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無限とは「奇跡」の絶対的な存在証明である

作者: 言ノ葉

先にセメント牛乳で始まりも終わりもないのが箱庭の真実であることを頭に入れておいてほしい。


そしてこれから語るものは、0%と1%は違うと思える人の心にしか響かないだろう。

0%は何も起こらない。だが、たとえ1%であったとしてもそこに可能性があるのであれば。

その限りなく低い可能性を「奇跡」と定義するならば、理論上、奇跡は必然と言える。

奇跡は必ず起きる、ということだ。




最初に、箱庭の真実は始まりも終わりもないということを頭に入れておいて欲しいと言ったが、それは言い換えれば無限に続くということ。

箱庭=無限大の世界。と捉えてもらって構わない。


そして無限であるからこそ、ありえない超展開理論の存在を証明してしまう。

忘れないでほしいのは私たちを包み込んでいる「世界」や「宇宙」が全てではないということ。

宇宙の先にもまた別の世界があり、その別の世界の先にも世界はあり、この命題は無限に続く。

ゆえに、箱庭は始まりも終わりもなく、無限であるという事実だけを残す。


何故、始まりも終わりもないと言い切れるのかは最初に述べたとおり、セメント牛乳を見て欲しい。

それでも理解が追いつかないのであれば、私にそれを説明することはできない。

私は頭が悪いのだ。ついでに言葉足らずである。

分からないのであればこの文章を読む意味は皆無に等しい。


では本題に戻ろう。


1つ、問題を出す。

「自分と同じ、完全に同一な人物はいるかどうか」


答えは「いる」だ。


そんなことはありえない。と答えるのが一般的だろう。

ついでに言うと、今こうして文章を書いている私も違う世界で同じ文章を書いている。

そしてまた違う世界では今このタイミングで死んでいる。


私という存在は無限に続く可能性の世界の中で無限に存在する。


猿とシェイクスピアという話を知っているだろうか。

これは猿がタイプライターの鍵盤を無限に叩き続ければ、シェイクスピアの作品を打ち出すことも不可能ではない。ということだ。

「無限の猿定理」で調べてみれば色々な文献あり理解することはそう難しくないだろう。


私たち人間は、生物は細胞の塊だ。

もっと言えば粒子の集まりである。


箱庭が無限に続く限り、自分を構成する粒子の配列と似たような配列を持つ存在や

同一な配列を持った存在は、途方もなく低い確率であるが、いることになる。


もちろん、それは猿がシェイクスピアの作品を打ち出すよりも可能性は低いだろう。

猿がシェイクスピアを書き上げる時間は宇宙の寿命よりも長い。

可能性という膨大な時間は一つの世界の終わりすらも凌駕する。


無限とは、際限がない。

際限がないからこそ、0.1%であれ、そこに可能性がある限り

その可能性は必然と言える。

そして、箱庭世界の一部である1つの宇宙空間の1つの惑星である「地球」に住む私たちは、ありとあらゆる可能性を否定することは出来ない。否定する材料を持っていない。

つまり、この世界に存在するありとあらゆる事象・真理が起こす現象すべてにおいて0%を証明できない。


人が空を飛んだり、魔法を使える「かも」しれないのだ。

二択問題で片方を選ぶということは片方ではないということの証明だ。

そして、片方ではないと断言できない。ということはもう片方に可能性を与えている。


0がいくつついていようが最終的に1以上の可能性があれば

その1%は無限に続く箱庭世界のどこかで証明される。


ここで違和感を覚えた人がいるかもしれない。

それは間違いではない。

現状、私たちは魔法を使えるか使えないかに対して言えば、使えないと断言できる材料を持っていないだけだからだ。

つまり、魔法という分野に関しては使えないと言い切れる材料が揃ったとき、人が魔法をつかえる世界はこの箱庭上のどこにも存在しないということになる。

しかし、魔法は使えないと断言できるだけの材料を揃えなければ、使えるかもしれないという可能性を排除することはできない。


さらっと言ったが、魔法であれなんであれ、否定するだけの材料を持ち合わせるということは、箱庭の一部を掌握していることと同じだ。


セメント牛乳でも述べたように物事には理由というものがいやでもくっついてくる。

魔法が使えない。という事象を成立させるだけの理由を

自分自身の存在証明すら出来ない人間が果たしてできるだろうか。


分からない。


ただ一つ言えることは、分からないと答えを先延ばししている今も、使えるかもしれないifの世界は可能性を孕み続けているということだ。


そして、可能性を孕み続けている限り

無限大に続くこの箱庭世界でその可能性は必然になる。


AとBという二択で私はAではない。と言い切れるのであれば私はBになる。

Aであるとは言い切れないと言うのであれば、私はBである可能性が浮上する。

もちろんAの可能性だってある。


重要なのはどっちも「可能性」を孕んでいるということ。

そしてその可能性を孕んでいる限り、「無限に続く箱庭」では私はAにもBにもなれるのだ。

つまり事実だけ言えば、Aと言い切れないということはAでもBでもあるということ。


つまり、私たちの頭の中では1以上の可能性を孕み続ける限り

奇跡は絶対的なものとして証明される。

あくまで私たちの頭の中で、の話だ。



垂れ流し第二弾?です。

あくまで「垂れ流し」です。


作者の独り言です。

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