1.ぬいぐるみ
主人公とぬいぐるみの話。
ここに、どこにでもいる、平々凡々な男がいる。
太田七瀬、二十六歳、サラリーマン。
独り身の七瀬は、家賃六万のアパートに住み、電車で三十分の電球の開発、販売の会社に勤めている。
七瀬は、その電球、照明を企業に売り込む営業である。もう四年目だとぼやくが、この独り身、話を聞いてくれる相手もいないので、その言葉は狭く隙間風の入る部屋の中心で消えていくだけだ。
というのも、七瀬は友達がいない。
いや、友達がいない、というのは語弊か。きちんと区別して言うならば、地元には友達がいるが、上京してきて、こちらには笑いあい愚痴を言いあうような友達がいない。
別段、コミュニケーション能力は、営業をやっている以上低い訳ではない。ただし高い訳でも無いので、業績は可もなく不可もなく。仲良くなるべき同期は三人居たが辞めていった。
協調性が無い訳では無いので、月一程で先輩から飲みに誘われるが、業績が普通すぎる人間に、後輩はつかない。
そんな彼も去年まで彼女が居た。就職が決まる前から付き合っており、一緒に上京してきたのだ。
ただ。
彼女は、自分の就職した会社の上司に乗り換え、あっけなく去年別れを告げられた。
確か別れを告げた時、彼女は「もう、飽きちゃった」と言った。
その程度の奴だったんだとみんなから言われたが、果たしてその言葉は、四年の付き合いに効く言葉だったのか。
七瀬の顔も、別段悪くは無い。性格も悪くは無い。一つ言うなら、普通の人と比べると、人間への興味が薄いのかもしれない。だからこちらで友人も作ることはなく、彼女の違和感にも気づかず、こうなってしまったのだ。
全て自分の招いた種だということは、七瀬も分かっていた。
ただ、いくら考えても、もう足掻くには遅すぎる、と頭は処理をする。
上京して四年が経とうとしている。
四年は埋められない。
そう理解してしまったら、七瀬の取る行動に、ほんの少し変化があった。
七瀬は、毎日毎日変わらず行動をする。朝起きて食パンを一枚食べて、電車に乗り、会社に出勤、訪問先を確認し、営業のため会社を出る。何社か周り、会社に戻り、退勤。電車に乗り、コンビニに寄り夕飯を買って、家路に着く。夕飯を食べ、風呂に入り、眠る。
ただ一つ、増えたことがある。
「今日はさ、疲れたんだ。何って、上沼の奴がさ」
眠る前に、一つ増えた。
ぬいぐるみに話すこと。
白い毛に耳が長い、可愛いドレスを着たこちらもありふれたうさぎのぬいぐるみ。
七瀬の家にある唯一の元カノとの思い出の品だ。人生初めて彼女にあげたうさぎのぬいぐるみ。彼女に駄々をこねられて、ゲームセンターのクレーンゲームでとってあげた。そして彼女はここで飽きたと告げた瞬間に、それを七瀬に投げつけた。
嫌な思い出も詰まったぬいぐるみが、七瀬の友人になった。
この友人は何も話さないが、その代わり好き嫌いを考えなくていい。人間関係を考えずに、話を好きなだけ聞いてくれる。散々今日あった出来事を話し、眠る前に抱きしめて、キスをして眠る。
なんとも気持ち悪い男に変貌してしまった。
そして最近には、たまに無断欠勤するようになった。
なぜかご飯も二人分買うようになった。
友人の電話には出なくなり、家ではニコニコ笑っている。
仕事のことを口にすることは無くなり、愛を囁くばかりだ。
すべて愛がぬいぐるみに向けられた。
絶望を迎えたのだ。
本当は、七瀬だって頑張っていない訳ではなかった。
後輩との関係作りに先輩と頻繁に飲むように心がけ、仕事だって以前より何社か増やして回った。
元カノが上司と別れたと地元の友人から聞けば会いにも行ったし復縁を願った。
七瀬の許容を遥かに超えたことを行ってきた。
だが、やがて無理をしていたと理解してしまう時が来る。
そして気がつけば、無理をしていたのに何も得られていないことに気がついてしまう。
先輩との付き合いが増えたが後輩はつかず、元カノにもまた振られた。
いよいよ彼の心が限界に達したのだ。
人間はこうも簡単に壊れる。
そして今日もまた、七瀬は眠る前にぬいぐるみに愛を囁き、抱きしめてキスをする。
一つ見えたものは、彼は瞬間、寂しそうにして、目を閉じる。
そうした毎夜、人間はこうも簡単に壊れるのだと思う。
七瀬の無謀な愛が、誰かに届くことを祈りながら、口も聞けず体温も分からないわたしはただ、縫われた笑顔を浮かべている。