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みんなやさしい

みんなやさしい 〜やさしさは優柔不断のうらがえし〜

作者: ナツキカロ

 

  ワイデマン侯爵は16才の息子に告げた。おまえの婚約者を決めてきたよと。


  相手は辺境伯の遠縁の子爵家の娘で四年後、向こうが16才こちらが20才になれば婚姻となると。なに、その時に他にいい相手がいたりして気が乗らなければ破談にすれば良い、深く考えることはないと言われて、息子であるフレデリックは受け入れた。元来温順な性格なので貴族としてそんなものだと自身の婚姻を捉えていたのだ。



  そんな彼が一年後、通っていた学院で恋に落ちた。相手は同じ学年のヘレナという、穏やかで優しく、美しい子爵家の娘だった。学院で切磋琢磨し合う学友たちとの交流の中、彼女といると変に肩に力が入ることもなく、心穏やかでいられた。


  ヘレナは美しいと言っても此処は貴族子弟の通う王立学院。彼女以上に美しく、身分も高い煌びやかな令嬢はごろごろといた。がしかし、そんな中彼女の持つ独特な雰囲気と派手派手しくは無い品の良い装いと風貌、謙虚な振る舞いに魅せられていく若者はフレデリック一人ではなかった。



  彼女の周りに集いだす良家の子息たちにフレデリックは焦り焦りした。気が付けば一つ上の王太子までもが彼女に寄り添っていた。学院の廊下で、中庭で、談話室で、カフェテリアで。彼女を伴う殿下の姿が頻繁に見られるにつれて、学院内では殿下が今の婚約者である隣国の王女では無く彼女を妃に迎えるのではないかと噂が広がった。



  フレデリックはヘレナと自分の間には友情以上のものがあると感じていた。それはお互いの交わす視線だったり、多勢で談話している時のふとした瞬間に気がつく感覚だったり。かといって、それで二人の仲が恋人同士かというとそうとは思えなかった。二人だけで出かけた事もある。一度ならず手を取り甲に、その花びらのような指先に口付けをした事もある。だがそれだけだ。ヘレナに対して思いを口にした事もなければ、将来に関する何の約束も彼女としていなかった。



  やがて王太子は卒業し、彼女は学院にとり残されたがそれでも殿下と彼女の噂は途絶えなかった。

 彼女とフレデリックとの仲もなんの進展も…いや、フレデリックがそうなる事を望まなかったのだ。彼は慎重だった。自分が彼女の友人以上の関係になる事を望んで、もし拒絶されればこのまま彼女の側にいる事は自分には難しくなる。それは嫌だ。それにもし彼女と殿下との間に既に何らかの約定があるのであれば、自分は彼女を困らせるだけ。殿下にとっては信頼のおける未来の側近候補が一人減る事になるだろう。



  次の年、学院を卒業し、フレデリックは父について領地と事業の経営の見習い、時間を見繕って王宮で文官の見習いのような事をして過ごした。


  ヘレナとは卒業しても仲の良かった学生時代の友人として、今後は消息のやり取りをしようと口約束を交わすのみに留まった。フレデリックは心の中で、彼女の幸せを願った。王太子殿下は聡明で愛情深く、信頼に足る方だ、今や彼女も殿下を想っているのだろう。きっと二人は幸せになれる。自分に出来る事はこのまま二人を見守る事なのだと。



  やがて二年が過ぎフレデリックは20才になった。領地と事業関連の地と王宮とを行ったり来たりする日々が続いていた。


  不思議と王太子殿下とヘレナの関係についての進展の話は何も聞かなかった。だが別れたとも聞かない。会っていないのかと思えば、二人きりで何処そこの歌劇場に…などの噂を耳にする。けれど殿下が王女との婚約を白紙に戻したなどの話もない。


  女々しくも、 無性に顔が見たくなって、ヘレナが出席すると聞いた夜会に参加してみたりもする。会えばお互い懐かしそうに微笑み合ってダンスをし、昔話に花を咲かせる。だが唯それだけだった。何か困った事はないか、自分が力になれる事はないかと尋ねても、あの頃と変わらぬ穏やかで儚げな優しい笑みで"何も"と首を振る。自分は大丈夫と。貴方こそいつも忙しそうで、身体に気をつけて。 確か婚約者がいたのでしょう? そろそろ婚姻の時期ではないの?と聞かれれば、フレデリックも彼女と殿下との間柄について深くは追求出来ずにいた。




  昼間は茶会に、日が落ちれば夜会へと、貴族の婦人は仕事がないといえどしなければならない社交はわんさかと有る。それは家の為だったり、自身の為だったり。そうした日々を無為に過ごし溜息が溢れる。


 ヘレナは理解していた。自分は所詮しがない子爵家の娘であると。 殊更に美しい訳でもなく、秀でた才能がある訳でなく。有力な親類縁者や後ろ盾もいなければ大した身分でもなく財力もないのだと。

友人は沢山いた。皆自分を慕ってくれているのも分かる。けれどその域を出る事はない。だから望んではいけない、例え密かに心を寄せる相手がいたとしても、と。


  王太子殿下は確かに彼女を寵愛しているかもしれない。がそれも則を超えぬ範囲の事。愛情のこもった眼差しや態度、労わりの言葉を受けはするが、それ以上は求めてはいけない。

 やがて殿下は婚約者である王女を伴侶に迎えるだろう。そして王家の為に後継を得なければならない。ひょっとするとそこまで至れば殿下はヘレナの事を側妃にでも置こうとするかもしれないが、それは彼女がただそう想像するだけで、殿下からはっきりとそうと告げられたのではなかった。



  王太子は聡く、周囲の状況や人々の思惑をよく読んでいた。そこから自らが為さねばならない使命と振る舞いを理解し、己に課していた。

  それ故にヘレナを愛しく思いながらも決して不用意に言葉にする事は無く、節度を保った距離も置いていた。


  彼女はきちんとした貴族家の淑女だ。二人の間に不適切な関係が出来てしまってはこの先彼女が困るやもしれない。勿論、自分が責任を取れれば一番いい。

 しかし彼には政治の絡んだ婚約者がおり、相手の歳を考えれば婚姻はまだ四年は先だ。その後ヘレナを側妃に出来るとしてもそれでは彼女を何年待たせる事になるやら。そうなれば彼女の婚期はとっくに過ぎてしまう。何の保障も無しにそんな辛い年月を彼女に強いる訳にはいかない。

  ならば自分はここで身を引き誰か他の男の元に彼女を送り出すべきではあるのだが。

  そうと分かっているからこそ、学院を卒業する時も彼女に何か期待させるような約束など口にしなかったのに、想いを抑え切れずにこうして取っている行動は…。

 



  ある日ワイデマン侯爵は息子に訊いた。

  お前も20才になったし、好いた女性の噂も聞かない。彼方より約束していた辺境伯の遠縁の娘とそろそろ婚姻してはどうだろう。先日、事業関連であちらに出向いた際に本人にも会ったが、嫋やかで愛らしい娘になっていた。辺境伯家の養女としてから輿入れした後はこちらで教育すれば立派な次期侯爵夫人となるだろう。私は息子一人だったが、新たにあのような娘が出来るのは殊の外嬉しいよ。



  フレデリックにしてみれば、遂にこの時がやってきたという感じだった。これは彼が自分にも課していたタイムリミットだった。結局自分はヘレナにとっては良い友人でしかあり得なかった。そうでなければ学院を卒業してこの二年の内に何らかの進展のしようがあっただろう。もう、ここまでだ。これ以上彼女を想うのは迷惑をかける。けれどこのまま友人であれば自分は次期侯爵。ならば、貴族の社会で彼女の子爵家という位階では殿下の側に侍るのも心許ないかもしれないが、友人として自分が幾許かの支えになれるはず。


  それにここまで父親が気に入っているようなら、相手の娘も良い為人なのだろう。家の為にも親の為にもなるのであれば、断る理由もない。


  フレデリックは父親に、自分もそれで構わない、婚姻にこだわり等も無く、しきたりや細かい事は全て任せるので、彼方と相談の上良い様に決めて欲しいと告げた。



  三ヶ月後、辺境伯領で式と披露パーティーを終え、自領に花嫁を連れ帰った。花嫁はアネットという名の小柄で可憐な娘だった。淡い鳶色の髪に、薄緑色の瞳。特にこれといって目立ちもしなければ、かと言って貴族として見劣りする風情でもなかった。最初は少しおどおどした様子だったが、優しく接するうちに安心したのか笑顔を見せるようになり、この分ならこの先夫婦として上手くやっていけるのではと思えた。



 前回自領に戻ってきたのは社交シーズン前であった。今回はシーズン後もしばらく王都に残っていた分、自領での仕事が押していた。フレデリックは新婚だからと羽を伸ばす暇もなく、領地の雑務に追われる事となった。


 父親は事業関連の対外交渉部分を一手に引き受け、滅多に領地に戻らない。王都でも無駄な社交は一切参加せずに必要人物とのみ接触を持つという人だったので、フレデリックは家の為にも自分の為にも自力でそこそこ頑張って社交も務めなければならなかった。



 仕事に追われるフレデリックであったので、新妻にあまり構ってやる時間は取れなかった。


 アネットは心優しく従順な娘だった。無駄口も少なく、日頃の会話から頭の回転も悪くないと思った。だが何分田舎育ちで垢抜けない。しかし容姿は程々に整っているのでそれなりに装わせれば未来の侯爵夫人として王都でも十分通用しそうだった。

 なので特に考える事もなく、屋敷の事も使用人達の事もアネットと古くから仕える家令に任せておいた。



 自領の事で手一杯になった為に翌年の社交シーズンは見送ることにし、そのまま二人は領地に残った。

 嫁ぎたてのアネットにも移動ばかりの生活よりもその方がいいように思えた。


  一年、自領の本邸で過ごした後、フレデリックは王太子に呼ばれて一人王都に戻って行った。アネットは漸く屋敷と領地に慣れ、落ち着いたところだったので、ここで王都に伴い不慣れな貴族の暮らしに神経をすり減らせるのは可哀想な気がした。そこで、一先ず自分一人で王都に向かい、長らくの不在による雑事と今回呼ばれた王太子の用向きを片付けた後に彼女を呼び寄せるつもりでいた。



 アネットにその事を告げると彼女も素直に頷いた。




 王都に戻り、王太子の用向きを聞き職務に従事する。王宮では以前と変わらぬ日常が待っていた。貴族としての責務と社交、旧交を温め見聞を広めるという名目の遊興。世間に自身を呑まれぬ為に年若い彼は日々必死だった。


 二カ月も過ぎた頃、ヘレナに再会した。彼女に会えばいつもそうなのだが、それまで隔たっていた時間が嘘の様に彼女を身近に感じた。


 彼女の処遇は相変わらずだった。否、以前より悪いかもしない。最近の王太子は彼女を側に呼ばず、王宮では王太子は既に彼女に厭いたのだと密かに囁かれていた。


 フレデリックはヘレナが不憫だった。自分の大切なヘレナ。自分の初恋。在学中、多くの者に慕われ、微笑みで彼らを魅了していた敬愛すべきヘレナ。自分は彼女の幸せを慮って一歩を踏み出しはしなかったのに。ところがどうだ、今やその彼女が肩を落とし頼りなく俯き寂し気に笑う…。自分が王都を留守にした一年と少しの間に何とした事か。今こそ彼女を助け守らねばならない。そう決意して。


 ヘレナはフレデリックの助けを拒まなかった。彼女は彼に促されるままに彼の厚意を受け入れているように見えた。どれ程辛い立場に晒されていたのだろうとフレデリックは尚一層ヘレナへの想いが募った。二人の交流は自然と数多の人の知れる処となった。勿論、意地の悪い中傷とささやかならざるやっかみとを伴って。


 後から考えれば、フレデリックが王都にアネットを連れて戻らなかったのが災いしたのだろう。一人で暮らす時間が長くなると共に、彼は自分が既婚者であるとの認識が薄れていた。そして二人の姿が他人にどう映るのか、想像する力も足りなかった。

 更に貴族の間で例え既婚者であろうと恋人をもつ事が珍しくはなかった時流も悪かった。多くの知人がその様な事をしていれば、自身のヘレナとの関係など軽微なもので、罪悪感も薄れるというものだ。


 また記憶の中のアネットは大人しく慎ましやかでフレデリックに従順であったので、アネットの立場さえ尊重して振る舞えば、誰にもとやかく言われる事はないだろうと考えた。



 結局その年のシーズンをアネットを呼び寄せる事なく終え、フレデリックは自領へと戻った。



 領地に帰ってもフレデリックは良き若主人、良き夫として振る舞った。けれどもヘレナとも書簡のやり取りを続けていた。頻繁に届く王都からの文に、疑心を持つ者はいなかった。それ程彼の振る舞いが模範的な領主であり夫のものだったからだ。


 アネットとの仲も良好だったが、子が授かる気配はなかった。彼女は申し訳なく思っているようだが、フレデリックはお互いまだ若いのだからと、その事に余り頓着しなかった。



 翌年の社交シーズンを迎え、フレデリックはアネットと共に王都へ向かった。


 アネットは初めての王都に期待半分、不安半分といった様子だった。まだうら若い乙女と言っていいような彼女としては華やかな王都に憧れるのは無理もなかった。しかしなんと言っても辺境の片田舎で育ち、辺境伯家の養女となってもにわか仕込みのマナーや社交技術では不安になるのも仕方なかった。

 実際、ダンスの確認にフレデリックと踊った時には従来からあるオーソドックスなもの三曲踊れるのみと分かり、今流行りのダンスについては王都についてから誰か教師をつけねばならない事が分かり、フレデリックを慌てさせた。


 王都では暫くの間、フレデリックはアネットに付き添い、茶会に参加したり、知人に紹介したりしていたが、幾分慣れてきた頃には辿々しく危なっかしくはあるものの、アネット一人でも社交に参加するようになった。



 やがてその時はやってきた。

 とある夫人のお茶会で、洒落た王都の貴族夫人らからにこやかに、アネットは夫とある女性との"不適切な関係"を、さも昨今の流行のドレスの型や、歌劇の演目を語るかのように、その日の茶会席での話題の一つとして教えられた。



 アネットには分からなかった。何故あのような話を人前で話題として提供されてしまうのか。まるで新しいカードゲームの一種の様に貴族にとっては罪のない娯楽の一つとでもいった感じで。その日の天気やお茶受けのお菓子について話すかの様に軽い口調で。

 都会の貴族とはそういったものなのか…



 数日後、夫と参加した夜会で知人達に挨拶してくると言ってフレデリックが姿を消した後、アネットは一人で会場の隅で漫然と続く舞踏の輪を眺めていた。その時アネットの視界に入ってきたのは、自分の夫が件の女性に寄り添い、周囲の人と談笑する姿だった。夫の隣で佇むその姿はアネットがあの様に在りたいと望む貴婦人の姿だった。



 その後アネットが出来る事といえば、外出を控え、出席する茶会や夜会を最少限に抑え、夫には慣れない王都での生活に疲れただけだと言い繕い、私の事は気にせず出かけてらしてと、夫を送り出す事だけだった。



 そうやってどうにかこうにか日々をやり過ごしていた頃、父親のワイデマン侯爵が自領で落馬し、重傷だというのでフレデリックはアネットと共にシーズン終了よりも早く領地に帰った。




 ワイデマン侯爵は股関節を骨折した事から暫くは寝たきりの生活となった。先行きを案じた彼は一足早く隠居し家督を息子に譲る事にした。フレデリックは父親の行っていた事業の外交折衝も受け持つ事になり、多忙を極めた。



 アネットは甲斐甲斐しく舅の世話をした。ワイデマン元侯爵は表では、自分の世話など召使いにさせなさい、お前は女主人なのだからと言いつつも、内心ではやはりいい嫁を貰ったと嬉しく思っていた。その為なんやかやと用事を言って、アネットの事を片時も側から離さない様になっていた。


 アネットにとっても、舅の世話で忙しくしていると、王都での出来事を忘れ、フレデリックに対して胸中を行き交うモヤモヤしたものを振り払う事が出来るので、有り難かった。



 そうして三カ月も過ぎた頃、ある日フレデリックの友人が屋敷を訪ねてきた。暫く滞在すると思われたその友人を伴って急遽フレデリックが王都へと向かったのはその三日後だった。



 フレデリックが王都へと発って一カ月と少し、彼からは何の便りも無かった。



 邸には特に変わりはなかった。一度、アネットが体調を崩して二日程寝込んだ以外には。


 そしてアネットは一人ひっそりと邸を後にしたのだった。舅にフレデリックとの離縁の意思を告げて。







 王都に戻ったフレデリックは王太子の元へと急ぎ馳せた。なるべく人目を忍んで。ここからはいかに上手く、一分一秒でも迅速に事を進めるかが肝心だ。王太子の望みを叶えるために。ヘレナの幸せのために。


 隣国で流行った病に王太子の婚約者である王女が罹り、呆気なく亡くなったという報せはまだ公にされてなかった。そう、友人は隣国からの帰りにフレデリックに他よりも一足先に報せをもたらしたのだ。


 どこで知ったか王太子はフレデリックが王都入りするやいなや、王宮に呼びつけ彼にヘレナを正妃に迎えたいと告げた。その為に力を貸せと。

 何処からも横槍を入れさせず、首尾よく婚姻出来ればフレデリックとヘレナとの噂は不問に付すとさえ言った。協力しないのであれば、フレデリックはアネットと離縁しヘレナを妻に迎えるべきだとも。



 二人の婚約が非公式乍らも無事に整い、フレデリックが自領のアネットの事を思い出した頃には王都へ来てから三カ月が過ぎていた。

 思い立って、慌てて邸へ便りを出す。

 邸からの返事は父からで、フレデリックにとっては思いがけない内容のものだった。



 急ぎ自領に戻り、そこからまたアネットを養女に迎えた辺境伯家に向けて発つ。

 フレデリックの訪問に、相手方は当惑気味で、ひたすらに


 ーーーここにアネットはいない、彼女との離婚は成立しているし、今更この件を蒸し返すことはない。二人に縁がなかったまでの事で、これからの両家の関係は変わらないので、お引き取り願いたいーーー


 こう繰り返され、フレデリックはアネットに会う事も適わず、彼女が離縁に至った理由もはっきりとせずに体良く追い返されてしまった。


 いや、今思えば理由が思い当たらない訳がない、それに気が付かない程自分は無神経でも無ければ良心がない訳でもなかった。

 でも、出来ればただ一言、会って謝りたかった、傷つけてすまなかった、大切に出来ずにすまなかったと。



 やがて十数年の月日が過ぎた。

フレデリックはアネットと離縁となって以降、領地や事業の経営を熟しながら王太子の側近の一人として宮廷にも伺候し、充実した日々を送っていた。少なくとも傍目にはそう見えた。見目も良く、地位もある彼が長らく独り身でいる事など、宮廷の花たちにとって嬉しい存在でこそあれ、誰が疎ましく思うというのだろう? いや、やはり同じく独り身の男性陣からは少々妬まれていたが、決して目立ちたがらない彼の事をそこまで悪し様に嫌う者は居なかった。

 そう、あれから彼は再婚するでもなく、浮名を流すでもなく。頼まれてエスコートする事こそあれど、余りに熱くアプローチをかけてくる女性に対しては上手に距離を置くなどして、決して特定の誰かを側に置く事は無かった。


 そんなある日の夜会で、フレデリックは思いがけない人と再会した。


 それはいつもの様に一人で参加した夜会で古くからの友人に声をかけられた時の事。

 "そういえば、君はもう会ったのかい? 彼女に。雰囲気が変わってて、見違えたよね。"

 最初、その言葉が誰の事を指しているのか分からずに、フレデリックは訝しげな顔で友人を見た。

 "まだ会ってないのかい? あぁ、もう関心はないんだね…"


 ハッと思い当たるや、フレデリックはその友人に教えてもらった辺りへと足を向ける。だがもう、目当ての人の姿は見当たらず、きょろきょろとしていると、横のテラスの窓が大きく開かれて外から女性が一人ホールへと戻ってきた。


 淡い鳶色の髪をゆったりと結い上げ、モスグリーンのドレスを品良く身に纏ったその女性は昔フレデリックが自領に置き去りにしてしまった彼女と同じ人物には見えなかった。


「アネット…」


 思わず呼びかけた声はそれ程大きくはなかったというのに、女性の肩が僅かに震え、此方を向いた。


 暫くの沈黙。


 何方もかける言葉を探して、上手く紡げず、唯口許をハクハクとさせる。


 やがてフレデリックが意を決した様に声を出した。

「失礼、この様に貴女に気安く呼びかけてはいけなかった。 今ではトレスノ男爵夫人だったね。暫くぶりだ、トレスノ男爵夫人。息災だっただろうか?」


 アネットは小さく頷くと躊躇いがちに微笑んだ。


 アネットはフレデリックとの離縁から数年後、縁あってトレスノという片田舎の男爵に嫁ぎ、今では男の子二人の母親になっていた。専ら田舎の自領に引きこもって暮らしているのだが、今回親戚の祝い事の集まりがあって王都に夫と共に出てきたのだという。

 

 二人は壁際で暫く会話し、やがてお互いのこれからを言祝ぎ合うと穏やかに別れた。

 別れ際、一瞬彼女が何か迷った様子を見せた気がしたのは気のせいだろう。


 フレデリックにとって、その夜は覚えのある中で一番心安らぐ眠りにつけた夜となった。





 気になる話をその男から聞いたのはアネットとの再会の夜会から数ヶ月後の事だった。

 フレデリックが子供の頃から侯爵家に出入りしているその男は一月ほど前、辺境の孤児院である娘を見かけたらしい。


 フレデリックよりも十は歳上の男が今更若い娘でも見初めたのかと興味半分に話の先を促せば、驚いた事にその娘は鳶色の髪色に顔立ちはフレデリックの子供の頃に瓜二つだという。


 旦那、昔に悪さした覚えはありませんかい?などと揶揄い混じりに聞かれて、フレデリックは首を傾げる。


 自分にそんな覚えは無いし、身内の誰かの縁者か、若しくは他人の空似だろうか。

 だが男の言うには余りにフレデリックに似ているので背筋に怖気が走った程だそうだ。


 ただ、男もフレデリックの為人を知っているので、あくまでも世間話の一つとして話したらしい。

 もう少し詳しくその娘の(なり)と会った場所を教えて貰い、その話を終えた。


 年の頃は10才を少し過ぎた頃だろうか。鳶色の髪に薄緑の瞳。フレデリックの子供の頃にそっくりな顔立ちの娘。



 暫く後、自領に帰ったフレデリックは父亡き後、屋敷を一人で取り仕切っている家令にこの話を告げた。

 フレデリックの父はアネットが屋敷を去って数年後、病いに罹り亡くなっていた。


 フレデリックは当初この話を聞いた時、自分の腹違いの妹ではあるまいかと思い当たった。それ故本人に問いただしたい処ではあるが、今となってはそうもいかない。当時を詳しく知るのは屋敷に於いては家令以外にはいなかった。

 家令は首を傾げた。当時、旦那様は怪我をされていて、周りに女性の影はなかった。辞めていった使用人にも心当たりはない。

 やはり、となれば、これ以上詮索しようがないと思われた。


 ……の筈だが。



 何故か丁度そこへ茶を運んで来た侍女が大きな音を立てて盆を取り落とし、顔を青くしながら粗相を詫びている。


 フレデリックはその侍女の後ろ姿を見送りながら、そういえば彼女は当時アネットの侍女をしていたようなと、ぼんやりと思い出していた。


 翌日、その侍女を部屋に呼ぶと彼女も予測していたようで、此方が聞きたかった話を、当時を思い出そうとしながらぽつりぽつりと話してくれた。


 侍女が知っていた事は本当に少しの事で、今回の話を耳に挟んだからといっても、その事を思い出したのは僥倖と言えるだろう。


 当時、アネットは義父の介護に付き添う毎日だった。足を骨折し、思うように体の動かせない日々で、体を支えたりなどの力仕事は男達の手を借りたが、アネットの細かな気配りに父はとても感謝していたという。


 フレデリックが突然屋敷を発って一カ月、音沙汰のない事に屋敷の誰もが言葉にはせずとも、それとなくアネットに気を遣う空気があった。

 そんな中で遅れていた月の物がやってきた時、体が余程辛かったのか、二日程寝込んでしまった事があったという。遅れていたので、もしやと思いはしたが、話に上がらない内にそんな事態になり、念の為医師に診てもらってはと勧めたが、アネットは大丈夫だと言い、結局、その後元気な様子だったし、そうこうする内にアネット自身が屋敷を去ってしまったので、すっかり忘れていた話だった。



 侍女を下がらせ、フレデリックは決意した。自分はその娘に会わなければならない。今回は辺境伯を訪ねるよりも、アネットに会うよりも、何よりもまず、その娘に会うのが先決だ。



 翌日、朝早くから身支度を整え馬に跨り、フレデリックは男に教えてもらった、アネットの生家のある地とほど近い、小さな町にある孤児院へと向かった。




 その小さな田舎の町で出会った娘がやがて恋をして、自身の出生の秘密を知るのはまた別のお話。













 




お読みいただきありがとうございます。



物語最後にふれました田舎町の女の子が主人公のお話「忘れられた娘 〜やさしさの後に遺されたもの〜」の連載をスタートしました。こちらもどうぞ宜しくお願いします。2020 /10/5

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