7.シザンサス
珍しいちゃんとした恋愛小説。
かくん、と肘が折れて目を覚ます。
その目には、カーテン越しに太陽からまっすぐ光が届いて、目を細める。ふわりと、ほんのり香る。甘くにがい香りは、なんだろう。
「あ、起きたの」
そう言って私の頭を撫でて、ことんと目の前のテーブルに湯気の立つカップを置いた。
ゆっくり目の覚めてきた頭は、ソファの上で綺麗にうまく収まっていた私の体に痛みを発する。
唸りながら足を伸ばし、手を伸ばす。すると、反対側に座った彼、アキくんはくすりと笑う。
「なに」
「いやあ? 随分間抜けな顔だなと思って」
じろりと睨むと、また笑われた。さっきのカップを掴めば、コーヒーが揺らめく。口に含むと苦さが広がり、まどろんでいた目が覚める。
さっきのにがい匂いはこれだ。
じゃあ、甘い匂いは?
「あーあ、採点終わらなかった」
「……大丈夫なの?」
「まあ、来週発表だから、問題は無いよ」
見ていたファイルを閉じると、アキくんが立ち上がった。それを見て、私も慌てて立ち上がろうとする。出かけるのだ、そう理解してのことだったのに、私の顔の前で手をかざされた。
「いいよ、寝てな。昨日仕事で遅かったんだから。疲れてるだろ」
「んー……じゃあお言葉に甘えて」
ひらひらと手を振ると、アキくんは急に顔を近づけて、私のおでこに何か当てた。
ぽかん、とすると、アキくんはその唇で弧を描く。行ってきます、の言葉に笑顔を添えて、出て行った。ふわり、残ったアキくんの香りが甘い。
さっきの甘い匂いがいつものアキくんの匂いだと理解したら、恥ずかしくて仕方がなかった。
今日は久しぶりの休みだ。雑誌の締め切りで、昨日まで会社に詰め込まれていたので、家でのんびりするのはいつぶりだろう。編集長という仕事はやりがいがあるが、自分の性格も相まって、できていない時は自分がいてやり切らないと気が済まない。だから、本当はいけないが、会社に連泊するだなんてこともしている。
私が留守にしている間の家の掃除などはハウスキーパーがやってくれているので問題はない。ただ、問題はアキくんだ。
アキくんは大学の教授をしている。だから毎日この家に帰ってくるわけだが、私がいない日々をどう過ごしていたのだろう。それが気になって、私は日付が変わった深夜三時に帰宅したけれど、ベッドで寝ることはせずに、リビングのソファで寝ることにしたのだ。そうすれば、朝確実にアキくんと会話ができると思ったのだ。
結果は、変化なし。こんなに家を空けたのは久しぶりだっていうのに。少し、優しかったくらいで何もない。変化があるとすれば、私の方だ。私がアキくんに飢えすぎていて、いつもの匂いを甘く感じて……だなんて、なんとも気色が悪く恥ずかしい。
ずず、とコーヒーをすする。アキくんの甘い残り香を消すように、全部飲み干した。
自分が疲れ切っているだろうことは予測していたので、久しぶりの休みだったが予定は入れなかった。だから逆に、目が覚めてしまえば、暇というか。
ふと、先ほどアキくんが置いていったファイルが目に留まる。
採点用のファイル、置いていってよかったのだろうかと思いながら、ソファからゆっくり立ち上がると、彼が座っていたソファに腰かけた。珍しい視界に、少し違和感を感じながら、そのファイルを開く。
学生たちが書いた論文だということは、すぐに分かった。ペラペラめくっていくと、いろいろな筆記の文字が並ぶ。そのどれもが、一番上のタイトルに「幸福とは」と記されていた。
幸福についての論文。その採点をアキくんはしている。幸福は人それぞれ感じ方も違うし、答えもないから、採点は大変そうだ。
ペラペラめくった最後に、余った論文の用紙が出てきた。きっとこの用紙も、彼が作ったものなのだろう。
そこで私は閃いた。
がちゃん、と音がして、帰ってきたことを知らせる。次いで開いたリビングの扉の音を聞いて、振り返った。
「おかえり」
「ただいま……あれ、今日お母さんか誰か来たの?」
不思議な問いかけに、私は意味が分かってむっとする。近づいて、アキくんからジャケットを回収すれば、口を開いた。
「失礼な。私が作ったんですよ」
これ、と手を広げて誇らしげに言って見せれば、彼はおお、と感嘆の声を上げる。なかなかないことは自分でも理解している。テーブルいっぱいに並べたご飯は、どれも高カロリーで、アキくんが好きなものばかりだ。
「なんで。今日なんかあったっけ。豪勢じゃん」
「別に? なにも?」
「疲れてるんだから、寝てればよかったのに」
なんて言いながら、いつもの席に座ったアキくんは、なんだか上機嫌である。それに気が付かないふりをして、私は隠しておいたとびきり良いシャンパンを開けて、グラスに注ぐ。シュワシュワと小気味良い音が耳に心地よい。
それも彼の前に置けば、彼は目を丸くした。次には訝しんで見せて、
「なんだよ。なんかやましいことでも?」
「疑うことは良くないわよ。そもそも忙しすぎて、仕事以外にやましいことなんてできないし」
じゃあ、とまた首を傾げたアキくんを横目に、対面の自分の席に着く。そうね、ともったいぶって笑ってみせた。
「そうね。しいて言うなら」
朝から机に置かれたままのファイルを指さして、にっこりと笑ってやった。
「無事に私の論文が完成して、提出できたからかな」
はあ? とでも言いたげな間抜けな顔が私を見るので、思わず声を出して笑う。ファイルを改めて指さすと、彼はファイルを手に取って開いた。一ページ目にある私の論文を見つけて、私の顔と見比べる。
「……いつから君は僕の生徒だったんだ」
「生徒じゃなくて、編集長だからね。暇つぶしで書いてみたの。久しぶりに自分の腕を試そうと思って」
言いながら自分のグラスにシャンパンを注ぐ。ちらりとアキくんの顔を見れば、ひどく優しい顔をして読んでいるものだから驚いた。久しぶりに見たな、そんな顔。
『幸福とは、』
「『同じ時間、同じ空間、あなたと笑いあったり、怒りあったり、そうでなくても。それをこうやって、共有できるなら、それが幸福』なんじゃないかなと思って」
「…………」
「あなたの匂いがして目覚める朝は、安心して心地が良かったから」
ふっと笑って、次は明るい息を吐いて。私の方に向いたアキくんの表情は、私の好きな優しい顔のままだった。
「ねえ、これ、何度目の告白?」
「あれ? 告白って何回もしちゃだめなの?」
「いや、久しぶりすぎて、すごく恥ずかしい」
笑って、自分のシャンパングラスを掴む。アキくんにもそう促せば、戸惑うような、照れているような、そんな仕草でシャンパングラスを持つ。二人でカチンと音を鳴らせば、中に入っていたシャンパンがシュワシュワとはじけた。
口にそれを含めば、口の中でもシャンパンがシュワシュワと舌の上で踊る。
それを飲み込んだけれど、また私は口を開いた。
「ちなみに、私は十五回目の告白」
「多いな」
「アキくんは、百回はもう終わってるわね」
「はあ? 嘘つくなよ」
思わず笑ってしまい、疲れだなんて、こういうものですっ飛んでしまうことを、改めて理解した。
――『一緒に笑いあう空間は、それはそれで、とても幸福な空間だと、私は思う。』