たね子のゆっくり談義
たね子の顔は如何にも日本人という顔である。
顔が日本人らしいからといって、着物を着て女らしくしていた昔の女性たちのようになろうと試みこともある。
だが、もともと女らしくないものはどう取り繕っても変えようがない。
たね子は、おばあちゃんのようにゆっくりして丁寧に生きていきたいと思っているが、それはこのせわしない時代においては不可能のことのように思われる。
どうしてこんなに変わってしまったのか、と考えると、世の中が変わってしまったのではないことに気づく。
おばあちゃんたちは若い頃はキビキビ動いたのであって、昔からずっとああいう風なのではない。ノロマはノロマである。どの時代だろうが置いて行かれるのである。
たね子は、やはりゆっくりしていることは良いことではない、と改めて思う。柔らかい雰囲気を醸し出すことはできても、実社会で生きていくためには、何でもぱっぱとやってしまうような器用さが不可欠だ。
物を売るのでもゆっくりやっていたら並んでるお客さんは苛々する。コピーもゆっくりやってたらいつまでたっても終わらない。ビラ配りもゆっくりやってたら誰も受け取らない。ゆっくり問題を解いていたら最後まで終わらないし不合格になってしまう。何についても遅いということは悪いことである。
それを分かっていて、なぜこんなにゆっくりしてしまうのだろうか、とたね子は自分でも疑問である。
たね子は、物事を始めるのも遅ければ、進めるのも遅い。
学校で先生が、明日やろうは馬鹿野郎、と言ってもたね子は結局明日やるのだ。
たね子は、しょっちゅう、家を出る数十分前にご飯を食べ出して、ほんの十分で食べてしまおうと考えて一時間かかる。
ご飯に無理は禁物、いや、身支度にも、準備にも無理は禁物なのである。そういう時、たね子はもう急がない。急いだって大して早くはないし、余計な忘れ物もすると知っているからだ。その上、遅刻は遅刻で十分も三十分も大差ないのである。
もしも二人きりでの約束ならたね子も多少は気にかけるが、それが楽しくもなく、居ても居なくても変わらないようなものの遅刻なら、もう何でも構わないような気がする。
お腹を空かして汗だく顔面蒼白で駆けつけても、恐らくおかしな目で見られて視線が痛いだけだ。そんなもののために、大事なご飯やお茶を飲む時間を失くしては、勿体無いし、損をした気になる。
しかし、そういう捻くれた考えかたをするから、たね子はいつまでたってもゆっくりしてしまうのだと、分かってはいる。
ゆっくりしたくても遅刻は良くないと思うなら、ゆっくりしてられるくらいの余裕を持って動けば良いのだが、中々そうもいかない。
ゆっくりする分早く起きれば良いとは思うのだが、そのためには早く寝なくてはならない。早く寝ると言ってもゆっくりしていたのでは遅く寝ることになってしまう。
何でもゆっくりゆっくりやっていると、少しずつ時間ずれていって、しかし、いつの間にかずれた時間が一回りして帰ってくることがある。時間に余裕が生まれるのはその時である。だが、滅多にそうちょうどよくはならない。何故なら、一周して帰ってきた時間は、また徐々にずれてゆき、やがて二週目に突入しようとするからだ。
ゆっくりするときに大事なのは愛情を持つことだ、とたね子は思う。
冷たくてゆっくりやっていたのならば、ただの何もならないものになってしまう気がする。
こういう風にされたら穏やかな気持ちでいられないだろう、と思うことはしたくないし、こうしたら気が楽だろうという、ことをしたい。
お手伝いもするし、ご飯もつくる。それなりに仕事をするし、勉強もする。でも、急がない。いや、急げない。
ゆっくりするのが好きだからこそ、だれかと一緒にゆっくりするのなら、その人には穏やかな気持ちでいてもらいたいものだ。妙な緊張感や張り詰めた空気を放っていたら、ゆっくり出来るものもできなくなる。
大らかで悪意のない心でいるということは、考えるに値するにことに違いない。せかせかしていたら、直ぐに苛々して誰かをせかしたり責めたりする。
そういう人は、別段急いでいない時でさえ、周りの空気を息苦しいものにしてしまう。
などとというのは全て、たね子にとっては、という話である。
恐らく、普通なら、あんまり遅いと使えないと言われて、直ぐに切り捨てられるのだろう。
結局、遅いことは良くないのだ。
実際のところ、たね子がいくら早く動いたところで、遅いことには変わりない。
いくらか早くなれば、人々の怒りのボルテージを下げることは出来るが、その分の消耗は後々激しい。アクセルを踏みすぎると、オーバーヒートして発熱したり、電源が落ちたりする。
しかし、アクセルを踏みっぱなしにしなければ、やっていけないのが現実だ。多少の無理は仕方のないものと割り切って、精一杯スピードを上げていく。
自分では新幹線のつもりでも、周りからみれば、停車しているか、のろのろ運転の各駅停車くらいにしか見えないのだろう、とたね子は思う。
たね子は、今日もたね子である。
はっさくの皮をゆっくりむきすぎて、むいている間にお腹がいっぱいになってしまったので、半分弟にあげた。弟は、美味しい、と言って喜んで食べた。はっさくをもりもり頬張る弟を見て、たね子は微笑んだ。
たね子は、自分の分を食べるのもゆっくりしすぎたので、弟が先に食べ終えてしまった。弟があんまり羨ましそうに見つめるので、たね子は残りのはっさくもあげた。弟は、ありがとう、と言って笑った。
それを見ていた母も笑った。