夏の日、夢現に見た荒御魂
小学校に上がる前だったと思う。
お盆に母の実家へ帰省した。平屋の家は古く、炊事場と風呂場は屋根続きの母屋の外、トイレも同じく外にあって汲み取り式だった。細くうねった坂道を上がらないと辿り着けないのに、山を削った家の裏手は貝塚という、常に湿った空気に包まれた不思議な場所。
常に薄暗く、ひんやりとした空気の漂う家だった。部屋は多いのに使っているのは日の当たる半分、もう半分は物置きになっていて、布団を持ちに行く時しか入らなかったと記憶している。
ただ一度だけ、何故だかそこで寝た事があった。普段閉めっぱなしの部屋は広く、窓を開ければ裏山から吹き抜ける冷たい風でクーラーいらず、蚊取線香が灰の蜷局を巻けば蚊帳もいらぬと寝る準備は整った。
部屋の入口に母と生まれたばかりの妹、真ん中に弟を挟んで私は窓側の布団に入り電気が消される。おやすみ、おやすみなさい、おやすみ。就寝の挨拶をしたような、してないような、日頃の寝付きの悪さが嘘のように目蓋が落ちる。真っ暗な部屋に射し込む蒼い月明かり、ぼんやり滲む裏山は鬱蒼と繁る草に覆われ、風が吹く度に揺れて音を立てていた。
いつも使わない部屋に時計はなく、携帯も持っていなかった時代、ふと目を醒ましたのが何時なのか知る術はない。暗いから夜だろう、虫の声も聞こえないから朝には遠い、そう思いながらも明るさに気がつき半分ほど持ち上げた目蓋をぐっとこじ開けた。
月が出たのかな、今日は満月なのかな、寝惚ける頭はどこまでも平和に微睡んでいる。このまま、もう一度眠れば、そうすればきっと朝になっている筈だ。暗闇に対する恐怖は知らないふり、風の音と揺れる草を眺めていれば寝てしまうに違いない。くっきりと、はっきりと見える裏山、月明かりの照らすそこに……ぽっかり、口が空いていた。
昼間遊んだ時も、寝る前に見た時にもなかった孔があった。子どもの自分なら楽に潜れる大きさ、あんな孔があったかしら。首だけ起こして目を凝らす、暗闇しか見えないけれど深そうだと思った。
朝になったら聞いてみよう、お祖母ちゃんなら知ってるんじゃないかな。後の山にある孔はなんですか、って。暫く見てた、眠気の残滓を張り付けた頭は上手く回らず、かといって目蓋は閉じ方を忘れてしまい閉じられない。蒼白い世界の中に現れた大きな孔、真っ暗闇の奥には何も見えず、目を離せなくなって徐々に怖くなってきた。
―ザクッ―
地面が鳴った。草ごと土を踏みしめる音……足音がした。私が履いてる運動靴ではない、お祖母ちゃんが畑に行く時に履く長靴でもない、お父さんが余所行きに履く革の靴に近い音。運動会でやった行進、あんな風に足を地面に勢い良く降ろした時に似てる。一つじゃない、幾つも重なって、それなのに一つに聞こえる音だった。誰かいる、まだ夜の筈の家の裏山に……
咄嗟に見つかっちゃいけないと思ったのか、持ち上げていた頭を布団の上に落し目蓋を閉じたんだと思う、音だけの時間が頭の片隅に残っている。
幾重にも聞こえた足音は近くまで来て……ぴたりと止まった。
暫く動かずに、あわよくばそのまま寝てしまえないかと目蓋を閉じていた。けれど上手くいく訳もなく、そうっと、そうっと、目蓋を持ち上げる。何もいませんように、何も見えませんように。
今なら思う、歯を食い縛ってでも堪えるべきだった、目を開けてはいけなかったのだと。でも子どもには無理で、うっすら開いた視界には蒼白い月明かりに照らされた世界が広がっていた。
そよ風で揺れる草、山肌にぽっかり口を空けた孔、それだけ。何もいない、何も見えない、さっきと同じ景色に安堵して詰めていた息を吐き出す。さっきのは夢だったんだ、もしかして今も夢かな?
単純な子どもは急に元気になって網戸越しの景色を見つめた。朝になったら、あの孔に入ってみよう、秘密基地に憧れる年頃の興味を引くには充分過ぎたのだ。
―ザクッ―
足音。今度は一つだけ、すぐ側で聞こえた。夢じゃなかったと覚醒してしまった頭は後悔する、何故寝てしまわなかったんだろう、と。怖くなって半分閉じた目蓋、怖くて完全には閉じられなかった視界に動く何かが映り込む。
黒い、膝まである長靴のようなもの、その上にふっくら膨らんだ茶色い布……足だ。ゆっくりだけど確実に近寄って来る、布団に頬を付けた視界で確認出来るのは腰から下だけ。腰のベルトから上は見えない代わりに腰にぶら下がる長い棒のような物が見えた。
眼球は動くことを止め固定された視界の中、どんどん近くなる距離、もう膝の回りしか見えない……怖い、怖い。ああ、もう網戸に触れてしまう、そう思い震えた。真っ正面に来たところで足は動きを止める、月明かりが遮られたせいで視界が一段暗くなった。見つかってしまったんだ。
ぎゅっと目蓋を閉じた。そしてそこで意識はなくなっている。
次に起きたのは、母が持ち込んでいた目覚まし時計の音だった。太陽の色で淡い黄色に照らされる世界、煩いくらいの蝉の大合唱、青い草の匂いを辿って視線を動かした先にあるのは昨日と同じ裏山で……生い茂る草の向こうに孔はない。
「夢……だった……?」
と思うのも無理はない。釈然としないまま朝御飯を食べ、遊びに行くという弟たちを見送ると家には自分の祖母だけが残った。
止めておけば良いのに好奇心に負けて昨夜の出来事を話そうと口を開く、昨日ね変なことがあったんだよと。
「裏の山に孔が空いてるの」
孫の言葉を聞いた祖母は驚いて目を丸くした。手を引っ張って空いていた場所を指差せば、ぎゅっと強く手を握られ家に入ろうと背中を押された。玄関の前で両肩や背中をぽんぽんと叩かれ家に入ると仏壇に一直線、手を合わせる間も疑問符が浮かんでは消えていく、何か悪いことを言ってしまったのだろうか。
「もう何十年も前に塞いでいるし見える筈なんてないんだけど、あそこにはね……防空壕があるの」
防空壕とは、戦時中に降ってくる爆弾から逃げる為に掘った孔のこと。皆で作り、皆で空襲の度に逃げ込んでいた場所のこと。
軍人であった父方の祖父の膝で何度も聞いた戦時中の話に出て来たから知っていた、実物はあんなに大きな孔だったんだね。
「ここは高台で、見晴らしが良いからね。戦時中は兵隊さんたちが見張りをする場所だったの、爆弾を乗せた飛行機が来たら、此処から皆に知らせていたのよ。近くに海軍工廠というのがあって、そこ目掛けて爆弾が落とされるから必要だったと聞いたわ……お祖母ちゃんは良く覚えてないけれど」
母方の祖父母は子どもで終戦を迎え、父方の祖父母は戦時中を大人として生きた世代だった。場所が違えば晒される現実も違う、苦しみも悲しみもけして平等ではないのだと知った。
「見張り台があって兵隊さんが出入りしていることを知られてしまったみたいで、爆弾が落とされて沢山の兵隊さんが死んでしまった……何もない更地に残っていたのは防空壕だけだったそうよ」
粉々に砕け散った見張り台だったものを片付け、亡くなった方々を弔い血を洗い流し、防空壕は危ないから埋めた。今、自分が座っている下には戦争の爪痕が眠っている。生きたくても生きられなかった方々の無念が、苦しみ悶えながら死んでいった記憶が、流れた血と共に地面に染み込んで……
「……兵隊さんは、どんな服を着てるの……?」
過去形ではない問いかけに祖母はまた少し驚いていた。ちらちらと裏山を伺う孫の視線に何かを察し、少し考えてから一冊のアルバムを持って来てページを捲る、白と黒の写真が並ぶ中、指を指されたのは……予想通り、昨夜見た足。
「これ、茶色い?」
「そうだね、茶色だったかなぁ」
六人姉妹の末っ子の祖母、写真に写ってるのは一番上のお姉さんと旦那さんで、旦那さんは陸軍だったらしい。背筋をぴんと伸ばした気を付け、の姿勢。膝まである長靴、裾を押し込んだスボンは途中がふわっと膨らんでいる、白い手袋をした手が持っているのは棒でなく刀だ。
「じゃああれは、兵隊さんだったんだ」
足音の主は陸軍の兵隊さんで、きっと、ここで。近づいて来たのはどうしてなのか分からなかったけれど、もう見てはいけないと思った。一泊して帰る予定になっていて心底安心した、もし今日もあの部屋で寝るなら、窓を閉めカーテンを引かなきゃ眠れそうになかったから。
あの夏からもう二十年以上。祖母は還暦を待たずに病に倒れ、後を追うように祖父も他界した。名義人を母としたあの家は、壊そうにも重機は登れず、住むには不便過ぎて空き家になっている。鬱蒼と生い茂る草に囲まれ、伸び盛る竹藪に守られ、ひっそりと在る。
近所の人が空き家では危ないだろうと時おり様子を見に行ってくれていたが、いつからか玄関に辿り着けなくなってしまったと言う。
試しに登ってみた。なるほど納得という道を塞ぐ竹を掻い潜り、腰まで伸びた草を掻き分け見慣れた玄関を目指し進む。
声が聞こえた、何人かで会話をしている。和やかな声だと思った。
直後、目の前に太い竹があることに気づき足を止める、行く手を阻む竹や足に絡み付く草は行くなとばかりに道を塞いでいた。
少し考え、踵を返した。行ってはいけない、もう知っている場所ではなくなっているのだろう。確証などなく、非現実極まりないと思うでしょう?
寂しい、悲しい、でもこれでいい。
坂道を下りながら、言い表せない気持ちは涙と共に溢れ落ち、地面に染み込んだ。
【夏の日、夢現に見た荒御魂】
お読みいただきまして誠にありがとうございます。
軍服は茶色でなくカーキ色だったのでしょうか。父方の祖父は海軍であった為、モノクロ写真に色を付けられず、調べてみようと思います。