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星のあと  作者: VINE
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 木枯らしが吹いた。冷たい風が、三角座りをする一同の無防備な足を撫でつけながら通り抜けていく。先週よりも一段階上昇したかに感じられるその冷たさは、冬の到来を自然に告げていた。

 体育の授業で並んで座しているのは六年二組の面々だけではなく、一組も塊になって横にいた。合同授業だ。卒業が近いので、思い出作りの一環として企画されたのだが、先生の思惑など大半の生徒は感じとれず、ただなんとなく祭り事の雰囲気にわくわくしていた。

 授業はサッカーだった。一組と二組でペアをつくり、パス練習などを行ってから男女別に試合に移る流れだ。普段より生徒が多いので、早くも混戦の様相を呈していると思えた。

 先生が順繰りに指名し、ペアができていくなか、それまで隣のクラスを見て何やら数えていたらしい十吾が手を挙げた。「せんせー、おれ気分わるいから保健室いってきまーす」

「珍しいね」十吾が去ってから湊が言った。「彼が体調を崩すのは初めて見た」

「ああ……あれはたぶん」声をひそめて吉男が答える。「仮病だと思うよ」

「どうしてまた」

 怪訝というよりは案じているような湊の顔を見て、吉男は逡巡を解いた。

「まあ、湊くんなら話しても大丈夫かな。ただ話すと長いから、あとで試合中に集まろう」

 心に余裕ができた、というほどでもないが、一時期に比べて視野が広くなった吉男は、多少なら他人に気をかけることができるようになっていた。住処の出来事を大事に思うようになってから、湊たちへの仲間意識もより増してきていた。

 試合がはじまり、落ちあうと吉男は話しはじめた。

 三年生の頃、吉男と十吾は同じクラスだった。今ほどよく話すわけではなく、すぐ腕力に物を言わせ威張り散らす、餓鬼大将然とした十吾がむしろ吉男は嫌いでもあった。

 とりわけ十吾と仲が良かったのは竹井という男子で、二人はよくつるんで悪さをしていた。気が合い、宿題を忘れて先生に叱られるときでさえいつも一緒だった。

 運動会を過ぎたある日、教室に長い紐が落ちていた。綱引き練習用、というより段取りを確認するためのもので、それほど太くも頑丈でもない。だがなぜか面白がって、数人の男子が教室の後ろで遊びはじめた。吉男は参加せず席から眺めていたが、十吾と竹井は混ざっていた。

 一対一で引っ張り合いをし、こけた方が負けという単純なルールだったが、決着のたびにげらげら笑った。結果は十吾が圧倒的な強さで全勝。しかしまだ本気を出しきっておらず、力を持て余していたので、それならと、一人の男子が一対三を提案した。得意になっていた十吾は受けて立ち、勝負がはじまった。

 開始してすぐ、さすがに分が悪く十吾は前につんのめった。だがあわやというところで踏ん張り、ぐっと体重を掛けながら後ろに思い切り紐を引いた。加減をやめ、全力を出すことに喜びを感じていた。急激な力の流動に三人が体勢を崩し、ふっと紐が軽くなったとき、十吾は笑みすらこぼした。

 先頭にいた竹井が、勢い余って机の角で強打した。激しい音を立てて机や椅子が倒れた。床に転がり、呻き声を上げる竹井の目の上から鮮血が噴き出した。女子が悲鳴をあげる。傷口に触れた竹井の手にはべったり血がついており、横にもたげた顔の半分がみるみるうち真っ赤に染まっていった。誰かが先生を呼んでくるまで、遊んでいた男子たちは教室の隅で怯え、震えていた。立ち尽くす十吾の手から、ずるりと紐が垂れ落ちた。

「それから十吾くんが暴力を振るうことはなくなった。それどころか、人前で重いものを運んだりするのさえしなくなっちゃった。めんどくさいとか言ってさ」

 吉男は物憂げな顔をした。「けっきょく、血は多かったけど大した怪我じゃなかったんだ。何針か縫ったけどね。命に関わるものじゃない……だからと言って良いわけじゃないけどさ。でも、問題はそれからで」

「というと?」

 最後まできちんと聞こうと湊は思った。三年前の出来事であり、隣りのクラスの事件は薄ぼんやりとした記憶しかなかったが、当人たちにとっては必ずしもそうではない。

「竹井くんと十吾くんが一つも話さなくなっちゃったんだ。あんなに仲が良かったのに」

 翳りのある声で吉男が続ける。

「そりゃ、怪我もしてるし良くないことだよ。でも十吾くんだけが悪いわけじゃないし、それは竹井くんもわかってると思う。だけど、どうにも気まずいんだろうなあ」

「さっきの仮病は、じゃあ」

「竹井くんと組まされるってわかったからだと思う」吉男はドリブルする竹井を遠い目で見た。「彼、すっかり元気なのにね」

 十吾が保健室に行ったとき、竹井はどう思っただろう。安心したのか。それとも。湊は想像ができなかった。

「十吾くん、まだ謝れていないんじゃないかなあ……」

 次の授業で戻ってきた十吾は、吉男にちょっかいを出し続けた。なぜこんなことをするのか、吉男は以前から疑問だったがようやくわかった。気を紛らわせたかったのだ。

 退屈な時間、暇な時間ができてしまうと、事件のことを考えてしまう。だからいつも楽しいことを探した。夢中になっているうちは、何も考えずに済むからだ。ムトに出会ってから近頃は薄れていたのに、保健室で寝転んでいる間、嫌な記憶が何度もよぎった。

 家が工務店であり、現場に入ったことこそないが、父親の手伝いで資材をトラックに積むなどの作業を小さい頃からやってきた十吾は、自然、筋肉が発達し、体格にも恵まれていた。気に入らないことがあると腕っ節で解決してきたところさえあったが、事件以後は自身の力そのものを疎ましく思うようになっていった。不用意に力を使えば碌なことにならない。だから使わない。ならば、力がある意味なんてない。しかし周囲には力自慢であると思われている。封印していることが露見すればつけ込む奴が現れるので、自分から隠しているところもあるが、頭を悩ませる一切が煩わしい。こんなもの要らない。持ちたくない。この大きな身体だって、何のためにあるのか。

 十吾は考えることをやめた。わからなくとも、考えているよりはずっといい。こういう時は何か楽しいことをするのに限る。今日もまた、ムトのところへ行くのだ。


 住処でムトと話しているとき、吉男がナップサックから漢字ドリルを出した。

「おいよしお、何してんだよ」十吾が近寄ってくる。「そんなの持ってきて」

「宿題だよ」吉男はちょっと嫌そうな顔をした。「ここに来るたび未確認ノートに書くことが増えるから、時間なくて大変なんだよね」

「今日は宿題多いからなあ」湊が言った。「僕は帰ったらやる」

「湊くんは早いもの」

 ふと見回せばゆかりも早そうで、しかし十吾は、と。吉男はため息を吐いた。

「おい、なんだよ」不満げに驚いてみせる十吾。「やらないと思ってるだろ」

「うん」

「おいおいなめんなよ。おれには他のやつに写させてもらうっていう奥の手があるんだからな」

「いつもやってるじゃないか」

 また吉男がため息を吐くと、ゆかりも呆れたようにゆっくりかぶりを振った。

「嘆かわしいわね。宿題の意味がないわ」

「うるせえな。わかんねえんだからしょうがねえだろ」

 これで話は終わりだというふうに、十吾がそっぽを向いた。

 わからないから仕方がないなんて、それでいいはずない。そんなものは逃げだ、とゆかりは思った。真実は明らかにしなければ。それも自分の手で。ただし、湊に直接関わるのは控えようと決めていた。下手に関わったところで、心がひどくかき乱されるだけだと思ったからだ。もう少し概要を掴んでからでも切り込むのは遅くない。あくまで冷静に事を運び、正確に見極めるのだ。ゆかりは意思を強固にするため、心中で上塗りを繰り返した。

「宿題とは、なんだ?」ムトがドリルを俯瞰しながら、首を傾げた。

 気を取り直し、ゆかりが答える。「学校でやっている勉強を家でもやるようにと、先生から出される課題のことよ。次の日に提出して、やってきたかをチェックするの」

 ゆかりはけっこうムトが好きだった。目的意識がはっきりしているし、それに向かってぶれずに邁進しているからだ。物の価値観や尺度が違うという点はむしろ話しやすかった。

「ほう。ということは、これが君達がいつも勉強しているものなのか」

 吉男が悪戦苦闘しながら漢字を埋めていく様を、ムトはじっと眺めた。鉛筆が走り、文字が形つくられ、誤りを消しゴムが消す。相変わらずムトは表情がないが、つくづくと見ている姿が気になり湊がたずねた。「ひょっとして興味あるのかい?」

 視線を外さずムトが言う。「我々には文字という文化が無いので、そうだな興味がある。物珍しいとも言うのかもしれないが」

「あ、だったら」ぱっと思いついて湊が提案した。「文字、教えようか?」

 ムトが湊を見る。「いいのか?」

「うん、いいよ。ムトにはいつも色んな話をしてもらったりして世話になってるし、お返しがしたいと思ってたんだ」

「話をすることで私が何か代償を払うということは無い。故に世話をしたつもりもなければ礼を言われる理由も無い」

「ムトにはなくてもこっちは助かってるんだよ。だから、まあ、無理にとは言わないけど」

「しかし」

「ふふ」吉男が笑って二人を仰ぎ見た。だが、湊としてはいまいち心当たりがない。「どうかしたの?」

「いや、なんていうか」吉男はまだくつくつ笑っている。「宇宙人同士が気をつかいあってるのが、なんだかおかしくて」

 そういえばムトは宇宙人だった。そしてムトからすれば自分たちもそうなのだ。最初から気は遣っていたが、種類が違ってきている。いつしか人間と話すのと同じように、対等に会話していた。種族の違いに優劣はない。ゆえに当然のことなのだが、確かにあらためて言われると、変なおかしさがある。気恥ずかしさに近いものを感じ、湊は優しく微笑した。「ほんとだね」

 ムトは吉男と湊の話がよくわからないらしく首を捻っている。「どういうことだ?」

「いいんだよ細かいことは」十吾がうれしそうにムトの肩に手を置いた。「もうおれらに気をつかわなくていいってことだ。その代わり、おれらもムトには遠慮しねえ。そんでいいんだよ」

 まだ少し納得がいかない部分もありそうだが、勢い込む十吾に押されたのか、やがてムトは折れた。

「わかった。では、文字を教えてほしい」

「おう、まかせとけ。だいたいそれならおれにもできるんだからな」十吾はどんと自身の胸を叩いた。「みなと、なんか紙と書くもん貸してくれよ」

「いいよ」メモ帳から一枚ちぎってペンと共に十吾に渡した。「吉男くん、とりあえず五十音順に平仮名を書こうと思うんだけど、このメモじゃ幅が足りないんだ。それで悪いんだけど、ノートから一枚貰えないかな」

「もちろん」吉男は二つ返事で未確認ノートの真っ白なページを破りとった。「ごめんね。まだ宿題終わらなくて」

「かまわないさ。ゆっくりやりなよ」そう言って湊は紙に書き連ねていった。

「よし、いいか。これが『あ』だ」向こうでは十吾がさっそく授業をはじめている。「ほら、書いてみろよ」

 十吾からペンを受け取ったムトは、しかしすぐには書きはじめず、湊の方を覗いて言った。「ジュウゴのものとは随分形が違うようだが」

 見ると、線は細いが湊の字は乱れなく綺麗にまとまっており、対して十吾の字はがさつで均整が取れていない。十吾が顔を赤くした。「ムトおめー、おれの字がきたないってのか」

「そうではない。しかし、随分違う」ムトが両者の字を指差す。「本当に同じ字か?」

 そんなつもりはないだろうが、ムトの無礼な言い方に、湊も吉男もつい吹き出してしまう。「ちょっと、ムトったら」

「ばか、書くやつによって味が出てくるからこれでいいんだよ。ほら、いいから早く書いてみろって」わざと怒りっぽく言って、十吾はムトを促した。

 ペンの持ち方もままならないムトが書いた字は、かなり歪だった。印刷した字のような正確極まりないものを想像していた湊は意外に思ったが、より親近感はわいた。

「なんだよ、おめえも下手くそじゃねえか」と十吾が手の甲でムトをぐいと押した。

「でも十吾くんよりはましだよ」吉男が見比べて言った。

「そうだね。字として成立してる」湊もしげしげと眺めて同意する。

「おいみなと、おめーあんがい言いやがるな」

 話の流れは分からないが、三人が笑いあうのを、ムトは微笑ましく見ていた。しかしゆかりだけは、輪に入れないでいた。入りたい気持ちもないではない。字なら自分にだって教えられる。そう切り出せば。だが、どうにもできなかった。心を許すのが嫌だった、というより、心を許したと思われるのが嫌だったのだ。


「道は全て黄色だった。目に痛いほど濃厚な黄色だ。とてつもない広さの道幅に細かな区切りが入った地面はしっとりとしていて、硬くはない。一定以上の弾力があった。時々、柱に羽根のついた房のようなものが立っており、風でばらける糸の束に触れるとちくちくした。だが傷が付くほどではなく柔らかみがある。空は澄み、何者にも縛られない開放的な空が拡がっている。だが、生き物は見当たらない。ただ時折、びゅうと風が吹き、房が無言で揺れる。何もいないのだ。そして雲が道と同じ色をしている。蒼空に映えるには映えるが似つかわしくない鮮黄色だ。私は、雲から霧が散布されていることに気付いた。最初は風で揺蕩っているものかと思ったがそうではない。噴射に近い形でばら撒かれている。そしてあの霧のために、この道は変色してしまったのだろう。強い毒だった。大抵の生物に死をもたらすであろうと見て取れた」

 鮮やかな色の物ほど危ないという話を湊は思い出した。あれは確か、毒キノコのことだ。たとえ山中で迷って空腹に襲われても、不用意に手を出すべきではない。でも、追い詰められれば正常な判断は難しいのかもしれない。色のことを考えた。黒や青は暗い。赤や黄色は明るい。イメージはきっと生活の中で構築されてきたものだ。けれど、実態と外面はまるで関係がない。なんとなく、気をつけようと思った。

 また今度、と言ったムトは頃合いを見て旅の話をしてくれるようになった。むろん続けざまにというわけではないが、もしかしたらこのまま二度と聞く機会が訪れないんじゃないかとも思っていた一同は、ムトが約束を守ってほっとした。ムトは義理堅いところがある。いい加減な発言ばかりしている十吾は、ちょっと身につまされる思いもした。

「幸い私には無害だったが、かつて地上にいた生物は皆、あの雲によって死滅したのではないか、と私は想像した。だとすれば、瞑想に不向きな星だと言えた。生命の鼓動を感じながらでなければ捗らない。だが、たった一つ思いつきの仮説のみで星の全てを推し量る事など到底できず、可能性があるならやめる訳にはいかなかった。少なくとも数年は歩き続けなければ、正しく見切りを付けることすら適わない。私は、だだっ広く平坦な道を再び進んだ」

 やっぱりそうなんだ。ムトだって迷うことはある。でも、一人で考え、答えを探してきた。それも短絡的な思考に囚われず、長期的な視野を持ってして判断している。あたしも見習おう、とゆかりは思った。話の規模は比較にならないだろうけど、悩んだ時の対処は参考になる。多少の時間は掛かっても、自分なら一人で答えを導き出せるはず。ますますゆかりは気持ちを硬化させた。

「時には真っ直ぐ歩くのをやめ、横に進んでもみたが、行けども段だら模様の道は様変わりせず、途上であることを思い知らされるばかりだった。元向かっていた方角へ直った私は、どうにか場所ごとの違いを見出し、なるべく瞑想に適した環境を探すよう努めたが、その作業は困難を極めた。もはや、自分自身をこの星へ合わせる為の体質改善を目指した方が得策かと思われた。

 そんな時、地面が揺れた。道そのものが蛇の如くうねり、上下に大きく波打った。身体の釣り合いが取れず、振り落とされかねないと思った私は、道の窪んだ縞部分にしがみつき、揺れが収まるのを待った。

揺れは何日も続き、終わった時に道は歪んだままだった。何らかの異変があったようだが、詳細は分からない。私はまた歩きだした。極端な勾配をひたすら上っては下る繰り返しだ。おまけに道はねじくれており、慣れるまで非常に難儀した。僅かな段を取っ掛かり足らしめるべく、時には形態変化を用い、湾曲した道をどうにか前進した。

 ある日とうとう、水平な場所に辿り着いた。彼方にうねりが見えるので、ここら一帯だけだろうと思われた。異変の鍵が近くにあると考え近辺を探っていると、後方で音が鳴った気がした。振り返る間もなく、私は地面に喰われた。視界が暗黒に覆われる最中、大口に飲み込まれるのが分かった。大地が変形して襲いかかってきたに相違なかった。

 しばらく何者かの喉に当たるであろう部分を緩やかに転がり落ちた。涎や粘液などはなく、乾燥していた。今まで歩いていた外の道と同じ感触がしており、衝撃は緩和された。だが色は違っていて、とても淡く薄い紫だ。地球の基準で言えばあまり気持ちのいい色とは言えないのかもしれないが、濃い黄色ばかりを見続けていた私にとっては、むしろ穏やかな色のように思えた。そこまで考え、ふとそれほど暗くないことに気が付いた。どころか進むごとに仄明るくなっていく。開けた場所に出た時、光がはじけた。今まで通ってきた食道も相当の広さがあったはずだが、それすら竹筒か何かと思わせるほど茫洋たる空間がそこにあった。あちこちに細い管が通り、綿毛のようなふわふわしたものが点々と浮遊している。本当に体内らしく、全容がつかめないほど巨大な脈打つ器官が下方に見える。時たま低い音が、何処ともなく轟いた。

 現在地の確認をした。私はどうやら壁に面した輪状の通路におり、、真上を向けば壁面に私が出てきた食道に通ずるであろう穴がある。よじ登るのは骨が折れそうだった。壁面とはいえ胎動しており、小刻みに揺れていたからだ。触れてみると滑りがあったためでもある。私はひとまず下に向かうことにした。通路の途切れ目から降りられる場合もあれば、無作為に壁から突き出た肉の足場めがけて跳躍しなければいけない時もあった。着地の際に滑落する危険を考え、身体を扁平形に引き伸ばし、足場を包み込むようにして降りた。棘を全身に発現させ、突き刺すように着地した方がより安全だったかもしれないが、壁と同じく蠢く足場は臓器の一部と思われ、傷つけてはいけない気がしたのだ。いつの間にか、この空間に対して生き物という意識が根付いてきていた。

 あと数段であの鼓動を鳴らす器官、というところまで来たが、それが目的ではない。瞑想できる感覚がした。ちょうど床や壁に凹みが多発している地帯に居たので、そのうち一つの小部屋を住処として瞑想を試みると、案の定、すっと星の大気を感じられた。空のある外よりも、壁のあるここの方が居心地が良い。

 もくもくと自己の内側に入りながら、様々なことを考えた。ここが広々としているからこそ、壁があるのが却って包容力を生んでいるのかもしれない。私を喰ったのは捕食の為だろうか。それにしてはその後の対応が曖昧だ。消化液があるようでもないし、栄養素を吸い取っている様子もない。平たく言えば喰った目的が分からない。しかし考える時間はあったので、私はひとまず、そこかしこに浮いているあの綿雲を観察してみることにした。浮遊しているだけに見え、これもまた機能のよく分からないものだったからだ。

 じっと見ていてわかったのは、綿雲のどれもが、驚くほど動きが緩慢であり、何日か目を離してもほとんど位置が変わっていないことだった。だが一応は移動しているらしく、右に行く者と左に行く者がいる。派手な行動はしないようなので近距離で更につぶさに観察していると、綿の真ん中辺りに小石のようなものが付着しているのを発見できた。右に行く者には無く、左に行く者にのみ付いている。発生の元を辿るため右方向にしばらく行ってみると、壁に無数の穴が開いている場所があり、そこから転がってくるらしかった。触れてみると一瞬にして砕け、粉末と化した。相当に脆く、私の力加減ではどうあっても持ち上げることすらかなわない。あの見るからに柔らかそうな綿雲たちにのみできる芸当だと思えた。

 今度はずっと左に行ってみた。すると、奥の区画には一回り小さい綿雲が浮いており、大きな綿雲から小石を渡されているようだった。その小石は削られ縮み、最後には無くなる。最初はいまいち何をしているか分からなかったが、ある日私は悟った。これは子育てだ。親が子に食物を運んでいるのだ。なんということだろう。綿雲はそれぞれが自律した生物であり、独立した思考を持っていたのだ。私がこの事実に気付いたのは体内に入って何年もしてからだった。かつては地上にいたのかもしれないが、あの毒の雲のために住まいを移したのだろう。ここは巨大生物の体内であり、この星の大地そのものだ。あの小石は排泄物であり、綿雲たちはそれを食物に、子育てしながら分解している。共生しているのだ。だとすれば私も餌扱いされたわけではなさそうである。毒の雲から匿う代わりに分解の一助になれということなのだろう。だが生憎、小石すら持てない私には期待に添えそうにない。それでも彼らのことをもっと知りたいと思った。すっかり気に入ってしまっていたのだ。

 もと居た小部屋で瞑想を続けながら、毎日彼らを眺めた。まともに会話できるようになるまで数年を要した。綿毛の特定の一本をそびやかせたり曲げたりするその角度や早さによって彼らは会話をする。最初は形態変化で同じ綿毛を再現することすら困難だったが、観察と訓練により、最終的には小石こそ持てないにせよ何とか形になった。あの揺れは何百年かに一度起こる寝返りらしい。なんとも壮大な話だ。

 彼らからすれば片言だろうし、分解もしない私はさぞおかしな生き物に映っただろうに、邪魔者扱いはされなかった。複雑な感情を有していないからとも言えるが、何物をも差し挟む余地のないほど親と子が互いのことしか考えていないそれは慈愛の塊であり、他者を排するという発想が根本から無いのかもしれなかった。いつか子が成長し、親になっても変わらない。いつまでも慈しみあい、互いを大事に思いあうのだ。

 数十年経ち、星を去るとき、住処近くの雲のうち何体かが私を見ていた。挨拶のつもりだろうかと思い、私は何だか嬉しくなり、上に向かう途中で時々下を見ては、小石を運ぶ姿を振り返った」

 帰り道、十字路で口ぐちに感想を言った。

「さすがに食われたときはしんだと思ったぜ」十吾がおどけて言う。「でも、中があんなふうになってるなんてなあ」

「壁はぬるぬるして気持ち悪かったけど、あの綿雲は可愛かったわ」

 この時ばかりはゆかりも気兼ねなく話せた。高揚に足る映像の後だから、などという意識はさすがになかった。「純粋な親子愛という感じで良かった」

「よく出来た仕組みだったよね。毒雲から綿雲は守られている。その代わり出した余計なものを処分している。しかもそれが食べ物にもなるんだから」湊は感心しつつも、独自の理論をすすめる。「地上に生物がいないのなら、大気中の塵や砂が餌になるのかもしれない。だとしたら、あの何本も立ってた房で摂取しているのかなあ」

 皆の話を聞きながら吉男は考えた。自分にとって大事なものは何だろうかと。綿雲を見て思ったのだ。湊くんも上条さんもきっと持っている。大事にしてる気持ちがある。十吾くんはまあ、わからないけど、本当はそんなに単純じゃないはずだ。じゃあ自分は何だろうか、と。直面している問題は解決していないし、別のことに心を砕く余裕なんてないのかもしれないけれど、見つけなきゃいけない気がする。

 住処のことを大事に思うのはある。でも他にも、ずっとずっと強い気持ちがある予感がしていた。それが何かは考えてもわからない。わからないことだらけだ。いつか気付く時が来るのだろうか。ぼくはその時、どうするんだろう。

 考えることがどんどん増え、複雑になっていくような気がした。


 研究は進んでいた。形態変化の性質を記録したり、ムトの記憶を旅したり、互いの生活や世界についてよく語り合った。知識に対して貪欲だというのもあるが、自分が持っている図鑑や教科書などの書物、あるいは口頭の解説によって伝えられる情報をムトが欲してくれているのは、湊にとっても喜ばしいことだった。

 ただ、時々ムトの気持ちが分からない時がある。記憶の映像を見て、こちらは楽しくも寂しいような感覚になったり起伏があるが、ムトはどうなんだろうか。けれどそれは人間相手でも同じだ。たとえば過去にあった事件に対し、現在の十吾くんがどう考えているのか分からない。上条さんの仕事が多い時に手伝うべきか悩むことは未だにあるし、吉男くんだってこの前授業に遅れてきたあれは何かあったのかもしれない。

 その辺りで悩むようになったのは、主にムトの研究を始めて、ムトの感情を追うようになってからだ。ムトが無表情でしかも淡々と話すので、実際のところ、本当の気持ちを計りかねるときがあるのだ。いかに自分が、今まで顔や語り口だけで感情を推察してきたかがよく分かった。けれど肝心の感情は掴みきれない。本を読めば知識は蓄えられる。でも、それ以外の部分は考えないと分かり得ないことで、それこそが真に知らなければいけないことなのではないだろうか。あるいは僕が鈍いのかもしれない。考えて答えが出るものではないのかもしれない。だとしても、人の気持ちが分からなくても、せめて人の痛みを分かる人間でいたいと思う。分かりたいと思っていたい。

 僕に何かできることはないのだろうか。色々考えたが、直接的な解決には繋がらないにせよ、今の自分が役立ちそうなのはムトについての研究を進めることだ。ムトも含めてみんながそれで楽しんでくれれば、気分が上昇して抱えている問題への活力に変わる可能性はある。僕が考えはじめたようにみんなにも、なんておこがましいことかもしれないけれど、悪い事態は好転してくれればと思う。

 メモ帳を使い切った。文字を教えることもあるし、今度はもう少し上等で幅広の手帳タイプにしよう。

湊は文房具屋に寄っている間、吉男たちには先に行ってもらうことにした。すぐ選ぶつもりだったが、用途や汎用性の微妙な違いと、種類の意外な豊富さに迷いはじめた。

 ところが吉男たち三人がビルへ入ろうとすると、野太い声に呼び止められた。

「ちょっとあんたら、何してるんじゃ」

 恰幅のいい老人だった。背はそれほどでもないが、見るからに筋肉質で威圧感がある。がっしりした肩に、胸板が厚いのが服の上からでもわかるほどだ。杖はついているが、まだまだ若々しい。

 老人が咎めるように言った。「探検ごっこも結構じゃが、こんなところに子供だけで危ないじゃろう。帰りなさい」

 今まで気をつけていたつもりだったが、とうとう大人に注意されてしまった。最悪の場合、親や学校にも知られてしまう。そうなればもう、ここには来られないかもしれない。どうしよう、と三人は焦った。湊が来る様子はない。

 吉男は早くも体格の良い老人に圧倒されつつあり、下手に怒りを買って杖を振り上げられたらどうしようという妄想すらしていた。十吾は上手な言い訳が思いつかず、とりあえず苦笑いで取りなそうとするもうまくいかない。まごつく一同を不審な目で見て、老人が手を払い促した。「さあ、暗くならないうちに帰りなさい」

 自分がどうにかしなければ、とゆかりは思った。一歩前に出ながら、クラス委員としてではない、ただの使命感に駆られていた。保身や体裁などの細々した一切は考えていない。話し出す瞬間においても言うべき言葉は持っていなかった。

「違うんです。おじいさん」

「何が違うんじゃ」

 苦しまぎれの訴えなど即座に棄却すると決めたような面持ちで老人はゆかりを睨んだ。怯みそうになる心をゆかりは必死に抑えた。

「あたしたち、ここに用があるんです」

「用? こんなぼろっちいビルにあんたらみたいな子供が何の用があるんじゃ。さっきも言ったが探検ごっこは他所でやりなさい」

「いいえ。大事な用ですわ」

 何か一つ、何か一つこの場を切り抜けられるものをと、ゆかりは振り返りビルを仰ぎ見た。ほとんど賭けだったがゆえに疑われている前提は微かに気を楽にしたが、切迫した状況はそれを許さない。無味乾燥とした外観から唯一色づく看板が飛び込んできた時、胸がざわついた。

「あたしたち、英会話教室に通っていますの」

「英会話じゃと」

 老人の表情が少し和らいだが、追求は止まらない。

「こんなところに英会話教室があるのか」

「ええ。確かに見栄えは良くないですけれど」

 先ほどより軟化した老人を見て生まれた僅かな余裕を持って、ゆかりは自嘲気味に笑ってみせた。

「こんな田舎ですから、贅沢は言ってられません。あたしたち、中学を受験するんです」

「ほう。受験とな」

 目を丸くした老人に気取られぬよう、ゆかりはさりげなく十吾を視界に入れないよう身体をずらした。吉男はまだ真面目な学生として通用するが、という判断だ。

 再びじいっとゆかりの瞳に探りを入れてから、老人が言った。

「そうか。若いのに偉いことだ。疑ってすまんかった。精進なさい」

 老人が去ってからゆかりは大きく息を吐き、胸に手を当てた。緊張感はなかなか抜けず、しばらく早鐘を打っていた。そういえば矢田くんはともかく、自分と山野くんは手ぶらだ。よくもまあ通じてくれたものだ。あるいは余りにも真剣な目つきだったから、騙されてくれたのだろうか。

 吉男が駆け寄ってきた。

「すごいね上条さん。ありがとう。ぼく、もうだめかと思ったよ」

 泣き笑いに近い顔で安堵と謝辞を告げる吉男。ゆかりは驚いてしまった。いや、流れからすれば礼を言われるのは当然かもしれないが、そんなことは全く意識していなかったのだ。自分はただ必死で、がむしゃらにやっただけだ。急に面映ゆい気持ちが湧いてきて、喋りにくい。

「ど、どういたしまして」

 でも悪い気分じゃなかった。むしろ身を委ねるべき心地良さにすら思えた。十吾は礼を言わず「もうちょっとでおれの秘密の作戦がでるとこだったんだが」などと言っているが、それとて腹は立たず、微笑ましくさえある。普段、委員の仕事をしていて先生に労われることはあるけれど、それとは違う。

 ここで湊がやってきた。吉男が事情を説明するのを、気恥ずかしい思いで聞いていたゆかりは、湊が近づいてきたので身を引きかけた。でも引かなかった。

「ありがとう上条さん」

 心からの感謝だった。ゆかりはうれしかった。どうしようもなく、うれしかった。そして気がついた。今まで自分はきっと気を張っていた。張りすぎていたのだと。綻びを感じることで自覚できた。二転三転する自分の心は嫌だけれど、真実の前では何もかも霞んでいくのかもしれない。

 以前ムトが言っていた。

 何かを捨てるのは簡単ではない。どれほど要らないと思っても、また、大事だと思っても、捨てる瞬間は必ず直視しなければならないからだ。しかし、手放すことで得られるものもある。自らの意思で選び取ることが出来たなら、いつか無二の価値を見出せることもあるかもしれない。少なくとも結果だけを見て良し悪しを断ずるなど出来ないはずだ、と。

 何年も心を通わせた星を去るのはムトにとっても平気じゃない。でもどこかで折り合いをつけて前に進んでいる。必要に迫られたことが必ずしも正しいとは限らないとしてもだ。

 一つの考えに固執するのが間違いというわけではないと思う。それによってのみ見られる景色もある。けれど知ってしまった。向こう側を垣間見てしまった。あたしは選ぶことができるのだ。

 でも、それらしい答えがあったからといって飛びついてしまうのは良くない。もう少しだけきちんと見極めてみよう。考えて決めるんだ。そうでなければ、自分を許せそうにないから。


 十二月になると毎日のように雪が降り、ぐっと冷え込んだ。 風が強く吹くと一瞬だけ吹雪を連想する。登校中、厚地の手袋をうらやましがった十吾が貸してくれよとすり寄って、嫌がる吉男と押し問答していると、二人の横を通り過ぎざまにゆかりが言った。

「おはよう」

「えっ、ああ、うん」

 吉男は戸惑いながら返事をした。相変わらずゆかりが近くに来るとどぎまぎしてしまう。白い肌にはっとしてしまうのだ。だが今日は違うことが気になったので、ゆかりと距離が離れてから十吾にたずねてみた。

「ねえ、最近ちょっと上条さん変わったと思わない?」

「そうかあ? どのへんがだよ」

「前までならわざわざ男子におはようなんか言わなかったし、なんていうか、やさしくなった感じがしない?」

「んなわけねえよ。おれ、昨日だってどやされたぜ」

「それは、十吾くんが教室中の窓に息吐きかけて落書きしまくってたからでしょ。注意もされるよ」

「でもよ、そんくらいやさしかったら見逃してくれるんじゃねえか?」

「うーん、やさしいってそういうことじゃないと思うんだよね。ぼくにもうまく言えないけどさ」

「わかんね」

 両手を外側に広げ、理解不能を示す十吾。しかし本当は、暖かくなったような柔らかくなったような、以前のゆかりとの雰囲気の違いを、うすうすとは感じていた。一方的に叱られる立場ではあるが、毎日ゆかりとは接触しているので、機微には疎くない。ゆかりの最近の強張りようが気に食わなかった十吾としては、悪くない展開と言えた。もちろんいちいち注意されるのはいらつくが、前ほど腹は立たない。なぜだろう。注意するのにも意味があると思わせる言い方だからか。これが吉男の言う「ちょっと違う」のかと十吾は考えた。そして同時に変化の理由や意味も考えた。長くは持たなかったが、十吾は考えはじめた。

 通学路にある空き地を一瞥して、そろそろ積もりそうだなと湊は思った。この冬が終わる頃には卒業だ。中学になればがらりと環境が変わったりするのだろうか。でも、ムトとの出会い以上に衝撃的な出来事なんて無さそうな気がした。あれほど不思議に満ちた存在がほかにいるだろうか。しかし最初はただ未知で、謎の存在だったのが、いつしか対等な友だちになっていた。星々での旅の記憶はとても神秘的であり、時には刺激を伴ったその魅力は湊たちを取りつかせる。しかしそれだけではない。妙に人間くさく、意外に不器用なところもあるムトのことが、湊も吉男も十吾もゆかりも好きになっていた。そこに条件はなかった。

「今日は格好が違うのだな」

 住処に着いた全員を眺め回してムトが言った。「服が多い」

「もう十二月ですもの」クリーム色のコートをつまんでゆかりが言う。「外は雪も降ってるし、さすがに寒いわ」

「そうか。君達は寒さにも弱いのだったな」

「ムトは寒いとか無いんだよな」ジャンパーを脱ぐ十吾。この部屋は寒くない。「いいよなあ。なんかめんどくさいんだよ。この、季節に合わせて服かえるのがよ」

「そういえばムトはいつもその服だけど」ムトの着ているシャツを指して湊がたずねる。「何かこだわりとかあるのかい?」

「私は服など着ていないぞ」

「え?」

「これは形態変化だ。このズボンもそうだが、服を着ているふうにして、人間と変わらない見た目にしているのだ」

「ええっ」驚く一同。

「ちょ、ちょっと触らせてもらってもいい?」

 まだ信じられない吉男がお願いすると、後ろで三人も頷いた。

 それは本当にシャツの質感そのものだった。身体の一部だとはとても思えない。ただよくよく見ると、後ろの一点だけムトが動いてもたなびかない箇所がある。そこがおそらく身体の内側と繋がっているのだろう。

「すごいなあ。知らなかった」

「こだわりについては特にないが、強いて言うならば華美でなく、ごく一般的な服装にしているという点だろうか」

「それにしてもすごいよ。皺だって再現できてるし、本物と見分けがつかないや」

 しきりに感心する湊を見て、自分もだが、本当に楽しそうだなと吉男は思った。

「でもよ、そのシャツやらが服じゃないってんなら、ムトはだかってことになるよな」

「はっ……」

 十吾の発言にゆかりが驚愕する。

「そうだ。私は全裸だ」

「ぜっ……」

 ゆかりは絶句した。顔が真っ赤になった。いやいや、裸なんてあくまでムト基準。見た目はちゃんと身に着けているのだから、恥ずかしがることなんてない。そうよ。うん。

 そう思うも、やっぱり恥ずかしい。でも、だからこそあえて、自ら聞いていかなくちゃ、とゆかりは気を奮った。

「む、ムトの一族は皆こんなことができるのかしら?」

「そうだな、ある程度は共通で、しかしそれぞれ得意分野が異なる。私は形態変化が得手だが、力は弱い」

「力というと、腕力のこと?」

「いや、主に精神の感応性や流動力のことだ。例えば君達に旅の話をする時に、私は映像を見せるだろう。それが力の強い者なら、より鮮明で強いイメージを送信することができる。同族の中でも力の序列が存在するのだ」

 今でも身に余るほどの映像なのに、あれで弱い方なのか、と湊は少し不安になった。ゆかりも同じで、そのおかげで恥ずかしさはまぎれた。

「そうだ。そろそろおやつにしない?」ナップサックから罐を取り出して吉男が言った。「ぼく、クッキー焼いてきたんだ」

「まじかよ。いただきまーす」

「早いったら。いま配るから待ってよ」はやる十吾を制し、吉男は二枚ずつ皆に分配した。

「うんめー」いきなり一枚をたいらげ、十吾が声をあげた。

「本当。おいしいわ」ゆかりも目を丸くして、まじまじクッキーを見た。「シナモンが入ってる」

「なあ、みなとはしってたか? よしおがこんなのできるなんてよ」十吾は些か興奮している。

「僕は何度か、探検に行ったときに食べさせてもらったことあるよ。おいしいよね」

「なんだよずりいなあ。そんならおれも、もっと前から行っときゃよかった」よほど気に入ったのか、本気で残念がる十吾。「おめえ、料理人とかなれるんじゃねえか?」

「えっ、ぼくが」

 考えたこともなかったので吉男はびっくりした。

「むりだよ。ぼくなんて」

「そうかしら。あたしは充分いけると思うわ」少し真面目な顔つきでゆかりが言う。「このクッキーだって、口当たりが優しいから誰でも食べやすいんじゃないかしら」

「僕もなれると思う。子どものうちから作れるなんてすごいことだよ」

「ほらみろ、いけるって。なったらいいじゃねえか。そんで、おれに毎日うまいもん食わしてくれよ」

「十吾くんはそれが目的でしょ」

 と言いつつ、急に皆が手放しに褒めるものだから、吉男は言葉に詰まった。

「今日は、湊くんが食べ物に関する調査をするっていうから、それで持ってきただけなんだよ」

「なんだよ、もったいねえな。もったいねえよ」

 できるのに、と思いながら、ふと十吾は何とも言えない感覚がした。

「じゃあ、そろそろ」湊はムトに向き直った。「確認だけど、ムトは何も食べないんだよね?」

「そうだ。食事はしない」

「食べたら害があるの?」

「基本的に全て体内で分解されるので影響は無い。異物が混入した際には即時排出される」

「そうかあ。いろいろ用意してきたんだけど、何も起こらないかもしれないね」

「やってみなければ分からない。何かやるなら構わないが、ただし私に味覚は無いので、その点は期待に添えないな」

「おっ、だったらクッキーくれよ」と十吾が身を乗り出す。

「やめなさい。意地汚いわよ」すかさずゆかりがとどめる。

「しかしジュウゴの言う通りだ。私が食べても意味が無い」

「僕としてはいちおう反応が見たいから食べてみてほしいんだけど」湊が提案する。「じゃあ吉男くんと一枚ずつ分け合ったらどうだろう。吉男くんは自分の分を持ってきてないし」

 少し考えてから、それならといった様子でムトは吉男に一枚を渡し、クッキーを食べた。丸呑みなことに少し驚いたが、食べてからムトが言葉を探しているのに吉男が気付き、あわてて止めた。「いいよいいよ、むりに何か言わなくて」

 みんながあれこれ褒めたものだから、自分も感想を述べるべきかと迷ったらしかった。ムトらしいなと吉男は思った。

「ミナトは何を用意したのだ?」ムトがたずねると、湊はリュックからいくつもの小瓶やチューブを取り出した。

「調味料をいろいろ持ってきたんだ。食べるのはあくまでムトだからね、薬品なんかは使えないし、そうだな、ちょっと地球のものを味見してもらう形になるのかな」

 砂糖、塩、ケチャップ、蜂蜜、ウスターソース、粉チーズ、わさび、からし、鰻のたれ……それらの容器をムトが物珍しげに見ている。

 湊が照れくさそうに言った。「醤油は、母さんが今日の晩ご飯に使うからって持ってこれなかったんだけどね、どれでも好きなの選んでよ」

 ムトにスプーンを渡し、使い方を教えてから、湊は紙皿を何枚か置いた。皆がキャップを開け、中身を押し出したり、小瓶の穴から適量ずつ出すのを見るたび、ムトは「おお」と感心したように呟いた。

 やはり無味だからか、食べたものに対する感慨はムトにはなさそうだった。ただ、それにまつわる話は皆から飛んだので、地球の知識や物の関係性を知るという意味はあった。

 ちょうど吉男がパックの紅茶を淹れており、ムトが砂糖を食した時にはゆかりが「紅茶と合うのよ」と、香りを楽しむという趣きの話をした。味覚はなくとも嗅覚があるムトは、なんとなく理解したようで、それを見た湊が新たな実験テーマを得たりした。

 多量のわさびを一飲みにしたにも関わらずけろりとしているムトに驚いたり、本来つけるべき食べ物についてあれこれ議論を交わしたりと、場はけっこう盛り上がった。

 しかし、ムトが最後に塩を食した時だった。

「あれ? ムト?」

 異変に気づいた湊が呼びかけたが反応はない。スプーンを持ったまま、ムトは完全に停止していた。ぴくりとも動かなくなったのだ。

「おいおい、やべえんじゃねえか」

 十吾の言葉にあせりを感じる間もなく、ゆかりが「とにかく安否確認を」と言ったので、湊はムトの身体をそうっと調べた。吉男はおろおろするばかりだ。

 口に手を当てるが息をしていない。頸や手首に脈がない。眼球も動いていない。そもそも呼吸や血の巡りがあるのか無いのか、それすら知らないのだ。ムトについて知らないことが多すぎる。人間に対しての調べ方では分からない。これまでの実験や調査の順番を、湊はひどく後悔した。

 とはいえ止まっていること以外の異変はなさそうだった。体色も変わらないし、形態変化も解けていない。下手に動かすよりはと、皆はしばらく動向を見ていることにした。全員が不安に駆られながらも、ムトの無事を願った。感じる責任よりも、ただそれが強かった。

 三十分ほど経ってムトが動いた。

「ふむ」

 すぐさま皆が駆け寄る。「ムト! 大丈夫!」

 全員をゆっくり眺めてムトが言った。「ああ、異常はない」

「よかったよう」吉男は半泣きだ。他の三人も息を吐いてひとまず安堵した。

「しかしよ、なにがあったんだ?」

 十吾の問いに、ムトが塩の入った皿を指差す。

「どうも、その塩というのは私を止める作用があるようだ。しかもおそらく、触れるだけで発揮する。もちろん体内に入った時より効果は薄いだろうが」

 自分たちが日常的に口に含んでいるものでも、ムトにとっては違うのだ。ちょっとしたもの、という認識に意味はない。そんなこと分かっていたはずなのに、と湊はあらためて猛省した。

「ごめん。僕が軽率だった」

「謝る必要はない。私はむしろ礼を言いたい。自身ですら知らなかった私の性質を知ることが出来たからだ」

 本心なようだった。人間が考える常識の死から、ムトはきっと遠い所にいる。でも、だからといって。

「助かるよ」

 としながらも、湊の中で身を焦がすほどの激情が生まれていた。それは懺悔でもあり懲戒でもあり、何より自分への憤りだった。未知の生物であるムトと過ごすことは楽しく、諸々の渇望が満たされる。しかしいつしか都合よく常識に当てはめ、理由なき楽天性を付与していた。命を軽んじていたのだ。堕落した自身の認識に、湊は心底怒りを覚えた。

 感情に捉われると何も見えなくなる。だが忘れてしまうと、きっともうどうしようもなくなる。湊は、この自分自身へのみ行き場のある気持ちを原動力に変えようと思った。ただし怒りや戒めではない。その根底には、ムトや仲間が大事という思いがあると分かったからだ。そうでなければこれほど腹も立たないし自分を責めることもない。幼い頃から数々の実験や研究をしてきた湊は、失敗の責任は自己にあると思う節が強く、傷つくほどの矜持は持っていなかったため、すぐ建設的に考えることができた。他者へ心を向け、思いやりに気付けたからこそ、見失わずにいられたのかもしれない。

 湊はぐっと前を見た。


 覚えのいいムトは、ひらがなの形と発音の紐付きをすっかり習得してしまった。湊がまた同じように表を作り、次はカタカナに入った。だが、それもすぐに覚えてしまうのだろう。文字を教えてもらっている時のムトは楽しそうだ。相変わらず表情はないが、取り組む姿勢を見ていればはっきり分かった。

 ただ湊は塩の一件から実験を控えるようになり、その代わりムトの基本的な生態を毎日聞くようになった。同じ過ちを繰り返さないようにと、反省は全員がしていたが、一番しているのは湊ではないかと吉男は思う。むろん実験の主体だからという理由もあるが、それ以上にムトに対して真剣だからだ。

「今度の誕生日は宇宙の本を買ってもらおうと思うんだ」

 吉男と二人でいるとき、湊が話した。

「ムトのこともそうだけど、僕は宇宙のことについてあまりにも知らない。今度のことでそれがよくわかった。きっと宇宙は、僕が思っている何倍も奥深いものだし、何年かかってもその全てを知ることはできないかもしれない。でも、いいんだ。真相に近づこうとすること、歩みを止めないことが大切なんだ。それはムトが教えてくれたことでもある。もちろん頑張ればそれでいいってわけじゃないんだろうけど、頑張るのは前提みたいなものさ。今のこの気持ちを僕はずっと持ち続けたいし、そうあるべきだとも思う」

 以前は、湊の未確認生物への熱意は自分と同じくらいだと吉男は思っていた。けれどムトと出会ってから、湊は深くのめり込んでいき、それが今回の失敗によってより真摯なものになった。もちろん自分もムトは好きだし、たくさんの神秘的な体験には心惹かれている。それは同じだ。でも、湊くんはきっと見つけたんだ、という感覚がしていた。ずっと追い続けられるほど大切な何かだ。そこまでの気持ちが自分にあるかはわからない。でも、少なくとも、友だちのことは応援しようと吉男は決めた。


「私とスウはいつも一緒にいた。触れずとも、互いの感情を何もかも分かりあえた。柔らかな陽光に包まれながらぷかりと宙に浮かび、六日ごとにやってくる夜には並んで星空を見上げた。同族の数は多くなく、誰もが見知っていたが、もっとも縁を深めた者はスウだった」

 イメージが流れ込んでくる。いつものような具体的な風景ではなく、漠然とした感覚に依るイメージだ。湊たちにはスウの姿がおぼろげにしか見えない。ムトは映像を送るのは得意でないと言っていたので、そういうこともあるのかと、なんとなく思っていた。それでもムトが幸せだったのはわかる。ただそこにいるだけで感じられる幸福に包まれていたのだ。

「清浄な空気のその星で、我々一族は安寧たる日々を過ごしていた。族長はいたが戒律や掟はなく、誰もが自由気ままだった。有事の際には各々が役割を果たし、はぐれ者はいない。適合は完全であり、安らぎがあまねく満ち満ちていた」

 それほど豊かというわけでもないが、手つかずの自然はだからこそ居心地が良さそうだった。しかし懐かしそうに話すムトは、どこか憂いを帯びている。今ここにいることを考えれば当然なのかもしれなかった。そう思うと、湊たちにも幾許かのうら寂しさがある。

「時々、ナロがきた。ナロは独自の哲学を持っていて、何か思いつくと私に見解を述べにくる。ナロの話は同意できる時もそうでない時もあったが、聞いているだけでも心を揺さぶられた。何しろ独特なので、決まった答えがない。生命の在り方や精神の系譜について、昼も夜も越え何度も話をした。スウを混じえて語りあったこともある。ナロは良き友人だった」

 話すたび、ムトの声質が微妙に変化してきている。過去を意識しているような翳りは、限りなく悲哀に近かった。

「何千回目かのある夜、閃光が瞬いた。とてつもない衝撃が大地を揺るがし、砕けた巨岩が礫となって拡散した。それも一度ではない。続けざまに間断なく爆撃が降り注いだ。流星群が飛来したのだ。私はスウを探した。定期的な瞑想のため互いの住処に戻っていた私たちは、離ればなれだった。スウも私を探しているようだった。既に交信が途絶えた仲間もいる。危険と避難を知らせる強烈な思念が乱れ飛ぶ中、私はスウの思考パターンを必死にさぐった。途切れ途切れに聞こえるスウの声を求め、私は駆けた。集落の中心にあった大樹は無惨に折れ、岩と砂に野晒しにされながら、その巨体を無造作に横たえていた。憩いの場になっていた泉からは澄んだ水面が失われ、泥水と汚泥の堆積場と化していた。

 ようやく遠くにスウの姿を見つけたとき、スウも私に気付き、駆け寄ろうとした。しかし、私たちの間にひときわ大きな隕石が墜ちた。凄まじい爆風で私は宙に煽られ、吹き飛ばされた。目まぐるしく変わる視界の中で、スウが手を伸ばすのが微かに見えた。私も身体を変化させ、限界まで手を伸ばした。再生するそばからばらばらになる肉体に於いて、腕だけは懸命に保った。だが届かない。尚も降り続ける衝撃のためにどんどん距離が開いていく。スウの悲痛な思念だけが私に突き刺さった。宙を掻き、どうにか戻ろうとするも適わない。大いなる力の前に私は無力だった。誰も守れない己の力の無さに打ちひしがれた。

 ナロの意識もとうに消えていた。私を含め、同族のほとんどは宇宙に投げ出されたようだった。もう誰の声も聞こえない。我が故郷に未だ降りしきる流星が、遠ざかる視界の中で、ただ動いていた」

 壮絶な話を聞いた湊たちは、言葉を失くした。うまく映像を送れなかったわけではなく、きっと自分たちに配慮してぼかしたのだ。それでも凄惨な体験であったことは充分に伝わる。初めてムトの心の奥に触れた気がした。それは紛れもなく、心の痛みだった。

 ムトの気持ちがわからないだって? こんなにも僕たちと近しい心を持っているじゃないか。表情や態度はあくまで感情の産物というだけであり、そのものではないのだ。大切なものは深くにあって、しかもそれは一辺倒に当たるべきではない。なるべくなら根源に寄り添うように、寄り添いあうことを認めあえるように。確かに考えて分かるとも限らないけれど、でも、僕はきっと諦めないでいたい。湊はそう帰結した。

 何度も目を背けたくなった。だがそうしなかったのは、ムトが話してくれたからだ。本当はムトが一番つらいのに、思い出したくもないかもしれないのに、自分たちに話してくれた。そこにはきっと意味があるはずだ。だから、受け止めなくちゃいけないと思った。吉男はしかと噛み締め、見つめ続けた。

 以前、わからないことがあっても長い時間をかけムトは一人で答えを出してきた、だから自分もそうしようと思ったことについて、ゆかりは思い直した。ムトが一人で決めてきたのは、そうしなければならなかったからだ。故郷を離れて以後、ムトはずっと一人だった。周囲に誰もいなかったからだ。なら、自分はどうだろう。自分はいつも周りに誰かがいるのではないか。周囲に頼り、周囲と考えることが自分にはできるのではないか。もしもまだ、赦しが間に合うのなら。保留にしていた選択肢の、進むべき方向を見定める時が来たようだった。

 ムトはあのとき、無力を痛感していた。どうしようもなく、力を欲していた。自分のためのものではない。誰かを助けるための、限られた強い力だ。力がありさえすれば、大事な人を救えたかもしれない。ありさえすれば。持ってさえいれば。自分は、力があるのに使っていない、と十吾は思った。それは人を傷つけてしまったからだ。しかし、他の正しい使い道があるのだとしたら。使い方は自分次第で変わるのだとしたら。自身の力と、十吾は逃げずに向き合った。


 翌日、やや多い仕事量を前にして、ゆかりは吉男に遅れると告げた。頑張れば一人でもこなせるかもしれない。でも違う。違っているはずだ。息を整えてから、席を立った。

「木下さん」

 ふりむく里子にたじろぎそうになる。自分は前回、ひどい断り方をした。だから何を言われても仕方ない。胸に渦巻く気まずさを抱えてゆかりは言った。

「手伝ってくれない? 仕事が多くて大変なの」

 すると、一瞬きょとんとしていた里子の顔がぱあっと明るくなった。

「いいよ!」

「あ、ありがとう」

 むしろうれしそうな里子を見て、ゆかりはびっくりした。ちょっと信じられない心地になり、自分の横の席に座ろうとする里子にあわてて言った。

「あの、ごめんなさい。この間はひどい言い方をして」

「うん」

 承知の上だと云う目をしてゆかりに向き合い、里子は穏やかに微笑んだ。

「いいよ。そんな時もあるもんね」

 なんて良い子なんだ、とゆかりは感動した。ぼろぼろに言われることすら覚悟していた自分が恥ずかしい。嫌な思いをしただろうに、文句も言わず許すなんて。でもこれは、心根が優しいこの子だからかもしれない。本当なら、同じだけやり返されてもおかしくないはずだ。あたしはやっぱり、実は周りの人に助けられてるんだ、とゆかりは実感した。だったら、他の人が困ってる時はあたしが助けなくちゃ。甘えっぱなしはいけないもの。それにきっと、周りの人も都合よくいつもいるわけじゃない。だからこそ、もっと他人を大事にすべきなんだ。

 ゆかりの胸に熱さがこみ上げた。


 昨日深刻な話をしたばかりなので、どういう顔をしていいかわからず、少し行きにくいところもあったが、ムトはいつもと変わらぬ挨拶をした。だからこそ額面通りに受け取るべきではないと湊は思う。

 無力を感じていても、十吾にはムトが弱いふうには見えなかった。少なくとも自分とは違う強さがある。どうすべきかなんて、本当は最初からわかっている。だが、また誰かを傷つけるのではというおそれを払拭できずにいた。出来たとしても、それで楽になってはいけない気がしていた。

 遅れてゆかりがやってきた。ゆかりにはまだやろうと思っていたことがあった。だが、なかなか踏ん切りがつかない。持ってきた手提げ鞄の中を何度も覗き、やめ、ようやく意を決して立ち上がった。里子に謝るのとはまた違う不安がある。声が上ずらないようにして、ゆかりは呼びかけた。

「加瀬くん」

 初めて湊の名前を口にし、全身が焼けるような感覚になりながらも続けた。

「ここ、教えてくれない?」

 吉男も十吾もぎょっとしてゆかりを見た。その手には宿題のプリントがあったのだ。とりわけ十吾は目を疑った。

 湊が言う。

「いいとも。どこだい?」

 それは、他の多くのクラスメイトが湊に勉強を教わりに行ったときの反応と、まったく同じだった。その光景はゆかりも見たことがある。うれしいような、拍子抜けしたような。いずれにせよ緊張が解れてきたゆかりは、まだ火照る指で特定の一問を差した。

「ここなんだけど」

 実を言えば難しいにせよじゅうぶん理解している問題だったが、話す口実がほしかったのだ。ところが湊はゆかりとは違う解法を使ってみせ、すぐさま解いてしまった。

「すごい」素直な感想が口をついて出た。「どういうふうに考えたの?」

「問題を見たときに、上から順番にやるんじゃなくて、答えから逆算するのさ。ある程度ゴールを見定めておけば、あとはどの道を行けばいいか、ってところかな」

「なるほどなあ……」

 ゆかりは湊を忌憚なく認められるようになっていた。湊に対する気持ちはまだわからないし、対抗心だって失っていない。でも、本人に関わろうともせず一人で結論づけるなんてやっぱり間違いだ。それは調子よく誂えた想像でしかない。わがままで、勇気がないだけのことだった。

「ねえ、加瀬くんならどうした? おじいさんにビルへ入るのを注意されたとき」

 自分は運に助けられた部分が多かったので、湊の対応を聞いてみたかったのだ。

「そうだなあ。僕はそのおじいさんを見たことがないけど」数秒思案した。「一旦は大人しく帰ったふりをすると思う。それからもっと英会話塾生らしい格好をするなり、作戦を立てるかなあ」

「そっか。うーん、あたしは強行突破しすぎたのかしら」

 戻るという選択肢がまるで無かったので、ゆかりは感心した。

「でも、こわいおじいさんだったんだろう? 僕だってその場にいたら冷静に考えられたか分からないよ。とっさに切り抜けられたのはすごいと思う」

 褒められてうれしくも、ちょっと腹も立つ複雑な感情があった。しかし、この余りにも普通な湊の態度に自然とため息が漏れる点が、気持ちの正体を知るヒントになりそうな気がする。そう遠くないうちに、明らかになる予感があった。

 ゆかりと湊が楽しげに話しているのを、十吾は眺めていた。お前がそれをするのかよ、と思った。あれだけ男子を目の敵にしてたってのに、よりによってお前がかよ。何があったかしらねえが、お前にそんなことをされちゃあなあ……。

 十吾は腹を決めた。


 先生が一つずつペアを作っていく。なかなか順番が回ってこないのが焦らされているようでやきもきしたし、残りの生徒が減ってくると早すぎると思った。しかし十吾は、向き合うと決めたものの、具体的にどういう言葉でどう言おうかは考えていなかった。考えだしてすぐ、頭がごちゃごちゃしてきてやめたのだ。ただそれは、話せばどうにかなるなどといった破れかぶれの楽天性ではなく、仕立てのよい言葉に意味がないことを、どこかで感じていたからだった。

 指名され、ゆっくり立ち上がる十吾を竹井は少し驚いた様子で見た。十吾はまだ竹井の目を見れない。無言でボールを持つと、空いているスペースへ促した。

 しばらく黙ったままボールを蹴りあっていたが、長引けば余計に話しづらくなると思い、十吾がいった。

「なんか久しぶりだな、こういうの」

「ああ」

 ぽつりぽつりと言葉を交わす。触れにくい部分を意識しているのは互いにわかっていた。

 やがて、竹井がいった。

「お前、避けてただろ」

 責められている気がして胸が痛みだした。

「そりゃ、まあ、そうだろ」

「そうか。そうだよな」と言ってから、竹井はにらんだ。「でも、それがいけねえ」

「なにがだよ」

「俺だって、悪かったんだ。なんにも考えてなかったからな」

 十吾は驚いた。まさか竹井がそんなふうに思っていたなんて、と。だが、それを認めてしまうわけにはいかない。

「いや、わるいのはおれだ。おれが調子に乗らなけりゃ、あんなことにはならなかった」

「ちがう。ちがわないけど、ちがうんだよ」竹井はうまく言葉にできないようだ。

「怪我させたのはおれなんだからよ、おれが悪いんだよ」押し込めるように十吾は言った。

「あーもう」

 苛立たしげに竹井は頭をぐしゃぐしゃにした。そして声を荒げた。

「だからちがうって言ってんだろ。お前が、お前だけが悪いわけじゃねえ」

「うるせえ!」

 無性に腹が立ってきて、十吾もさけんだ。

「おれはな、今日あやまりに来てんだよ。それをおまえも悪かったとかいったら台なしじゃねえか!」

「実際そうなんだからしょうがねえだろ!」竹井も語気を強めた。「あのとき一緒にいたやつらもみんな言ってるぜ。おれたちも悪かったってな。それに俺だって避けてたんだ。こっちこそな、お前だけが悪いなんていうわけにいかねえんだよ、ばか!」

「なんだと! ばかっていう方がばかなんだぞ!」近づき、竹井に食ってかかった。

「お前はばかだ。どうしようもねえ」

 胸ぐらをつかまれても竹井は続けた。いくら揺さぶられても言うべきことがあった。

「でもな、俺も同じくらいばかだ」

 竹井の言葉に、ふっと腕の力が抜けた。そういえば、こんなやつだったんだな。三年もしゃべっちゃいなかったんだ。潤みかけの目をごしごしとこすり、竹井をまともに見た。

「そうだな、おれたちはばかだ」

「へへ、そうだろ」赤い目をして竹井が笑った。

「そうだ、そうだ」

 十吾もつられた。二人は笑いあった。涙が出るほど、長い間笑いあっていた。一つの雫が落ち、淀みが晴れようとしていた。おそれには引きずられない。けれど引きずっていく。

 失われていた力が、十吾にみなぎっていった。


 いつものように住処でムトと話した帰り際、ゆかりが言った。

「そうそうムト、あたしたち明日は来ないから」

「ほう。なぜだ?」

「おいおい、なんでおれまで入ってんだ」ムトの疑問に乗っかる形で十吾が抗議する。

「山野くん、あなた先生の話聞いてた?」やれやれというふうに額に手をあてるゆかり。「明日の放課後は音楽会の練習するからって言ってたでしょう」

 傾いたままのムトに湊が説明する。「音楽会っていうのは、クラスごとに決まった曲を演奏する会のことさ。それぞれ歌や楽器の担当があって、しかも三十人以上いるから息を合わせるのが大変なんだよ」

「なるほど」歌が得意なムトは興味深そうに頷いた。

「うへえ、めんどくせえなあ。そんなの聞いてないぜ」ムトとは反対に、心底いやそうに十吾がうなだれる。

「だから先生言ってたってば。うちのクラスはいまいちみんな覚えてないから、追加で練習しようって」

「そういやあれだ、音楽は自由でいいって前に先生いってたぞ。だったら、べつにむりして練習しなくていいはずだぜ」

「なんでそういうのは覚えてるの。自由っていうのは楽譜の上での自由よ。しっちゃかめっちゃかやればいいってことじゃないわ」

「いいじゃん別に。その方が楽しそうだ」

「だめよ、この音楽会は六年生の壮行会も兼ねてるんだから。在校生に向けてちゃんとした演奏で返さないと」

「めんどくせえ。だいたいその、ソーコーカイってのもよくわかんないんだよな」

「壮行会っていうのは」

「あーあーはいはいわかったわかった、やればいいんだろやれば」

 一向にゆかりが引かないのでそちらの方がめんどくさくなってきて、十吾は観念した。

「よし」満足げにゆかりが笑みをたたえる。

「まったくよお」

 相変わらず二人はいがみ合っているが、以前の険悪な雰囲気はなくなっていると吉男は感じていた。竹井と元通り遊ぶようになった十吾の心境変化が大きいのかもしれない。もっとも竹井は市のサッカーチームに入っているので放課後は忙しく、ここに来ることはないのだが、すっきりした顔で過ごしている最近の十吾を見て吉男はうれしくなる。暇つぶしや逃避の手段でもあったムトや住処のことが、いつしか十吾にとっても掛け値なしに大事な存在になっていた。

 ゆかりも、湊たち含めクラスの男子とも話す機会が増えた。棘はなくなっていないが、とげとげしていない。優しさや厳しさの種類が変わったみたいだった。

 暖かい感情になったとき、いつも不穏な影がちらついた。でも、いい加減このままじゃいけないと吉男は思いはじめていた。みんな変わっていく。悩みや葛藤を超えるのは簡単ではないし、長い戦いになるかもしれない。それでも、次にあいつらが来たらはねのけてやるんだ、と吉男は決意した。

 音楽会の練習を終えた帰り道、みんな少し寂しくなった。ムトと出会ってから今日まで、一日も欠かさず行っていたのだ。「行かない理由」がなく、今回のは「行けない事情」だった。習慣化しているから、面白い体験ができるから、というのもあるが、単純にムトのことがみんな好きだった。自分たちが一日行かないことで、ムトもちょっとくらい寂しくなってくれているといいなと思った。


 翌日にあった音楽会はまずまず成功といえた。ところが、放課後になって十吾が「よっしゃ、ムトのとこ行こうぜ」と言うと、吉男がきょとんとした目で見つめた。

「ムトってだれ?」

「なに言ってんだよ。ほら、はやく行くぞ」

「いや、あの、ほんとに」

 最初は冗談だと思った。だが、とぼけているふうでもなく、だんだん本気で吉男がわかっていないと知れてきた。完全にムトのことを忘れているようだった。

「おいおい、あのムトだよ。あの駅前のビルにいる宇宙人の。からだがやわらかくてよ」十吾が説明するも吉男はぴんときていない。

「吉男くん、ノートを見てみてくれないか」

 湊が言うと、未確認ノートの存在は覚えていたらしい吉男がランドセルから取り出した。だが、開いてみて眉根を寄せる。

「これ、ぼくが書いたの?」

「そうさ。毎日書いていたはずだよ」

 びっしりと書かれた自分の字や絵を、吉男は難しい顔で眺めている。「これを、ぼくが」

「ムトに会ってみればどうかしら」自席で手早く雑事を片付けたゆかりがやってきた。話は聞いていたようだ。「このままじゃ埒が明かないもの」

「そうだね」湊が頷く。「吉男くん。僕たちについてきてほしい」

「う、うん」真剣な湊の眼差しにたじろぐ吉男。「わかったよ」

 なぜ忘れているかわからないにせよ、ムトに関することなので、何が起こっても不思議ではなかった。他にも様々な謎があったが、ムトに直接訊ねることにして、湊たちは急ぎ足で帰り、住処へ向かった。

 ビルの前まできても、エレベーターに乗ってすらまだ失念状態だった吉男は、ムトの姿を見るなり「ああっ!」とさけんだ。

「やっと思い出したかよ」

 十吾が言うと、吉男は自分でも信じられないといった様子で力なく首肯した。

「な、なんでだろ。ムトのことなんて絶対に忘れるわけないのに。ああ、なんでだ、なんでぼくったら。ムト、ご、ごめんね」

「気に病むことはない」

 動揺する吉男をムトはたしなめた。「そういうふうに出来ているのだから」

「どういうことだい?」嫌な予感がして、湊が訊ねる。

「私から離れすぎると、私を認識できなくなるのだ」

 空白の後、遅れて頭を締めつけた。

「適合活動が順調に進んでいる証でもあるのだが」

 と前置きし、ムトは続けた。

「星と一体化するにつれ、私の存在は空気や塵に近しい存在になっていく。例えば君達は、この部屋の現在の空気を感じ取り、いつまでも覚えていられるか? または、昨日の空気との違いが分かるか。きっと不可能だろう。私を認識できなくなり、記憶が薄れてしまうのはそのためだ」

「で、でもなんでぼくだけ」

 不穏な展開に引き離されまいとして、吉男が投げかけた。

「条件がある。私との物理的な距離と、離れた時間の蓄積が閾値を超えると、記憶が忘却されるのだ」

 「閾値」をすかさず辞書で調べ、湊がいう。

「つまり、ムトの傍を離れた距離と離れた時間の合計が限界を超えると忘れてしまう……そうか、吉男くんの家はここから一番遠いから、吉男くんだけ忘れてしまったのか」

「でも、遠いって言っても確か二百メートルくらいしか違わないわよね。そんなに繊細な境界線があるのかしら」

 なるべく冷静さを保つようにして、ゆかりは情報整理に努めた。

「厳格な決まりがあるわけではないが、今回はたまたまその間に線があったのだろう。重要なのは、今後星との適合が進むにつれ、その限界値は下がっていくということだ。適合が完全になれば、遅かれ早かれ私の存在は記憶から消滅する。よって、ヨシオに非はない」

 ムトは気を遣ってことさら吉男に原因がないことを強調した。しかし湊たちからすれば、記憶がなくなるという話の衝撃が大きすぎてそれどころではない。

「失われた記憶はどうなるんだい」湊はまだ可能性を模索している。「穴が空いたままじゃ辻褄が合わなくなると思うんだけど」

「そうだ。その場合は、不自然ではない形で自動的に補完される。君達は、私と出会うまで放課後何をして過ごしていた?」

「僕は、実験や研究をしたり」湊に続いて吉男がいう。「未確認生物の調査をしてるな、ぼくは」

「あたしは委員の仕事や勉強」

「おれはなんかてきとうに遊んでるな」

「つまり、そのような自然行動の記憶と置き換わるのだ」

「だったら、未確認ノートのような記録はどうなるんだい」湊はまだ食い下がる。

「私の存在の痕跡は全て抹消されるが、そうだな未確認生物の調査をしているのなら、内容が書き換えられることもあるだろう」

 ずっと保留にしている人面犬のことを、湊と吉男は思い出した。それにしても、そんな都合の良い仕組みが本当にあるのだろうか。いや、あるのだろう。今までムトと関わる中で数々の不可思議な事象が起き、そのどれもが信じられないような出来事だったが、ムトが偽りを述べたことはなかった。しかし今回ばかりは事実だとしても信じたくない。ムトの深刻な語り口や態度からしても、真実なのだとわかってしまう。でも、受け入れたくなかった。

「どうにもならないのかよ」十吾が詰問するようにいった。

「ああ」

「絶対にか」

「ああ……そうだよ」

 ムトが目を伏せながら答えることで、事態はより決定的なものになってしまった。それ以上誰も何も言うことができず、四人は部屋を出た。

 公園のベンチに腰掛け、話し合うことにした。何か話さずにはいられなかった。

「本当だと思う?」吉男が、不安をまぎわらそうとして言った。

「ムトが嘘を言うことはないと思う」湊も沈んでいる。「もともと何が起こってもおかしくなかった」

 頭ではわかっているつもりでいた。だが、どうにも受け入れがたい事実だった。

「ムトも、一日で忘れるとは思ってなかったんじゃないかしら。音楽会のことを言ってる時も変わった様子はなかったし」

 ムトを庇ったところで納得には繋がらず、先の重々しい口調の真実味が増すばかりだった。誰が悪いというわけでもないのだ。

「だったらさあ、おれたちがあそこに行く意味ってなんだよ。そりゃ楽しいけどさあ、わすれちゃうんだぜ全部」

 十吾が言うまでもなく、皆が同じことを考えていた。しかし考えようにも難しすぎる問題であり、まだ衝撃も鳴り止んでいない。

「なあみなと、お前物知りなんだから、いい作戦とかないのかよ」

 言いにくそうに湊がいう。

「……わからないよ。僕にもわからない。どうしたらいいか」

 もしかすれば、湊なら解決へ導いてくれるかもしれないという淡い期待があった。しかし、それすらも潰えた。話せば話すほど絶望感に包まれ、理不尽に苛まれる。長い沈黙が訪れた。

 しばらくして、ぽつりと吉男が言った。

「でも、だったらもう行かないの?」

 瞬間的に、いやだと思った。突然告げられた事実に対し、戸惑ってはいるものの、離れたくない気持ちもやはり強く、それもまた皆が共通の思いだった。

「それは、さみしいよね」

「うん。あたしもそう思う。もし本当にあたしたちの中からムトがいなくなったとしても、ムトの中からあたしたちが消えるわけじゃないもの。それに、あれだけ楽しい時間を過ごしておいて、どうせ忘れるから離れる、なんて使い捨てみたいで卑怯よ」

「僕も、ここで別れるのは違う気がする。正しい答えがあるかはわからないけど、これは僕たちにとってどうでもいい話なんかじゃないし、わからなくても、考え続けなくちゃいけないんじゃないかな」

 いつの間にか、みんな顔を上げている。

「……だな。それによお、わすれるってムトが言ってるだけだもんな。おれたちがわすれないって強く思っておけばさあ、実はあんがい大丈夫かもしれねえもんな」

 十吾の言葉は、もちろん確証はないが、それでもすがりつけるだけの希望を持っていた。強がりだったとしてもいい。不安も消えない。しかし誰も口には出さなかった。言ってしまえば本当じゃなくなる気がしたからでもあるし、どちらにせよ、皆の心は決まっている。

 湊の言葉に、十吾が、ゆかりが、吉男が決然として頷いた。

「明日も行こう、ムトのところに」


 エレベーターに乗り込み、住処へ着くまで平均三回ほど往復していたのが、一回で着くようになった。皆がよりムトのことを意識しているからに他ならなかった。もう未確認生物という枠もない。個と個の繋がりだけだ。

 地球に来てから何十年と経っているにも関わらず、適合の判定はまだできていない。適合は完全でなくてはならないからだ。進行速度から考えるに突然ムトが消えるということはなさそうだが、逆に言えばいつまで一緒にいられるかもわからない。住処で過ごす時間の大切さも増していた。

 終末の気配を感じながらも、手は尽くしてみようということになり、湊がインスタントカメラを持ってきた。住処の白い壁を背景に、皆で写真を撮った。ムトを認識できなくなれば写真の中のムトも消えてしまうそうだが、やれるだけのことはやる。忘れた時にこれで気づける可能性も無いとは限らないのだ。

 タイマー機能は実装していないので本来は無理なのだが、ムトが腕を伸ばしてシャッターを切ったおかげで、全員揃って写ることができた。全員に行き渡ったその写真は家族などに見つからないよう、一人一人がこっそり持っている。秘密を共有している感じがちょっと楽しい。ムトも身体の中にしまっていて、時どき眺めるらしい。

 二学期の終わり頃、吉男は松尾先生に係の仕事を頼まれた。とうとうきた、と思い切迫感が襲う。こわばる顔でプリントを集めると、教室を出た。

 早足で進むも、背後から足音が近づいてくる。前回と同じだ。いずれにせよ、急いだところでどうせ職員室に入っている間に待ち伏せされるので、逃げられない。こちらを焦らせて楽しんでいるのだ。

 プリントを届けた帰途、案の定階段の前に奴らがいた。

「よう、矢田」

「よう、矢田」

 下卑た笑いを浮かべ、野呂兄弟が言った。偶然だとばかり顎をさすり、また無意味に体裁を整える。吉男が無視して通り過ぎようとすると、肩をつかまれた。

「待てよ。久しぶりにちょっと話そうぜ」

「話すことなんてないよ」ペースに飲み込まれる前にと、吉男は冷たく言い放った。

「おっかないねえ」

 吉男が凄んでみても効果はなく、自分たちがさも絶対的優位な立場でもあるかのように、野呂兄弟は高みから見下ろしながらにやにや笑った。

「まあ聞けよ。お前、冬休みはどうするんだ?」

 どうもこうも、ムトやみんなと過ごすに決まっている。だが言うわけにはいかない。ムトを知らないにせよ、野呂兄弟も未確認生物の調査だと決めつけているのだから、答えたところで馬鹿にされるだけだ。

「きみたちには関係ないよ」

「つれないねえ」

 言いながら野呂兄弟が前後から寄ってきた。二人の影で視界が暗くなる。急に圧力が増したみたいだった。

「おい、うそつき。正直に言え」

「そうだ。もうばれてるけどな」

「あはははは」

「あはははは」

「妄想の裏づけだろう?」

「調査だとか言って」

「何も持っていないから」

「何かやった証明が欲しいんだ」

「どうせ無駄なのに」

「お前には無理なのに」

「あはははは」

「あはははは」

 覚悟をしてきた。言い返せるはずだった。しかし、一度閉塞感に包まれはじめるともう声が出なかった。どうしてだ、どうしてだ。出ろ、出ろ、出ろよ。気持ちをいくら奮い立たせても、声だけがどうにも出ない。言葉そのものを封じられたように、喉に込めた力が音にならない。いつの間にか下を向き、重なり濃くなる影の中へ視線を落とした。

「しかし加瀬もよくお前の妄想に付き合うな」

 さんざ吉男を罵倒してから、野呂兄弟は矛先を変えた。

「頭だけはいいやつだからな、本当は迷惑してるんじゃないか?」

「違うよ兄さん。あいつは勉強ができるだけさ。頭がよかったら矢田について行ったりはしないよ」

「それもそうだ。妄想だと見抜いてる分、おれたちの方が頭はいいからな」

「じゃあ加瀬も妄想人間だ」

「そうだな。あいつも無駄なことを繰り返してるってわけだ」

 無駄なこと……。誰よりも研究熱心で、気持ちは深くあって、それでいていつも優しい湊くんの行いが、無駄なことだって。ぼくは何を言われたっていい。まともに言い返す強さもなければ意志も弱い。でも、友だちのことを悪く言われて、それで黙っているなんて。それじゃあぼくは、友だち失格だ。

「やめろ!」

 突然の吉男の大声に身をびくつかせる。しかしその驚きを出すまいと、上位者たる威圧感を込めて野呂兄弟が言う。「なんだよ」

「湊くんの悪口はやめろ!」吉男は怯まない。「お前らに、お前らなんかに何がわかるっていうんだ!」

「こいつ、言ったな」

 精神的強者でない野呂兄弟は、却って弱者の反発に寛大でいられない。兄の隆明が吉男を羽交い締めにした。脇を抱えられ、吉男の足は宙に浮いた。

 だが吉男はやめない。

「湊くんがどれだけ頑張ってるか、お前らなんかにわかるもんか! あやまれ、湊くんにあやまれ!」

「おい」隆明が顎をしゃくると、弟の秀明が吉男に平手打ちを食らわせた。「静かにしろっ」

「いやだ。いやだ。あやまるまでやめないぞぼくは」

 頬に痣ができても激しく身をよじり、足をじたばたと動かしながら、吉男はひたすらに叫んだ。

「あやまれっ、あやまれっ」

「こ、こいつ」

 下位に見ていた吉男から思わぬ反抗に遭い、これ以上調子に乗らせまいと、秀明は吉男の口を塞ごうとして躍りかかった。ところが、暴れていた吉男の足先が顔面をかすめ、秀明は大きくのけぞった。

「ああ、ああ、ち、ち、血が」

「ひであきっ」

 吉男を突き飛ばして隆明が駆けつけるも、鼻血を垂らしながら弟は泣きわめいた。「いたいよう、いたいよう」

 吉男も泣きそうになりながら、しかしまだやめない。「あやまれ、あやまれ」

「このっ」

 怒りに任せ、隆明が吉男めがけて握りこぶしを振り下ろそうとした時、ぐっと突っ張る感じがしていきなり動かなくなった。振り向くと、十吾が腕を掴んでいた。

「やめろよ」

 野呂兄弟は決して非力ではない。だが懸命に腕を振り払おうとしても、微動だにしない。ものすごい力だった。さらには十吾の凄まじい気迫に圧倒され、野呂隆明は小さく声をあげた。「ひっ」

 掴んだ腕の脱力を認めると、十吾も腕を離した。隆明は弟の後ろまで逃げ、わめき散らした。

「な、なんだよ。お、おおお前には関係ないだろ。だっ、だいたいこっ、こここいつが悪いんだぞ。み、み、みろ。ほら、ち、血まで」

「それは、おまえらが先にやったからだろ」十吾は睨みをきかせた。「よしおは自分からこんなことするやつじゃねえ」

 事の成り行きを初めから見ていたわけではないが、十吾は断言した。

「おいよしお、大丈夫か」

「う、うん」十吾が力を使う姿と、その頼もしさに吉男はほれぼれした。

「ちょっと、あなたたち!」

 階上からゆかりと湊が降りてきた。

「あっ、か、上条さん」普段からゆかりの容姿を気に入り憧れている隆明が、我先にと言った。「き、きいてほしい。こいつらが、暴力を」

 吉男と十吾を一瞥してから、厳しい口調でゆかりが言う。

「詳しいことは職員室で聞くわ。さあ、先生のところに行きましょう」

「え、な、なんで。悪いのは、こいつら」野呂兄弟が慌てふためく。

「それはあなたたちが決めることではないわ。見たところ矢田くんだって顔が赤いし、事情は明らかにしなくちゃいけない。お兄さんは行くとして、弟さんも……大丈夫そうね」

 秀明の鼻血はとうに止まっていた。それどころかごく少量の出血であり、騒ぎ立てるほどでもないのは明らかだった。

「二人とも、来てくれるわよね」

 逃げ場のない大きな眼を向けられ、野呂兄弟は揃ってうなだれた。

「……はい」

 吉男を含む四人が先生に報告するのを、十吾と湊は職員室の前で待った。松尾先生は怒るとおっかない。ゆかりの目も光っているし、嘘でごまかすこともできない野呂兄弟はこってり絞られ、すっかりしゅんとしてしまった。吉男は怪我をさせたことについてのみ叱られた。先ほどまでは興奮状態だったのであまり自覚が無かったが、第三者に言われて罪悪感が湧いてくると、同時に十吾の気持ちもわかった。人を傷つけるのはこわい。おおごとにならないうちに止めてくれた友だちに感謝した。

 職員室から出るなり二人の姿を見た野呂兄弟は、そそくさと退散していった。先生の説教が効いたためでもあるが、十吾たちに畏縮してしまったのが大きい。逃げざまを見ながら十吾は、もう心配いらねえなと思った。

 ゆかりと吉男が出てきた。吉男は全員を見回して言った。

「色々めいわくかけてごめん」

 それからちょっと照れくさそうにこうも言った。

「みんな、ありがとう」

「僕は何もしてないけどね」湊は少しだけ肩をすくめた。「十吾くんから聞いたよ。僕の為に怒ってくれたんだって。こちらこそありがとう」

「ま、おれもよくは知らねえんだけどな。おれが来たときに吉男がそう言ってたから」

 十吾は後ろ盾になるような目で吉男をみた。

「話してみろよ。いままでだって、あいつらになんかされてたんだろ?」

「うん……」

 吉男は、以前から野呂兄弟に嫌がらせを受けてきた経緯を話した。湊に気を遣わせるのでは、とも思ったが、隠し事をしたくない気持ちの方が強くなっていた。

 話が終わると、湊はやはり頭を下げた。

「気づかなくてごめん」

「い、いいよいいよ。ぼくが言わなかっただけだから」吉男は話題を変えた。「でも、なんで今日に限ってわかったの?」

「おめえが教室でプリント集めてるとき、みょうな顔してたからだよ」と十吾が少し怒ったふうに言った。「そんでみなとと話してたんだよ。何かあるんじゃねえかって」

「そう、それで前にこうやってプリントを集めた時、次の授業に遅れて来たのを思い出したんだ」湊が解説を加える。「あの時はお腹が痛かったって言ってたけど、本当かなと思ってね。それで僕が上条さんに事情を説明している間、十吾くんには先に行ってもらったってわけさ」

 十吾は気づいていないが、吉男の様子がおかしいのを察知できた根本的な理由は、長年の悩みが無くなり、覆われていた視野が開放されたからだった。自身の力を守るために使うと決めた、新たな意識の働きかけとも言えた。

「何事かと思ったわ」ゆかりは慮るように話した。「でも、間違いかもしれないけど、って言いながらも加瀬くんがすごく心配そうなのがわかって」

「そうなんだ……」

 吉男は目頭が熱くなるのを感じた。洟をすすり、あらためて皆を見て言った。

「ありがとう。本当に」

「なーに、いいってことよ」豪快に笑いながら、十吾は吉男の背中をばんと叩いた。

「あたっ」吉男がたたらを踏む。しかしすぐさま、乗り気になって十吾の脇腹をくすぐった。「ひっひっひ」

「まったく、しょうがないわね」早くもふざけはじめた二人にため息をつくゆかり。だが、もう「男子は」とは付かないようになっていた。「あんまり無理しちゃだめよ」

 その声には頭ごなしの非難などはなく、ただ確かに女性の優しさと、母性が含まれていた。包容の心地がして、吉男はちょっと見とれてしまった。

「は、はい」

 湊は、やっと間に合った、と思った。ゆかりにはどう声をかけていいか迷い、十吾にも過去を知りながらどんな関わり方をすればいいか考えつかなかった。ムトの研究を進めても恩恵は間接的であり、本当はもっと表立って助けになりたかった。だが、触れてしまうのが正しいことなのかどうしてもわからなかったのだ。

 結果的に二人は何かきっかけがあってさっぱりしたようで、その点は大いにほっとしたが心にしこりが残り、それこそがおこがましいような気さえした。

 だから、吉男を助けられたことが湊はうれしかった。完全な形ではないにせよ、仲間に、友だちに、ようやく何か返せたこの気持ちは代えがたいもののように感じた。それは、満足感とは別のものだった。

「吉男くん。次からは困ったことがあれば、僕たちに話してほしい」二人のじゃれあいが終わってから湊が言った。「僕も何かあれば吉男くんに相談するよ」

 吉男にもまた、うれしさがこみ上げた。与えられるだけのものではないと思えた。そのうれしさに、吉男は胸を張っていられた。


 冬休みになった。住処へと宿題を持ち寄り、毎日通った。片仮名を習得したムトはいよいよ漢字へと突入したが、均整のとれた字がうまく書けず、苦戦している。しかしそれも楽しんでいるようだ。皆で互いに教えあったりしながら勉強する様は、教室にいる時の雰囲気に近かった。

 だからなのか、ある日ムトが言った。

「学校に行きたい」

「おいおい、何をいいだすんだよ」訝しげに十吾が言った。「人前にでて平気なのかよ」

「私が住処に居続ける理由として、もちろん厄介ごとに巻き込まれないようにというのもあるが、一番は円滑な瞑想のためだ。つまり、人が多すぎる場所を極力避けている。しかし今は冬休みで、学校に生徒はいないのだろう? 校内を見学する又とない機会だ」

 こんなふうにムトが大々的に望みを言うのは初めて聞いた。できれば叶えてやりたいが心配もある。皆が顔を見合わせていると、ムトが「それに」と言った。

「私が宇宙人だと、見分けがつくと思うか?」

 この上なく説得力があった。いつも一緒にいるから意識は薄かったが、確かに見た目だけなら自分たちと変わらない。不足な点は微調整も出来るのだ。

「わかったよ」湊が折れた。「ただし、外にいる間は形態変化を禁止にしよう」

「了解した」

「だったらよ、それどうにかしないとな」十吾がムトの服を指さす。「おめえ、いつも薄着だもんな」

「なるほど。差異だな」あまりにも季節感のない服装は悪目立ちの種になる。むろん場所にもよるが、人のいる商店街を通って学校に行くことを考えれば、防寒着は必須だ。

「ふむ」

 四人の服装をじっくり眺めてからムトが動いた。シャツの一部が伸びて首を回りはじめたかと思うと、だんだん柔らかさを帯びて繊維が立ち布になり、最終的に毛糸らしいマフラーができあがった。さらに、膨らみを増した手が成形されていくと革の手袋になった。おまけに靴下まで履いている。

「こんなものか?」

「やるなムト」十吾が親指を突き立てる。

「でもバランスが悪いよ」吉男が自身の上衣をつまんで言った。「靴もないし、もっと厚着した方がいいんじゃないかな」

「形態変化で賄えるかい?」湊がたずねるとムトは首を振った。「いや、質量が足りない。手袋とマフラーは他を削って補ったが、やりすぎると人間としての形を保てず不自然だ」

「じゃあ靴は僕が持ってこよう」

「あたしは上に着るものを持ってくるわ」ゆかりはムトの体格を宙でなぞった。「うん。サイズは大丈夫そうね」

 翌日、ゆかりが持参したパーカーを着てムトは「おお」と感嘆した。

「良いんじゃないかな」湊が言った。「フードはいざという時、顔を隠す手段になる」

 乳白色に、大きな淡い水玉模様。自分としてはお洒落にも気を遣ったつもりなのだが、機能的な面を褒められて、ゆかりは少し残念だった。全くうれしくないとも言い切れず、なんとも複雑だ。

「そんじゃ、行こうぜ」

 エレベーターに乗ると、どきどきした。何せ、ムトとの初めての外出だ。見つからないだろうか。ばれないだろうか。不安にまみれながら、外に出た。

 人のまばらな商店街を歩く。溶けた雪で地面は濡れ、道の端に除けた雪が固めてある。寒さのために店の戸は軒並み閉まっており、八百屋などは店主が奥に引っ込んでいる。最初は人とすれ違うたびに警戒していた湊たちも、やがて誰も自分たちを気にしていないことがわかってきて拍子抜けした。むしろ、おどおどしていると逆に怪しいということもあり、少しずつ常態になった。四十年ぶりの外はだいぶ様子が違っているらしく、ムトは辺りを眺めまわした。皆からすれば、外にいるムトが新鮮だった。

 念のため、裏門から校内に入った。ぐるっと校舎を周り、玄関へ。皆は上靴に履き替えたがムトの分がない。来客用のスリッパにしようかと相談していると、十吾が靴を投げてよこした。「それ履いていいぜ。おれが許す」

 その上靴には「竹井」と書いてあった。

 階段の手前で、職員室から出てきた松尾先生とばったり会った。

「お、何してるんだ?」

 迂闊だった、と湊は思った。冬休みと言えど、先生たちは仕事で来ている場合もある。せめて職員室から遠い側の階段を使うべきだった。

「その子は誰かな」

 松尾先生がムトを見た。ムト、とはいかにも風変わりな名前であり、話が膨らむのを湊はおそれた。ともすれば素性へと及びかねず、どこを掘り下げられてもぼろが出そうな気がする。しかし返事にまごついていると、ゆかりが自然に言った。

「親戚です。今うちに来ているので、この辺りの案内を」

「親戚かあ」得心いったとばかり松尾先生がぽんと手を叩く。ムトも黙って首肯する。「でも、あんまり似てないな」

「よく言われますの」ゆかりは媚びない目で苦笑してみせた。

「ふうん」

 松尾先生は、それから吉男を中心にあらためて五人を見回した。

「なんだか珍しい組み合わせだけど、仲いいんだな。お前ら、あんまり遅くなるんじゃないぞ」

 安心したような顔で、先生は玄関から出ていった。吉男が一息つき、十吾が女の恐ろしさの片鱗を感じる中、湊はゆかりに近づいた。

「ありがとう。助かったよ」

 今度は素直にうれしかった。でも、あまり頼りがいがありすぎてもだめかしらと思い、すかさず何がだめなのかと考え、そのうち恥ずかしくなってきたものだから、ゆかりはあわてた。「い、行きましょ」

 休日なので教室は開いていなかった。だがそれでも、扉についた小窓を使い、ムトは角度を変えながら中を観察した。

「ここが、教室。ここで、ミナト達が」

「そうさ。今はいないけど、授業中は一人ずつ席について、前にある教壇に先生が立つのさ」湊も横で覗きながら説明する。

「あれはなんだ」

 ムトが指したのは、壁に並ぶ習字だった。

「字の美麗さを競っているのか」

「そうじゃないよ。優劣はないんだ」

 どう言ったものかなと、湊は喋りながら考える。

「さしずめそうだな、記録みたいなものさ」

「なるほど、悪くない」

 ムトは納得したようだった。

 校内を巡るうち、体育館から物音が聞こえてきた。ムトが興味を示したので慎重に近づき、下部にある格子窓からそっと窺うと、中では選手服を着た主婦とおぼしき数人が円陣を組んでいた。

「バレーの試合をするみたい」

 声をひそめるゆかりに、同じく声を抑えてムトが質問する。

「バレーとは?」

「スポーツの一つよ。ムトはスポーツってわかる?」

「幾つかの規定に則って運動による競争を行うこと、と認識している」

「まあ、そんな感じ。バレーは自陣の床にボールが着いたら相手の得点になるのよ。逆も然りね」

「なるほど。しかし見たところ生徒ではないようだが、あれらは教員か?」

「生徒のお母さんよ。交流のために親御さん同士が集まるの」

「通りで老けている。顔に何か塗っているのは呪術の類か?」

「妙なこと知ってるのね……」

 それ絶対聞こえるように言っちゃだめよ、と言い含められたムトは不可解そうだ。

「そういえば、ムトの親ってどんなの?」吉男が訊ねた。

「君達のような親という存在はない」

「えっ、だったらどうやって生まれたの」

「明確ではない。私が母星の片隅で覚醒した時には既にこの姿であり、精神こそ徐々に備わっていったものの、先にいた同族に訊いても、一様に口を揃えて気がつけば己が存在していたと言う。ただ、もっとも古株にあたる族長によれば、最初はやはり何もなかった空間に自転のたびガスが溜まり、やがて我々が形作られたらしい。それより過去、原初の理は誰の記憶にも無いのだ」

「難しいなあ」

 吉男はちょっと頭を抱えた。でも、最初からないのはそんなに悲しくない。失うから悲しいのだと思った。それをいつもわかっていられたらいいのに。

 強烈なスパイクが決まった。無音で拍手する四人を真似て、ムトも手を合わせていた。

「お、雪合戦」

 戻りぎわ、渡り廊下から校庭を見て十吾が言った。二、三年生くらいの何人かが、わいわいとはしゃいでいる。

「何をしているのだ?」

「しらねえのか。雪をぶつけあってあそぶんだよ」十吾が手をこねる。「こう、雪を丸めてな、玉をつくるんだ」

「何のためにそんなことをする?」

「だからあそびだよ。理由とかねえって」

「ふむ。そうか」と言いながら、首を傾げて見るムト。

「ひょっとして、やってみたいの?」

 ゆかりがたずねると、ムトは遠慮がちにうなずいた。

「でも校庭は人がいるから使えないよね」吉男が悩ましげに呟く。

「そうだ」と湊が手を叩いた。「良い場所がある」

 湊の案内で訪れたのは、通学路の脇にある空き地だった。隣接するアパートのために日当たりが悪く、一面に積もったままの雪が残っていた。

「ほら、行ってみろよ」

 十吾に促され、ムトは真っ白な絨毯へ一歩を踏み出した。さく、と音がして、足裏に独特の感触が残る。また一歩。ムトは振り向いて自身の足跡をじっと見ている。湊たちも入って様子を窺っていると、ムトは急に飛び出し、ざくざくと空き地全体を踏みしめはじめた。そして高らかに言った。

「ら!」

「足跡をつけるのが楽しいのかな?」と湊が首をひねった。まるでムトみたいだと吉男は思う。「久しぶりにムトのら! を聞いたなあ」

「よかっぶっ!」

 同意しようとした吉男を、雪玉が襲った。遠くで十吾が得意げに笑みを浮かべている。

「見たかムト、こうやるんだ」

「やったなあ」と吉男が手近な雪をかき集めていると、十吾が「ぶお!」とのけぞった。

 投げたのはゆかりだ。「不意打ちは卑怯よ」

「てめえ、やりやがっ――ぶへ!」すかさず吉男が追撃し、ゆかりとにやりと笑いあった。

「いいかい、こうするんだよ」ムトに雪玉の作り方を教えていた湊が、二人で同時に投げた。玉は、それぞれ十吾のでかい図体に命中した。「うまいうまい」

「うまいじゃねえよ」体を起こしながら抗議する十吾。だがその鼻に雪が見事にくっついていたので、皆は噴き出してしまった。「あはは!」

「まったくよお」

 あきれた素振りをしながら、十吾も笑った。

 それから組分けして、ちゃんと雪合戦をした。慣れてくるとムトは正確無比なコントロールで雪玉を投げはじめ、かなりの活躍をみせた。さすが、自分たちより身体の使い方を心得ているなあと湊は思った。そして何より、ムトが楽しそうなのがうれしかった。雪が積もると空き地に繰り出し、時には雪だるまを作ったり、雪の上に寝転がったりしながら、冬の日は過ぎていった。

 あっという間に年が明け、冬休みも残すところ二日となった。十吾以外はきちんと宿題を終わらせ、あとは新学期を迎えるのみだ。その十吾といえば、ゆかりから小言をくらうたび、よこしまな笑みを吉男に向けた。絶対写させてやるもんか、と吉男は思った。でも、どうせ押しきられちゃうんだろうなあ、とも思った。

 前日に雪が降ったので、その日は空き地に行くことになった。学校が始まれば、しばらく行ける機会もない。心なしかムトも名残惜しそうに見えた。

 いつも以上に張り切り、雪合戦はやたらに盛り上がった。しかし、ひとしきり雪玉を投げ合い、休憩している時だった。

 いきなり、ざあざあと頭が揺らいだ。何か煩雑な乱れが一挙に流れ込んでくるようだった。四人はその場にへたり込み、未知なる感覚にうなされた。身に起こった異変の理由がわからず、ムトを見た。しかしその正体はすぐにわかった。ムトの視線の先、空き地の入り口から、あの不吉な少年が現れたのだ。湊たちをビルへ案内したときと同じ、みすぼらしい格好をして、鍔の下でうつろな目を彷徨わせている。

「あ、あ、あ」と吉男は声を漏らした。湊と十吾も目を見開いている。三人の様子がおかしいのでゆかりは戸惑う。

 雪を抉るような摺り足で、ゆっくりと少年が近づいてくる。そして、前方に手を伸ばしたかと思うと、突然ムトは倒れ込んでしまった。反射的に十吾が向かおうとしたが、同じように少年が手を差し出すと揺らぎが大きくなり、とても動けなかった。

「……て……く」

 およそ聞き取れないほどの弱々しい声で何事かを呟いたあと、少年はムトを抱えて去っていった。しばらく、四人は立ち上がれなかった。


 十五分ほど経って、ようやく妙な感覚から解放された。湊はまず、吉男と十吾に確認した。

「彼のこと、覚えているかい」

「う、うん」吉男がうなずく。「でも、覚えてるというより」

「思い出した、な」十吾が顔をしかめる。「なんで忘れちまってたんだ」

「ねえ、みんなは知ってるの?」ゆかりがたずねた。「あの子、なんだか普通じゃなかったわ」

「そうか、上条さんは面識がない」

 あわてて湊がいきさつを話した。

「それで、僕たちが忘れていた理由だけど、一つ思い当たることがある」

「まさか」吉男がおそるおそる言った。

「うん、彼はムトの仲間じゃないかな。だとすると記憶が無いことや、あの不思議な力も説明がつく」

「そんな、この町に二人もなんて」

 だが、そうとしか考えられない。常識で決めつけないことを意識している湊はすぐに思いついた。

「でも、さっきなんて言ったんだろう」

「それなら、あたしわかるわ。連れて行く、って言ったのよ」

 ちょっと俯いたあとすぐ、決意したようにゆかりは顔を上げた。

「あたし、くちびるの動きを見れば何を言っているかわかるのよ」

「あ、おめえ」十吾がはっとした。自分の悪だくみをよく気づくゆかりの謎がようやく解け、脱力した。「そんなことだったのかよ」

「そうよ。でも今はそんなことどうでもいいわ。さっきのムト、見たでしょ」

 途端に、十吾は守れなかった自分への怒りを沸騰させた。

「倒れる前、後ずさりしたね。逃げようとしたんだ」湊が悔しげに言う。「ムトはさらわれた」

「助けるぞ」

 十吾が拳を握りしめた。皆も揃ってうなずく。

「でも、どこにいるのかしら。まずはそこよ」

「あいつ、となり町から来たって言ってたな」

 激情に駆られながらも、十吾はまだ考えることができていた。

「でも、それだけじゃどこにいるか」吉男がおろおろした。「どど、どうしよう」

「いや、ちょっと待ってほしい」

 湊は、早る十吾たちを制した。

「彼の足では、まだ遠くまで行っていないはずだよ。もしそうなら、僕たちはとっくにムトを忘れている。彼は遠くまでいける可能性があるけど、ムトはそうじゃないからね。まだこの町にいるはずさ。何か心当たりがないか、考えるんだ」

 三人が必死に乏しい記憶へ思考を巡らせる中、ゆかりは歯がゆくなった。自分はその時いなかった。どうにか有力な情報をだしたい。でも、どうしたら。どうしたら力になれるのか。いや違う。それは結果だ。気持ちを言葉に変えるのは後でいい。起こり得る事象のみを捉える。彼の目的は知らない。だとしても意図はある。相応しい考え方を。辿り着ける答えを。

 全力で頭を回転させたとき、ゆかりは湊の言葉を思い出した。答えから逆算。そうだ。答えから一番近いのは。

「ねえ、最初に彼がいなくなったとき、誰も見ていないの?」

「ああっ」

 吉男が声を上げた。

「ぼ、ぼく見たよ」

「ほんとか!」十吾が息を荒げる。「どこだ」

「う、うん。ビルに入る前、路地裏に入っていくの、ぼく、見たよ」

「よし」

 聞くなり、十吾は空き地を飛び出していった。三人も急いで追いかけた。


 うらぶれた雑居ビル群の、暗く澱んだ壁の間を進んでいく。埃っぽく狭い路地には、隙間からわずかな日光が射していた。上方から電車の通る音がするが姿は見えない。人気はなく、吹き溜まりのような雰囲気だけが漂っている。まともな者には無用の場所であり、突き当たりまで来ても、打ち棄てられた資材や段ボールがあるのみだった。

「行き止まりじゃねえか」

 苛々した口調で十吾が言った。「おいよしお、ここに間違いないんだな」

「確かにこの路地だったよ」

 勢いこむ十吾に疑念を持たせては悪いと思い、吉男ははっきり答えた。

「でも奥がこうなってるとは知らなかったんだ」

「くそっ、振り出しか」十吾は壁を叩いた。

「落ち着いて。また考えるのよ」

 ゆかりの張り詰めた声を聞いて多少腹も立ったが、十吾はどうにか受け入れ、腕を下ろした。

「とにかく、ここにいたってしょうがないだろ。出ようぜ」

「いや」

 戻りかけた十吾たちに、それまでずっと考えていた湊が言った。「違うかもしれない」

「何がちがうってんだよ」

「厳密には行き止まりじゃない」湊は下を指差した。「マンホールがある」

「おめえな、こんな時にへりくつ言ってる場合じゃ」

「ここを見てほしい。こじあけた跡だ」

 確かに、穴の淵が擦れて傷ついていた。「しかもまだ新しい」

「おいおい……」

 普通なら考えにくいが、状況は揃いつつあった。

「下水道に潜んでるなら、あの汚れた身なりも説明がつく。ここなら住処から近いし、ムトを見張るのにも向いてる」

「待って。いつもここに隠れていたなら、あなたたちが忘れることはなかったんじゃない?」ゆかりが疑問を投げかけた。

「それは僕も考えた。でも、彼が空き地に来たとき、僕たちは彼が空き地に入るまさにそのときまで思い出さなかった。距離だけで思い出すなら、空き地に入るもっと前にわかっていたはずだよ。でも、ムトが言ったように彼にも離れた時間が関係するなら、近くても会わない限りは忘れてしまうんだと思う。初めてムトと会った日から何日後に彼を忘れたか、今となっては定かじゃないけどね」

「なるほど……」

 では、やはり時間はないのだ。しかしそれだけわかっていながら、湊は冷静を保っていた。危機に瀕し、ともすれば感情的になりそうな心を抑えることができたのは、ムトを救うという強い気持ちのお陰だ。今、湊の頭はかつてないほどの力を発揮していた。

「確かに僕たちには時間がない」沈むことなく湊が言った。「でも、急ぐ必要はあっても焦る必要はないはずさ。闇雲に突っ込んでもムトは助けられないんだ。きちんと作戦を立てよう」

 力強い湊の一言で三人は安心した。頷きあい、意志を団結させた。

「まず、本当にここにいるのか確かめなきゃいけないんだけど、僕は工具を持ってないんだ。そこで十吾くん」

「おう、家にいけば何かあると思うぜ」

 待ってろ、と言って十吾はすごい勢いで出ていった。

「でも湊くん、あのおかしな攻撃はどうするの? あの、手を前に出すと気持ち悪くなるやつ」胸に手を当てながら吉男が言った。

「一つだけ、彼に対抗する手段がある」

 咎を背負う顔で答えた。「ムトと同じなら、という条件はあるけれど」

「そうか、塩ね」ゆかりがはっとした。

 湊が頷く。「でもこれは賭けだ。人間が毒を飲めば死んでしまうのと同じで、ムトの種族共通の耐性なら効果は望めるけど、アレルギーのように個人差のあるものかもしれない。だとして、現状これしか手がないのも事実だ。情報は限られてるけど、その中で最善を尽くさないとね」

 二人に緊張が走った。しかしそれは湊も同じなのだ。いてもたってもいられなくなり、吉男は身を奮わせた。

「ぼく、塩買ってくるよ」

「頼むよ」

 気持ちのこもった吉男の目に、湊も目で応えた。

 数分後、息を切らせながら十吾が戻ってきた。その手にはなぜかリコーダーの袋がある。

「さすがに人目につくと思ってよ」

 袋の中からはバール状の鉄の棒が出てきた。

「ちょっと短いけどな。ここにこうして……おりゃあっ」

 穴に引っ掛けた鉄棒へ十吾が渾身の力を込めると、どうにか重い蓋が開いた。暗くて奥は見えないが、梯子はかかっている。

「ありがとう十吾くん。とりあえず、僕が一人で見てくるよ」

 リュックに入っていた懐中電灯をポケットに差し、湊はすぐに降りようとした。

「気をつけて」つい不安になってゆかりが言った。

「大丈夫さ」湊は微笑んでみせた。

 踏み外さないように、なるべく音を立てないように、一段ずつ慎重に降りていく。地上の光と音はやがて遠ざかり、底に着くとほとんどなくなった。苦々しい湿気た匂いと、しんとした寒さと静けさばかりが、薄闇の中に満ちていた。

 懐中電灯をつける。あくまで照らすのは足元だけだ。靴音が鳴らないように忍び足で周辺を探る。時どき壁にある常備灯はあまり先まで見渡せない。通路は入り組んでいそうだ。下方に水の溜まりがある、鉄柵の付いた細い道を進んだ。

 振り返り、帰り道を確保しながら何個目かの角を曲がると、湊はすぐに身を翻した。道の真ん中に彼がいたのだ。慎重に様子を窺うと、倒れたムトに向かってぶつぶつと何か言っている。動きだす気配はなかったので、湊は引き返し梯子を登った。

「いた」

 緊張感を少しずつ吐きだしながら、湊は三人に報告した。

「居場所は突き止めたね。十吾くんに塩のことは説明してるかい?」

「もちろん。この通り」戻っていた吉男は袋を掲げた。「四つの袋に小分けしておいたよ」

「よし。それで、下に行って感じたんだけど、道が狭いから挟み撃ちにしようと思う。空き地での動きを見る限りでは手を向けないと攻撃できないみたいだし、一方向から突撃してもまとめてやられるだけだからね」

「それはいいけどよ、どうやって反対に回りこむんだ?」

「どうもね、方向的に公園の辺りみたいなんだ。彼が初めて現れたのも公園だったろう。だから近くにマンホールがあるんじゃないかと」

「本当かよ。つうかあったとしてもよ、あいつのとこまでたどり着けるのかよ」

「確証はない。でも、いつもこの町を探検してきた僕と吉男くんなら、大体の位置関係をつかめると思う」

 湊に顔を向けられ、吉男は不安ごと腹を括った。「う、うん」

「しょうがねえなあ」十吾はにやりと笑って鉄棒を差し出した。「待っててやるからはやくしろよ」

「ありがとう。二人でやればなんとか開けられると思う。あと」湊はメモ帳に彼の元までの地図を書き、トランシーバーと一緒に十吾に渡した。「見つけたらそれで知らせるよ」

 そう言って、湊と吉男は出ていった。もう、だいぶ日が傾いてきていた。

 十吾とゆかりが二人きりになることはこれまでなかった。お互いに避けてきたのだ。今も居心地の悪い沈黙が降り、そのせいで決戦前の切迫感が増している気さえした。だが、それもなんとなく癪だと思い、十吾はわざとらしくゆかりを茶化してみた。

「なんだよ、怖いのか」

 ゆかりは呟くように吐露した。

「しょうがないでしょ」

 てっきり強力に否定されると思っていた十吾は面食らった。素直に認めるとは思っていなかったのだ。しかし俯きがちなゆかりの様子がやがて本当だとわかってくると、話してみるか、という気になった。

「おれだってこわいけどよ」

 十吾は不器用な声で言った。それから目を合わさないまま、ゆかりの背中にそっと手を置いた。

「でもよ、おれだけじゃねえ。みんなでやるんだからな。みなともよしおも、きっとうまくやってくれる。おれはそう思ってるぜ」

 ゆかりもまた、意外に思った。こんなことする人じゃなかった、と。でも悪い気分ではなかった。言葉の意味を感じとり、気がついた。この人の手、こんなに……。

「そうね」

 ゆかりは微笑した。それから付け加えた。「でもね山野くん」

「なんだよ」

「宿題は自分でやらなきゃだめよ」

「ふん」

 十吾は鼻を鳴らした。「気が向いたらな」

 ゆかりはくすくす笑った。十吾も黙って笑っていた。

 そのとき、トランシーバーから吉男の声が聞こえた。

「見つけた!」


 しっかりと方角を見定めてから、公園のマンホールを降りた。静寂と、暗がりの冷えた湿路。下賤の者が潜む雰囲気に、吉男は呑まれそうになった。だが、そんなことではムトを見つけられない。臆せず進む湊を見て、心を強く持とうと思った。

 声を出さず、身振り手振りだけで互いの感覚を知らせ合い、調整をしながら慎重に歩いた。彼が移動して鉢合わせする可能性もあるので、せめて足音や気配で気取られまいとしてだ。直線距離なら大して長くはないはずだが、湊らが定めた地点に沿って作られたわけではないため、融通はきかない。それでも辛抱強く回り道をしながら、湊と吉男はとうとう彼の元まで辿り着いた。かかった時間からして、ゆかりと十吾はもう位置についているはずだ。確かめる術はないが、信じていた。

 角に身をひそめ、湊は手はず通りトランシーバーを起動した。雑音混じりに通信が確立されると、吉男と共に飛びだした。突撃の合図だ。迫りくる靴音と服の擦過音に反応した彼がこちらを見た。先頭の湊に腕を向ける。しかし、同時に反対側から出てきた十吾らに気付き振り返った。挟撃は予想外だったようで、どっちつかずな動きをしている。両組の距離はほぼ同じまま、一気に彼に接近していく。全員が袋に手を突っ込み振りかぶると、危険を察知したのか、思いきった様子で腕を伸ばした。

 激突の瞬間はどちらが先とも言えなかった。だが、気付いた時には彼は止まっていて、ムトの傍らに湊が倒れていた。

「湊くん!」

「う……」

 吉男が呼びかけると湊は小さく呻いた。意識はあるが動けないようだ。

 一瞬、司令塔を失った衝撃で三人の頭は真っ白になった。しかしすぐに歯を食いしばり、ゆかりが叫んだ。

「山野くん、加瀬くんをお願い! あたしと矢田くんはムトを!」

 十吾と吉男ははっとして、二人を抱えた。いつ動きだすとも知れぬ彼から離れなければいけない恐怖も湧き上がってきていた。出口の近い駅側から出たかったが、止まっている彼が道を塞いでおり、再始動する可能性もある以上、下手に触れることもできず、仕方なく皆は吉男の案内で公園側から外に出た。日は落ち、逢魔ヶ時は終わりかけていた。

「住処へ……あそこなら手出しできないはずだ……」

 朦朧とした声で湊が言う。

「まかせろ。おまえはゆっくり休んでな」十吾は前を見据えた。

「行くわよ!」

 また走りだした。とはいえ、昏倒しているムトと動けない湊を連れたままなので、歩みは決して早いとは言えない。だが、それでも懸命に走った。幸い、吉男は裏道をいくつか知っていたので人目は避けられたし、近道もできた。繁みに入り雑木林を突っ切る。丘を下ると道路に出られた。いつもの十字路だ。あとは東に折れ、道なりに行けばもう駅前商店街。そう思ったときだった。

「うわっ」

 いきなり吉男が躓いた。同時にゆかりとムトも倒れる。

「おい、大丈夫、か」

 立ち止まった十吾の目に、奇妙なものが映った。吉男の足に黒い蔦が巻き付いていたのだ。その先は四つ角の中心、マンホールに繋がっていた。

「はなれろよしお!」

 咄嗟に叫んだが、吉男は蔦に振り払われる形で身を投げ出され道路を転がった。十吾は電柱に湊を凭れさせ、吉男に駆け寄った。

「大丈夫か!」

「な、なんとか」

 いくつか擦り傷はあるものの大した怪我ではなかった。しかし安心などできない。内側から蓋を押しのけ、彼が地上に這い出ていた。暗いが、恐ろしい形相をしていることはわかった。

「このっ」

 ゆかりが塩を投げようとすると、細く変形した彼の腕が鞭のようにしなり、袋ごと払われてしまった。ほとんど目で追えないほどの速さであり、十吾と吉男の持っていた袋も叩き落とされてしまった。

 立ちすくむ全員を見回したあと、対抗手段を失ったと判断したのか、道の片隅に倒れ伏すムトの方へ、彼がぬらりと寄ってきた。

「やらせねえぞ!」

 十吾が、捨て身で彼にむしゃぶりついていった。しかし少し体勢を崩しただけで倒すまでには至らない。彼は大儀そうに腕を持ち上げると、十吾の頭を掴んだ。空き地でやった攻撃を、今度は直接流し込んだ。

 それは闇だった。一条の光も射さない、一片の隙間なく敷き詰められた濁りなき純粋な闇。自身の姿さえ見えない深くも浅くもある暗黒が、十吾の周囲を埋めていた。暑くもなく寒くもない、完結された虚無の世界で理由のない根源的な恐怖が身を震わせ、言葉さえ奪っていった。

 だが十吾は力を緩めなかった。五感の薄れゆく中、必死に食らいついていた。たった一つ、後ろに人を感じていたからだ。それはゆかりだった。十吾が飛びかかった直後、ゆかりもしがみついていたのだ。そして後ろには吉男がいた。伝播する闇に蝕まれようとも、三人は互いの存在を感じとることができた。それは完全な世界では異物であり、不必要なものだった。ゆえに彼は苦しんだ。不要因子を排除する為に世界を再構築しようとした。

 彼が力を込めると、確かにつかんでいたはずの感覚が剥がれていった。三人は引き離されまいと強く念じた。だが足りない。闇の侵食を止められない。たちまち飲み込まれていく。

 朧気な視界の中で、皆の姿が見えた。一番近くにいる十吾の苦しみは計り知れない。ゆかりの心も随分弱っているし、吉男も身悶えしている。ムトはまだ倒れている。いいさ、寝かしておいてやろう。大変だったものな。

 でも、僕は。

 僕は違うはずだ。

 僕は寝てなんかいられない。

 そうだ。僕は。僕は……。

 湊は立ち上がった。おぼつかない足取りで近づき、吉男の手を握った。

 伏していた湊には、闇の流れがわかった。平坦に見える闇の、ある一点の脆い部分目掛けて、四人の心を統一させた。ただひたすらに祈った。何も望まなかった。ひとときも途切れることなく、四人ともが同じ心を持ち続けた。

 闇は壊れない。闇は褪せない。だが、投影すべき偶像のない闇は確固たる俗物であり、どこまでも佇立した存在だ。境界のない本来の姿を取り戻せば、いつか冬の舗道に帰ることも出来るのだ。

 彼はいなくなっていた。


 住処に着くと、どっと疲れがでた。全員くたくただったので少し眠り、起きるとムトが立っていた。

「ムト!」

 飛び起きて呼びかけると、いつもの眠たげな眼差しで応えた。

「私なら心配いらない」

「よかったあ」

 吉男が大きく息を吐き、皆一様にほっとした。

「そっちは大丈夫なの」ゆかりが湊を見た。

「まだちょっとぼんやりするけど」額をさわった。「大体は回復したよ」

「よかった」

 ゆかりは隠し立てすることなく、安堵の表情をみせた。

「それでよ、あいつは何者なんだ?」

 十吾が眉間にしわを寄せる。「おっそろしい奴だった」

「察しはついているかもしれないが、私の同族だ。名前はギイという」

「やっぱりそうか」湊がうなずく。「でも、同じ星に二人もなんてすごい偶然だね」

「そうだな。私も会うまでは気付かなかった。ギイは昔から気配を隠すのに長けていて、不意をうって我々を驚かせることがしばしばあった」ムトは少しだけ下をみた。「もっともそれは彼にとって一種の交流であり、不快がる者もいなかった。しかし故郷を離れてからは少し変わったようだ。君達も見ただろう。あの暗黒を」

 思い出そうとしなくても、消えるはずのない景色だ。四人は黙ってうなずいた。

「あれは私が君達に見せる映像と同じ、彼の記憶だ。ギイは二千年以上、たった一人であの星に居たのだ」

 もはや想像もつかないほどの年月だった。とはいえ、ほんの末端だとしてもあの暗き世界を体感した者からすれば、とても常人には耐えられないであろうことはわかった。きっと自我を保てない。永劫の孤独。ムトが少し変わったといった意味が理解できた。

「ところがそれほど長い時間をかけたものの、ついに適合はしなかった。嗄れ、虚脱状態のまま流れ着いたのがこの星なのだ。私は眠っている間、彼の記憶を見ていた」

 同情すれば良いというものではないが、一方的に悪と断じることもできなくなっていた。やはり知ることが肝要だ、と湊は思った。

「この星に来てからも数年は抜け殻のようになっていたが、生命の息吹、大気の瞬きを感じるうち、動けるようになったらしい。しばらく瞑想に適した地を求め、世界中を渡り歩き、辿り着いたのがこの町だ。もっとも私と違いギイの場合は地下水道だったがね、ともかく彼はようやく安心して一つ所に居を構えた」

 ギイのことを聞くにつれ、抱いていた得体の知れない気持ち悪さは少し和らいできた。

「だが、彼はやがて気付いてしまった。生命があり、文明があり、風や雲や豊穣の大地があるこの星において、自分はやはり独りだということに。闇の中に居るときあれほど求めていたそれら差異があるばかりに、一層己の孤独が浮き彫りになった。彼はさんざ思い悩み、足掻いた。逆説足り得る何かを見つけようとした。しかし空っぽだった。最初から単純なことだった。そして、とうとうこの星も適合しないと判明した頃、私を発見した」

 淡々とした語り口だが、内心違うことはわかっていた。

「ギイは星を去る前にどうしても旅の仲間が欲しかった。この時点で交渉という選択肢はなく、連れ去ることしか頭になかったようだ。とはいっても、私が住処から出ないことには適わない。住処とは、同族間では不可侵の領域だったからだ。そこで第三者に焚き付けさせようと考えた。選ばれたのは君だ、ヨシオ」

「え、ぼく?」

 いきなり指名され、吉男は動揺した。ところが湊は逆に合点がいったというふうに「そうかっ」と手を叩いた。

「違和感があったんだ。いや、正確にはあったことを思い出した。彼に会ってからね。吉男くんはどこでムトの噂を聞いたんだろうってさ」

「あっ」どきりとして胸を探ったが、手ごたえはなかった。「本当だ。心当たりがないや」

「そうだ。ヨシオは記憶を改竄された」

 改竄の意味を湊がすかさず説明する。

「学校からの帰路、いつも未確認生物の話をしていただろう。あの十字路の中心、すなわちマンホールの直上でだ。地下から町中の様子を探っていたギイは、ある時ヨシオに目をつけた」

「で、でもなんでぼくだったの」

「ギイにも選定基準があったようだ。それは、実際に私を捜索するという行動込みに好奇心の強い者、それから私の警戒心を引き上げない、比較的善良な人間。そして、万一騒ぎ立てられた場合になるべく被害が小さく収まりそうな、社会的地位の低い者、つまり子供だ。ヨシオは条件を満たしていた。蓋の穴から魔手を忍ばせ、ヨシオの足を始点に記憶を書き換えたのだ。さすがに一度でとはいかないが、毎日の刷り込みで可能にしたらしい。私のように力の弱い者にはできない芸当だ」

「人面犬の話をしていたのに、急に話題が変わったのはそれが原因なんだね」

 ううむ、と湊は唸った。「しかし気付かないものだなあ。僕も近くに居たのに」

「気配を殺すのがギイの真骨頂とも言えるほどだからな。とにかく彼が現れたのはそういう経緯だ。もっとも結局は私が外に出たいと言いだしたのだから、私の好奇心こそが最大の無用心と言える。すまなかった」

 頭を下げるムトに、ゆかりがすぐさま否定する。

「ムトは悪くないわ。無用心というなら、あたし達だってそうだもの。誘拐なんて企てる方が悪いんだから」

「そうだな……彼の計画は理に適っており、よく練られていた。だが、私を攫うという行為に疑問を持たない辺り、狂気に囚われていたのかもしれない」

 ムトは目を伏せた。

「まあ、いいじゃねえか。無事におわったんだからよ」と十吾がわざと能天気に言ってみせた。「解決だぜ」

「ところがそういうわけにもいかない」

 ムトが同じ姿勢のまま言った。「かつて我々は同じ星で暮らしていた。それは、星との適合が各人ごとではなく、種族共通の相性で決まっていたからだ」

 湊はまた嫌な予感がした。でも、口に出さなかった。

「つまりギイにこの星が適合していないのなら、私にも適合していないということになる」

 聞いてから、理解が追いつくまで少し時間があった。理解したくない気持ちが遅らせた。しかし、ムトは続けた。

「私はこの星を去らねばならない」

 突然の宣告に、しばし茫然とした。救出したばかりで安心していたのも相まって、衝撃は重かった。仕方ないことだとしても、拒否したい気持ちの方が強かった。

「それにだ。ギイはまだこの星の近くに漂っている。未練があるらしい」

と、ムトは少しだけ前を見た。

「私は、彼についていこうと思う」

「なんで」吉男が悲しそうな声で言った。「あんなひどい目にあったのに」

「そうだな自分でも不思議だ。しかし……」

 遠くを見、侘しげな目をした。

「私にとっては、彼はやはり同族だ。広く深い宇宙に散り散りになった、二度と出会えないかもしれない仲間に違いないのだ。何をされても、それは変わらない」

 普段自分たちと話しているムトも、ギイと同じ境遇の孤独な旅人なのだ。その長大で険しい独りの旅路を思えば、行かせないことが正しいとも言い切れない。むしろ自分たちの言い分はわがままでしかないのだ。受け入れる、という考えがよぎりはじめた。ただ一人を除いては。

「いつ行くんだよ」十吾がぶっきらぼうに訊いた。

「明日には発とうと思っている」

「おれはやだからな! そんな急に言われて納得できるかってんだ」激昂し、声を上げた。

「ちょっと山野くん……」と言いながら、ゆかりにも強く止めることができない。それは吉男も同じだった。

 湊が近づいていき、声をかけた。

「気持ちはわかるよ。でも、しょうがない」

「しょうがないだと」

 がばっと湊の胸ぐらをつかんだ。

「みなとてめえ、ムトと別れてもいいってのかよ。いきなり言われて、納得できるっていうのかよ!」

「僕だっていやだよ!」

 湊の叫びに、十吾すらたじろいだ。

「納得なんて……」

 拳を握りしめ、うなだれた。それから十吾を見上げたとき、湊の瞳にはもう、悲愴な決意が宿っていた。

「でも、ムトの命のためだ」

 命。口にすれば重みが増した。こうしている間にもムトの命は蝕まれている。湊も吉男もゆかりも辛いのだとわかった。以前までの十吾なら、この場面においても駄々をこねたかもしれない。でも今は違う。命の守り方は一つじゃない。傍を離れないことだけが守る方法ではないのだと、気づくことができた。

 十吾は腕を離した。そして背を向けたままムトに言った。

「見送りはさせろよな」

「ああ」

 ムトもはっきり答えた。様々な思いが巡ったその夜は、誰もまともに眠れなかった。


 冬休み最後の日、顔を合わせた四人はやはり憂鬱な顔だった。納得していても気は進まない。だが、それでもムトには会いたい。寂しい気持ちを抱えたまま住処へ行くと、一面が花畑になっていた。

「えええ」吉男が素っ頓狂な声をあげる。

 鮮やかに彩られた無数の花が部屋中に咲いていた。大小さまざま、中には珍奇な形をしたものもあるが、部屋の発光から相乗効果を受けた神秘的な光景の美しさに息を呑み、目を奪われた。

 部屋の真ん中にムトがいた。呼びかけると、花が部屋の隅に寄っていき、ムトまでの道を作った。「おはよう」とムトが言ったので、ひとまずいつも通り挨拶をする。

「これ、どうなってるの?」少し気分を持ち直したゆかりが言った。「ずいぶん前に形態変化を見せてもらった時、こんな花を咲かせていたわよね」

「同じものだ」とムトは答えた。「この部屋は私の一部なのだ」

「ええっ」四人とも驚愕した。

「肉体の一部というわけではないが、そもそも住処というのは私に蓄えられた星の力を使って形成されているので、私の意のままに動かせる。形態変化も自由というわけだ」

「知らなかった」

 毎日通いつめていても、まだまだムトの中には底知れぬ未知が眠っている。ますます離れがたい気持ちが湧いてきた。

「でも、なんで今日はこんなことしてくれたの?」と吉男が訊ねた。

「君達には色々と世話になったので、何か礼を尽くさねばと思ったのだ。これくらいしか出来なかったがね」

「そんな」

 礼を言うのはこちらの方だと、皆が思った。ムトからは数えきれないほどのものをもらった。この部屋で起こった不思議な体験だけではない。もっと、言葉で表せられない大切な何かをだ。

 それはこちらが勝手に受け取ったものかもしれない。けれど、だとしても、ムトと過ごした思い出はかけがえのないものだった。だからこそ、ムトからの告別は受け入れなくてはいけない。

「ありがとう、ムト」と湊が言った。「僕たちの方こそ、ありがとう」

 それから、ムトに文字を教えたりちょっと実験をしたり、いつもと同じ過ごし方をした。時おり悲しみが湧くたびにぐっとこらえた。時間よ止まれと何度も念じたが、楽しい時間は過ぎるのが早かった。どうしても、今は一瞬だった。

 夕方になり、ムトが「出よう」と言った。最後にエレベーターに乗り込んだムトが手をかざすと、部屋から収束した光がムトの元へ集ってきた。部屋のあった場所にはぽっかり穴が空いたが、奥から壁がせり出てきて最終的には横の壁となだらかに同化した。一階に到着後またエレベーターに触れ、「これで元通り」と言ったとき、ムトの体は青白く微発光していた。

「星の力を回収したってことかい?」湊が訊いた。

「そうだ。だがこのままでは目立つので、これを使わせてもらう」とムトはパーカーのフードを被った。「すまないなユカリ。後で返す」

「いいわよあげる。餞別ね」

 ムトの服をつまんで乱れを直し、ゆかりは笑った。

 外はすっかり暗くなっている。もう帰る時間だ。

 人がいない所が良いとムトが言うので、湊たちは路地裏に案内した。予想通り誰もおらず、狭い空が見えた。

「では」と言ってムトは一人ずつ握手を交わした。「別れの時はこうするのだろう?」

 別れ。はっきり口にされると堪えるものがある。でもムトだって平気なわけじゃない。手を握ると、そう確信できた。

「そんなにしんみりすんなよ。これで終わりじゃねえぞ」

 十吾が湊の肩に手を置いた。「みなとがえらい科学者になったらよ、また会えるぜ。そうだろ?」

 湊は噛みしめるようにうなずいた。「そうだね。きっとそうだ」

 そのとき、ぼくは何者かになれているだろうか、と吉男は思った。

「楽しみにしている」

 ムトはもう一度湊と握手した。「そろそろ行くよ」

「うん」

 穏やかに見送ろうと思い、皆は泣くのを我慢した。泣くと、別れを告げたムトの気持ちを無下にしてしまうからでもあるし、悲しみをはっきり自覚したくなかったからでもある。

 しかし、いよいよムトの体が光を纏ったまま宙に浮かびはじめると、とてもこらえきれなくなった。

「ムト!」

 吉男が叫んだ。「出会えてよかった! 忘れないからね!」

 皆が口ぐちに叫んだ。

「ムト! おれ、ぜったい強い男になるからよ!」

「あたしも、今よりずっと優しい人になるわ!」

「必ず会いに行くよ! ムト!」

「ムト! ムト!」

 涙が溢れた。ぼろぼろとこぼれ続けた。冷たい夜風が吹いても、その涙は熱かった。

 ゆっくりとムトが浮揚していく。上空でかすかに光るそれは信号のようでもある。

 目で追えていた姿がやがて点となり、瞬く星々の一部となってもまだ見つめ続ける四人の頭に、奔流が押し寄せた。一切を洗い流すべく決定づけられた、音のない波濤だった。

 かつて抱いた希望を胸に、四人は強く願った。大いなる忘却の力に抗い、かけがえのない一つ一つの記憶を深く刻みつけようとした。奪う波に浚われまいと、柔らかな砂にしがみついた。無数にある砂粒の、たった一粒さえ残れば思い出せる。そう信じていた。混じり気のない心は、どの欠片も同じ意味を持てるのだから。

 意識が遠のいていく。もはや何も見えない。

 それでも、在るべき星は失われない。失われやしないのだと。

 邂逅も、分かちあった時間も、誇らかなる感情の在り様も、瞳の奥に焼き付いたはずの残光さえ、何もかも、ここより何処でもない彼方へ連れ去ろうとする静寂へ、きっと届くようにと。

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