フラワー&ベリー・ミラクルケーキ〜妖精たちのいるところ
ふんわりと、甘い香り。
ばあちゃんの記憶はいつも、お菓子の香りと一緒だ。
さくさくのショートブレッド。
チョコレートのかかった熱々のプディング。
香ばしいフラップジャックス。
ビスケット生地がおいしい果物のクランブルやタルト。
アーモンドの模様が綺麗なダンディーケーキ。
優しい味わいのシンギング・ヒニー。
その他、スパイスのきいたクッキーやビスケット。お菓子を作らせたら、ばあちゃんは、天下一品だった。一緒に飲むお茶についてもちょっとしたもので、うちでは今も、紅茶は葉っぱから、ポットで淹れるし、カップに入れるミルクは温めない。ミルクを温めると匂いが出て、紅茶の香りを消してしまうと、ばあちゃんが厳しく教えてくれたからだ。
ばあちゃんは、天才だったと言って良い。お菓子に関しては。
……お菓子以外の料理の腕前は、壊滅的だったが。
「タカシ。おまえ、まだ彼女ができないのかい」
スイーツの香りが漂った辺りで、ああ呼び出しかと思ったが、その通りだった。俺は花々が咲き乱れ、色鮮やかなベリーがあちこちになっている緑の野原にいて、ばあちゃんを膝枕していた。
「ばあちゃん。いい加減、夢の中に侵入してくるのやめてくれないかな。俺、もう二十歳だよ。いつうっかりヤバイ夢見てるかわかんないんだよ?」
「それならそれで、酒の肴にするさ。かわいい孫のやらしい夢なんて、そうそう見られるものじゃない」
かかかかっと笑うと、どう見ても十代の少女、でも中身は数百歳、ひょっとしたら数千歳というノーラばあちゃんは、俺の太股をなでてきた。にやにやしながら。
「セクハラやめろ」
べしっと手を払いのけると、ばあちゃんはぷーっとふくれた。
「タカフミは天国に行っちゃったし、さびしいんだよ。年寄りに心の潤いをくれるぐらい良いだろう?」
「何言ってるんだ、俺より若い見かけして! 大体ばあちゃんは妖精なんだし、歳なんか取らないだろ!?」
そう。
俺のじいちゃん、瀬尾隆史は、ごく普通の日本人だった。はるか昔、英国に留学などをやらかした所を見ると、結構良い所のぼんぼんだったのではないかと推測される。でもそれ以外は特にどうという所のない、のんびりした青年だった。のんびりしすぎて、女性に全く目がいってない人物でもあった。研究オタクだった彼が英国人の妻を国に連れ帰った時にはだから、関係者一同の間にかなりの衝撃が走ったらしい。
奥さんの名前はノーラ。
ごく普通の二人はごく普通に出会い、ごく普通に恋をして結婚しました。ただ一つ違っていた所は……、
奥さまは、妖精だったのです。
「歳取らなくても、潤いはほしい!」
「だったら他の男にしろ。孫にセクハラするな」
「だって、タカフミがいないんだもんっ!」
がばりと起き上がるとばあちゃんは、目をうるませた。
「ずっとずっと一緒だって言ってたくせに、一人で天国に行っちゃったんだもんっ。あたしずっと一人……タカフミの馬鹿ぁぁぁ! 神様なんかと浮気して〜っっっっ!」
うわーん、と泣きだしたばあちゃんに、俺は肩を落とした。こうなると長いんだ……。
* * *
俺の名前は瀬尾隆志。日本人だ。
ついでに言うと、普通の人間だ。たぶん。
俺のじいちゃん、瀬尾隆史は、妖精であるノーラと結婚した。じいちゃんが以前語った所によると、
「満月の夜、湖で泳いでいるばあちゃんを見て一目惚れした」
らしい。
なんで夜に泳いでいたりしたんだとか、大体なんだってじいちゃんはそんな場所にいたんだとか、ツッコミどころは多分にあるが、じいちゃんはその辺、頓着しなかった。その場でばあちゃんにプロポーズした。
「展開、早っ」
聞いた時は思わずそう言った。でもその時じいちゃんは、ばあちゃん以外目に入らなかった。この人こそ俺の運命! と頭の中でファンファーレが鳴っている状態だった。魅了の魔法にでもかかってたんだろうか。
その時食べていたおやつは、シンギング・ヒニーだった。『もうちょっと待って可愛い子、今、フライパンが歌っているからね!』というおやつだ。熱々にバターをかけて食べるパンケーキは、目茶苦茶おいしかった。じいちゃんと飲んだ紅茶の香りを、今でも思い出す。
後でばあちゃんに確認した所、
「別に魅了なんて使ってないよ。あたしは美人だからね」
と一蹴された。
そんなこんなで、ばあちゃんはプロポーズを受けた。しかも人間に化けて、きちんと籍を入れるなんて離れ業までやってのけた。どうやったんだか謎なんだが、とにかくばあちゃんには人間としての戸籍がある。そうして日本にやって来た。
二人の間には、娘が生まれた。赤みがかった茶色の髪と、緑がかったダークグレーの目の娘。それが俺の母、江利子。
人間と妖精との間に生まれた彼女には、やはりと言うか何と言うか、それなりの能力が備わっていた。あまり尋ねた事はないが、色々あったらしい。
……俺にも色々あったが。思い返すと遠い目になる。
母、江利子は、俺の父、山中太郎と出会って結婚した。どこが良かったのだかいまだにわからない、平々凡々とした男である。父さんは母さんにべた惚れで、でも妖精云々の話については、全く信じていなかった。母さんの能力や、その能力がもたらすものについて、見ていても理解していなかった。
そんな二人が暮らしていて、何もないはずがない。
俺は物心がつくころから、次第にどこかがおかしくなってゆく二人を見てきた。俺たちには見えるものが、父さんには見えない。父さんはどことなくいらつくようになり、乱暴な言葉づかいをするようになり、母さんは父さんに対して萎縮するようになった。子ども心にどうにかならないかと思ったが、……どうにもならなかった。
「じいちゃんみたいに、見たものをなんでも受け入れるような心を持つ人間は、少ないからね」
アップルクランブルを焼きながら、ばあちゃんは言った。日本のリンゴは甘過ぎるし、水っぽいから使いづらいとこぼしながら。その顔はどこか、悲しげだった。
離婚したのは俺が七歳になる頃。父さんは俺を手元に引き取りたいと、相当ごねたらしい。けれど母さんは、そんな事をすれば、俺がどうにかなってしまうと心配した。見える目を持たない人間に能力を否定されながら成長すれば、俺が歪みかねないと。ばあちゃんも同意見だった。
父さんを除いての、緊急の家族会議が開かれた。俺も参加した。七歳だったが。ばあちゃんは、グーズベリー・プディングを焼いた。当時も今でも、グーズベリーは日本では知名度の低い果物だ。それをばあちゃんは、山ほど使って焼いた。
グーズベリーは、妖精のベリーと呼ばれているのだ。
一口食べたじいちゃんは、ばあちゃんを見やり、小さくため息をついた。それからじいちゃんは、全てをばあちゃんに一任すると宣言し、黙り込んだ。
父さんを、じいちゃんは気に入っていた。だから本当は母さんをたしなめるなりなんなりして、夫婦生活を続けさせようと思っていたと後で聞いた。でもばあちゃんには、これ以上は無理だとわかっていたらしい。
で、グーズベリー・プディングを焼いた。
誰が何と言おうと、あたしは最後まで引き下がらないからね。という意思表示だったのだと思う。グーズベリーもわざわざ、仲間の妖精に頼んで持ってきてもらったらしい。そのはずだ。夏にしかならない実が、秋も深まったその日、我が家の台所に山盛りになっていたからだ。妖精のしわざとしか考えられない。つまり仲間の妖精たちも、父さんが俺を引き取るのを反対しているという意志表示をしたのだ。ばあちゃんの意見に賛成だと。じいちゃんはそれを、何となく感じ取ったらしい。
その後に起きた出来事については、あまり話したくない。ばあちゃんは昔なじみの友だちを呼び出して、相当な騒ぎを起こしたらしい。結果、父さんは親権を手放し、どうしてこんな事にと首をかしげながら、養育費を支払い続ける事になった。以来、俺はじいちゃんとばあちゃんと母さんに育てられた。
俺が十五になった時。じいちゃんが亡くなった。ばあちゃんは、幻惑の術を使って老いてゆく姿を続ける理由をなくした。……そう、ばあちゃんは、周囲に怪しまれないよう、自分の命を削って、幻惑の術を使い続けていた。次第に老いてゆく姿を自分自身に重ね続けていたのだ。
ばあちゃんは憔悴した。ひどい弱りようだった。ばあちゃんをばあちゃんにしている力強さが一気になくなった。風が吹いたら消えてしまいそうな感じだった。それでもばあちゃんは、日本に残ると言った。母さんと俺が心配だったらしい。けれど俺たちは、ばあちゃんがとても弱ってしまっている事に気がついていた。
故郷に帰って、と言ったのは母さん。
お母さん、あなたまで私たちは失いたくはない。私たちはずっと、あなたの優しさにつけ込んで、あなたの命をもらってきたようなものなのだから。故郷の仲間の元に帰って、力を取り戻して。お願い。
この時、食卓にあったのは、単純なショートブレッド。ばあちゃん直伝のショートブレッドだった。母さんと俺が焼いたのだ。
太陽を現す丸い形に、ふちに指でつけた模様。ナイフで光線を示しながら切り分ける。単純で、でも希望と勇気を現す食べ物。
たんぽぽのコーヒーと一緒にそれを食べた。ばあちゃんは食べながら泣いて泣いて、それから母さんの願いを聞き入れて、妖精の仲間の元に戻った。
* * *
「タカシはタカフミに似てきたよ」
昔を思い出していると、ばあちゃんがそう言って、俺の顔に手をかけた。
「そうやって物思いに耽っている所なんか、あの人の若いころにそっくり」
「髪と目の色が違うだろ」
「うん。でも似てる」
さっきまで泣いていたのに、ばあちゃんの顔には笑顔があった。
「困った事はないかい。彼女ができないのは、何か問題があるのじゃないかい」
「困っていないし、問題もないよ」
「本当かい? 若い男が女に目をくれないのは、体の機能に問題があるのじゃないかとパーンが言っててさ」
「そういう意味での問題はないから。ホントにないから」
パーンは下半身が山羊の、好色な妖精だ。いつでもヤル気満々である。そういう妖精の言うことを、真に受けないでほしい。
「タカシ。あたしはあんたを嫁に出す事になっても大丈夫だよ。その辺、心は大きく持ってるからね?」
「そういう問題でもないから! ってか、なんで俺が嫁なの!?」
「だってお前、しょっちゅう口説かれてたじゃないか。嫁になってくれって」
俺はぐっと詰まった。そうなのだ。なぜか俺は、妖精にもてる……男の妖精に。何でかわからないが、子どものころから『嫁になってくれ』と良く言われてきた。知り合って、仲良しになって、こっちとしては友人だと思っていた相手から、何度衝撃の告白を受けてきたかわからない。
「タカシは料理もうまいしね」
「ばあちゃんと母さんが下手すぎるから、うまくならざるを得なかったんだよ」
「あたしのお菓子は、みんな喜んで食べてくれたよ!」
「お菓子はね。それ以外はどうだった?」
ばあちゃんは黙り込んだ。
ばあちゃんのお菓子はうまい。掛け値なしにそう言える。
でも他の料理が壊滅的なのだ。
親戚一同が集まると、今でも話題になるのは『闇アランチーナ事件』。
きっかけが何だったのか忘れたが、じいちゃんの親族が集まった時があった。ばあちゃんは張り切って、おもてなしをしようとした。 でもその時、日本料理がまだ良くわかっていなかった。……今でもわかっているのかどうか、疑問だが。
ばあちゃんは、じいちゃんに相談した。集まってくる親戚の人たちに、どんな料理を出せば良い? じいちゃんはその辺、無頓着な人だった。にぎり飯を作っておけば良いと答えた。ばあちゃんは、にぎり飯なるものを作ろうとした。途中までは成功していたのではないかと思う。
でも親戚一同が集まった時、出てきたのはアランチーナだった。
イタリアの庶民料理だ。じゃがいもの代わりに米を使った、コロッケのような食べ物。味付けをした米に具を入れて握り、揚げたものを想像してもらえるとありがたい。
親戚一同は見慣れない料理に目を丸くしたが、お嫁さんが外人さんだしね、と好意的に解釈してくれた。心の優しい人たちだったのだ。そうしてアランチーナを口にし……、
全員が無言になった。
アランチーナには具を入れる。細切れにした肉とか野菜とかチーズとか、そんなものだ。だが、ばあちゃんの作ったアランチーナに入っていたのは、
コンデンスミルク。
溶かした飴。
ヌガー。
ジャム。
何だか良くわからない、ありとあらゆる甘いもの。
……だった。
人々の間にどれだけの衝撃が走ったのかは、想像するにかたくない。ほとんど戦慄ものだったんじゃないだろうか。
しかも何のサービスか、ばあちゃんはウメボシも入れていた。にぎり飯にはウメボシ。というのを誰かから聞いて、そこだけは忠実に守ったらしい。
アランチーナは大量にあった。人のよい親戚一同は、どうしたら外国から来た嫁の心を傷つけず、この料理を辞退できるのかと頭を振り絞って考えた。しかし誰も対策を思いつけず(それぐらい衝撃的な味だったのだろう)、ばあちゃんは笑顔で『オカワリ、アリマスヨ』(まだ片言だった)と料理をすすめる。決死の覚悟で二つ目に手を伸ばした人々は、さらに衝撃を受けた。
一個ずつ、味が違う……(でも甘い)。
味付けと具を、ばあちゃんは一個ずつ変えていた。がんばったのだ。がんばる方向がちょっと違っていたとは思うが。全部甘いのと、ウメボシが入っている所はしかし、同じだった。イチゴジャムあり、マーマレードあり、桃カンの中身とシロップあり。たまにポテトチップが入っている事があって、それに当たった人はちょっぴりラッキーな気分になれたようだ。
ほとんど闇鍋状態のアランチーナをそうして、親戚一同は涙ながらに平らげた。ちなみにじいちゃんはその時席を外していて、戻ってきたら料理がなくなっていたのを見て、『ぼくの女房は料理が上手だろう?』と自慢したそうな。
無言になっていた親戚一同は、思わず生ぬるーい目でじいちゃんを見つめてしまったらしい。
その後この出来事は、『闇アランチーナ事件』として長く語り継がれる事になった。他にもばあちゃんは、様々な武勇伝を持っている。
「一度や二度なら、笑っておしまいにできるけどさ……母さんもやったんだよ、闇アランチーナ。こないだ」
「あれはあれで美味しいじゃないか」
「スイーツじゃないから、おにぎりは! 塩味が基本だから! 飴やミルクは入れないの! チョコレートも入れないの! おかゆも塩味が一番なの! ジャムも果物も入れなくていいの! 謎のリゾットや正体不明のポトフを、ばあちゃんも母さんも、どうしてあんなに生産できるんだよ!」
思い出したら涙が出てきた。自分で料理をしないと味覚が破壊される。そんな思いを俺は、子どもの頃から味わってきたのだ。
「タカフミは美味しいって言って食べてくれたよ!」
「じいちゃんは味音痴だったからだ」
言い切るとばあちゃんは、衝撃を受けた顔でよろよろと後退った。
「そんな……タカシ。おまえ、あたしの料理の腕が悪いっていうのかい。あの人の心を射止めたあたしの料理の腕が悪いって……」
「ものすごく悪い。ウソ泣きしても駄目だから、ばあちゃん。あのさ。妖精のばあちゃんが人間の食事を、どうにかして作ろうとしたのはすごいよ。味覚も何もかも違うし。良くやったと思う」
芝居がかってよろめくのを無視して言うと、のってくれないのがわかったのか、ばあちゃんは真顔になった。
「まあね。あたしには、人間の言う『普通』がわからなかった。何が普通で、何がそうじゃないんだい? 時代によっても変わってしまうじゃないか。百年前に普通だった事が、今では普通じゃない。味覚もね。どんどん変わってしまう。民族によっては、変なものを食べたがったりするしさ……」
ばあちゃんはため息をついた。
「スイーツはわかる。甘くてほっとする味ってやつ。昔から、母親が子どもの為に作っているのを見てきた。だから何となくね。
でも家庭料理ってやつが、わかんないんだよ」
「それは俺が覚えて作ってるから。食べに来てよ。たまにはさ。こんな風に夢で呼び出すんじゃなくて」
「そうだね」
ばあちゃんは、ちょっと笑った。
「そんな風に、どこか気を使ってくれたりするのも、タカフミに似てるよ。でもね。今日は本当に、あんたに用事があったのさ」
「そう?」
「そう。誕生日だろう、タカシ?」
ばあちゃんは、軽く手を振った。見る間にその場に、パーティー会場が現れた。リボンで飾られ、花であふれるテーブルの上に、お菓子が所狭しと並んでいる。
謎の料理と共に。
「みんなで作ったんだよ!」
「……このどす黒くて生臭いスープみたいなのとか、骨が突き出ている謎の物体、ナンデスカ……」
「お祝いの料理に決まってるじゃないか!」
「ばあちゃんが作ったの……?」
「馬鹿お言いでないよ。あたしでもこんなの作らないよ」
怪しい。と思いつつ横目で見やると、「ジャックやケルピーが作ったんだよ。あの子たち、アンシーリーコートだしさあ」と困ったような顔で言った。
「ジャック・ア・ランタンとケルピー……じゃ、これ、生き血とか内蔵とか……」
アンシーリーコートは、人間を襲って食べたりする妖精だ。ジャックは沼地で人を迷わせ、ケルピーは水の中に潜んで人を引きずり込む。俺も何度か食われかけた。ばあちゃんが怒り狂ってきついおしおきをしてから大人しくなり、俺が成長してからはなぜか、妙にまとわりついて好意を示すようになったが。これも多分、好意だ。精一杯の好意だろう。
だが彼らの常識で示される好意は時折、嫌がらせか? と疑いたくなる……。
「やめとけって言ったんだけどねえ。せめてハギスにしとけって」
ハギスはスコットランドのホルモン料理だ。オートミールで内蔵を茹でたもの。……うん。せめてそれぐらいなら食べられたんだけど……でも気をきかせるつもりで人間の臓物とか使われたら、やっぱり食べられないと思うな……。
「タカシ!」
「タカシ!」
口々に俺の名を呼ぶ妖精が集まってきた。ケルピーたちもいる。自分の作った料理(らしきもの)を得意満面の顔で差し出してくる。
「タカシ、作った。食べてくれ!」
「マイスウィート。俺の渾身の力を込めた料理だ!」
……そんな事言われたってなあ。
一所懸命な彼らをけれど、邪険にできず。俺は蕪頭のジャックと、水をしたたらせているケルピーを軽く抱きしめた。
「俺、人間で味覚がちょっと違うんだよ。これ、食べられない。でも作ってくれた気持ちがうれしいよ。ありがとう」
そう言うと、二人(?)はふっと言葉をなくした。
それから感極まったように、「嫁になってくれ!」と叫んだ。息がぴったりだ。
「嫌だ」
きっぱりと断ると、衝撃を受けた顔でよろよろと後退った。こんな反応を見せるなんて、どこのドラマで研究したのだろう。それから彼らは泣きながら走り去っていった。芸が細かい。
「あいつら段々、人間臭くなってきてないか……?」
「あんたが人間がわにいるからさ。好かれたくて、自分を変えようとしているんだよ」
苦笑して、ばあちゃんが言った。
「妖精は普通、何百年も変わらない。だから人間に魅かれる……人間は短い時間で、あっという間に変化する生き物だからね。タカフミもあたしの前で、歳を取って、どんどん変化して、……逝ってしまった。エリコもやがて、逝ってしまう。タカシ。あんたもね。でもあたしが、あんたたちを愛していた事は事実で、変わらない」
「それは知ってる」
「忘れないどくれよ」
「忘れないよ。ばあちゃんの料理は壊滅的だったけど、お菓子は天下一品だった。おまえたちを愛しているって、ばあちゃんのそういう声が聞こえてきそうな甘い味だったよ。俺は今でも、ばあちゃんのスイーツを夢に見る」
ふふ、と笑ってばあちゃんがケーキを差し出した。
「じゃ、呼んだかいがあった。ほら」
「これは?」
薔薇とスミレで飾られた、乙女チックなケーキ。
「フラワー&ベリー・ミラクルケーキ。ばあちゃんの力作! じいちゃんを落とした時に作ったケーキ!」
「はあ?」
「タカフミに一目惚れしたのはあたしの方が先だったからね! 夢に侵入してこのケーキを食べさせたのさ。おかげで彼はあたしにメロメロ!」
ガッツポーズをとるばあちゃん。なんだそりゃ。
「それって、俺もこれ食べたら、どうにかなるって事……?」
「どうもしないよ。あんたはあたしの孫じゃないか」
「じいちゃんに魔法かけたの? これで? 魅了の魔法は使ってないって言ってなかった?」
「魅了じゃないもーん」
うふっと笑うとばあちゃんは言った。
「魔法って言うなら、人間の女も使っている魔法だよ。美味しいスイーツ。ただそれだけ」
「……ほんとに?」
「あのさ、タカシ。ちょっとの間、遊び相手に欲しいだけなら、あたしはばんばん魔法を使ったし魅了もしたよ。でもタカフミは、そういう相手じゃなかった。どうしてあたしが人間のふりまでして、異国に行ったと思ってるんだい」
微笑むばあちゃんは、とても可愛らしかった。ケーキを持ってにっこりしている女の子。……確かに、魔法を使う必要はなかったかもしれない。
「一切れもらうよ。これ、でも、今までに見た事ないな……」
「あたしとタカフミの思い出のケーキだから。滅多な事では作れないよ。でも今日は、おまえの二十歳の誕生日だからね」
真っ白なクリームが乗ったケーキの上には、砂糖漬けの薔薇とスミレ。切り分けると、花の香りがふわりとした。中からこぼれ出すのは、ベリー。たくさんの、宝石のような色をしたベリー。
「妖精のベリー……?」
「他にも色々。災いがおまえをよけて通るよう、たくさん願いを込めて花と実を摘んだ」
一口食べると薔薇とニワトコの味。花の酒とジャムが使われている。魔法めいた味。魔法めいた夢。
「愛しているよ、タカシ」
「俺も愛しているよ、ノーラばあちゃん」
そう言うと、ばあちゃんがきらきら輝くような笑みを見せた。
* * *
目がさめた後も、花とベリーの味が口の中に残っていた。
「おはよう、隆志」
着替えて顔を洗っていると、母さんに声をかけられた。
「おはよう、母さん……ばあちゃんに呼ばれたよ、昨夜。向こうに連れてかれた」
「元気だった?」
母さんは特に驚く事もなく、にっこりして言った。俺はうなずいた。
「うん、元気そうだった……母さんの事も心配していたよ」
「あたしは元気だし、平気なのに」
「時間の感覚がこっちと違っちゃうから、色々あるんじゃないかな。それに、何と言っても娘だしさ。心配なんじゃない? 親としては」
「生意気。まあでも、時間の感覚が違っちゃうっていうのは確かにあるわよね。プロポーズしたまま行方不明になった妖精が十年後に答を聞きに来た時には、呆れれば良いのか怒れば良いのかわからなかったもの」
初耳だ。
「そんな事あったんだ……」
「あんたも気をつけなさいよ。流されたら大変な事になるんだから。こっちと向こうとでは何もかも違う。常識でさえも」
「わかってる……ちゃんと、それなりの節度をもって付き合うよ。そうでないと、どっちも傷つく」
ばあちゃんとじいちゃんのような関係は、稀だ。ほとんど奇跡と言って良い。
人間と妖精は違う。何もかもが違いすぎる存在だから。
「俺は人間だし」
「多少問題はあるかもしれないけれど、そうよね。あたしも人間だわ」
母さんは笑った。
「でも、人間以外のものの存在も知っているから。彼らの事、人間ではないとわかった上で愛しているわ……そういう自分が結構好き。たまに腹の立つ事もあるけれど。純粋よね、彼ら。すごく」
「うん」
朝食を食べていると、空がきらきら光って見えた。風の妖精たちが飛んでゆく。昨夜、雨を降らせた雲の残りを、力を合わせて押しやってゆく。
世界は調和を保って美しい。
その美しさを支えているのが妖精たちだと、俺は知っている。そっと感謝のまなざしを贈ってから、目をそらして、気づいていないふりをした。
今日は、良い天気になるだろう。
参考文献
『英国お菓子めぐり』 山口もも著 新起源社
『イギリスのお菓子 楽しいティータイムめぐり』 北野佐久子著 集英社be文庫
最後のミラクルケーキは私の創作ですが、あとは全部実在します。ミラクルケーキは、ヴィクトリアサンドウィッチに近い感じで。ローズウォーターを入れて焼いたスポンジを四つに輪切りして、花のジャムとベリーをはさんだ感じです。で、表面に花の砂糖漬けを飾った、と。
誰か上手な人、作ってみて下さい(笑)。
妖精について少し。シーリーコート(善き妖精)、アンシーリーコート(悪しき妖精)と大まかに分けられます。ケルピーは水の中に住む馬で、人を引きずりこんで食べてしまう魔物です。ジャック・ア・ランタン(ジャッキー・ランタン)は元人間で、沼地などで人を迷わせるとされています。