕打ちが」
一番優秀な王子は王位に興味がなかった。国王は婚約者を気に入っている第一王子と隣で微笑むカローナはうまくいっていると思っていた。妃からはカローナの願いで執務を任せていると聞いていた。第一王子の名前でカローナが執務をしていることも、二人で協力しているなら支障はなかったので何も言わなかった。カローナについては妃と息子に任せ、二人の言葉を信じ何も調べていなかった。
「父上の了承さえいただければ第一妃殿下の説得も公爵家とカローナの了承も自分で取ります」
王家にはカローナのために破棄させてほしいと嘆願書が大量に送られていた。またマグナ公爵家からは第一王子からカローナへの不満の調書も。カローナからの力不足への謝罪と王子の命令に従うため謁見できずに手紙での挨拶への謝罪も。
国王は第一王子とカローナの婚約破棄を決めた。
イナナによって世論が操作され、民達にまで幼い頃から王家のために尽くした公爵令嬢と、婚約者に執務を任せ時には酷い言葉を投げかけて遊び歩いていた第一王子の話が広まっていた。姿を消したカローナのおかげで信憑性が増していた。民には第一王子より婚約者として慰問や視察に訪れるカローナの方が好かれていた。
国王は第三王子の強い希望でマグナ公爵家への婚約破棄の書類を届ける使いの役目を譲った。
そしてカローナとの婚約は本人とマグナ公爵家の了承があればと頷いた。
***
カローナは傷心のフリをして怠惰な生活を満喫していた。伯父夫婦達は徐々に無邪気な笑顔を見せるカローナにほっとしていた。カローナは子豚にならないように庭園を散歩し、ぼんやりと花を眺めながら、昔を思い出していた。
カローナは物心ついた時には第一王子の婚約者だった。キラキラした金髪の第一王子が好きだった。王宮に勉強のために通い時々見かける婚約者は綺麗だった。綺麗な笑みに挨拶をかわすだけで緊張してしまい、自分が美しい王子様と結婚するのは夢のようだった。遊ぶ時間もなく、忙しくても王子様の婚約者なら当然だと思っていたがカローナの憧れは年々砕けていく。第一王子はいつも令嬢達に囲まれていた。王はたくさんの妃を持つので、気にしないようにしても寂しかった。カローナは側室も妾も笑顔で受け入れるように教育されていたがまだ心が追いつかなかった。
年を重ねるにつれて第一王子はカローナに冷たくなり、いつもキツイ言葉を向けられた。幼い顔立ちは化粧で誤魔化せても体型だけは無理だった。カローナは妃教育のおかげで鉄壁の笑顔を身につけたので何を言われても笑顔で受け流すだけ。王族への不満も、傷ついても泣くのも許されなかった。涙を流せは婚約者として自覚が足りないと叱責を受けた。王族に何かを願うことも許されない。
カローナは第一妃の執務室でいつも過ごしていた。カローナの教育は第一妃の監視のもとで行われ、王宮での居場所は第一妃の執務室か時々呼ばれる第一王子の部屋だった。連日通う王宮での張り詰めた時間は幼いカローナには辛かった。
王宮の庭園での散歩を覚えてからは、庭園の隅の死角でぼんやりするだけがカローナの癒やしの時間だった。
王宮でのことは誰にも話してはいけないと教わり、両親には心配をかけられないので家では常に笑顔で過ごしていた。弱音は許されない。妃教育で多忙なカローナに友達はいない。会うのは第一王子を囲む年上の令嬢だけだった。
幼いカローナはぼんやりと木陰に座っていた。課題を出されたが難しく、気分転換に資料を持って逃げてきた。手が止まり悩む姿を見せれば第一妃に怒られるのはわかっていた。王宮ではカローナは笑顔と穏やかな顔以外浮かべてはいけなかった。
カローナは突然現れて隣に座る茶髪の子供に目を丸くした。ここで誰かに会うのは初めてだった。
「休憩。内緒ね」
ニヤリと笑う少年にカローナは自分を知らないならいいかと思い、貴族の笑みを浮かべるのはやめた。赤い瞳を持つ第一王子の婚約者は有名なので、無礼な態度の者はいない。妹と同じくらいの少年に警戒心を持つ気もおきなかった。
「うん。内緒」
カローナは静かに頷く。
「それは?」
少年はカローナの課題を覗き込んだ。カローナは曖昧に笑うと少年はにこりと笑って課題の解説を始めた。カローナは少年の解説に聞き入り答えがわかり笑みを浮かべる。
「すごいね。私、難しくて」
「僕も最初わからなかったから。難しいよね」
カローナはそんなふうに言われたのは初めてだった。いつも簡単な問題と言われても、カローナにとって簡単な問題は一つもなかった。
「みんな、簡単って」
「また教えてあげるよ。僕のこと内緒ね」
「うん。約束。ありがとう」
カローナは少年の差し出す小指に小指を絡めてニコッと笑った。
それからカローナと少年の逢瀬が始まった。
カローナは課題がなくても空いた時間に少年に会うためいつもの木で待っていた。
少年とは毎日は会えなくても、カローナは時々会えるだけでも良かった。少年を待ちながらカローナは青空を見上げて呟く。
「サンとずっといられればいいのに」
カローナの未来は決まっている。周りに羨ましがられてもカローナは第一王子との婚姻は望んでいなかった。第一王子と令嬢達とのお茶会の後はいつも気分が沈んでいた。
カローナは聡明でなく、王子の周りの令嬢達のように王子を楽しませる方法もわからない。5歳のカローナは10歳の令嬢達に敵わなかった。
「私が子豚になったら出荷されるかな」
第一王子にはもっと肉が付いたら抱き心地も良さそうだと言われ、周りの令嬢達に可愛い子豚になりそうと笑われた。
カローナが出荷される場所を思うと悲しくなった。
「いつか僕が助けてあげるよ」
カローナは頭を撫でる手に顔を上げ、会えただけで気分が浮上した。
「ううん。お役目だから。私が頑張らないと妹が」
「ロナの大事な物は僕が守ってあげるよ。僕にとってはロナが一番可愛くて綺麗だよ。どんなロナも僕は大好きだよ」
「ありがとう」
カローナはサンと名乗った茶髪の薄い黄色の瞳を持つ少年が大好きだった。陽だまりのように温かい瞳を持つ優しい少年。
サンと過ごした時間は宝物だったがこの日を境に会えなくなった。
カローナにとって二度目の恋だった。
成長してからカローナはサンが王宮に住む妖精だったと気づいた。会えなくなり寂しくなって約束を破ってポプラに調べてもらうと茶髪の幼い少年は王宮にはいなかった。
サンと会えなくなって落ち込むカローナに匿名で大量の本が贈られてきた。寂しさを紛らわせるために必死で読み、おかげでその後は課題に悩むことはなくなった。本の中にいつも答えが隠れていた。
年々、カローナに任される執務が増え、多忙な日々に呑まれていく。そして第一王子への情はなくなり、嫌われていてもどうでもよくなり、ただ婚約者として努めるだけだった。第一妃の命令で第一王子の執務の手伝いを命じられても二人の側にいるよりも理不尽な命令をこなすために離れる方が楽だった。
カローナは第一王子と共にいるよりも一人でできる仕事が好きだった。婚約破棄され、もう会わずにすむと思うとほっとした。
多忙な日々より自分を疎んでいる相手と一生を共に過ごす方が苦痛だった。婚約者なら不満は許されない。婚約破棄されたなら、嫌だと思う心を我慢せず、認められた。
カローナにはようやく自由な時間ができ、心にもゆとりができ、久しぶりにサンとの優しい思い出に浸ることにした。
庭園の木陰に座って見上げる空の青さが美しいと思えたのはサンと会えなくなって初めてだった。
また太陽から溢れる陽だまりの光がサンの瞳の色を思い出させ自然な笑みが零れ落ちていた。