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目覚めない夫を前に泣き腫らして、悲劇のヒロインを気取る暇なんてなかった。

作者: 龍田たると



 十八の頃までの私は、とても愚かだったと思う。




 国内でもそれなりに力のあるヴァルテンブルク伯爵家。私はその長女に生まれ、甘やかされて育てられた。

 欲しいと思ったものはすぐに手に入ったし、そうならなかったことはないから、ずっとそれが当たり前だと思っていた。

 宝石、花、洋服、化粧品、お菓子、その他諸々の嗜好品。

 物品だけでなく、娯楽としての遠出や催事にも事欠かず、たとえば私の毎年の誕生日には、屋敷をあげての盛大なパーティーが開かれた。

 逆に言うなら、どれも簡単に手に入ったせいで、「これこそは絶対に」と思うくらいに欲したものが今までの人生にはなかった。

 

 それは人付き合いにおいても同じだった。 

 言外での気遣いだとか、そんなものを察する必要のない毎日。

 誰もが私のわがままを聞き入れ、我慢だとか否定されるということを知らない。

 反面、挫折を知らないから大きな望みもない。

 それは他人にとっては与しやすい相手ということでもあり、私は深みのない人間関係しか持たず、良くも悪くも『お気楽なお嬢様』でしかなかった。


 つまり、友人も、使用人も、家族も。適当に私のご機嫌を取っておけば問題が生じない、それだけのこと。

 私という人間は、誰にとってもそんな感じの存在だったのだ。


 一番身近な両親や兄でさえも、愛玩動物的な可愛がり方しかしない。

 無論、家族としての愛情もそれなりにはあったけど、頭の回転が速く、学業も優秀で家督を継ぐ予定の兄に比べ、私の出来は数段劣っており、何につけても両親からは期待というものをされたことがなかった。





 そんな私が、彼の妻になることができたのは幸運以外の何ものでもなかった。


 彼──私より三歳年上のカミル・トレーガーは、身分としては私の家と同じ、伯爵の称号を持つトレーガー家の一人息子だった。

 といっても、我がヴァルテンブルク家とは雲泥の差がある。

 彼の母親はすでに亡く、実父たるトレーガー伯も病に倒れ、余命いくばくもない。それに加えて、財政面でも余裕があるわけではなかった。


 そんな窮状の伯爵家令息だった彼が、私の見合い相手に選ばれたのが、私が十八の時。

 家柄はともかく、どうしてわざわざ彼だったのか。どうして私の父はその縁談に同意したのか。

 それはひとえに、カミル自身の優秀さがあったがゆえだった。


 カミルは私とは対照的に、非の打ちどころのない男性だった。

 文武両道で思慮深く、誰にでも公平に接し、悪く言う者は一人もいない。

 外貌も文句なしで、金髪碧眼の美しい容姿は見る者にため息をつかせるほど。


 そして、トレーガー家は前述の通り裕福ではなかったけど、伏した父親の代わりにカミルが執務を取り仕切り、驚くべきかな没落寸前から、わずか数年で安定といえる状況にまで持ち直させていた。


 それほどまでに彼の能力、辣腕さは群を抜いていた。

 私の父はその優秀さに目を付け、私と彼を引き合わせたのだった。




 カミルとはそのようにして出会い、私たちは結婚する。

 私の家からは資金援助を、トレーガー家からはカミルという人材を手札として。

 内実は政略結婚だったけど、馬鹿な私は素敵な婚約者に巡り合えたと能天気に喜んでいた。

 貧乏という言葉は知っていてもその過酷さを知らない私は、やはりその後もしばらくはお気楽なお飾りの妻でしかなかった。


 けれど、彼と結ばれたことだけは絶対に間違いなんかじゃない。

 それだけは今も自信を持って言える。

 実家から先方の家に嫁入りし、今までの生活からいくぶんかグレードが落ちても、私が自分を不幸だと思わなかったのは、カミルが私を愛してくれたからだった。


 それが政略結婚であろうとも。

 無論、最初のうちは義理や義務感が先立っていたかもしれない。

 でも彼は、トレーガー家を建て直すための雑事に追われながら、私の前では忙しさや気苦労を見せず、いつも笑顔で接し、尽くしてくれた。

 傍目には子供だましの夫婦ごっこのようでも、そこにはしっかりと真心があって。

 日々の忙しい合間を縫って私との時間を作ってくれた彼の優しさは、愚かな私でもちゃんと感じることができていた。

 むしろ、何をするでもない二人だけのささやかな時間は、贅を尽くした今までのどの娯楽よりも新鮮で、楽しく、愛おしいものだった。


 そうやって、彼は私にとって何よりも大切な存在となっていった。

 出席した夜会の場で、私は自分の夫が賞賛されるたびに、我が事のように誇らしく思った。

 もちろんそれは大半が社交辞令であったろう。

 あるいは、「夫はこんなに素晴らしいのに、その妻ときたら……」という皮肉も、中には混じっていたかもしれない。

 だとしても、カミルが賞賛すべき人であることは揺るぎのない事実だったし、そんな彼の隣で妻として並び立てるのが自分であることに、私はこれ以上ない喜びを感じていた。



 そして私はいつの頃からか、少しずつではあるけれど、夫以外の人との接し方、人付き合いを学んでいくようになる。

 彼の妻としてふさわしい女であるように、恥ずかしくないように、少しでも彼に近づきたいと思うようになっていった。



 私は愚かで考えなしの『お嬢様』だったけど、ためらわず勢いのままに行くことが功を奏した場面もあった。

 夫の力になりたいと、そう決めた時。

 隠さず、気取らず、心の全容をカミルにそのまま打ち明けると、彼は少しだけ思案した後で、我が家の状況や今後の展望をかいつまんで説明してくれた。

 今まで敢えて私に言わなかったことを、偽ることなく。

 今のところ財政は安定しているし、ヴァルテンブルク家からも資金援助を受けているけど、まだまだ安心はできないと。少しでも人手が加わってくれるとありがたいと。

 真剣な目つきで、彼は私にそう言った。

 馬鹿な私がどれほどの助けになるのか、はっきり言って心もとないばかりだったろう。

 それでも、私の決意に本気で向き合い、対等な目線で返してくれたことが嬉しくて。

 私は「わかりました」と、間を置かずにうなずく。

 すると彼は、優しく微笑んで「ありがとう」と、うなずき返してくれた。

 その時ようやく、遅まきながらも、私はお飾りの妻から一歩外へ出られたのだと思えた。


 


 そんなふうに完璧と言っていい彼だったけど、一度だけ弱さを見せた時があった。

 それは、実父であるトレーガー伯が亡くなった時。

 トレーガー伯、私から見た義父は、私たちが結婚した後もしばらくは小康状態を保ち、存命だった。

 しかし、季節が秋から冬に移り変わってゆくある日、急激な気温の変化とともに容態も急変し、介抱する暇もなく亡くなってしまった。

 とても残念なことだけど、前々から覚悟していたことでもあり、葬儀や権利の承継など、手続きは滞りなく進んでいく。

 そして、あらかたの段取りが片付いて、生活も今までの日常へと戻りつつあり、二人で部屋でくつろいでいた晩のこと。

 カミルはうつろな目をして、小さな声でつぶやいた。


「……『時戻りの実』という果実があるらしい」


「えっ、とき……何ですか?」


「『時戻りの実』。時間を戻す魔法の実だよ。それを食べれば時をさかのぼることができるらしいんだ。たとえば、父さんが病気になる前とか……好きな時から人生をやり直すことができるという。北の森に住む魔女から、誰かがその実を買ったって噂を聞いてさ。本当にあるのなら……俺も……欲しいなって、ちょっと思ったんだ」


 正直、すごく意外だった。

 しっかり者で堅実そのものといえる夫から、そんな夢を見るような言葉が出てくるなんて。

 『時戻りの実』……あるとは思えない。

 そもそもそんな噂など聞いたこともないし、第一実存しているのなら、もっと皆が知っていて、それこそ競売にかけられたりしているはずだから。


「いや……馬鹿なことを言った。すまない。今のは忘れてくれ」


 その考えは当の夫も同意見だったらしく、彼は頭を振って自らの言葉を否定した。

  

 カミルは自嘲的な笑みを手で覆うように隠す。

 私はおもむろに席を立ち、テーブルを回り込んで隣へ近づいた。


「……どうかしたか、リタ?」


 怪訝な様子で私の名が呼ばれる。

 どうかしたのは彼の方だと思った。

 いつもだったら口にもしない、眉唾物といえる魔法の実の話を、遠い目で語る夫。

 それだけ彼は実父の死に参っている。気丈に見えても、心は折れてしまう寸前だということがよくわかった。


 私は、ソファに腰かけたままの彼の頭を、両腕で包み込んだ。


「お、おい、リタ……」


 胸元に引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。

 その所作だけで私の意図するところを悟った夫は、何も言わず、体重を私に預けてきた。


 何かしてあげたかった。

 私などでは何を解決することもできないのはわかっていた。

 そもそも誰であろうと無理なことだ。

 死んだ人間は生き返らない。であれば、今の夫の心を完全に癒すことなど誰にもできないのだろう。


 それでもこうして寄り添うことで、少しでも哀しみを分かち合えたなら。

 単純な私では、思慮に富んだ彼の心を完全にはわかってあげられないかもしれない。

 だとしても、あなたを思う人間がここにいることだけでも伝えたい。

 そんな思いが、衝動となって体を動かしていた。


「……ありがとう」


 夫は私の頬に手を寄せて、慈しむように優しく触れる。

 続いて、「悪かったな」と、短く謝罪した。


「何が……ですか?」


「時を戻したいなんて言ってしまったことがだよ。父さんが元気な時まで戻ってしまうと、君との出会いもなくなってしまうことを失念していた。仮に時を戻せるとしても……それだったら、意味がないよな」


 ああ、なんて愛しい人。

 こんな時まで私のことを気遣ってくれなくてもいいのに。

 

「大丈夫ですよ。その時には、きっと私の方から会いに行きますから」


 あなたを決して離したりしません。

 そんな思いで抱きしめる力を少しだけ強くすると、夫もそれに応えて頬をなでてくれた。


 気落ちしている彼には悪いけど、私は内心、今この時がとても幸せだと、代えようのない素晴らしい人生を送れていると思っていた。




 



 それは少しだけ暑い春の日のことだった。


 夫と私は久しぶりに休みを取り、夫婦水入らずでの外出を楽しんでいた。

 大掛かりな遠出ではなく、領内の野山を馬で散策する程度のピクニック。

 草木や花々、湖などの景色を眺めながら移動し、他愛もない会話を楽しみ、太陽が真上に来る頃には、作ってもらったサンドイッチを二人で食べる。

 なんてことのない、けれどかけがえのない時間。

 ただ、この日は空模様が午後から急に悪くなり、突然の雨に降られてしまったため、私たちはやむなく最寄りの山小屋に避難することになった。


 その小屋は、長く人の手が入っていないあばら家だったけど、雨風をしのぐだけなら十分なところだった。

 少し離れたところには風車小屋が二、三あって、それらも今は使われていない。

 風車小屋は粉ひきに使われていたもので、魔力を動力源とした効率のいい機器が登場して以降、廃れてしまい、取り壊すにも費用がかかるためそのままにしていたものだった。


 私たちは暖炉に火を入れ、濡れた体を温める。

 上着を広げて干し、風邪をひかないように寄り添い合って暖を取っている時、私は「たまにはこんなハプニングも悪くないな」なんて呑気なことを考えていた。


 けれど、その後も雨脚は弱まることなく、外は暗いままだった。

 そのうち雷が鳴り出して、稲光とともに轟音がこだまする。


 ガカッ、ガラガラ、ドーンドーン、と。

 それはだんだんとあばら家に近づいて来て。

 怖くなって「この小屋に落ちたりしないかしら」と言うと、彼は「ここは屋根が低いから、雷が落ちるとしてもまず風車小屋だな」と冷静な答えを聞かせてくれた。


 だけど、何故だか不安な感覚がぬぐえなかった。

 今にして思えば、何か予感めいたものがあったのかもしれない。

 我知らず、隣にいる彼のシャツの袖をつまんで離さずにいると、私の心情を読み取った夫は、出立の準備をしておこうかと優しく進言してくれた。


「そうね、そうしましょう。ありがとう──」


 そう言って、私が謝意を述べかけた時だった。

 その言葉をかき消すように、これまでで一番の雷音が打ち付ける。

 思わず私は身をすくめ、彼は私の体を覆うように抱き留める。

 雷はカミルの言った通り、隣の風車小屋へと引き寄せられた。

 

 しかし、ここから先は彼でさえ想像しなかったことだった。

 焼けて崩れかけた風車の鉄翼が、風にあおられ私たちの小屋へと突き刺さったのだ。

 窓ガラスが割れ、壁が崩れ、二人はそのまま吹き飛ばされた。

 ちょうど身をかがめていた私は、何が起きたのかわからずに。

 隣にいた夫は、飛礫つぶてから私を守るようにして。

 私が痛みから身を起こした時、彼は頭から血を流して、倒れていて。





 そして夫は、目覚めることのない……深い深い眠りの中に……落ちてしまった。





 私はというと無事だった。怪我も奇跡的に軽傷で済んでいた。

 でも、その後どうやって屋敷へ帰ったのかまるで覚えていない。

 多分、先に一人で戻って、助けを呼んで、皆に彼を運んでもらったのだと思うけど。

 脳が記憶を封じ込めているみたいで、その時のことを思い出そうとすると、頭痛がして先へ進めなくなるのだ。

 きっと、あまりにも辛すぎるからだと思う。



「正直申し上げまして、生きておられることが奇跡なんです」


 主治医の先生はベッドに横たわるカミルを診た後、感情を排した口調で言った。


 そう、夫は死んでしまったわけじゃない。

 けれど、ずっと目を覚まさなかった。

 眠り続けている。

 傷ついた箇所が致命的なところだったらしく、今後も目が覚めるかはわからないと言われた。

 また、運良く意識が戻っても、その後の生活では歩くことにも苦労するだろうと言われた。

 領外からも腕の立つ魔術医を呼んで、大掛かりな手術が行われ、なんとか命を繋ぎとめたけど、たった一日でとてつもなく大きなものが失われてしまった。


 その代わりに残ったのは……絶望だけだった。




「……わかりました」


 お医者様の説明を聞き終えた後、私はそれだけ言って、考えるのをやめた。


 これからのことを考えることを。想像することを。

 考えてしまえば、きっと動けなくなってしまうだろうから。

 泣き叫ぶ、無力な女がただ一人できあがるだけ。そんなの誰にとっても意味がない。


 目覚めない夫を前に泣き腫らして、悲劇のヒロインを気取る暇なんてなかった。

 彼は眠り続けて、動けない。それは変えようのない事実。

 でも、彼が築いてきたものがある。守ってきたものがある。

 土地や屋敷といった財産だけじゃない。領内の体制や民衆からの支持、そういった目に見えないものを含めた伯爵家そのもの。そのすべてが彼の功績なのだ。

 そのことを意識した時、それらを変わらずに留めておくことは妻である私の役目だと。自然とそんな考えに思い至った。


 ……私がやらなければならない。

 いつか彼が目覚めた時、「大丈夫よ」と微笑んであげられるように。

 トレーガー家の領主として、この家を守り続けなければ。

 できるかどうかじゃない。私は彼の妻なのだから。

 やるんだ。絶対に。尊敬する夫の隣に並び立つ、伯爵夫人として。

 強く両頬を叩いて、そのように誓いを立てた。



 


 目の前に立ちはだかる壁はいくつもあり、そしてどれもが大きかった。

 それでも、私は一つ一つを乗り越えてゆく。




「単刀直入に申し上げます。旦那様が倒れられた今、近いうちに当家は立ち行かなくなるでしょう。この家を存続させるため、多くを切り詰める必要があります。皆のお給金も大幅に下げざるを得ませんが、辞めたいという方は遠慮なく申し出て下さい。次の職場への便宜も、できる限り図りたいと思います」


 私は屋敷の大広間に使用人たちを集め、そうやって希望退職者を募った。

 家を存続させるといっても、カミルと同じことができるわけではない。現実は自覚しなければならない。

 規模を縮小するのはやむを得ないことであり、その中でいかにしてここを守っていくか。それが肝だった。


 実家であるヴァルテンブルク家からの助けも期待はできなかった。

 カミルが倒れた次の年、ちょうど生家の領土内では凶作からの暴動が起こり、父や兄はその対処に追われていた。

 財政的にも苦境といえる状況で、娘の嫁ぎ先とはいえ、他家への援助にかまけている暇はない。

 表立って言われはしないけど、むしろこの時期に意識を失った夫に、逆に兄たちは恨み言を述べたいくらいだったと思う。

 「こっちが助けて欲しいのに、肝心な時に役に立たない奴め」と。

 結局、こちらの家は私一人で何とかするしかなく、そのためには経費削減は何を置いても火急の任務だった。

 


 けれど、トレーガー家の使用人たちは、家庭の事情等で辞めざるを得なかった者を除き、ほぼ全員が薄給を受け入れ、残ってくれた。




「これだけが残留って……。う、嘘でしょう……?」


「嘘ではありませんよ、奥様」


 報告書を手渡し、私のつぶやきを耳にした執事長のフォルストは、確たる口調で断言する。


 聞けば我が家の使用人たちは、誰もがトレーガー家に恩義を感じているとのことだった。

 孤児から拾われてメイドになった者。責任のない罪を着せられそうになり、助けられた者。祖父の代から家族ぐるみの付き合いで重用されている者。

 利害関係を超えたところで深くつながり、皆が自らの意思で留まり続ける。

 それは家への恩義だけでなく、カミル個人への忠誠も含めて。

 少なくとも彼が生きているうちは、この家を見捨てたりしない。

 そんな決意を皆が心に秘めており、私は恥ずかしながらこの時初めてそれを知ったのだった。


「ご安心下さい。たとえ最後の一人になろうとも、わたくしめが旦那様をお守りいたしますゆえ」


 老執事のフォルストは、カミルの幼い頃の家庭教師でもあり、どこか親のような目線で彼に接していた。


「心強い言葉ね。嬉しいわ。……けどそれって、私もどこかでいなくなる前提なのかしら?」


「……失礼を承知で申し上げますと……その、奥様は早いうちに、実家にお帰りになられると……正直、思っておりました」


「あらまあ、それは…………わからないでもないけどね」


 少し意地悪な質問に、ためらいがちな答えが返ってきて、私は苦笑する。

 確かに嫁いできた頃の私だったら、何もかも投げ出して真っ先に逃げ帰っていたことだろう。


 でも今は、そんな選択肢を思いつくことすらない。

 そういう意味では、私もカミルに影響されたうちの一人といえそうだった。



 そんな感じで、彼のための日々は続いていく。






 毎日毎晩、カミルの部屋を訪れて、目覚めない彼とともに時を過ごした。

 花瓶の花を取り換えて、その日の出来事を語り掛け、時には手に触れてその体温を確かめる。

 延命のため代謝活動停滞の魔術が施されたカミルは、少しだけ冷たく、何事もなかったかのように眠り続けていた。

 それでも確実な衰えはあり、髪の色つやや肌の様子に、それは如実に現れていった。


 そして私は、夫といる時間以外のすべてを、家を守ることに費やした。

 無論、ただのお飾りの夫人がすぐに何をできるわけでもない。

 だから私はフォルストに頼み、彼やその他の使用人、外部から招いた識者を家庭教師につけ、政務や経営学、組織管理、その他領主であるために必要なことを学ぼうとした。


 その勉強の時間は、ほとんどを実践と並行させながら。

 当たり前だけど教わった順番で実務が出てくるなんてことはなくて、時には手痛い失敗をした後に、「これはこういうことだったのか」と、フォルストの講義で気付くこともあった。


 一方、社交界とのつながりは、時間とともに自然と薄まっていった。

 以前は頻繁に来た夜会からの招待を一通り断ると、それ以降ほとんどの催事に誘われなくなり、他家との付き合いも信頼に足るわずかな友人以外とは没交渉になっていった。

 優秀な伯爵が倒れ、お飾りの妻が青息吐息で自転車操業。そんな貴族と関係を持とうとする者などいるはずもない。

 私個人に取り入るうま味など無いのだ。

 私としても、無用な夜会を欠席して夫の傍にいられる時間が増える方がありがたかったし、勉強のためにはどれだけ時間を作っても足りなかったので、特段惜しいとも思わなかった。



 こんなこともあった。

 ある日、他人からの視線が気にならなくなった頃、私は髪を切ることを思い至る。

 髪を手入れする暇すら惜しく、誰に見られようがどうでもいいと思ったからなのだけど、フォルストの妻、イルザにそれを止められた。


「旦那様が目覚められた時のことを考えて下さいな。奥様の短い髪をご覧になったら、きっと苦労を掛けたと悲しまれますよ」


「……そうね。確かにそうだわ。ありがとう、イルザ」


 本当に、トレーガー家の使用人たちには感謝してもしきれない。 

 結果だけを言えば、私の手腕では当初予定した規模で家を存続させることはかなわず、さらに財産を切り売りして、最終的には領土も大幅に縮小せざるを得なかった。

 それでも、皆の協力があり、何とかトレーガー家を没落させないでいられた。

 彼らがいたからこそ、私は伯爵夫人でありつづけることができたのだ。






 そして──八年の月日が過ぎる。


 カミルが再び目を覚ましたのは、私が二十八歳、彼が三十一歳の時だった。





「カミル……あぁ、カミル、カミル!」

 

 朗報を聞き、矢も楯もたまらず、私ははしたなくも走って部屋へと駆け付ける。

 そんな私に、カミルは以前と変わらない微笑みで返してくれた。


「……やあ、リタ。素敵なレディになったな。ずいぶんと大人っぽくなった」


「カミル、あなたはどこまで……意識を失った時の、ことは……」


「……覚えてるよ」


「小屋で休んでいたら、雷が落ちて……」


「風車が小屋に飛んできて……壁が壊れたんだったな」


「あなたは、私をかばって……守ってくれたんです」


「そうだったか……? まあ……あまり気にするな」



 でも、八年という時間は、本当にあまりにも長すぎた。

 彼の身体はあの時とまったく違う。

 女の私よりもか細く、手折れてしまいそうな四肢となり果てて。

 そんな夫の姿を改めて視界に入れた時、何故だかわからないけど涙があふれてきた。


 夫が目覚めて嬉しいからなのか。

 それとも、どうしようもない今の状態が悲しいのか。

 どちらなのか、どちらもなのか。

 わからないけど、泣いてる場合じゃないのに。

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 そうじゃないでしょう、彼を安心させるために頑張ってきたんだから。


 「心配しないで、大丈夫ですよ」と。

 「皆といっしょにこの家を守ってきましたから」と。

 「これからも私が、私たちが、あなたを守りますから」と。


 そんな励ます言葉をかけてあげるつもりだったのに、濁点だらけで言葉にもならなくて。

 嗚咽が漏れるだけで、立ってもいられない。

 夫はしばらくの間、そんな私を柔らかな視線で見つめた後で、小さく指を曲げる動作で招き寄せる。

 何も言わない。ただその表情だけはとても穏やかなもので。

 失ってしまったものを思えば、本当に辛いのは彼の方なのに。


 私が近づくと、彼は静かにつぶやいた。

 「……よく、頑張ったな」と、八年前と変わらない声色で。

 それだけでもう、すべてが報われた思いがした。

 

 ゆっくりと手が上げられ、白い指が私の目もとに触れて、流れる涙をぬぐってゆく。

 結局、その一言、その一触れだけで抑えが利かなくなるほど、私は弱い心しか持ち合わせていなかったのだろう。

 こんな時でさえ、私はカミルに支えられていた。彼の存在こそが、ずっと私の救いだったのだ。


 ……そう、そんな単純な事実に──今、ようやく気が付いたのだった。






 それから、カミルが目覚めてから──初めての夏が訪れる。


 お医者様が言った通り、夫の体には障害が残り、それは一人で満足に歩くことすらままならないものだった。

 皮肉なことに意識がなかった時と比べて、起きている今の方が肉体の衰えは早くなっていた。

 目覚めた後も何度か昏睡状態に入り、その都度何とか覚醒し、大きく体力を消耗する。

 

 口には出さなかったけど、誰もが気付いていた。

 夫の命の灯は残り少ない。もう、あとわずかであると。


 

 カミルの意識が戻ってからも、私の生活はさほど変わりはしなかった。

 勉強と執務と、それからできる限りそばに付いてあげること。

 可能なら、もっと長くいっしょにいたかったけど、それでは逆に夫が気疲れしてしまうと思い、前と比べて二人の時間を多少増やしたという程度に留めた。


 その代わり、一秒一秒を大切に過ごした。

 二人でいる時は、ずっと彼を見続けて、ずっと彼に耳を傾けていた。

 この優しい視線を忘れないように。

 私に話しかけてくれる声を、忘れないように。




「奥様、少々相談したいことがございまして……」


 そんな折、フォルストが何故かこっそりとやって来て、私の部屋のドアを叩いた。

 彼は真剣な表情で、けれどどこか言いにくそうに、私に一つの話を持ち掛けた。


「『時戻りの実』というものを……ご存知ですか」


「……え? えぇ。話だけなら聞いたことはあるけど……」


 意外過ぎる質問に面食らってしまった。

 いつかの時に夫が話してくれた魔法の実の話。

 眉唾ものとしか思っていなかった奇跡のような果実の話。

 それを夫と同じく、真面目な執事長が深刻な様子で口にしたのだ。

 いやいや、まさか、と思った。


「じ……実在するの?」


 恐る恐る発した問いに、フォルストは首を縦に振る。

 老執事はためらうことなく、しっかりと頷いた。

 瞬間、言葉を失った。


「ほ、本当に……?」


「はい」


「嘘、でしょ」


「わたくし、嘘は申し上げません」


 それは私も知っていた。

 フォルストは仕事に忠実な信頼できる執事だ。

 こんなことで嘘や冗談を言うような人じゃない。

 長きにわたる八年もの付き合い。私は屋敷の使用人たちと、戦友とも呼べるような信頼関係を築くことができていた。

 でも、聞き返さずにはいられなかったのだ。

 

 しかも、フォルストはこの時点で『時戻りの実』のありかにまでたどり着いていた。

 国境沿いの森に住まう魔女。彼女がその果実を手に入れており、フォルストはすでに接触した後だという。

 

「魔女の作る秘薬はどれも効果は確かなもので、性格はともかく腕は信用できると思われます。ただ、その果実は五十年に一つ実るかという代物で、しかも時をさかのぼったかは食べた本人にしかわからないため、今までおとぎ話としてしか伝っていなかったそうです」


「ああ、なるほどね……」


 確かにそういう経緯があったのなら、ほとんど知る人がいなかったこともうなずける。


「ですが、つい先日、魔女がその実を収穫したと聞きまして、わたくしは彼女の店に足を運びました。ただ、魔女は奥様にお会いして、直にあなたを見てからでなければその実は売らないと言うのです」


「私に……?」


「はい」


 あえて確認もしなかったけど、私やフォルストが実の存在を知ってここまで真剣になるのは共通の目的があるからだった。

 それは言わずもがな、カミルを事故前の元気な状態にまで戻すこと。

 与太話ならともかくとして、実の効能が真実なら、それは何を差し置いても手に入れるべきものといえる。

 フォルストもそれをわかっていて、真っ先に調査して魔女にまで行き着いていてくれた。

 ともすれば私が関与する前に、彼の独力で実を手に入れられる可能性すらあった。


 しかし魔女は、妻である私に会って、それから売るかどうかを決めるという。



 ──そして。

 どんな無理難題をふっかけられるのかと恐れつつ、出かけて行った魔女の住処で。


「別に深い意味があるわけじゃないさ。でも、この実一つで歴史を変えることだって出来ちまうんだからね。悪いヤツの手に渡らないようにしたい。あたしが考えてるのはそれだけだよ。ま、あんたはそういう輩じゃなさそうだ。いいよ。売ってやっても」


 そんな魔女の言葉を聞いて、私は、なあんだ、と脱力した。

 単純だけど、ちゃんと理解できる理由。そして、ありがたいことにどうやら私は彼女のお眼鏡にかなったらしい。


 けれどその後に、魔女は少々意地の悪い顔で値段を言う。

 私は思わず聞き返す。

 

「一人分しかなくて……に……二千万……ですか?」


「こいつは曲がりなりにも奇跡を起こす実だからね。それなりの対価は払ってもらうよ。それにうちも最近、家族が一人増えてねえ。歳も取ったし、先立つものは何かと必要になるわけさ」


「はぁ」


 魔女の家庭事情は知らないけど、確かにこれほど貴重な実なら、それくらいの値段は妥当かもしれない。

 私は頭の中でそろばんを弾き倒し、どこからお金を工面するかを即座に計算する。

 ……うん。あそこの土地を担保にして、結婚指輪も、屋敷の調度品も、この際全部売ってしまって……。それなら何とか工面できそうだ。


 「わかりました」と私が言うと、魔女は「毎度」と口角を上げる。

 それから彼女は果実の詳細な効果を説明してくれた。


「先に言っておくけど、これは世界全体の時間を巻き戻すってわけじゃないよ。実を食べた人間だけが、そいつが一番後悔していた時点へとさかのぼるんだ。しかもその人間は体ごと、すべてがこの時間軸から完全に消え去る。つまりあんたの旦那は健康だった頃に戻れるけど、あんたがいっしょにその時間に戻るわけじゃない。それどころか旦那はこの時間軸からいなくなっちまうんだ。確認しておくよ。本当にそれでもいいのかい?」


 魔女は存外律儀なようで、そう言って今一度私に念を押した。

 それでも私は首を横に振らなかった。


 おそらくフォルストだろうと他の使用人だろうと、答えは同じだったろう。

 私たちが大切なのは、カミルの命なのだから。

 彼がこれからも生きてゆけることが、一番優先すべきことなのだ。

 たとえこの時間軸(……で、いいのだろうか)から彼が消えようと、どこか別の時間で元気にやっていけるのなら。

 それ以外は何も望まない。それだけでいい。

 私たちの決意は変わらない。



 そうして私は、魔女から『時戻りの実』を買い取ったのだった。

 





 魔女は好きな時に『時戻りの実』を口にできるようにと、果実の成分を抽出して液状にしたものを渡してくれた。

 病人でも飲めるよう、無味無臭に調整もされて。

 私は小瓶に入れられたそれを、私室の机の引き出しに忍ばせておく。


 フォルストに結果を報告すると、彼は涙を流さんばかりに喜んでくれた。



 とはいえ、私たちには時間がなかった。

 数日後、私はカミルの体調を見計らって、二人でお茶をする時に、くだんの果実を手に入れたことを伝える。

 

「……そうか。本当に『時戻りの実』はあったんだな……」


 あまり驚いた様子はなく、夫はベッドの上でしみじみとつぶやいた。


「魔女が話のわかる人で良かったわ。これであとは、あなたが実を口にするだけ。『善は急げ』よ。早いうちに……いいえ、もう今から、この液体を飲んで下さい」


 いつ容体が急変するかわからない。そんな不安もあって、私はムードもへったくれもなく、すぐに実を飲むように急かした。

 引き出しから持ち出した小瓶を、夫の目の前に置いて見せる。


 だがしかし、何故かそこで、彼は私の頼みを却下した。


「……駄目だ」


「……!? ど、どうしてですか!?」


「『時戻りの実』は、君が飲むべきだ。俺はもういい。もう十分に幸せだった。これ以上望むことはない。それより、君に幸せになってもらいたいんだ」


「わ、私が……? な……何を言ってるんですか……!」


 突然の拒絶と、譲渡の申し出。

 まったく意味が分からなかった。

 夫の言っていることが、頭に入ってこなかった。

 この八年間、彼のためにこんなにも頑張ってきたのに。やっと苦労が報われると思ったのに。

 それをいらないだなんて。どういうことなのか。

 カミル、あなたは一体何を考えているの。


「……だからこそだよ。君が頑張ってきたからこそだ。これ以上、俺のために君の人生を無駄にさせたくないんだ」


「無駄なんかじゃ……ふざけないで下さい……!」


 この時、私は初めて夫に怒りというものを抱いた。

 私のやってきたことは決して無駄なんかじゃなかった。

 あなたのために、あなたが生き続けることが私の幸せだったのだから。

 それが今、こうして叶うところまで来ているのに。

 それなのにどうして、あなたはそれをはねつけるのか。わけがわからない。


「……だって、八年だぞ。君も、フォルストたちも、目覚めるかもわからない俺の帰りを待ち続けて、しかも今度はこんな状態の俺を過去へと送り返そうとしている。さっきの君の説明からすれば、実を食べた俺はこの世界から消えてしまうんだ。それなら、皆にとっては死のうが逆行しようが変わらないじゃないか。……だから、俺じゃない。過去をやり直すのは、少なくとも俺であるべきじゃないんだよ」


「……答えになってません!」


「なってるさ。俺は君のことを言ってるんだ。人生で一番輝いているはずの二十代という時期を、俺なんかのために、耐え忍ぶことだけに君は使ってしまった。その辛苦は、ただ眠っていただけの俺とは比べようもない。それを取り戻して欲しいと言っているんだ」


 この人は。私の愛する夫は。

 こんな状況でも、自分ではなく私なんかのことを考えて。

 そう、だから愛している。だから私はあなたのことが好きなのに。

 胸の奥からこみ上げてくる思いで言葉が詰まる。

 でも、だからこそ、生きていてほしいんです。あなたに!


「愛しているんだ」


 静かにつぶやかれたその言葉が、胸に突き刺さり、私を留めた。

 反論しなければいけない。けど、その言葉はあまりにも愛おしくて。


「大丈夫だ。君が戻った時間軸上の俺も、必ず君を愛するだろう。それだけは自信を持って言える。俺はそこで生きている。君はその俺と結ばれる。決して離れ離れにはならない。……あるいは、君が別の人と結ばれたいというのなら、出会う前に戻ってそうすればいい。どちらにしろ、君はやり直せるんだ」


「そんなことするわけないでしょう! 私はあなたがいいんです! 私だって……あなたが思うのと同じぐらい、あなたを愛しているんです!」


「なら、良かった」


 これ以上ない、安らかな笑顔だった。

 八年間、私がずっと求め続けたもの。それを見せられては、もうかなわない。

 そして彼は決定的な一言を放つ。


「……もう遅いんだ。君が持ってきた『時戻りの実』。目の前にある、この小瓶に入ってるのは、実はただのシロップだ」


「……え?」


「フォルストに命じて俺がすり替えさせた。本物は、君がさっき飲んだ紅茶に入っていた。君のティーカップだけに混ぜておくように、頼んでおいたんだ」


「う、そ……」


 「すまない」と小さく言葉が継ぎ足される。

 全然気づかなかった。

 味も香りもただの紅茶だった。

 家の人間の誰が盗むなんて考えもせず、引き出しには鍵をかけていなかった。

 色合いもそっくりだったから、今の今まですり替えられたなんて思いもしなかった。


「フォルストが魔女から聞いた説明によると、時が巻き戻るのは飲んでから十分くらい後だそうだ。もう……まもなくだな」


 その言葉に、さっと血の気が引く。

 目の前がぐらりと揺れた。

 そんな。そんなことって。

 やめて。あなたと離れたくない。


「カミル!」


「フォルストたちからの伝言だ。君に『申し訳ありません』と。でも、どうか彼らを責めないでやってくれ。これは、俺も含めた全員の総意なんだ」


「カミル、私は……!」


「君は本当によくやってくれた。家を守るだけじゃない。皆の心を繋ぎとめ、皆が君のことを大切に思っていた。それは誇るべき君の功績だよ」


 徐々に体が光を放ち始める。

 夫はそれに構わず、穏やかな声音で言葉を続けた。


「俺たちのことは気にするな。トレーガーの家はなくなるだろうが……皆、どこへ行っても元気にやっていけるさ。そのための準備も進めてある」


「私は……私は、あなたを……!」 


「もう一度言っておく。俺は十分に幸せだった。だから、いいんだよ」


 良くない。良くない。全然良くない。

 でも、もう遅い。

 体が消えていく。この時間軸から、私がいなくなっていく。


「カミル……カミル、カミル!」


「リタ、俺のたった一人の妻よ。どうか、幸せであれ。……愛している」


「私も……愛しています……!」







 最後の言葉が届いたかどうかわからない。

 次に気が付いた時、私は雨のあばら家の中にいた。


「ここは屋根が低いから、雷が落ちるとしてもまず風車小屋だな……」


 その声にハッとして、顔を上げる。

 二十代の頃のカミル。若く元気な彼がそこに立っていた。


「出ましょう!」


「え?」


「ここは危険です! 早く!」


 あの瞬間だった。

 私が一番後悔する瞬間。その時へと本当に時間が巻き戻っていた。

 すぐに戸惑う夫の手を引き、風車とは反対方向の裏口を通って外に出る。

 荷物も持たず、雨に濡れることなどお構いなしに、夫を連れ出す。


 次の刹那、雷が鳴り響き、風車小屋を直撃する。

 そして、打ち付けるような強風。

 焼けて脆くなった羽根が空き家に突き刺さり、大きな音とともに壁が打ち砕かれ、崩落した。


 轟音。ただ轟音。

 ガラスが割れる音と、壁が崩れ落ちる音と、焦げた風車が雨で静められる音。

 すべてがないまぜになった音と光景を、呆然として私たちが見送る。


「間一髪だった、のか……」


 本来なら目の前の瓦礫の中に、夫は埋もれているはずだった。

 でも今は、こうして私と手をつなぎ、雨に打たれつつもしっかりと自分の足で立っていて。


 そう、これで未来は変わったのだ。

 『時戻りの実』によって、私たちは不運を回避することができたのだ。

 

「危なかったな……。君がいち早く察知して、連れ出してくれたおかげだな。ありがとう、リタ」


 カミルは安堵の吐息をついて、私に言う。

 元気な夫を再び目にして、自然と涙があふれてきた。

 泣き顔を見られないように、私は夫に抱きついて顔を隠す。

 それと、彼は勘違いしている。助かったのは、私のおかげなんかじゃない。


「あなたがいてくれたからです……! あなたが、私をここに送ってくれたから……!」


 強く強く、彼を抱きしめる。


「お、おい、リタ。どうしたんだ……大丈夫か?」


 そして、カミルは、私の夫は──少し戸惑いながら、それでも何かを察したように──八年後と変わらない仕草で、私の頭をなでてくれたのだった。




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