腹と膣と冷蔵庫に詰めて、愛
『愛しています。ただ、それだけを伝えたかったのです』
沈み始めた赤い太陽が、小さなささくれだったアパートを照らしている。
周りには誰もいない、歩いていない。
世界の終わりか、はたまた始まりか、何かの変化を示すような愛しい赤色、その愛がアパートの窓を抜け、一室の床を照らしている。
夕日降り込む室内で赤く染まった足。
細い足首、華奢なふくらはぎ。
一人の少女。
小さな六畳一間の室内で小さな台所に向かう小さな少女。
彼女の手に握られた包丁はまるで危なっかしい、手慣れぬ手つき、病的なほど痩せている二の腕だけれどまな板の上でガタガタと揺れるその刃先は誤って指の骨まで切ってしまいそうなほど力んでしまっていた。
なかなか刃の通らない包丁に、少し眉をひそめて体重を乗せた時…
「ッて…」
左の掌をみる。
生命線に沿うように引かれた一筋の線、その線の各所から柘榴の実のような赤色の珠がぷつり、ぷつりと湧いてくる。
黒々しい隈が染み付いてしまっている少女の目が手首まで垂れた血の筋をその不健康な見た目に反して熱っぽく見つめている。
色素の薄いほおをあわい朱に染め、カチリカチリと秒針を刻む壁の時計に急かされ少しずつその手を口元に近づける。
唇に手が触れた。
つぅ、と垂れた血糊。
慈しむように優しく舐めた。
瞬間、目をきつく閉じ口の中に広がるその命の味を身体全てで感じようとする。
秒針が動く。
夕日が動く、けれど未だその光はアパートの床を、少女の身体を照らしている。
口の前の赤色の手を少しずつ下げ、少女は服の上からお腹を撫でた。
撫でた。
慈しむように、愛するように、恋をして…。
早春の空が低かった日に私は彼に恋をした。
私たちは愛し合っていた。
歳も違えば、生まれた境遇も違う、立場も違った。
けれど、確かに私たちは互いを理解していた、愛していた。
あの桜の下で初めて出逢ったあの時から、私たちは惹かれ合い、そしていつしか恋をしていた。
ゴミの詰められた机、ヒステリックを起こす母、すれ違う人達の卑しい好奇の目。
最初から全てがうまく行くなど考えてはいなかった。
けれどあまりにも世界は私たちの想いに優しくなかった。
何度も折れそうになった、挫けそうになった。
けれど彼さえいれば耐えられた。
耐えて、耐えて、少しずつ進んでいった。
学校を辞めた、親とも縁を切られた、これまでの私の人生で積み重ねられてきた全てのモノを捨てた。
彼は仕事を辞めた、交友関係も断たれ、社会の信用を失い、希薄な私の何倍もあったであろう全てのモノを失った。
そして手に入れた。
この小さなボロボロのアパートの一室を。
動かすたびにけたたましい音を響かせるアルミの玄関扉、錆びついた、屋根も付いていない階段、けれど確かにある私と彼の、私たちの場所。
これが私たちの持つ全てで、私たちの望んだ全てだった。
私たちの当たり前であるべき幸せは一年と少し続く。
この時の全ては私の中にこれから先、褪せることなくあり続けるだろう。
高らかと叫ぶことのできる私の幸せ。
とても、幸せだった。
ただ二人の場所を望んだだけ。
けして責められるような事ではなかったはずだ。
罪などではなかったのだ。
なのに、なのに、
それは突然と終わった。
終わってしまった。
彼の病気。
癌だった。
もう手の施しようがない、末期の、癌。
余命は、半年。
彼はまだ若く、煙草も吸わなかった。お酒も元々あまり飲む方ではなかった、この生活になってからは、この先お金はいくらあっても足りないからと飲むこともやめていた。医者は睡眠不足や過労などの不摂生、また過度のストレスが原因ではないかと言っていた。過労?ストレス…?全てあいつらのせいだ。世間体と見栄だけの為に生きている、排他的で浅ましく、何を見ているかでなく何にどう見られているかにしか興味のない元親族達。自分の好奇心を満たす為なら何でもする、右に倣えでしか生きられない数だけなら虫のように掃いて捨てるほどいる卑しい町民達。
全てあいつらのせいだ。
憎い。
全てが憎い、彼以外の全ての人間が憎い。
どうして彼なんだ?
あの能面のような顔をしたあいつらじゃなくて、どうして彼なのだ?
憎い。憎い。
お前が憎い。
だけど、彼は、彼は違った。
受け入れようと言った。許そうと、言った。
彼は許すと言ったのだ。許す?あれだけのことをあなたにしたあんな奴らを許す?
あなたがこんな状況になったのはあいつらのせいなのに?
許せなかった。
許したくなかった。
けれど彼は私を慰め続けた、愛を持って諌め続けた。
だから私は、納得した。彼のために納得をした。
そして彼のいなくなった未来を想像して………絶望した…。
彼の靴がない玄関、一人分の食事、テレビだけが音を出す暗い部屋。
暗い水底へと落ちていく。
無理だ。無理だ、絶対に無理だ。
彼のいない未来など無理だ。
耐えられない。
彼がいない。いない。
無理だ、無理だ。
絶望が私の中に入ってくる。
なぜ私があいつらをあれ程の憎しみを持って許せなかったのか…。
私は恐れていたのだ、この気持ちが心を犯すのを。
この暗闇に、気付かないように、私は必死に、怒りの炎で心を燃やしていたのだ。
だが気付いてしまった。絶望に。
彼が残したなにかなどいらない。彼がいなければそんなものには意味がない。私には私を慰めてくれる彼の手や、共に歩んでくれる足が、笑いかけてくれるあの顔が必要だった。
だから私はここにいる。
赤く、小さなこの部屋に、血の滲むこの部屋にっ。
そしてかれもここにいる。
腹に、膣に、冷蔵庫に。
暗闇に沈んだ部屋の中で、私たちには希望が必要だった。
なんど世界に騙されようと、それでもすがって泣き喚くことしかできなかった。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
彼の腕の中で、あなたが必要だと、ずっとそばにいてくれと、泣き続けた。
優しい彼は駄々をこねる赤ん坊をあやすように私の頭を撫で続けた。
私を諭し、慰めて、そして一つの提案をした。
死が避けられないのなら、もう一度生まれるのはどうだろうかと。
あの桜の木の下で会った時、二人の胸の内で燃え盛る恋を感じたあの時、彼は自分たちの魂の存在を確信した。
彼は言った。
どこに自分の魂があるかわからない。
残された君の元に残れるよう、僕も必死に頑張るよ。
だから僕を集めて僕を作って欲しい。
そう言った。
この時私たちは狂っていた。
肥溜めのような世界に一人取り残される恐怖に、
そんな世界に私を置いて行く絶望に。
私たちは必要なものを揃えた。
ノコギリ、ノミ、カナヅチ、剪定バサミ、ブルーシート、いくつものタッパー、小さな中古の冷蔵庫。ナイフ。そして、妊娠検査薬。
ネットでものを買うやり方も教えてもらった。
その時がきたら外で買い物をすることも難しくなってしまうだろうから。
道具を揃えた。
全ての用意を終わらせた。
彼と二人、部屋に並んだ道具の数々を見て笑い合う、準備はできたと。
その日の夜私たちは交わった。
彼は私がせがんでも、私が大人になってからと頑なに断り続けていたので、やっと、やっとだと思った。
しかし初めての夜について語りたくない。
ただ一つ言えること、破瓜はほんと痛い。
あの泣き喚いた日から四ヶ月と十日。
彼はみるみるうちに衰弱していった。
一日が、一秒が、彼から魂を削り取っていく。
残された時間が少ない事を眼前に突きつけられ、私たちは毎日体を重ねた。
青い顔で気力を振り絞る彼。
残された時間に、震えるか細くなった彼の手に、涙が後から後からこぼれ出す。
きつい、やめてしまいたい。
彼のこんな姿を見たくない。今すぐ彼に抱きついて、もういいと、言ってしまいたい。
休んでいいと言ってしまいたい。
けれどそれはダメだ、残さなくてはならない。二人で生きなくてはならないのだ。
涙に濡れる、夜伽の日々。
陽性。
赤い線が浮かぶ。
遂に宿ったのだ、報われた。今までの夜が報われた。
繋がれた。
私のお腹に彼が宿り、彼の命が繋がった。
安堵と幸福に包まれて私たちは抱き合った。間に合った、ただその言葉が繰り返される。
雨降りしきる夜だった。
薄い屋根や壁の向こうから雨粒が強く打ち付けられるのを感じる。
絶える事なく響き続ける雨粒の連弾が彼の鼓動と重なり合う。
もう時間がない。今、彼の心臓はその力の全てを振り絞っている。
落ち着く彼の胸から顔を剥がし、静かに見上げ、見つめ合う。
どちらからともなく手を繋ぎ一歩一歩と歩きだす。
小さなアパートの一室だ、すぐに目的の場所にたどり着いた。
お風呂場。
深青色のタイルに覆われた小さなお風呂場。その冷たいタイルを前にして、二人は服を脱ぐ。
一枚一枚と脱いでいく。禊のようだと思った。
服を全て脱ぎ、生まれたままの姿になった私たちはお湯の貼られていない、乾いた浴槽へと足を入れる。
目を向けるのはお風呂場の隅、そこにあるこの場所には似つかわしくないモノ、そして一番必要なものを。
ナイフ。
握り手が黒の少し小さめのナイフ。
私でも扱えるようにと選んだナイフ。
それを掬い取るように手に収め、二人が並ぶにはやっとの大きさしかない浴槽に並んで立つ。
手の中のナイフが脈動している。
外の煩い雨の音が遠ざかっていく。
静謐。
その中にナイフの拍動だけが強く、強く、響いている。
これは誰の音だ。
私の心臓、彼の心臓。
違う。
部屋だ。
部屋の鼓動が聞こえてくる。優しい音。どんな時でも優しく私たちを包み込んでくれている。
彼の手が私の顔に伸びる。やつれてもなお大きなその手が私の顔を包み込み、大きな体を押し曲げ、私にキスをした。
私たちの間にもう言葉は必要ではなかった。
無限に続けばいいと思う刹那の中で私は静かに彼の胸に手を当てる。
下から一つ一つと骨を数えていく。その一本一本がひどく愛おしい。
彼の唇の熱を感じる。温度を介して彼と私の中身が少しずつ混ざっていくようだ。
6本目、7本目。
その間。痩せ衰えて大きく窪んだ骨の溝。
その骨の隙間はまるで彼の秘密の全てのようで……。
叩きつけるようにナイフを刺した。
命を繋ぐ紐を引きちぎる感触。彼の秘密を抉り出すかのように、奥へ奥へと進んでいく。
彼の喉元で水っぽい音がした後、重ねられた彼の唇から私の口内へ勢い良く液体が流れ込んでくる。
血だ。彼の血。
刺したナイフが肺に穴を開けたのだ。
後から後からとめどなく流れ出すその血を私は必死に吞み下す。
余りにも大量に溢れる血は、飲み干す速度を上回り、私の身体を伝わって栓のしまった浴槽にたまりだす。
それでもまだ奥へ、奥へと刺し込んで。
ぷつりと、何かを突き破った。
瞬間彼の足から力が抜けて私の身体にのしかかる。既にくるぶしに迫る程溜まっていたその血に滑り私たちは浴槽の中に倒れ込んだ。
後ろ頭をしたたかとぶつけ目の前に火花が飛んだ。
倒れた彼もどいてくれない。
痛みのせいで足をバタつかせ、溜まっていた血が弾ける。
涙を目尻に溜めて、彼に文句を言おうと顔を傾けた。
彼と目があった。虚ろな目と、目があった。死んでいる。もう動かない彼。
息が止まる。
一拍。
けれど次の瞬間私の口には笑みが浮かんだ。
赤く染まった歯を覗かせて笑った。
彼は私を見ながら死んだのだ、死ぬ瞬間の彼の目に映ったのは私。
痛みに歪んだ顔だったのは少し残念だけれど、それはなんとも贅沢なことだと思う。
既に事切れている彼の頭を優しく撫でて、優しく、されど強く彼の身体を抱きしめた。
身体中くまなく赤に染めて、私は誓う。
彼の血から立ち昇る湯気、むせ返るような鉄の匂い、そして私を包む彼の身体、全ての愛おしいあなたに誓う。
必ずあなたにまた出会うと、あなたの死に目は私のものになった。
だから、あなたの始めても手に入れてみせる。
待っていて、すぐに、すぐに、
あなたを産んで見せる。
私は誓う。
それからの数週間は酷く作業的な時間となった。
何故ならこの期間は彼の産まれるまでの中継ぎの時間でしかなかったからだ。
準備の時間。準備には思っていたよりも時間がかかった。
切って、剥いて、潰して、削いで。
タッパーに詰め、冷蔵庫に詰めて、一人でやるのはとても大変だった。
痛んでしまわないように部屋のエアコンは常に最低温度で回し続けた。
ここで語れることはほとんどない。
冷えきった部屋で被る彼と一緒に使っていた毛布がとても冷たかったこと。
身体中が筋肉痛になったこと。
そして、確かに私は全てをやりきったということだけだ。
茜さす部屋、台所に向かい包丁を握っている。
全ては終わりに近い。
お風呂場のあの日から既に一ヶ月以上がたっている。
冷蔵庫の中にはもう何も入っていない。彼の愛は少しずつ少しずつ私の腹に入っていった。
残っているのは私を優しく撫でてくれた人差し指と中指、そしていつまでも見守ってくれている右の目だけだ。
あと少しで……あと少しで……全てが終わ
「ピンポーン」
静寂。
間延びするような硬質な音が鳴った。
数秒何の音かわからなかった。
私と彼だけで満たされていた部屋に突如注がれた異質なモノ。
その音が玄関の扉の向こうから鳴っていたことに気づき、数瞬の後、それが玄関に備え付けられた呼出の音だと気づいた。
そして、それがおかしなことだということにも。
この家の家賃は彼が口座からの自動振り込みに設定しているので、大家が訪ねて来ることはない。
彼に教えてもらったインターネットを使った物の購入も、案外備蓄していたものでどうにかなっており、一度も使用していない。
だからこの音が鳴る筈がないのだ、これは確実なイレギュラー。
あと少しなのだ。あと少しで全てが終わるのに。
ドンッドンッ。
「すみませんっ!A県警のものですが、どなたかいらっしゃいませんか?」
包丁を強く握りしめ歯噛みする。
まただ。また世界が私たちの邪魔をしようとする。全てが、私たちの、邪魔をするッ!
目が充血する。視界に赤の帳が落とされる。
私の怒りが漏れでて、世界を、クソったれな世界を侵食する。
負けるものか、負けてやるものか!
いつも、いつも、いつもいつも、私たちがただ負けてべそをかき続けていると思うな!
最後にッ!笑うのは、私たちだッ!
沸騰しそうな頭を抱え、まな板の上の指を引っ掴む。
そのまま、その二本の指を大して咀嚼せず、呑み込んだ。
潤いを失い収縮している彼の指が、その骨が、爪が私の喉を傷つける。
今はこの痛みも心地良い。世界に抵抗した確かな傷痕に思えてならない。
いよいよドアを叩く音と警官の呼び声が大きくなる。
明らかな意志を持ってこの部屋を訪ねていることがわかる。
響き続ける扉を叩く音。
……鍵。
そういえば鍵は閉めていただろうか。
狭い部屋だ、ここからでもチェーンがかけられているのは見えている。
しかし、最後に部屋を出たのは数ヶ月と前だ。その上その時には恐らく彼が扉を閉めている。チェーンは確かに閉まっているが、鍵は……
ゆっくりとまな板の上の目を手で包む。
冷えきった白目が私に勇気を与える。血に跳ねる神経が今一度の一歩を私に促す。
扉へ向けて走る。鍵を閉めるのだ。腹を守れ。彼を守れ。彼を食べろ。彼とともに生きる為。
右手の目を口にかけ、噛み潰そうとする。想像よりずっと固い。
渾身の力をかけて潰すのだ。
鍵に手を伸ばし、回そうとして
扉が開いた。
いくら呼んでも返事のない扉。異臭の通報を受けて部下と二人で訪ねた部屋。メーターは回り続けている。触ると異様に冷たいドアノブ。強く握りしめ、回し、開けた。
不快な金属音を響かせチェーンが張り詰める。
赤。三つ目。少女。
落ち窪み赤々と充血した二つの目。吸えるだけの全ての血を吸った赤黒い畳。痩せ細り、立っているのがやっとに見える幽鬼のような少女。上下から赤に染まった歯で圧迫され楕円になったもの映さぬ目。細枝のような身体に残された最後の力を振り絞り、ニチニチと嫌な音を立て、歪み、潰れた。
ゲル状の何かが口の端を垂れる、口内に滑り落ちた目玉だった袋、嚥下する、音がよく響いた。
赤と黒の室内から手が伸び、叩きつけるようにドアを閉めた。
見られた。
言い訳のしようがない程、全てを見られてしまった。もう逃げようがない。
だけど、確かにやったッ。
遂に成し遂げた。
唇についた液体を指の腹でとり、口に押し込む。
これで全てだ。安堵で足の力が抜けそうだ。
ふらつき、目の前のドアに手をつく。しっかりとドアを繋ぎ止めているチェーンがジャラジャラと音を立てて揺れた。
感謝をしなければならない、この鎖に。
この部屋を最後まで守り続けてくれた、私を繋ぎ止めていてくれた。
けれどそれももうおしまいだ。警察にバレてしまったし、それになにより全てが終わったのだ。
この場所にとどまる理由はもうない。
彼との約束は果たした。今や膣の彼も、冷蔵庫の彼も、腹に収まり、ここにいる。
後は、無事に彼を育てるだけ…彼と生きていくだけだ。
準備は終わった、食事は終わった。
さぁ、行こう。振り返らず。
乾いた血がこびりついた手を、その鎖の紐へと伸ばす。
錆の浮いたチェーンを誇り高く、引きちぎるように撥ねとばした。
甲高い音と共に垂れ下がる鎖、ドアノブを握りしめる。
鎖の揺れる音が嫌に耳に残った。
暖かなドアノブから脈動を感じる。どくん、どくん、と常に変わらない速度で常にそこにあり続けてくれた。
いつも私に力をくれた。
大丈夫だ。私は一歩を踏み出せる。何処までも行ける。拍動が私を勇気づけている。
ドアノブを手が軋むほど強く握りしめ、開け放ち、外の世界へ踏み出した。
身を刺す冷気。
アパートの敷地内から伸びる低木が暗い紅に染まっていた。
重苦しい雲の合間から初冬の遠い空が覗き、こちらを睥睨している。
足元から駆け上ってくる冷気は、手すりの鉄錆や掃除の全くされていない廊下の埃を巻き上げ、私に淀を吸わせ続ける。
左右に並ぶ警官は尋常ではない警戒をその目に溜め、腰のホルスターへとその手を伸ばそうとしていた。
理解が……出来なかった。
怖かった。歯の根が合わず、カチカチと音を漏らし始める。
先程まで感じていた全能感はとうに消え、今はただ理解しきれない恐怖に身体を覆われていた。
わからない。震えが止まらない。
膝から力が抜け、廊下に無様に座り込む。
汚い何かに私の何かを潰されていくような恐怖、ただただ怖かった。
その恐怖から逃れようと、私の部屋に逃げようと振り返ったその時……私は理解した。
そこにあったのは暗い血に汚れ、赤黒く染まった廃墟のような部屋だった。
見ているものは同じだ。汚れていて、血の染み込んだボロボロのアパート、私の今まで見ていたものと同じ、汚い部屋。しかし、私のいた今までの部屋は暖かかった。温もりに、彼と私の温もりに溢れていた。
それが今や冷え切ってしまってた。
私たちを優しく包み、慈愛に満ちていた部屋はもうそこにはなかった。
私がちぎってしまったのだ。
脈打ち、赤い暖かな部屋はもうない。私自身がそことのつながりを絶ってしまった。
私たちの部屋は
温もりに満ちた部屋、私と彼の望んだこの部屋は腹だったのだ。
母の愛を受け取ったことのない私たちが作り上げた幻想の母の腹。
包まれ、愛され、私たちがいることを無条件に許してくれていた部屋。
だが、繋がりは絶たれた。絶ってしまった。
あの雨降る夜に、彼の胸にナイフを叩きつけたあの夜に、彼とこの部屋の繋がりを絶ったのだ。紐を引きちぎる感触は今でも手に染み付いている。
そして私はいま遂に私の紐も絶ってしまった。
錆びついたチェーン、鎖、だけどあれは…私のへその緒をだったのだ。
つまり……そうだ、
私は彼と私のへその緒を自らちぎり、自分で腹から出てしまったのだ。
故に訪れる寂寥感、大切なものを無くした空虚な寒さ。
それが私の今だった。
繋がりを無くした故に訪れる冷たい絶望は私に一つの事実を突きつける。
いや、最初からわかっていた。そんなことは小さな子供でも知っている。
それを見ないで足掻き続けた。見てしまったら私は壊れてしまうから。現に私は今、淀と澱に塗れた絶望に窒息しそうになっている。
それが怖かった。だから必死に目を背けてきた。暖かな母の腹はそんな私の目を覆い続けてくれた。
けれど終わりだ。見てしまった、気づいてしまった。
私の世界の全てを損なうには十分すぎる事実、認めたくない事実。
彼はもう死んでいて、二度と生き返ることはないということに。
濁流のように流れ込んでくる冷たい感情に身体が流されそうになる。
当たり前だ。私はこの数ヶ月ずっと彼との再開の為に生きてきた。頑張ってきた。
そして全てを終えた。成し遂げたのだと思った矢先、突然と、しかし最初から来ることが決まっていた絶望を一身に受けているのだ。
彼はもういない。帰ってこない。私の帰る家も、母ももういない。
いくつもの空疎な事実が私の生きる意味を奪っていく。
幸せを知ってしまった私があの無意味な日々に戻る事などできない。
私という形の入れ物から乾ききった砂のようなものが流れ出していく。
生きていけない。確信する。世界の全てが軽くなっていく。意味が滑り落ちていく。
私は死ぬだろう。自ら命を絶つだろう。
私は生きていく意味を失ってしまった。
だから、彼は遺したのだ。
彼のことだからこそ私はわかる。わかってしまう。
彼は絶望の中でも私に生きて欲しかったのだ。残された私のことなど御構い無しに。
生きていて欲しかったのは私も一緒なのに。その事にもきっと気づいていただろうに。
母も。
この部屋もきっとそうだ。
母の子供の私たち。
彼は死んでしまった。子供の一人が死んでしまった。だから私には生きていて欲しかったのだ。
そして母は理解していた。子供の意味を、その重さを。
子は鎹と言うが、それは命の鎹でもあるのだ。子は親と世界を繋ぐ命そのものだと、母は知ったのだ。
だから彼と母はこの子を遺したのだ。
私は死ねない。死ぬことができなくなってしまった。
彼と母が遺したモノ。
涙が止めどなく溢れてくる。両目から流れ出す涙はこけたほおを伝い地面へと落ち、汚い床に吸い込まれていく。
一体、乾ききったこの私のどこからこれ程の涙が出てくるのだろう。
私は生きていけるだろうか。
歩けば棒にあたり、身体からは砂と水がこぼれ落ちていく。
私が削り取られていく。
そんな世界を生きていけるのだろうか。
この子を育てることができるのだろうか。
幸せを見つけてくれるだろうか、私には彼がいた。
この子には?
わからない。何もわからない。
生きていくことができるかもわからない。
けれど、生きなくてはならない。
生きてこの子を幸せにしなくてはならないと思った。
それが私の責任で義務だと思った。
彼と母への感謝を伝える唯一の方法だと思った。
涙は流れ続け、喉の奥からは絶え間なく嗚咽が溢れ出す。
身体は小さく痙攣し、頭を地面に押し付ける。
二つの華奢で儚く太陽にかざすと透けるように白い、けれど確かにそこにある手は腹へと回され、強く、優しく何かを守るようにそこにある。
寒空の下、幼い少女は母となった。