11.ホームズの戯れ、ワトソンの憂鬱
本気でホームズごっこをしている友人に付き合う良い奴の話。
黒の長いソファが二つ、真ん中にはローテーブル、今はそこにインスタントコーヒーが入ったコップが一つ。いつものように深いグレーのパーカーに白シャツというラフな装いで、渡辺純は一方のソファに座り、足を組んでそのインスタントコーヒーを飲みながら本を読んでいた。そうしながら、先ほどの会話を思い出したかのように、呟く。
「あのな」
そう言葉を口にして、ため息をつきながら持っている本のページをめくる。
応接室をイメージするこの部屋のその奥には、大きな机にしっかりした黒のオフィスチェア。そこに座っている鈴木俊介の顔を、ちらりと伺い見る。彼はこの部屋のインテリアの一部であるかのように、皴の無い黒系のカジュアルスーツを着こなしていた。
「俺は忙しいんだよ」
「え?」
「え? じゃねえ。俺は売れっ子コピーライターなんだよ。休日にここに来てやってるだけありがたいと思え」
がたん、と椅子から立ち上がると、俊介は純から本を取り上げた。そこには「バスカヴィル家の犬」と大きなタイトルが記されている。
「それならワトソン、なんで来た? 忙しいくせに本読んで」
「あのなあ……だから、その設定やめろ。ワトソンって呼ぶな」
「え?」
もう一度俊介は問いかけの疑問符をつける。純は再びため息をついた。
「お前な、良い歳してシャーロック気取るのやめろ」
「なんでだよ、ワトソンくん」
「お前ぶん殴られたいのか」
え? とまた問いかけられて、純は苛立ちで拳を握って立ち上がれば、俊介は慌てて顔の前で持っていた本を振った。
「俺はシャーロックに憧れて探偵になったの! 名探偵で、どんな事件も解いていく天才……だから、ワトソンが必要なんだ! ワトソンのいないシャーロックなんてつまらない!」
「……まずな。事件なんて扱えるわけあるか。日本の警察は、お前の頭の中より賢いよ」
俊介から本を取り返すと、ぼすん、と座っていた席にわざと音を立てて座る。
「お前に任せられる事件は無い」
さっきまで読んでいたページまで辿ると、本の奥で俊介はしおしおと客用のソファに落ちていく。ぎしりと音がしたのは、そのソファに人が久しぶりに座ったからだろうか。
「俺ってそんなに無能かな……」
「無能じゃない。けど、その頭の使い方が下手くそすぎるだけだ」
「相変わらず辛辣ね……」
数年前、純と行ったイギリスで、シャーロック帽だ! と嬉々として買っていた鹿撃ち帽を乱雑に俊介は外すと、ぐしゃぐしゃと頭をかく。その姿は、何というか、日本の名探偵に似ている。その人物も小説上の人物だが。
「当たり前だろ。司法書士試験に一発合格してるお前の頭は、弁護士とか、検察官になって、使われるべきだった。ていうか、弁護士とか検察官になれば事件を解くこともできるじゃん。わざわざ探偵にならなくたって」
「全然違う。探偵は自由に自分が解きたい事件を解く!」
「うん、そう思ってるんだったら、お前いつかどっかで野垂れ死ぬぞ」
ローテーブルに置かれたインスタントコーヒーを口にして、純は本にもう一度目を向けると、また本の奥で黒い姿が動く。
「お前だって!」
「なに」
「お前だって医者になれただろ! しかも医学部主席だったのに!」
指を指されて、純はむっとする。親に人に向かって指を指すなと教えてもらっていないのだろうか。
純は大きく息を吸うと、
「産婦人科の開業医してた親父が患者にセクハラで訴えられて、閉業。親父の跡継ごうとしてた俺は行くあてもなかったから、昔からやりたかったコピーライターになってみたら、それが案外」
「もういい、やめよう。成功した話は二度と聞きたくない」
「お前が言い出したんだろ」
コーヒーを飲み干すと、部屋の奥にある給湯室のような場所に向かうため、純は立ち上がる。パーテーションで遮られたそこは、多分給湯室にしたかったんだろうが、今や探偵本や新聞などの物置部屋になっている。
かろうじて使えるガス台に、かろうじて使える水道から、純がいつか持ってきた小さい銀色のやかんに水を入れて、沸かす。
依頼主もひと月に一人来るか来ないかの世界で、水道ガス電気が止まっていないのは、俊介の家の裕福さが見て取れて、純は今日何回目かのため息をついた。
「ワトソンにもってこいなんだけど」
「まだ言ってるのか」
パーテーションから覗き込んで来た俊介を一瞥して、ガス台脇に放られたインスタントコーヒーを袋から取り出して、カップにセットする。
「だって。医学部首席で物書きって。しかもジュンワタナベって……ジョンワトソンの「JW」じゃん? ワトソン要素多すぎない? ワトソンになるために生まれてきた男だ!」
「物書きってちょっと違うけど」
「あ、でもワトソンにはミドルネームがあるんだよ。ミドルネームどうする? ジョン・H・ワトソンだから、H……ハヤシとか?」
ピーっとやかんが鳴って火を消す。セットしていたコーヒーの上からトポトポお湯を入れていく中で、ハヤシという単語が出てきて、純は思わず笑う。笑いながら、
「ジュン・ハヤシ・ワタナベ」
「うわ、自分で言ったけど意味わからん」
純は笑いながらお湯を注いでいたので、少し手がブレてこぼした。手元にかからなくて良かった。そう思いながら、じとりと俊介を見やった。
「笑わすな。あぶないだろ」
「勝手に笑ったんだろー」
近くにあったゴミ箱に、そっとインスタントコーヒーのカスを捨てた。カップを持つと、パーテーション横に居た俊介を手で追い払って、先ほどの席に戻る。純は再び、小脇に抱えていた本を開くと、読み始める。と言っても、俊介のおかげで、あまり読み進められていない。
ああ! と大声でいら立つ俊介を視界の端で捉えるが、反応はしてやらない。自分の思うようにいかないと、いつもこうだ。八年ほど一緒にいるので、慣れてきてしまっている純はそのまま本を読んでいるフリをした。
「せっかくホームズがスカウトしてるのに!」
「お前はそもそも偉大なるホームズではない」
「給料? 給料の問題?」
「急に現実問題出してくるなよ」
純の隣に座って、慌ただしく動く俊介を見て、本と見比べた。どこが、ホームズだ。本の中のホームズと全く違う。
「だって、お前フリーのコピーライターでしょ? 別にここで仕事してもいいじゃん」
「たしかにね。でもここは俺の息抜きの場所だから」
「ここは俺の仕事場だ」
「客が来ないで仕事場と言えるのか」
う、と押し黙った俊介から視線を外す。俊介は、純の方を向いていたが、自分に関心が向かなくなったと分かると、座り直して背もたれにもたれかかった。
「今日なんで来たんだよ」
「休みだから」
「……フリーでも休みあんのかよ」
「ちゃんと休み決めて働いてるの。まあ、休んでるって言ってもネタ探しみたいなもんだな。ここ、偏った本が多いから、良い刺激はもらえる」
「お! じゃあ」
「無理」
ここで仕事をすれば良い、と再三断っていることをまた口にするのが分かって、純は割り込んでそれに返答した。隣から視線を感じて見やれば、むすっとした俊介がいて、思わず笑ってしまう。
「お前さ、このやり取り何年してると思ってるの」
「五年」
「いい加減分かりなさい」
「……あ」
急に立ち上がった俊介のおかげで、スプリングが聞いたソファが少し揺らぐ。じゃあさ! なんて、さっきからホームズからは聞かないような大声で会話をするものだから、また純は呆れた。
「なんだよ」
「依頼が来たら、一件だけ付き合ってくれ。お試し期間的な。やってみて、楽しいなって思ったら、ワトソンやって!」
「おかしな提案だな。依頼なんて、いつ来るかもわからないのに。しかも俺にメリットが無いだろ」
「それに付き合ってくれたら、今後はもう誘わない!」
また純に向かって指をさす。俊介のその指先をじっと見ると、純は少し長めのため息を吐いた。
「あんまりメリットに感じないけど、俺がうんって言わないとダメな奴だろこれ」
「当たり前だろ」
「なんだそれ。――わかったよ。付き合ったら、もう誘うなよ?」
まあ、いつ依頼が来るかわからないけど。付け足して言った純の言葉に重なるように、俊介は音が鳴りそうなほど、勢いよく入り口の扉を見た。
純がその様子を不思議そうに見つめるや否や、コンコン、と扉が叩かれた音がして、扉を見る。擦りガラス越しに見えたシルエットは髪の長い女性。思わず腰を浮かせて、身を乗り出して様子を伺っていた純と、びくびく肩を震わせ楽しそうに笑った俊介は、同時に顔を見合わせた。
「依頼人だ!」