第六話
俺は、夢を見た。
狐の面をした彼女が、こちらを振り向き微笑む姿を。
もちろん、お面のせいで彼女の素顔は分からないが、何故だろう――そんな気がする。
知らない天井で目を覚ました。
見覚えのない真っ白な天井。ここは越す前の家や前にいたところとも違う。寝ぼけたまま辺りを見渡すと、どうやらここは病院のベッドの上のようだった。
朧げな記憶と意識が徐々に鮮明になる。
そうだ、俺はアザミ神社に立ち寄ってそれから、カイコという妖怪に憑かれ、喰われる一歩手前だったんだ。
俺は目を見開いた。じゃあ、今見ているこの世界は本当に現実世界なのだろうか。それとも、カイコが未だに見せている夢の世界なのだろうか。
俺は無意識に鈴の音を探していた。
しかし、耳を澄ませても聞こえてくるのは、風に揺られている木々のさざめく音や、愛らしい鳥の声だった。
「樹?」
声がする方へ視線を向けると、そこには少々やつれた母が立っていた。
「……おはよう」
俺は視線を合わせると、思わず照れくさそうに笑ってしまった。
母を見た途端、この世界がカイコガ創って見せている偽りなのかもしれないという考えは、風に吹かれる砂塵のように消し飛んでいた。
悪夢が終わり、俺は九条桐乃さんのおかげで、いつも通りの世界に戻ってこられた。
精密検査を終えて数時間後のことだった。病院の窓から奇妙なものが見えていた。時代錯誤の和服を着た、誰にも話しかけられない女性の姿。否、中庭にいる者には、彼女のことが見えていないのだ。
「お元気そうでなによりです」
病室の入り口から、夢の中で聞いた声がした。
驚いて振り返ると、そこには狐のお面をつけた九条桐乃さんがいた。現実でもあの姿なのか。
「驚きました? この面はいつもつけているものなんですよ」
彼女が心を見透かしたようにくすくすと笑うと、俺も動揺を隠すように下手な作り笑いを浮かべた。
「二、三話したいことがあります。よろしければついでに外の空気を吸いませんか? お医者様の許可は取っていますので」
俺も彼女に訊きたい事が山ほどある。だから身体少々重かったが、そんなことは気にせずサンダルを履き、九条さんのあとをついて歩いた。
程なくして、真っ白になったシーツ類が干してある屋上に出ると、太陽の日差しが特に眩しかった。
春の日差しは暖かく、冬の凍てついた風を解いているようだった。
「聞きました。神社で俺を助けてくれたんですよね。ありがとうございました」
無論夢の中でも知っていたが、母から助けてくれた彼女の名前は聞いていた。そして、この玉藻町において唯一の名家の娘であることも。あの大きな蔵を所有しているのも頷ける。
「お礼など必要ありませんよ。あれは事故のようなものですし、妖怪に襲われた人間を助けるのは、我々九条家の務めですから」
注意の一つでも言われるものだと、覚悟していた。面の下の表情は、俺には分からなかった。あんなことをしでかして怒っているのか、それとも何事もなかったように難い表情のままなのか。
「私の方こそ、貴方に謝らなければなりません。私の力不足で貴方を危険な目に合わせてしまった」
彼女は俺に向かって貴方を深々と下げた。
「申し訳ありませんでした」
予想外の展開に俺は目を丸くして、彼女の頭を上げてもらえるように促す。
「そんな、九条さんが謝る事なんてないですよ! むしろ謝るのは俺の方で――」
自分でも気色悪いと思うほど慌てている姿を見て、九条さんは頭を上げてまた微笑む。
「これでお相子です」
彼女が謝ったことで、俺がこれ以上要らぬ苦を背負わなくて良くしてくれたのだ。
「それで、貴方に伝えたいことなのですが」
彼女の面の下に輝く瞳が俺を捉え、真剣な声色で話し始めた。
「まず一つ。あのカイコという妖怪は、私が封印しました」
「封印したって……」
たしかに俺はあの悪夢から帰ってこられた。それは間違いない。まさかあの壊れたアザミ神社に封印したのだろうか。
「あのアザミ神社ではありません。私の瞳の奥、万華鏡の中に封印致しました」
九条さんは、静かに話し始めた。
「私たち、九条家の人間の眼には特別な力が宿っています。妖怪を二度と出てこられない迷宮に封じ込めることが出来るのです」
あのとき、狐の面を外したのは、それが理由だったのか。
いやでも、それなら面をつけている理由が分からない。まだほかにも事情があるのだろうか。
「この力は、便利なものではありません。瞳に映った妖怪は否応なしに封じ込めてしまいます。いずれ、世の中の均衡を崩してしまいかねません。……それにもう一つ欠点があるのです」
彼女は一息ついた。
「私の瞳を見た者は、男であろうと女であろうと心を奪われてしまうのです」
「……それって?」
狐の面が気恥ずかしくしているように見える。
「言葉通り、心を奪うのです。下手をすれば廃人になりかねません。その効力を抑えるために、この面をつけているのです。だから、無闇に私の素顔を見ようとしないでください」
彼女の言うことが正しければ、俺は彼女の素顔を簡単に見ることが出来ないらしい。ただの知的好奇心で、廃人になってしまうのは、さすがにイヤだ。
「どうして、そんなことを俺に?」
当然の疑問だろう。そんなこと教えなければ、俺が彼女の面の下を覗こうなんて思わないはずだ。」
「四月から、同じ学校、同じクラスに通う仲ですから。お友達としてお願いしただけです。……と同時に、貴方が見えてしまっているので」
最後の言葉でぎくりとした。
彼女は知っているのだ。
俺が、この世ならざる者が見えてしまっていることに。
「貴方は心根のさらに奥にまで、妖怪に侵入されました。カイコは完全に封印しましたが、憑りつかれた影響が少なからず現れているのです。色々と見える程度ですが、それでも色々な厄介事に巻き込まれるでしょう。私たち九条家は、妖怪に襲われている人や自然の均衡を守る陰陽師の一族です」
――ですから。と彼女は続けた。
「私と一緒に、悪い妖から身を守る術を学んでいきましょう。あんなことが二度と起こらないように」
春の風が優しく頬を撫でた。これから起こる大事件の前触れなのか、新しい出会いへの祝福なのか、俺には分からなかったが、どちらにせよ受け入れる他ない。
「……分かりました。新学期から、よろしくお願いします。九条桐乃さん」
「ええ、新学期でお待ちしておりますよ。真城樹さん」
これは、妖が見えてしまったが故に俺の身に起きる数々の事件のほんの一幕。
妖の正体を暴き、見つけ、還し、ときには封印する、妖探偵九条桐乃との想像以上に騒がしい一年の始まりの話なのだ。
これから、次の章やらの展開の推敲などあるので、更新頻度がまちまちになります。