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窓外でゆらめいた粉雪が、やがて地上へ達して消える。そういえば初雪か、と湊は思う。窓際の席は、外の変化を見られるから好きだ。初雪はなんとなく楽しい。けれど大抵は続かない。松尾先生の授業はわかりやすいが、教科書はすでにもっと先の方まで読み進めているので、湊にとってはいささか退屈だ。そんなとき湊は、外を眺めたり、板書したものに自作の図解を加えることに苦心してみたり、他のクラスメイトを観察したりする。
廊下際の席では、矢田吉男が後ろの席の山野十吾にちょっかいを出されていて、声を抑えながら身をよじって抵抗していた。頑として抗わないのは、大柄な十吾との体格差からくる萎縮でもあり、あまり騒ぐと先生に注意され、あまつさえ問題に答えさせられるからでもある。どちらにせよ、他に神経が向かっているせいで、大抵は答えられない。立たされ、クラスメイトたちの視線の中で言葉に詰まる。それが吉男はいやだった。
十吾が暴力を振るうことはないし、松尾先生も道連れにされているだけとわかってくれている。しかし自分の臆病さが浮き彫りにされた心地がして、どうにも疎ましい。もちろん十吾が指されることもあるが、十吾は堂々と「わかりません!」と言ってしまう。吉男はそんな十吾をずるいなあと思い、また心の奥ではややうらやましくもあり、歯がゆいときがあった。
十吾が避けたいのは、先生や授業などではなく、クラス委員の上條ゆかりだった。十吾のちょっかいというのはあくまで冗談の範疇で、脇腹をつつくとか、落書きした教科書の偉人を見せて笑いを誘う、といった程度のものであるが、ゆかりにとっては看過できない事柄なのだ。十吾がいたずらなどをこっそり画策していても、すぐさま反応し、未然に注意してくる。その察知能力が十吾は腹立たしく、しかしとりわけ忌避したいのは、彼女の鋭利な物言いだった。ゆかりは自分が正しいと思ったことをはっきり口に出して述べる質で、たとえ相手がクラスいち力持ちの十吾であっても、臆せず正面から立ち向かう。それは理詰めというより逃げ場のない正論で、ちょっとした口ごたえも許されない。十吾が最も苦手とする相手だった。ゆかりの凛然とした立ち居振る舞いに対しても勿論そうだが、整った顔立ちのゆかりを意識しまいとするあまり気が引けるという男子も少なくはなく、しかしその点だけは、十吾の弱味にはならなかった。人間性や己との相性のみが、苦手とする理由なのだ。
クラス委員の上条ゆかりは、クラス内の秩序を保つために、常に監視網を張り巡らせていた。むろん、不穏因子の芽を摘むのが目的である。一番引っかかるのが十吾であり、だが彼の芽は摘んでも摘んでも生えてきた。こてんぱんに言い負かしているはずなのに、なぜ何回いってもわからないのかしら。男子って本当にくだらないことばかりするんだから。常日頃からそう感じているゆかりだったが、加瀬湊には一目置いていた。
ゆかりには、クラス委員として皆の規範にならなければいけないという自負があり、そのため勉学も疎かにしなかった。事実女子の中では一番の成績で、クラスの代表として申し分ない。しかしクラスで一番とならないのは、未だ湊に及ばずじまいだからだった。授業中は窓の外を見てぼんやりしていることが多く、さほど真面目に聞いているふうではないのに、先生に指されるとすらすら答えるどころか、その問題に関連する豆知識などを披露して、教室を感嘆の渦に巻き込んでしまうときさえある。テストだって誰より早く終えてしまい、そのうえ満点ばかりなのだ。
ゆかりは悔しかった。でも、気持ちがどうあれ湊の方が成績が上という事実は変わらない。ゆかりは、自分にはクラス内の風紀を守るという役目があり、常に様々な雑事を抱えているが、しかしそれを言い訳にするのは駄目だ、と思っていた。純粋に実力が上なら、成績だって上回れるはず。加瀬湊が、他の男子とは違う意味で目が離せなかった。
チャイムの音。授業が終わり、湊はいつものように吉男と帰る。
「湊くん知ってる? となり町で人面犬が出たんだって」
興奮ぎみに語る吉男に、湊も聞いたことのない単語だったので食いつく。
「人面犬ってどんなだい」
「ええと」ノートの文字を指でなぞりながら吉男が解説する。「体はふつうの犬だが、顔が人間で、言葉をしゃべる。小汚い身なりをしていて、ゴミをあさっていることが多い。カップルを見つけると悪口を言う。足がとても速く、車よりも速い。人面犬に追い抜かれた車は不幸になる、んだって」
「すごい生き物だ」
感心する湊を見て、吉男は誇らしくなる。「だよね!」
「どんな顔してるんだい」
「それがなんとね、おじさんなんだって! こわいよね」
「こわいね。でも、興味ぶかい」
ううむ、と唸りながら、湊はランドセルから動物図鑑を取り出し、ぱらぱらとめくった。「やっぱりここには載ってないなあ」
「これはぼくの予想なんだけど」
なぜか小声になり、吉男はそれなりの確信を持ったふうに言った。
「人面犬は妖怪の一種だと思うんだ」
「妖怪かあ」
しばらく考え込んでから、やがて得心いったらしく湊も同意する。
「そうかもしれないね。普通の動物とは違うところが多すぎる。次の誕生日は、妖怪図鑑にしてもらおうかなあ」
小学校に上がって以後、湊は毎年誕生日に両親から本を買ってもらっていた。動物図鑑や植物図鑑や科学実験本や地図帳。そのとき湊の中でブームになっていたものばかりだ。しかし飽き性というわけではなく、むしろのめり込んだがゆえに派生した他種の情報が欲しくなる。図鑑を眺めて、まだ見ぬ生き物や草花に思いを馳せたり、通学路の畦道や近くの小山へ出かけて、収穫したものを図鑑から探したり、自宅の庭を測量したり、薬局で入手した薬品で簡単な実験をしたりしていると、無性にわくわくして楽しいのだ。
湊は好奇心、知識欲が旺盛で、新学年になって新しい教科書が手元に来ると、授業でその単元に入るのを待ちきれず読みつくしてしまうほどである。そうすると授業が少し退屈になってしまうので、最近は進めすぎないよう調整するようにはなったが、それでも早い。
父親に車で市内の大きな本屋に連れて行ってもらい、色とりどりの本たちの前でどれにしようかと迷い悩むあの時間が湊は待ち遠しかった。しかし、過去に買ってもらった本もまた大事なので、何冊かは常に持ち歩いている。
吉男は、妖怪や都市伝説、未確認生物などに造詣が深く、それは湊が所有する学習書では扱っていないものばかりだった。そのため吉男の話は湊にとっていつも新鮮で、大変に興味をそそられる。また吉男にとっても、湊は他のクラスメイトとは違い、「存在の否定」をしないので、最も気兼ねなく話せる友だちである。未知への好奇心が強いという点で共通であり、ふたりはよく気が合った。
「今度、となり町まで探しに行ってみない?」
「いいよ。でも、だったら気をつける点がいくつかあるね。まず危ないから父さんに車で連れていってもらうのは無し。少し遠いけど自転車で行こう。カップルで行かないっていうのは、僕たちは男どうしだから大丈夫だね。あと、となり町は食べ物屋さんがいっぱいあるよね。きっと裏口にはゴミすて場があるから、そこを巡ってみようか」
探索の発起人は吉男が務めることが多いが、具体的な行動計画はたいてい湊が立てる。だからと言って関係性に優劣はなく、むしろ吉男はどんどん作戦を作ってしまう湊を頼もしく思っていたし、湊もこの立案時の会議めいたものが好きだった。
「あっ、着いちゃった」
四つ辻の中心、マンホールの上で吉男がたたらを踏んだ。話に夢中になるうち、いつの間にか別れ道まで来ているのはよくあることだった。
図鑑をしまいながら湊が言う。「つづきはまた明日」
「そうだねえ。うん。また明日」
話したりなさそうに手を振る吉男。だが、早く帰って「未確認ノート」を更新したくもある。人面犬の項目に湊と立てた計画を書き足すのだ。そして湊もまた、探検用に所有している様々な道具の手入れをしようと思っていた。あたらしい探検に向けて、はやる気持ちと楽しい気持ちを混ぜこぜにしながら、ふたりは十字路をそれぞれの自宅へと歩いた。
ところが、人面犬の話でまた盛り上がった次の日の帰り道、湊と別れる段になって吉男が言い出した。
「そういえば、この町にも未知の生きものがいるらしいよ」
やや自動的な口調で告げられたその新情報に、まるっきり戸惑いがないわけでもなかったが、しかし反応したくなる話題だったので、湊は訊き返す。
「どんな生きものなんだい」
「とても体がやわらかくて、時たま青白く光るんだって」
「クラゲか何かの仲間かい?」
「ううん、そうじゃないよ。でも、そこまでしかわからないんだ。名前や、どんな姿をしているかは、はっきりとわからないんだって」
「ずいぶん謎が多いんだね」
話の信憑性に疑念があるわけではなく、それが素直な感想だった。人面犬や、過去に調査した口裂け女や河童の時よりも情報が圧倒的に少ないためか、想起されるイメージが鮮明ではなく、湊としてはいまいち掴みどころがない。「ふうむ」
湊が首を傾げて思案していると、吉男が付け加えた。
「その生きものは、なわばりを移動するから、いつまでもこの町にいるわけじゃないんだ。だから、調査するなら今しかないと思う」
「吉男くんは、人面犬より先にそいつを探したいんだね」
「うん。だめかな?」
「だめではないけど」
そう言いつつも湊がわずかに逡巡したのは、行きたいと言うわりに吉男がそれほど行きたいふうに見えなかったからである。しかし、人面犬より優先するほどだから、それはやはり、どうしても行きたいんだろうなと思い直し、湊は了承した。
「いいよ。人面犬は逃げないものな。明日にでも探しに行こう」
すると吉男は「やったーありがとう。さっそく作戦を立てようよ」と、目を輝かせて喜んだ。やっぱり僕の思い違いだったかな。遅れぎみに湧いてくる自身の高揚を感じながら、思いつくまま案や注意点を、湊は次々と口に出していった。
翌日の昼休み。教室の隅で話し合う湊と吉男に、ぬうっと大きな影が近づいてきた。
「よう。おまえら何してんだ?」
「わわっ」
いきなり頭上から声が降ってきたので、吉男は声をあげ、あわてて振り返った。
「十吾くんかあ。おどかさないでよ」
「おめーが勝手にびびったんだろ」
ふたりの間に割って入った十吾は、吉男と湊の顔を交互に見てにやにやした。
「どうせまた未確認なんとかだろ。よく飽きねえなあ」
「十吾くんが飽きっぽすぎるんだよ」と、吉男が少しつんけんする。「どうしても行きたいっていうから仲間に入れたのに、河童の時もとちゅうで帰っちゃうし」
「だって見つからねえんだもんよ。きゅうり置いてワナにかけるなんて、待ちくたびれちまう」
「でも僕たちは、あのあと川の上流で陶器に似た欠片を見つけたよ。もしかしたら河童の皿かもしれない」
「ふん。そんなのわかるもんか」
帰った手前、否定はするものの、強く断定できるほどの材料もないため、鼻を鳴らす程度にとどめる十吾。「んで、次は何をさがそうってんだよ」
教えてもいいよね、どうせ強引に聞くに決まってるし、と目で語りながら渋い顔で湊を見やってから、吉男がノートを広げて見せた。「これだよ」
「あ、ちょっと待ておまえら」
口元に指を立て、声を出さないようふたりに促してから、十吾はゆっくりと教室を見回した。「ようし、この距離なら大丈夫だろ」
と言いつつ、明らかに教室の反対側を意識しているらしい十吾に、吉男が小声で訊ねる。
「ひょっとして上条さん?」
「まあな。あいつ、おれが何かしようとするとすぐに感づきやがるから」
憎々しげに顔を歪める十吾の体から向こう側を覗きこんで、湊が言った。
「今は友達と喋ってるね」
「おいばか。みなとやめろ。見つかったらどうする」
湊の視界を遮るように、十吾が体をにじり寄せる。
「そんなに危険なの?」
「知らねえのかよ。めんどくせえんだからな、あいつ」
「そうだよ湊くん。大変なんだからね」
一度、十吾に巻き込まれる形でゆかりに叱責されている吉男も、実感のこもった瞳で湊を制止する。しかし、いまいち六年二組の人間関係に疎い湊は、不思議そうに首を捻った。授業中に時おり行われる湊の観察は、行動のみを見ていることが多く、精神面に深く関わるものではない。
「ま、大丈夫だろ。つづきだつづき」
ノートを受け取り、十吾が大ざっぱに上から読みはじめた。
「名前、不明。すがた、不明。生息地、不明。青白く光り、とてもやわらかい体。ちゅうこう性? 夜行性? ナゾは深まるばかり……」十吾が眉をひそめる。「なんだこりゃ。ぜんぜんわかんねえじゃん」
「でもこの町にいるんだよ」十吾からノートを取り上げながら、吉男が意気込んだ。「ね、湊くん」
「うん。今日はいろんなところを回ってみるつもりだよ」
「ほんとかよ」
疑惑たっぷりの眼差しで言ってから、十吾はぱっと横に手を広げた。「まあいいや。おれ、今日ヒマしてるんだよ。だから、な、おれも連れてってくれよ」
「えー、だめだよ。だってその顔、ぜったい信じてないもの。ねえ湊くん、だめだよね」
「僕は構わないけど」
「ええっ」
てっきり同意してくれるものだと思っていたので、素っ頓狂な声が出る吉男。
「どうして? またとちゅうで帰っちゃうと思うよ」
「だとしても、いろんなところを歩き回るから、人手は多いほうがいい。十吾くんは僕たちより背が高くて、僕たちとは視点が違うんだから尚更さ」
「そんなあ」
吉男は自分が発信源になることが多いためか、未確認生物に関する事柄全般にだけは自信を持っていた。だから十吾にも強気だったわけだが、参謀たる湊に否定され、しかもそれが理にかなっており、言い返す言葉もない吉男は、しぶしぶ首肯するしかないのだった。
「わかったよ」
「がはは。さすがみなと。頭がいいのに話がわかるやつだと前から思ってたぜ」腕を組み、何度も頷きながら十吾が笑う。
「ちぇ。調子いいんだから」まだ不服そうに口を尖らせ、吉男が念を押す。「今回はとちゅうで帰ったらいけないからね」
「おう。まかせとけ」
得意げに笑う十吾に、吉男は信用ならない安心感を抱かずにはいられなかったが、湊は特に気にする様子もなく、放課後のことを思案していた。
シャベル、地図、双眼鏡、十徳ナイフ、ゴム手袋、インスタントカメラ、スケッチブック、絆創膏、消毒液、懐中電灯、虫網、縄、コンパス、温度計、撒き餌、ライター、虫眼鏡……。
複数のポケットがある湊のリュックには、様々な道具が入っている。普段の探索では使用する場面が想定できている場合が多いので、これほどまでに詰め込むことはないが、今回は何しろ相手が未知の中の未知のため、守備範囲が広いに越したことはなく、用途が限定的な道具もあるにせよ、過分と呼べるほどの荷物量も致し方ないことだった。準備が足りないことで起こりうる不測の事態を回避できるならとの思いもあり、増した重量による負担と比較しても、好機を逃すまいという気持ちが大きい。種類が多いとはいえ、なるたけ混雑しないよう、分類が近しいものを纏める形で収納されており、湊にはいつでも使う準備ができていた。吉男は湊ほど便利な道具を持っていないので、家庭科の時間に制作したナップサックの中に、未確認ノートを加えた若干の荷物を携帯する程度である。十吾に至っては手ぶらだ。
この町の中で湊がいくつか目星をつけた、滅多に人が立ち寄らず、何者かが隠れるのに適した地点を巡るため、一行は歩く。探しているのが未確認生物でなくとも、野生動物は臆病か、警戒心が強い例がほとんどであり、人間の居住地にあまり適した環境ではなく、かつ角度や周囲の環境により他の生物の目につきにくい、もしくは遮蔽物や隠遁可能な一定以上の空間を有する、などの条件を満たすそれらの地点へは、赴くに値するだけの期待値があると湊は考えていた。目標の情報が少ないため、想像で焦点を絞って海中を銛で突くよりは、概要を満たすべく網を投げた方が可能性は増すと思えたのだ。
神社の背後にある雑木林。社の裏から、木々の間へと分け入っていく。日の光が頭上で交差する高枝によって切れ切れになり、かすかに視界が暗くなった。靴の底に乾いた草木の感触がして、見ると心なしか白んでいる。振り返り、帰路の目印に据えた鳥居の朱を、途切れがちながらも木の縫い目から確実に視認しておく。細かい傾斜と、時おりむき出しになった地面に足を取られないよう、近場の木を支えに歩を進めていく。手についた木の皮を払い、ひとつひとつ針葉樹をくぐっていくと、やや開けたところに打ち棄てられた家屋があった。
山小屋ではなく、元は民家だったようで、文字の滲んだ表札があり、不揃いな門扉が半開きで傾いている。あちこち草が生い茂ったうえに、塀はひび割れ、家の壁面や戸に傷んだ箇所がいくつも見受けられる。何年も人が住んでいないのは明らかだが、多少の雨風を凌げる程度の耐久値は残っていそうだった。
出来るだけ物音を立てずに進むため、踵からそろりと足裏を着地させながら、側面へと回り込む。しくじって小枝など踏み折ってしまったときは、一気に緊張感が湧き上がってくる。何しろ近寄る前に逃げられてはおしまいなのだ。
北寄りに湊と吉男が、南寄りに十吾が位置取りを決めたあと、湊の指折りに合わせるかたちで、三人は一斉に縁側の下を覗き込んだ。すかさず湊が懐中電灯を照らす。吉男はインスタントカメラのファインダー越しに息を呑み、十吾は果敢にも虫網を構えている。全域に行き渡るように湊の手の先から放たれた光線が、暗闇の中を何度も横薙ぎにしていく。
この瞬間は、探索の理由や経緯などの事情めいた思考は薄れ、目の前に存在しているかもしれない何者かの実像を映しだすという、ただ現在の己の行為に没入しているといった感覚が大半を占め、年相応に冒険心と期待に身を委ねる少年性が押し出される。三人の中でそれがより露わになるのは、とりわけ知性に富み、理論に裏付けされることの多い湊だった。普段との落差というより、生来の好奇心の強さが顕現する最も単純な場面だからである。宿願が果たされるかもしれないという際に於ける昂ぶりは、しかし突如、急速に萎んでいく。
「ここには何もいないみたいだ」
しばらく目を凝らしたあと、懐中電灯の電源を切って湊が言った。抑揚が少ないながらも、その声にはやはり失望感が含まれている。「戻ろう」
「ああ……残念」吉男もしょんぼりと口をすぼめる。「でもしょうがないかあ。次だよ次」
当てが外れたとき、湊と同じように肩を落とすものの、吉男はよく前向きな言葉を口にした。それは、未だに実在する未確認生物を見たことがないので、本当はいないのでは、と不意に沸き立つ疑念をかき消すためであり、そう思いたくない自分を強調するためでもあった。しかし湊にとっては、仲間から建設的な言葉を聞くことによって失望感が和らぎ、引きずることなく次回へ臨む心持ちになれる効果を与えた。
「そうだね。次へ行こう」
「こんなところまで来たってのに、何もなしかよ。つまんねーの」
十吾はあっけらかんと不満を口に出し、戯れに虫網の握りで雨戸を叩いた。「ぼろっちい家だなあ」
そのとき、ガラス戸の隙間から茶色い塊が飛び出して来た。うおっとのけぞる十吾の横からめくるめく速さで駆けるそれは、湊と吉男が身構える間もなく、灌木を飛び越え奥へと抜けていく。木立の影に消えゆく野狸の後ろ姿を、一同は呆然と眺めるほかなかった。
土手下を流れる浅川の前まで降り、細い白石の上を歩いていく。暗渠の入り口は上端が台形をしており、陽光が断ち切られている。蜘蛛の巣を避けて身を屈めながら入ると、遠くに見える終点からはまた光が射していて、左右より間接的に明かりを得るために中はさほど暗くない。ただし泥臭く、ゴミが浮いているせいか水の流れが緩慢である。不潔な空間を好む生き物はいるが、人でなくとも、需要がなさそうに思える。何かが潜んでいそうな雰囲気こそあったが、何度か網やシャベルで川の底をさらえた後、これ以上の見込みはないと判断し、引き返した。
そのほか空き地に置き去りにされた配管の中や、裏山へ至るけもの道の外れなど、いくつか目ぼしい地点を訪れるも、成果は得られなかった。
「まったくよー、本当にいるのかよそんなやつ」
どっかと公園のベンチに腰を下ろして十吾が言った。
「なあみなと、もっと手がかりとかねえのかよ」
「今のところはそれらしい場所を探してみるしかない」湊も隣のベンチにリュックを置いて一息ついた。「でも、行く場所がなくなってきたのは確かだね。そろそろ作戦を立て直そうか」
「あっ、だったら」ナップサックの中をさぐりながら吉男が言った。「休憩にしない? ぼく、おにぎり持ってきたんだ」
その手にはラップにくるまれたおにぎりがある。見るなり十吾がさっと立ち上がった。「おっ、よしお気がきくじゃねえか。おれの分は?」
「ちょっと、急かさないでったら」一度腕を遠ざける素振りをしてから、吉男は持っていたおにぎりを渡した。「ひとり一個だからね」
「へへ、わかってるよ」と言いつつ十吾はすでに包みを開け食べ始めている。なんとなく十吾を訝しみながらも、吉男は取り出したもうひとつを湊に差し出した。「はい、湊くん」
「ありがとう」
それから吉男は紙コップを三つ並べ、水筒からそれぞれにお茶を注ぎ、差し出すように少しずつ位置をずらした。そしてようやく自分の分を食べ始めるのだった。
探索に特化して準備をする湊とはまた違った方向性の気配りを、吉男はできた。計画の大半を湊に任せている点へ、他の分野でわずかでも実益を齎すことで存在を許容させるなどという阿った主張ではなく、元来細やかな気遣いを自然に実践できる質なのだ。
ただそれは気兼ねなく話せる間柄でのみ発揮される長所であり、未確認生物や妖怪や魑魅魍魎の類について語ると馬鹿にするか嘘つき呼ばわりする一部のクラスメイト相手では、生来の臆病さに加え未だ未発見という劣等性からそもそもまともに言い返すことすらできないため、自然行為の対象とはなり得ない。授業中に指されて言い淀むのはその辺りの自信のなさも起因で、衆人の中に苦手とする人物が含まれている場合は特に、感受性の過多により、実際以上に衆目の圧力を感じてしまい、何も言えなくなる。吉男は常態ならば仔細なことへの気づきがあるが、外的意識に対する耐性が低いためすぐにちぢこまってしまい、そのうえ一度萎縮してしまうと消沈までが早く、加速度的に視野が狭くなってしまうきらいがあった。なので、気兼ねなくやれる友達との探索の時間は何より楽しく自由で、世界が明るく変わるような気になれた。
「そうだ。地図を見てみよう」湊がリュックから町の地図を取り出して広げた。「僕たちが今いる公園がここ。さっき行った神社がここで、それから川がこう流れている」
解説しながら、湊は探した場所にペンで印をつけていく。「こうすると、分布図ができていくよね。探していない場所がわかってくる。だから今までの探索も無駄ではないのさ」
無駄ではなかったと聞いて、吉男と十吾は少しほっとした。あらためて湊に感心し、希望の持てそうな話に聞き入った。
「よし。ここからまた、居そうな所を絞ってみよう」
地図を俯瞰して湊が言うと、二人も意気込み同意する。
「そんなところには、いない」
くぐもった声が背後から響いた。驚いて三人が振り向くと、一人の少年が立っていた。
「わわわ、誰?」吉男がのけぞり、一歩下がる。だが、そんな挙動などまるで目に入っていないかのように、また少年は平坦に言った。
「そんなところには、いない」
穴の開いたセーター。膝丈のズボン。バランスの悪い衣服はずいぶんと汚れていた。目深に被っているキャップには、本来なんらかの文字が書かれていたらしいざらつきがあるが、掠れていて読めない。 年の頃は同じくらいだろうか。少なくとも身長は湊と吉男の間ほどだ。やや異様な雰囲気を感じたのは吉男だけでなく湊と十吾も同様で、しかし発言の内容が気にかかる。
三人で顔を見合わせたあと、十吾がたずねた。
「なにがだよ」
ぬらりと腕を持ち上げ、ベンチの上に置いてある地図を指差して少年が答えた。
「きみ、たちが、さがしているもの」
ひどく喋りにくそうに話す少年の、どこか空洞化した無機質で黒々とした瞳が、鍔の下から垣間見える。顔色が悪く、表情が読み取れない。しかし外見や雰囲気よりも重要なことが少年の口から聞こえた。
「ぼく、は、いばしょを、しってる」
「ほんとかよ! なあおい、おしえろよ」
こういうとき、信憑性を疑うより先に訊くのが子供であり、特に十吾はそのケが強い。
「あんな、いする。ついて」
公園の出口に向かってゆっくり歩き始めた少年に、十吾は躊躇せずついて行こうとし、動かない湊と吉男に声をかけた。
「おい、なにやってんたよ。知ってるらしいからよ。教えてもらおうぜ」
遅れて湊が歩きだすと、特に不審がっているふうな吉男が追いついて湊に耳打ちした。「本当だと思う?」
「わからない。行ってみればわかると思うけど。幸いあっちはまだ探してないし」
「だよね……。でもなんだかあの子、変じゃない?」
「確かに、ちょっと変わってるかもしれない。でも、見るからにひ弱だし、それほど警戒しなくてもいいんじゃないかな。あまり考えたくないけど、いざとなればこっちは三人だし、力尽くではどうにもならないはずだよ」
「十吾くんが戦うかな……」ぽそりと呟き、首を傾げる湊に言い直した。「まあそうだよね。行くだけいってみよう」
「ふむ……」
吉男を慮ってというより、安全性の向上のために、湊は前までいって少年にたずねた。
「なんで居場所を知ってるんだい?」
「となりの、まちで、きいた」
靴を摺って歩く弱々しい体つきを見ながら湊は話を続ける。「君はとなり町から来たの?」
「そう、だ」
となり町といえば、かの人面犬がいると噂される場所である。もしかしたら、そういう物の怪に関する情報がより多く得られる場所なのかもしれない。今回の話が本当だったなら、人面犬についても訊いてみようと思い、湊はやや警戒心を引き下げる。それから、やはりこの先の展開次第だとも考え、吉男の元に戻った。
「やっぱり行くしかないみたいだ。彼、となり町から来たんだって」
だったら尚更怪しいんじゃないかと頭をよぎったが、さすがに臆しすぎているかもしれないと感じ、吉男は黙ってついていくことにした。
途中から、よもやと三人とも思っていたが、実際その通りであり、少年の案内でたどり着いたのは駅前であった。人が多いという理由で、湊の地図からは除外されていた調査範囲だ。一つ角を曲がれば商店街には惣菜屋、肉屋、金物屋などが並んでいて、夕方は主婦たちで賑わっている。もう少し時間が経てば、駅構内から背広を着た会社員らがぞろぞろ出てくるだろうと思えた。少年の手引きで奥まった場所にある雑居ビルの前に来ていた湊たちは、こんなところに未だ明確な発見をなし得ていない新生物がいるなどとは、誰一人として信じていなかった。
「おいおい、こんなとこにいるわけねーだろ」
皆の意見を代表し、忌憚なく十吾が文句を言う。
「このビル、見てみろよ。一階はスナックだぜ。今はまだ開いてないけどよ、夜になったらカラオケとか外まですげえうるせえんだからな」
後方で吉男が何度も頷く。湊はビルを見上げた。各階から看板が突き出している。スナック。英会話教室。何かの有限会社。看板なし。看板なし。五階建てだが、看板を見る限りでは三階までしか中身がない。とはいえ人はいるのだ。ますます少年に疑惑を向けざるを得なかった。
しかし三人がじろりと視線を浴びせても、少年は意に介さない。
「えれべー、た、ー、でうえまで。いく。した、にいく。くりかえ、す」
と言われても、三人にはいまいち少年の真意が伝わらない。「どういう意味だい?」
そう湊が言ったときだった。
「ちょっとあなたたち! 何してるの?」
「うおう!」
尖った声に三人ともがあわてて振り返る中、一番反応したのは十吾だった。
「げ、おめえなんでいるんだよ」
後ろには、クラス委員の上条ゆかりが凛として立っていた。十吾は苦々しくも憎々しい顔をみせ、吉男は後ずさり、湊は特に感想もなさそうに佇立していた。
「あなたたち、昼休み教室で悪だくみしていたでしょう。だから危ないことしないように、この辺りを見回っていたのよ」
なんでわかった、と心の中で舌打ちしながら十吾が物申す。
「おめえクラス委員だろ。ここは学校じゃねえぞ。放課後のことまでとやかく言うのかよ」
「たとえば警察官が休みの日に泥棒を見つけたとして、みすみす見逃すかしら。それと同じことよ」
「ぐぬ」間髪入れずに手痛い反撃が返ってくるこの攻勢に、十吾はいつも負けている。
「特に山野君。あなたは目が離せないもの」
名指しで批判され、むっとしながら、十吾は昼休みのことを反芻した。そしてあの距離で気づくはずはないんだがと思い、余計に腹立たしかった。とはいえ正面切って争うと碌なことにはならないとわかっているため、うまい方便を探した。
「いや、まてよ。おれらは何もしてねえよ。こいつがさ、ついてこいって言うから」
嫌疑をなすりつけるため、下手くそな笑みを浮かべながら十吾が後ろを指差す。しかし、そこには煤けたビルがあるのみだった。
「誰もいないじゃない」
「あれ? お、あ、あいつどこいった?」
予想外の出来事に十吾は狼狽し、きょろきょろと首を動かした。それは真にあわてての動きだったのだが、ゆかりには苦し紛れの三文芝居のごとく映ったようで、ため息を吐かれた。
「はあ」
「お、おめえしんじてねえな。な、おまえらも見たよな。あの変なやつ」
「う、うん」頷くと、じろりとゆかりが一瞥したことに気づき、それだけで吉男は身を震わせる。ゆかりは湊もちらと見て、それからまた嘆息した。
「いいわ。あたしもついていくから」
「おい、おいおいおいなんでだよ」激しい抵抗を見せたのはやはり十吾だ。
「だから、危ないことしないようによ。どうせあなたたち、いくら注意してもやらないと気が済まないんでしょう。だったら見張っていなくちゃいけないわ」
意志を曲げる気はない口ぶりだった。湊は頭数は多い方がと暢気に言い、吉男は見咎められないよう小さくうなだれつつも観念し、十吾は憤懣を込めて唸るも言葉では何も言わず、不満たらたら一切納得はしていないと全身で表しながら、ずんずんと歩いていく。すかさずゆかりが追いかけ、湊は普段通りの歩調で後につづく。しんがりの吉男がそういえばあの少年は結局どこにと思い、辺りを見回すと、数十メートル離れた路地に少年が入っていくのが見えた。みんなを呼ぼうかとも思ったが、あの少年にはそれほど関わりたくないと思い直し、知らせないことにした。
スナックの入り口を過ぎて通路を進むとエレベーターがあった。呼び出しボタンを押下すると、籠った駆動音が近づいてきて、ドアが開く。十吾は狭い箱内の隅に陣取り、むすっと腕組みをした。ゆかりが「開く」ボタンを押してくれているのに気づき、湊と吉男が早足で入り込む。
ドアを閉める前にゆかりがたずねた。
「それで、ここからどうするのかしら」
対抗者と位置づけている湊に訊くのはためらわれ、十吾など言わずもがなであるため、ゆかりは吉男を見る。入室時にゆかりからほのかに良い香りがしてすでにちょっとどぎまぎしていた吉男は、大きな眼から放たれる真っ直ぐな視線にどきりとした。ただそれは、ゆかりを異性として意識しているからというよりは、視線の鋭さに気圧されているといった方が近く、うろたえ気味に吉男は答えるのだった。
「え、ええと、さっきの子はいなくっちゃったけど、エレベーターで一番上まで行って、一番下まで行くのを繰り返す、んだよね? 湊くん」
言っているうちに万が一間違っていたらどうしようという気になってきて、最終確認を湊に任せた吉男は、そうだねと返ってきたので安心する。けれどゆかりは怪訝な表情で疑問を口にした。
「よくわからないわ。それで一体何が起こるっていうの? また戻ってくるだけじゃないかしら」
そう思うのはゆかりだけでなく、十吾も吉男も同じだった。湊が頷くことでゆかりは少しほっとして、しかし同時に癪でもある。
「でも」湊が言った。「やってみなくちゃわからない。うまづらみたいに出現条件があるのかもしれないからね」
「うまづら?」
嫌な予感がしてきて、ゆかりは更に疑わしい顔になる。
「うまづらっていう妖怪がいるんだよ。戸を開けたまま昼寝をしていると現れるんだ。毛布をかけてくれたり、蚊取り線香を焚いたりしてくれるそうだよ」
この時点でゆかりは辟易しはじめている。「男子のくだらないこと」への分類化は既に完了していた。
「日光で眩しくならないよう、庭に緑を植えて植物のカーテンを作るんだ。目覚めると消えるんだけど、おいしい晩ご飯が用意してあるそうだよ。吉男くんの家で何回か昼寝してみて、その時は現れなかったけれど、何事も試してみなくちゃわからない」
学校で学ぶべき勉学以外の知識が湊から語られるたび、ゆかりは複雑な気分になった。今までは対抗意識から距離を取っており、湊とまともに会話するのはこれが初めてだったが、嬉々として余分な知識を蓄えているような相手に自分は成績で劣っていると自覚させられ、自尊心を抉られた気がした。しかし実力で上回ることで解消されるべき問題だとすぐに結論づけ、悔しい気持ちを原動力に変えるべくそれ以上考えるのをやめた。それに、やってみなくてはわからないという点に関しては同意見だった。いないとは思うが、わざわざ否定する気も失せていた。
「わかったわよ。それじゃ、まず五階ね」
細い指が離れ、自動でドアが閉まる。斜線の入った磨りガラスの向こうは景色が不明瞭であり、色味から壁と床くらいはわかるものの、具体的に何があるのか判然としない。移動の最中は特に、薄闇が流れているのみだ。階を上がるごとに、持ち回りで各階のボタンが点灯していく。
五階に着いた。到着音が鳴動する種類のエレベーターではなく、無音でドアが開く。しんとしていた。電気が点いておらず、暗がりの通路が伸びている。途中に二つ、突き当たりに一つ部屋があるようだが人気は無い。子供が立ち入ってはいけない空気が充満しており、ゆかりはすぐに一階へのボタンを押した。誰一人エレベーターから出ることなくドアが閉まる。元々さして喋ってもいなかったとはいえ、沈黙が気まずさを帯びたように感じられた。危ないことをしないようにというゆかりの言葉の効力は増したが、ゆかりとて何も身をもって懲らしめてやろうなどとは思っておらず、妙な誤解を招いただろうかと考える。しかし大半の男子連中とわかりあえたことはないのだ。きちんと真意を確かめようともせず決めてかかるような輩に曲解されたところで、どうということはない。そう思うことにした。
一階に着いても、前が壁、すぐ左を行けば駅前に出られるいった状態は変わらない。何度か往復を繰り返しているとゆかりが言った。「ねえ、まだやるの? もう六度目よ。いい加減、何もないんじゃないかしら」
飽きっぽい十吾からすると、実は三回目くらいからめんどくさくなっていたのだが、ゆかりと同調するなどまっぴら御免だったので、むしろ根気のなさを非難しているかのごとく眉を吊り上げてみせたものの、ゆかりはそれに気づかなかった。
「いや、もう少し続けてみよう。何せ未確認生物なんだ。普通の人よりもずっと根気よく探さないといけないはずだよ」
先に湊が言ってくれたおかげで言いやすくなった吉男も同意する。「う、うん。ぼくもそう思うな」
ゆかりはうんざりして肩を落とした。しかし、気が済むまでやらせると言った手前、止めるわけにはいかない。クラス委員が約束を違えるなどあってはならないことだった。不承不承だが態度には極力出さないようにして、ゆかりは軽く息を吐く。
「わかりました。じゃあもう少しやってみようじゃない」
ひたすらワイヤーの擦過らしい音とエレベーターの駆動音だけが聞こえた。扉が開く度に、わずかずつ夕闇が濃くなっていくのがわかる。あまり遅い時間までは居られない。もはや何度往復を繰り返したかわからず、何もあるはずなどないのだった。
「残念だけど」
とうとう湊が終了を告げようとしたとき、扉の向こうがやけに明るく感じられた。
広い空間があった。教室や視聴覚室よりも広く、体育館の舞台を含めた面積よりも一回り大きい。壁も床も真っ白であり、天井に電灯らしきものはないにも関わらず、やけに明るく、全体が微妙に発光しているのかもしれなかった。
事態が飲み込めず、数秒間ただ呆然と目の前の光景を見ていた一同は、反射で光る互いの顔を見合わせ、また前を見た。エレベーターの表示は一階のままである。だが、さきほど幾度となく見た一階とは明らかに違う。違いすぎているほど異質だった。未確認生物のことなど頭から吹き飛び、現在地の把握や現象の理解に努めるも適わず、ただ一言、十吾が皆の気持ちを代弁した。
「はあ?」
だが、意味不明だと言ってみたところで疑問は解消されない。混乱する頭でかろうじて湊が呼びかけ、ひとまずエレベーターの中から見えうる限り部屋の中を観察してみたものの、これといって何も見当たらない。おそるおそる一歩を踏み出すと、床は硬質なのが確認でき、わずかな安堵を得る。学校の廊下と同じリノリウムの感覚に近い。
「とりあえず、端からぐるっと歩いてみよう。まず、この部屋の見取り図を作ってみればいいんじゃないかな」
と湊は言うものの、さすがに動揺しており、必要以上に警戒しているせいか、へんてこな歩き方になる。しかし誰もそれについて言わないし、言う余裕もなかった。ゆかりと十吾は、相手の存在から自分が怖々している姿は弱味になると考え、おくびにも出さぬと決めていたが、実際は不完全だった。相変わらず何もわからないまま、知らず知らずのうちに皆が固まって歩いていた。
退路の確保を湊は忘れていたわけではない。エレベーター横の壁に呼び出しボタンが設置してあるのは確認済みだ。ただ、一度戻ってみなかったのは、この場所に来る機会が今後あるかどうか定かではなく、好機を掴めるのは今だけかもしれないと思ったからである。状況が状況だけに、冷静に運びを考えられたわけではないが、見渡した限り危険はなさそうという最低限の前提は満たした上で、探索の続行を判断したのだ。怖い反面、この場所に何があるのか知りたいという知的好奇心も、それに匹敵するほど強いのだった。
吉男の心境も湊に近かったが、違うのは、もしも未確認生物を発見できたなら、誰にでも気兼ねなく話をすることができるようになるし、たとえ信じてもらえなくても発見した事実から胸を張っていられるのでは、という目論見が含まれているところだった。そこには、自信の回復に加え、他人へ示す自己の確立や、独自性の確保といった他意が意識的でもないにせよ潜伏していた。
左回りで進み、一つ目の突き当たりを曲がって二つ目へと差し掛かる頃になると、慣れから幾分緊張は和らいできた。しかし時間が経つほどに、何も起こらない不気味さも増していく。この部屋は、元々この雑居ビルの一部として存在していたのだろうか、と湊は考えた。それにしては上の階と様相が違いすぎる。光っていて、広くて、整然としているがどこか人工という感じがしない。用途がいまいち見つけられない。ここは誰が何の為に? 当然の疑問が遅ればせながらやってきた。
「うお!」
「わっ」「きゃっ!」「うわああ!」
前を歩いていた十吾が大声を出したので、反射的に皆からも声が出た。さらに十吾が巨体を後退させてきたので、なんとなく立ち位置の決まっていた隊列が総崩れになる。「ちょ、ちょちょっと十吾くん」
とりわけ体格差のある吉男が尻餅をつきながら抗議したが、聞き入れられない。
「ばか! 前見てみろよ!」
何事と思いつつ、他の三人が十吾の身体から首を覗かせると、前方に人型のものが立っていた。
「こいつ、いきなりあらわれやがった」
背丈は吉男よりも小さく、肌がやけに白い。薄手のシャツを着ている。一見すると同世代の少年のようだが、その人型のものには顔がなかった。わずかな凹凸があるだけで、眼球も唇もなく、認められるのは鼻梁くらいである。人の形を模してはいるものの、人でないのは明らかだ。
「な、ななんなんなに」
驚きと怯えから吉男は言葉にならない声を出した。湊とゆかりは、少し距離を取ったところからじっと動向を窺っているが、咄嗟に動ける準備はできていない。十吾は前線で身構えている。しかし、もしも暴力的な場面になったとき、自分に力を行使する覚悟があるのかと考える。いや、できる。いざとなれば。できるはずだ。何度も言い聞かせ、不穏な気持ちを振り払おうとした。
人型のものがざわざわと蠢きはじめた。一気に皆の緊張が高まる。人型はその場から動かず、ただその身を震わせている。だが、振動の度に、徐々にその顔が人の形を成していく。かと思いきや崩れていく。そしてまた形作られていく。まるで微調整をしているかに見えた。
崩壊と形成を繰り返し、最終的に納得がいったのかなんなのか、素朴な少年の顔がそこにあった。薄めの唇。眠たげな瞳。起き抜けのような癖っ毛。顔がなかったときよりは生気があるように思えるが、得体の知れない生きものであるのは間違いない。
依然として皆が警戒状態のまま成り行きを見ていると、いきなり人型が動きだした。立ち位置は変わらず、きょろきょろと辺りを見回している。いよいよ何かしてくるかと思ったとき、人型が斜め上を見ながら発声しはじめた。
「な、うぁ、れ、へ、へ、ぐ、うも、も、も。ざ、ぴゃ、ちゃ、ちゃ、んー。んー。と、お。とお。どいくく、く。いっなす。ふぎいりんぱ」
声だけで判断するなら、年相応の、やや高めの声なのだが、如何せん内容が意味不明だった。何か法則があるのか、無作為なのかもわからず、先の形態変化を経ているだけに不気味で仕方ない。とはいえ、こちらから迂闊に手出しもできず、見ているしかないのだった。
発声は続く。
「んな。ぴりさー。こ、ここん。ざ。いりりりり。いりり。ぬげなにひちすくぺず。ぺず。どりさえには。には。る。る。ねぁ。んて。ぺ、ぺーーーー。ぺーーー。ぺーーー。るらきま。ら? ら。ら。ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら! ら!」
一定のところから「ら!」としか言わなくなった。いよいよもって訳がわからない。対応に苦慮して顔を見合わせるが、皆が同様に困り果てていた。いつの間にか、恐怖や緊張より、困惑が勝ってきていた。
突然、ぴたりと発声がやんだ。人型は湊たちに向き直り、ごく自然に言ったのだった。
「こんにちは」
あまりにも急に普通のことを言われたので、返す言葉に詰まり、誰も答えない。返事がないことを不思議そうに首を傾げ、やがて人型は言い直した。
「ああ、そうか。今はもう、こんばんはと言わないといけないのか。では、こんばんは」
「そういうことじゃねえんだよ」
十吾が答えた。というより指摘に近かった。だが、人型はまたぼんやりと首を傾げた。事情がよくわかっていないらしい。
「最初に挨拶をするのが礼儀だと聞いたが」
「いや、そりゃそうなんだけどよ……」
会話はあまり噛み合っていないが、皆の警戒心はやや緩くなった。まだ断言はできないが、危険な生きものだとも思えない。言葉による意思疎通ができるなら、と湊が平和的な方向に持っていくように提案した。
「まずお互いに自己紹介してみたらどうだろう。それから少しずつ話をしていけばいいんじゃないかな」
湊の話を聞いて人型が傾げた首を戻した。「なるほど。それも始まりの一つの形だと聞いている。自分から名乗るのが礼儀だとも。ならば私から。私の名前は だ」
口は動いているのに、なぜか、名前の部分だけ抜け落ちてしまったかのように聞こえない。
「うまく聞き取れなかったので、もう一度言ってもらえないかしら」
ゆかりが言うと、人型も繰り返した。
「私の名前は だ」
やはり聞こえない。皆が難しい顔をしていると、首を傾げていた人型がやがて思い出したように言った。
「変換していなかったので合わせる。私の名前は、ムト、だ」
何をどう変換したのか定かではないが、ひとまず名前はわかった。細かいことは追い追い訊ねることにして、皆も一人ずつ名乗った。
「カセミナト、カミジョウユカリ、ヤマノジュウゴ、ヤダヨシオ」ムトが繰り返す。「把握した」
「じゃあ、そろそろ質問していいかな」と湊が身を乗り出した。横には未確認ノートを持った吉男もいる。会話ができると知ってから、ずっと色々訊きたくてうずうずしていたのだ。
「ムトは何者なの? 人間ではないよね?」
淀みなくムトが答える。
「そうだ。私は人間じゃない」
ぱあっと吉男の顔が明るくなり、湊と手を取り合って頷きあった。湊も手に力を込めながら、焦らないようにと目で返した。感激している二人をよそに、あっけらかんと十吾が質問する。「んで、おめえは何なんだよ。どっからきたんだ」
「私は」
ムトが天井を仰いで、上を指差した。
「ずっとずっと向こう、遥かなる虚空の狭間から来たのだ」
何を言っているのかわからず、十吾は「あん?」と不満げに言う。だが、湊と吉男はぴんときたらしく、いやまさかそんなはずはと思いつつも、口に出さずにはいられなかった。
「宇宙人……」
「おっ?」
急速に興味を取り戻したように十吾が目を輝かせたときだった。
「ああっ!」
唐突にゆかりが叫んだ。水を差された気分になり、十吾が抗議する。
「なんだよいきなりおめえはよ」
「大変! もうこんな時間じゃない!」
自分の腕時計を示して訴えるゆかり。湊もリュックから懐中時計を取り出してみる。「おや。六時二十七分」
「のんきに言ってる場合じゃないわ! あたしの家、門限が六時なんだから!」
珍しく慌てているゆかりを見て、ここぞと十吾がからかう。
「クラス委員様があ、門限やぶりだなんてえ、わるいと思いまーす」
「うるさいわね。悪いのはわかってるの。でも、相手が気にしているとわかってるのにわざわざ言う方がよっぽど悪いわ」
非を認められた上で反撃され、十吾は「ぬぐぐ」と悔しさを滲ませる。
「ちょっと十吾くんやめてよ。自分だって六時でしょ。ぼくんちも六時までなんだから」
話が脱線する前に吉男が間に入る。探索が長引いて門限を過ぎた経験がある分、ゆかりよりは余裕があるが、吉男も焦っていた。「湊くんも帰らなきゃいけないよね?」
「うん。外はもう真っ暗だろうしね」
ただ、気がかりが一つ。湊はムトに確認をとった。
「ねえムト、明日も来ていいかい?」
「構わない」
その答えに一安心し、湊は丁寧に礼を言う。
「ありがとう。ではまた明日」
「何やってるの! 早く帰るわよ!」
すでにエレベーター前で待ち兼ねているゆかりから声が飛んできた。それなりに距離があるにも関わらず鋭利な声だったので、男子たちはあわてて駆け出す。
湊が吉男に呟いた。「なるほど。おっかないね」
やっとわかってくれたと思いながら、共感の念を込めて吉男が頷く。全員が乗り込んでエレベーターが動きだした。扉が閉まる直前、部屋の中を見てみたが、ムトの姿は見えなかった。押す前からずっと一階のボタンは点灯したままで、不安もあったものの、無事に一階に着くと、またすぐに走った。
十一月の晩。すっかり日の落ちた商店街は少し人が減ったように感じられ、煌々と店の明かりが点在していた。肌は冷たく、身体は熱かった。
四つ辻までくると、四人ともが散り散りになった。息を切らせてそれぞれの帰路を急ぎながら、胸のうちでは、さっきまでの様々な体験のことが気にかかり続けていた。
授業が終わるのが待ち遠しかった。わくわくしていた。そわそわしていた。湊と吉男と十吾は休み時間の度に集まり、他のクラスメイトに聞かれないようこっそり昨日の出来事を話し合った。
「この分ならよ、河童だっているんじゃねえか?」
「十吾くんったらもう、調子いいんだから」
軽い冗談を言い合い、でも本当にいるんじゃないかと思わずにはいられなかった。何せ本物に出会ったのだ。特に吉男は活き活きとしていた。着々と未確認ノートを更新しながら、いつも自分をいびる、あの揃いのクラスメイトを見返す機会の訪れを待ちわびていた。
まずはもっとムトのことを知らなければ、と湊は思っていた。そのため、訊きたいことを箇条書きにして、メモ帳に書き込んでおいた。昨日は皆、帰ってから大したお咎めはなかったのだが、続けばどういう処置が下るかは想像できる。授業が終わって一旦家に戻ってビルに着く頃にはもう十五時半。帰りを考えると遅くとも十七時四十五分にはビルを出ないといけないので、実質二時間強の時間しかない。効率よく質問するためにもメモは必須だった。
言葉が話せるのは大変都合が良かったが、礼儀を重んじるきらいがあったようなので、無礼な振る舞いなどしないよう気をつけようと留意した。とはいえ、たとえば悪口を言えば怒るなどといったこちらの常識が通用しない可能性も大いにあり、そもそも何が失礼にあたるかも不明なので、気をつけたところでさしたる意味はないかもしれないのだが、そこは気持ちの問題。科学者の実験動物ではないのだから、一方的ではなく、きちんと対話して理解しあう必要がある。その上で、いくらか長期的に調査をさせてもらえないかと湊は考えていた。
ゆかりは普段、男子とつるまないので、会話に参加することはしなかったが、それでもやはり気になっていた。いるはずがないと思っていたからこそ、気が済むまでやらせると言った部分もあったが、結果がどちらにせよ約束は約束であり、そこは変わらない。それよりむしろ、いないと決めつけていた自分が悔しかった。理由のない固定観念を取り払い、ムトが何者なのかきちんと見極めなければならないと思い、ふと、クラス委員の本分を逸脱しているのではと自問したが、クラスメイトに危険が及ばないことを考えるなら必要な行為であると判断し、今日もついていくことにした。誘われてはいないが、そんなことは関係なかった。誘いがないのは十吾の差し金と大方の予想はできていて、しかしそれもさほど関係なく、行くと決めたら行くのだった。
こいつは面白いことになってきた。十吾は飽き性で、飛びつくのも投げるのも早い。河童の件で諦めていたこともあって、単なる暇つぶし程度にしか思っていなかった今回の探索が、まさかこんな展開になるとは予想外であり、長く楽しめる予感がしていた。それほど深い考えはなく、楽しければよかった。しかし、毎回あのエレベーターの往復があるのだと思うと、些かうんざりした。めんどくさいし、つまらない。十吾にとっては、ゆかりの同行に次いで二番目に嫌なことだった。
案の定、ビルの前で待ち構えていたゆかりが合流することになり、むかっ腹の立つ思いでエレベーターに乗り込んだ十吾は、二重苦に苛まれる気分でいた。
「ええと、昨日は何回ぐらいやったんだっけ?」
上へ向かうエレベーターの中で吉男が湊に訊ねた。
「三十回以上はしたと思うけど。正確な回数は覚えてないなあ」
ぼんやり湊が答えると、ゆかりが横から言った。「三十七回よ」
得意げに見えないよう、なるべく自然を装って言う。
すると湊は「そうなんだ。よく数えてたね」とあっさり感心した。優位性を得られると思っていたのに、素直に褒められ、ゆかりは歯がゆい心地になった。相手にされていない気がしたからだ。しかし一方では認められた感覚から嬉しくもあり、そんな自分に気づいては、気を引き締めようとするのだった。
湊はゆかりの機微など知る由もなかったが、十吾は「けっ。何をえらそうに」と、内心毒づいていた。だが、思ってみたところで自分にはどうすることもできない。言い負かすことも、まして腕力でどうにかすることも。嫌なことを思い出しそうになってきた。ごちゃごちゃ考えてしまうから、退屈な時間は嫌いだ。何か起こるか、早く過ぎてほしいと十吾は思う。どうせしばらくは殺風景な一階と五階を繰り返し見るとわかってはいるのだが。
ところが乗り始めて早々、エレベーターは例のあの真っ白な部屋がある階に着いてしまった。
「あれ? まだ三回目だよね?」不安になって吉男が確認すると、湊もゆかりも不可解げに頷いた。エレベーターから出て、振り返り湊が言う。「どういう仕組みなんだろう」
思案する湊の肩を、奥からぐいと出てきた十吾が叩く。「まあいいじゃねえか。それより今はきのうのやつだよ」
機嫌はもう直っていた。それどころかご機嫌そうな十吾に、湊は答える。「そうだね、後回しにしよう。でも、どういう仕組みなのかいずれ検証はしたいな」
「おう。ほらじゃあ行くぜ」
将来的な話を流し気味に、目先の楽しさに向かって十吾は先々と歩きだした。
「まったく勝手なんだから」
吉男の言葉にゆかりが同調する。
「本当にね。困った人だわ」
吉男としては、十吾の振る舞いに対するいつもの定型文のような気持ちで何気なく言ったのだが、ゆかりは心から嘆息しているようで、調子を合わせづらく、しかも下手に否定すれば十吾の味方をしたと見られかねないために、吉男は曖昧な返事をした。「う、うん。まあ、まあね」
わずかに不審な目で吉男を一瞥してからゆかりが言った。
「行きましょ。彼が変なことしないうちにね」
妙な緊張感から解放され、吉男はその場で胸を撫で下ろしてから、すでに十吾に追いつきつつある湊とゆかりに追いすがった。
あらためて部屋を見回してみたが、ムトの姿は見えなかった。十吾の話では、前回は何もない場所に突然現れたとのことだったので、手分けして探そうかと四散した矢先、吉男の喚声が響いた。「ひゃあ!」
「こんにちは」
どたと転び、手を後ろへ着いた吉男の間近にムトが立っていた。
「どどどこから」
「私はずっとここにいた」
部屋の真ん中辺りでそう言うムトに、怪訝な気持ちで他の三人も集まってくる。しげしげと吉男を眺めてムトが言った。「その動きはどういう」
なぜそんな体勢かと言いたいらしい。誰が見ても、急な出現に驚いたからだったが、ムトには理由がつかめないようだった。しかし面と向かって伝えるのは、怒りを買うおそれがあり、考えものではないかと湊は思う。それは湊ほどでもないにせよ吉男もゆかりも同じで、答えに窮して言葉を濁す。だが、十吾はお構いなしだった。
「ばっかだなー。おめえがいきなり出てきたからびっくりしたんだよ」
制止する間もなく小馬鹿にした笑いを放つ十吾に、三人はどきりとした。あわてて止めるも、何のことやら十吾はわかっていない。ひやひやしながら様子を窺っていると、ムトが独りごちた。「そうか。そうなのか」
無表情のため、取りようによっては、まるで受けた屈辱を怒りと共に噛み締め、報復行動を倍加させるべく静けさを帯びているように見える。しかし、ムトは吉男に向き直ると、ぺこりと頭を下げた。「すまなかった」
意外だった。驚き戸惑ったが、すぐさま否定すべく吉男があわてて立ち上がる。「い、いいよいいよ。大丈夫だから」
継続した調査の許可を得るためとはいえ、恐れすぎていたのかもしれないと湊は思う。姿は同じ年頃の少年だが、ムトの方がずっと大人びているように感じられる。挨拶もまともにしていないことに気づいて、ちょっと恥ずかしくなった。遅くないかなと不安もあったが、ちゃんと話そうと決めてきたことを思い出した。
「こんにちは。ムト」
「こんにちは。カセミナト」
相変わらずムトは無表情だが、湊はむしろ安心して微笑した。なんとなく先を越された気分になり、負けじとゆかりも挨拶する。「こんにちは。お邪魔します」
「こんにちは。カミジョウユカリ」
自身の驚きかたが、わざとではないにせよ大仰だったかと反省しながら、吉男も次いで言う。「ム、ムト。こんにちは」
「こんにちは。ヤダヨシオ」
某かを返せたような心地で吉男も安堵を得て、照れ臭そうに笑う。
「おい、なんかずるいぞお前ら。こんにちはこんにちはムト。ほら、おれ二回も言ったもんな」
話の流れをつかんでいない割には人一倍乗り気になって言う十吾にも、同様にムトは返す。「こんにちは。ヤマノジュウゴ」
全員が挨拶を交わすと、場の空気が随分解れたように感じられた。一段落ついたところで、メモを取り出して湊が質問した。
「ムトは人間じゃないんだよね」
「そうだ」
「遥かなる虚空の狭間っていうのは宇宙のこと?」
「そうだ」
「つまりムトは宇宙人?」
「君達からすれば、そういうことになる」
湊と吉男はまた顔を見合わせ、高揚する気持ちを確かめあった。十吾は横で「そんでそんで?」と次の質問を催促し、ゆかりは冷静なふうを装いつつも聞き耳は立てている。姿は人間と同じなのに、宇宙人などといった非現実的なものを信じざるを得ないのは、目の前で行われた形態変化に依るところが大きかったが、その部分については、期せずして湊から話が及んだ。
「昨日、体の形を変えていたよね。よければもう一度見せてもらえないかな」
「構わない」
そう言うと、前に出されたムトの手から、五指がみるみる縮んでいった。指の付け根までくると、代わりに手の甲が盛り上がりはじめ、先端から小さな芽が出てきた。手は肌色だが、芽は緑色をしている。さらに、盛り上がりが萎んでいくと、双葉の中心から赤い芽が現れ、その芽からも青い芽が出た。次々と新たな色が連なっていく様を、三人は息を呑んで見守り、十吾は「お、お、お」などと声を漏らしていた。
「これでいいか」
ムトの腕の先端から、多色に彩られた発芽の連鎖が一メートルほど真上に伸びていた。どれも瑞々しく、部屋の光を艶やかに反射してきらきら輝いている。
「すげー!」
十吾が大はしゃぎし、三人もそれぞれに感嘆しながら、しばらく神秘的な光景に見入った。このように体を変形させた驚きより、美しさに惹かれるところがずっと大きく、ムトの実態を掴むべく注視していたゆかりの固い気持ちは、いつかほだされ柔和性を帯びていた。
少し経ってから、はっとして吉男が言った。
「そういえばムト、腕は大丈夫なの?」
見ると、確かに腕全体が縮み、元の半分程度に細くなっていた。シャツがぶかぶかで、連なりを支えるにはやや頼りないと思える。だがムトは特に不具合もなさそうに「ああ」とだけ言うと、頂点の芽から順に崩していった。思わず吉男が「あっ」と声を出したが、見る間もなく芽がどろどろと溶け、混ざっていく。芽が失われていくにつれ、腕の太さが増し、手の甲が平面に戻るとゆっくりと枝分かれして五指が伸びてきた。少々不気味な光景ではあったが、ムトはけろりとしており、問題はなさそうだった。なんとも言えない不思議な感覚になりながらも、湊はお礼を言う。
「ありがとう。見せてくれて」
「構わない」
湊たちからすれば、絶対に真似できない特殊な出来事だったが、ムトにとっては日常の、心に留めるまでもない通常行動だったのかと思えるほど、重みのない反応だった。もっと知らなければ。湊は質問を再開した。
「形や色は自由なのかい?」
「色は自由だが、形状に限界はある。言わばこれは、私の質量を部分的に移動させているに過ぎないので、質量以上の大きさにはなれないし、圧縮するのにも限度があるのだ」
「なるほど……。よくできたものだなあ」
先の形態変化を反芻しながらしきりに感心する湊に、十吾が訊ねる。「なあみなと、それってどういう意味だよ」
その後ろには吉男もいた。二人とも勉強は得意ではない。十吾は勉強をしないからであるし、吉男は要領が悪いために十吾ほどではないにせよ成績は振るわない。うーんと少し思案してから、腕の一部をつまんでみせながら湊が解説した。
「そうだなあ。例えばこうやって、腕の肉を持ち上げる。僕たちはこの部分をこれ以上動かせないよね。手を離せば元に戻るし、手を使わずに動かすのもほとんどできない。ところがムトはそれができるんだ。部分ごとに身体中を動かせるし、おまけに色だって変えられる。けれど何にでも変われるってわけじゃなく、ムト全体より大きいもの、例えば恐竜なんかにはなれないし、身体を縮めたり薄く伸ばしたりするのにも限界がある。そういうことみたいなんだ。さっきも芽の分だけ腕から持ってきたから、腕がしぼんでいたんだね」
「おお、そう言われるとわかるぜ」十吾も吉男もようやく得心いったというふうに笑った。ムトの話を聞いてから自分なりに答えを用意していたゆかりは、それが湊の解説とほぼ合致するものだったので、正答と見なし満足した。
「ということはもしかして、ムトの居場所がわからなかったのは、色が変わっていたから?」答えから紐付けて湊が訊ねた。
「その通り。この部屋と同じ色になっていた」
やっぱりそうか、と湊は納得する。「じゃあ、見つからない時はちゃんとムトを呼ぶことにするよ」
「了解した」
「そういえば、あの声を出してたのはなんだったの? ほら、昨日ぼくたちと話す前にやってたやつ」今度は吉男が質問した。
「そうだそうだ、あれ変だったぞ」と十吾も便乗する。いずれ訊くべきことだったので湊としても問題ない。ゆかりにも訊いてみたいことはたくさんあるのだが、あくまで監視役であり本来なら気乗りしない、という体で最初に来てしまったがために、あからさまに興味を示すとからかわれる危険があるので、少し躊躇われた。
ムトが答える。「あれは発声練習だ。君達は、空気を振動させる方法と音の組み合わせによって通信するだろう?」
「声のことだね」湊が返事する。
「そう。我々は普段そのような手段を用いないので、慣らしが必要だった」
「じゃあどうやって会話してるの」と訊ねると、ムトは自身の指先を吉男の額にぺたっと置いた。すると、吉男は遠くを見る目になり、そしてすぐ「わわっ!」と大きく仰け反った。心底驚いた様子で、胸に手を当て、小刻みに息を吐く。だが、傍から見ていた三人には何が起こったのかわからない。馬鹿を見る目つきで十吾が言う。「なにやってんだ?」
だが、心外だとも訴える余裕がないらしく、吉男はまだ息を弾ませている。ならば自分たちも受けた方が早いだろうということで、三人もやってもらうことにした。ムトの両腕が前に出されたとき、一瞬、そういえば三人同時は無理だと反射的に湊は思ったが、一方の腕が途中から分かれはじめて気が付いた。
三つの指先が三人の額に触れると、視界がぼやけた。というより薄まった感じで、目の前の一切が半透明になる。その上から、元の視界と同じ濃度で、つまりは上書きするようにして、違う景色が現れた。その中で、湊たちは足元を見ている。しかしその足は宙に浮いており、床はない。遥か下方に広がる数多のネオンライトが、今が夜であり、どこか都会の上空であることを告げていた。
驚きのあまりびくりと身を動かすゆかり。だがかろうじて額へ置かれた指は保ったままであり、彼方の光を見つめるのをやめない。十吾はすんげーすんげーと腕を突き上げて喜び、その声は朧気ながら二人にも聞こえている。元の視界もまた、霞んでいるが視認は可能だ。湊はゆっくりと周囲を探った。高層ビルの摩天楼が斜め方向に見下ろす形でいくつか見える。どうやら相当高いところにいるようだ。風は感じられず、落下はせずに浮いたままである。感覚を確かめると、自分の足があの白い部屋の床の上にあるとわかる。自分は何を見ているのだろう。幻覚の類なのかと湊は考える。無数に屹立するビル群からしても、自分たちの町では決してない。どこかの都心部。都会の空気は不味いと聞いたことがあるが、今は感じられない。街の明かりは夜でも騒がしく、無作為に煌めいている。けれど新鮮で綺麗だと思う。あそこへ降りたてば、どうなるのだろう。
きゅっと眩しい感じがした。ムトが指を離したらしく、目の前にはもうあの夜の街は存在しない。吉男が駆け寄ってきた。「もう! なかなか終わらないから心配したんだよ」
「僕たちはそんなに長い時間やってたのかい?」元の視界の感覚を取り戻しながら、湊が言う。
「うーん、十分ぐらいだけどさあ」自分がすぐ終了したのを言われて思い出したらしく、吉男は語尾を濁す。「でも、よくあんな場所を見て平気だったね。ぼく高いところ苦手だからさ」
「なにいってんだよ。ちょう楽しいじゃねーか」腰に手を当て、ふんぞりかえって十吾が言う。「な、みなと」
「うん。楽しい、というか不思議な体験だったよね」
「そらみろよしお。びびってるのはおめーだけー」指を指して十吾が嘲る。
「もうっ、キキカンが足りないんだよ十吾くんは」吉男はつんと横を向いた。
「つまり、ムトはこうやって会話してるってことかしら?」
男子がふざけあっている中、だしぬけにゆかりが質問した。虚を突かれて三人はあわてて話を中断する。
「そうだ。そもそも我々は言葉を使わない。知覚や記憶を伝達しあうことで互いの思考を読み取るのだ。強いて言えば、この意識の流れこそが私達の共通言語だと言えよう」
「喋らない代わりにイメージを送りあうのね。あれはムトがどこかで見た風景?」
「そうだ。しかし君達にはできないらしいので、こうして言葉を交わしている。ムトという名に相当する言葉も本来ない。なぜなら私の名とは、我々の共通言語に由来するものであり、文字や言葉で表すことがないからだ。よって君達の言語への変換が必要だった」
「それで昨日は聞き取れなかったのかしら。なんだかこちらに合わせてもらってるみたいでごめんなさい」
「構わない。カミジョウユカリ」
二人だけで話が進んでいるのが癪に障ったらしく、十吾が口を挟む。
「ていうかよ、あれはなんだったんだよ。ら! っていうやつ」
「発声している時に『ら』という発音に行き当たり、言うと楽しくなることに気付いたので連発したのだ」
「なんだそれ、変なの」
確かに自分たちにはわからない感覚だ。けれど湊はすごく意外だと思った。ムトにそんな子供らしい一面があることと、楽しいという感情があるというのに驚いた。無表情だからといって感情がまるでないわけではなく、通信手段が異なるのと同じで感情表現も違うのだろう。人間と同様に喜怒哀楽で分類できるとは限らないが、自分たちのことを教えることで、ムトのことを比較してもっと知っていけるのではないか。そう考えた湊はムトに話を持ちかけた。
「ねえムト、僕たちはムトのことを知りたいんだ。だから、しばらくの間ここに通ってもいいかな」
「問題ない」
あっさりと要求が通ったが、なんとなくそんな気もしていた。
「ありがとう。それで提案なんだけど、僕たちがムトのことを知るように、ムトにも僕たちのことを知ってほしいんだ」
「君達の……」
ムトが初めて言い淀んだ気がした。
「うん。その方が互いに理解が深まると思うんだ。どうかな?」
「それは願ってもないことだ」
こちらを知ってほしいというのも結局はこちら側の要求であり、少し一方的かとも思っていたが、ムトが快く了承してくれたことで、湊は大いに安心した。他の三人も異論はないようだった。もう来ないなんて、考えられなかった。
「ありがとう。ムト」
それからまた話をしていると、すぐに帰宅時間になった。明日も来られるとわかっているのに、帰り支度は捗らなかった。
ビルへ行く前に、湊は持ち物を検めた。シャベルや虫網など、かさばる物をリュックから抜き、代わりに国語辞典を入れた。ムトと会話していて思ったのだが、ムトの言葉遣いは少し難しいときがあり、話の流れやニュアンスで理解している部分があったため、知らない単語が出てきた際に辞書で調べられれば、と考えたのだ。もちろん、出てくる都度調べていては会話から置き去りにされてしまうので、わからない言葉を書き留めておき、後から調べる、といった形になる。さすがに質問用に持っているメモ帳と併用するのは、スペースが足りないこともあって、整理しきれないので、新しいメモ帳が必要だった。自室の机の中を見てみたが、元素記号を書き連ねた使い古しのものしかない。幸い、駅前通りに文具店があったので、ムトに会う前に購入できた。こうした細々とした調査費用として、湊のおこづかいは減っていく。
昨日ビルの入口に先回りしていたゆかりはまだ来ておらず、先に行こうと十吾が何度も言ったが、ムトの部屋に行ける条件がまだ確定していないので、判明するまでは今まで通り四人で向かった方がいいだろうと湊がたしなめ、しぶしぶ了承した。十分ほど遅れてやってきたゆかりは「ごめんなさい」とだけ言い、説明などはしなかった。ふんと鼻を鳴らし進んでいく十吾と、途端に負けん気を出してついていくゆかり。その後ろで吉男は湊に、自分が帰るとき、ゆかりがプリントの整理をしていたのを見た、きっとクラス委員の仕事が長引いたんだという話をこっそりした。言い訳をしなくて偉いのか、説明をしなくて不親切なのか、湊にはわからなかった。
やはり部屋にはムトの姿が見えず、保護色になっているらしかった。皆であちこちへ呼びかけると、エレベーターからほどなく近い場所に鎮座したムトが現れた。
「そんなところにいたのかよ」ちょっと面倒くさそうに十吾が言うと、「すまないな」と立ち上がりながらムトは答えた。「この方が良かったのだ」
良かったとは、気分みたいなものだろうか。それとも何か事情が。ムトの心の動きめいたものがちらつく度、湊は気になった。楽しいという感情があるなら、無表情から与えられる印象など関係なくずっと人間味があるかもしれず、感情を追うことは、動物とも人間とも思えないムトの生態を解き明かすにはきっと大事なことだと、湊は予感していた。
「今日は私から訊いてもいいか」
ゆっくりと皆に視線を送ってムトが言った。ムトからの質問は初めてだ。断る理由はない。どうぞ、とゆかりが言うと、ムトは頭を下げた。
「ありがとう。では、君達は瞑想するか?」
瞑想という言葉の意味を理解していたのは湊とゆかりのみであり、吉男は雰囲気だけをつかみ、十吾に至ってはまるで知らなかった。しかし、湊とゆかりにも質問の意図はわからない。とりあえず「あん?」と首を捻る十吾に訊かれて湊は説明した。
「どう言えばいいか僕にも少し難しいのだけれど、瞑想っていうのは、目を瞑ってじっとして心を静かに保つこと、だと思う」
「なんだそりゃ。目つぶったらねむくなるだけだろ」
いまいち把握しきれていないまま、十吾は興味を失う。たとえ理解していても十吾からは縁遠い言葉だろうが、成績の悪い理由の一端を、ゆかりは垣間見た気がした。
「では、しないのか」確認するムトに、湊が答える。
「する人はいると思うけど、僕たちはしないね。なんでそんなことを訊くんだい?」
「私は常にやっているからだ。君達はいつもこの時間に来るだろう? それまで何をしているのかが疑問なのだ」
「ちょっと待って。常にって、まさか休まずずっとではないよね?」
知りたての瞑想について吉男が訊ねる。
「君達が居ない時は常にやっている」
「えっ? いつ寝てるの?」
「私は睡眠をとらない」
「ええっ!」
吉男が驚くのも無理はなく、他の三人からしても信じられない話だった。では、昼も夜もなく、この発光した明るい部屋で心を落ち着かせることのみに没入しているのだろうか。想像して、吉男は少しさみしい気持ちになった。しかし、ムトは人間ではないのだ。物事の優先順位や行動倫理が異なるのは当然であり、価値観の齟齬を憂うのはずれている。だからこそ交流に意義があるはず。と、そこまで客観性をもって考えられたわけではないが、早合点はしないように気をつけようと思い、吉男は話を続けた。
「なんで瞑想ばかりしてるの?」
「と、言うより他に該当する言葉を私が知らない故に、瞑想と置換しているのだ。誤解させたようならすまない。熟語でないならば、星との適合活動、とでも呼べるだろうか」
「なにそれ?」湊もゆかりも知らないようだ。
「私が生きる為には星と一体になる必要がある」
ますます意味がわからない。これ以上の混乱をきたす前にと、湊が言った。
「ムトはどうしてこの星に来たんだい? それからこの星で何をしてるの? 順を追って説明してくれないかな」
「この星に来たのは偶然だ。私は己の生命活動に最も適した星を探すため宇宙を漂流しており、その旅路の上でこの星へ入り込んだ」
「漂流って?」
「文字通りだ。私には自在に宇宙を渡航する力が無いので、宇宙空間を流れ彷徨する中で、近くを通った星に引き寄せられるように体質変化を施す」
「ほうこう」とメモに書き、確認しながら湊は話を進める。「ええと、宇宙空間を自由に動くことは出来ないから、星に引き寄せてもらえるように自分の身体を変える、ってことでいいのかな」
「そうだ。目的となる星が具体的に存在しているわけではなく、行きずりに出会った星に合わせている」
「だから偶然なんだね。じゃあ、生命活動に適したっていうのは?」
「例えば、君達は水中で生きていけないだろう。それは主に呼吸が出来ないからであり、地上で生きるのが適している。同じように、私にも自分に適した環境というのが存在する」
「なるほど。どういう場所が適してるの?」
「星に降り立ってすぐにはわからない。この星が自分に適しているかどうかの判定をする必要があり、その為に星と一体にならねばならない」
「さっきも言っていたけど、その、星と一体になるというのは具体的に何をするの?」
「星の鼓動……大気……息吹……のようなもの、を感じること、だ」
かなり感覚的な話らしく、ムトが言葉を探しているのがわかる。
「それらを感じ、吸収することで星との一体化が進み、適合判定が可能になる」
「じゃあ、今はまだ地球がムトに適合しているかわからないんだね。適合していないかもしれない星に居て平気なの?」
「いや、ごく僅かずつではあるが、私の命は蝕まれている。数値化できないほどの微量だがね」
見た目は平気そうだが急に心配になった。
「だが、適合は完全でなくてはならない。繊細微妙であり、ほんの些細な誤差も許されない。判定に要する時間分の滞在も致し方ないことなのだ。しかし、よほど合致していない星なら降り立つ前に分かる。つまり、地球には適合の可能性があるということだ」
自分たちのことを褒められたような気がして、少し嬉しくなった。だが、先の命が削られているという話の不安も、皆の中にまだよぎっていた。話の流れには沿っているが、決して興味本位ではなく、ムトの身を案じて吉男が訊ねた。
「判定には時間が掛かるの? ムトはいつから地球にいるの?」
「現時点で四十年ほど経過している」
「ええっ!」
皆の予想よりずっと長期間であり、驚愕した。まちまちではあったが、長くて湊が一年と踏んでいた程度だったからだ。
「へ、へーん。ムトってばおっさんじゃん」
途方もない数字の受け入れにくさのため、ひとまず十吾は茶化してみた。ところが横からゆかりが「違うわ。あくまで地球に来てから四十年だもの。これまでも色んな星を巡ってきたなら、ムトは私たちよりずっとおじいさんなはずだわ」と真面目に返すものだから、何とも言えず腹が立った。
「正確には四十一年と百六十九日だ。このビルも今では経年劣化しているが、私が来た頃はまだ新しかった」
「でもこの部屋はきれいよね。そうなると、やっぱりここは造りが違うのかしら?」
しばらく話の主導権を湊に譲っていたが、いつまでもそれに甘んじるゆかりではない。
「その通りだ。この部屋は、集中して瞑想すべく私が作成した」
「そうなのね。ここだけずいぶん様子が違うから、何かあるとは思っていたのだけれど。でも、作成ってどうやって?」
「星との不適合が判明した場合、その星を去るわけだが、途中まで適合を進めた際、私に蓄えられた星の力……エネルギー……を、次の星へ持ち越し、この部屋のような住処を作る為に使うのだ」
「なんとなく、わかるわ」
想像で補うしかないが、言っていることはわかった。にわかには信じがたく、すんなり受け入れられたわけではない。しかし、ムトの口振りから感じられる真実味のため、いくら壮大であろうとも真摯に向き合うべきだと思わせた。いずれ、この部屋もムト同様に特殊な動きを見せるかもしれないという、予感めいた期待も孕んでいた。
「しかしよう、なんでここなんだ?」十吾が割って言った。
「それも偶然だ。我々一族にとって、適合し易い場所というのはそれぞれ違う。私は有機物と無機物が近くにあり、あまり騒がしくない所、が好ましい。このビルの地下は、たまたま条件を満たしていたというだけだ」
「ゆうき……?」いまいち理解できていない十吾に、またしてもゆかりが口を出す。「ビルみたいに生物じゃないものと、私たちみたいな生物が近くにいる場所が良いってことよ」
わからないなら黙っていなさいと言われた気がして、十吾は話半分にへそを曲げた。「ありがとうごぜえましたあ」
「でも、ただでさえ時間が掛かるのに、僕たちは瞑想の邪魔にならないのかい?」
また湊が訊ねた。彼に気を取られていたからだわ、とゆかりは十吾を睨む。
「その点は問題ない。星の生命体との接触も、一体化の一環になりうるからだ」
湊はほっとした。吉男も同じだったようで、胸に手を当てている。調査の継続云々とは別に、ムト本人のことが気がかりになってきていた。ひとまず、言い直すべきことを湊が述べた。
「そういうことならさっきのは訂正しなきゃね。ムトが言う瞑想、星と一体になるなんて、多分やってる人間はいないんじゃないかな。いたとしてもごく少数で、それも出来ているか怪しいぐらいだと思う」
「了解した。瞑想はしないのだな。ならば、ここに来るまでに何をしている?」
言われて思い出し、皆が顔を見合わせて苦笑した。そういえばまともに回答していなかったのだ。
「ごめん。話がずいぶん脱線してしまったね。僕たちがここに来るまでだけど、みんな学校に行っているんだよ」
「学校、とは、主に成熟していない人間が通う場所だと聞いた。何をする所なのか」
「うーん、何をする所か」
一概には言えない気がして、湊は言葉を探した。ところが、約二名にとっては迷う理由がわからなかったらしい。
「学校ってのはあそぶところだよ」と十吾が言った。
「学校は勉強するところよ」とゆかりが言った。
ムトが首を傾げた。
「なんだよ。友だちとあそんでわいわいやるところじゃねえのかよ」
「いいえ。将来のために、先生に色んなことを教わるのよ」
「まあまあ落ち着いて」吉男がゆかりの飛び火をおそれながらも二人を宥めた。「ムトが困ってるよ」
「あっ……」ムトへの影響に気づいて議論をやめることに納得はしたが、決着をつけたい二人はにらみ合う。
充満する対決の雰囲気など関係なさそうに、湊がムトに答えはじめた。
「僕は、十吾くんも上条さんも正しいと思うよ。実際どちらもやっているしね。友だちと遊んで、そりゃ喧嘩もあると思うけど関係が築かれていくし、世界や身の回りのことについて知識を蓄えておけば、いずれ役立つ時が来ると思う。基本は勉強をするところだけど、人間関係を作る場でもあるんじゃないかな」
判定員に恵まれ、稀有な引き分けに持ち込んだ十吾は腕を組み得意気にふんぞりかえった。しかしゆかりは眼中にない。初めて湊に名前を呼ばれ、どきりとした。白い肌が赤くなった。
「つまり……人間を育む場、ということか?」
「あ、そうだね。そうだと思う」
それなら一口に言えたのか。いや、どうだろう、とムトに感心しつつ湊は思案する。
「なるほど。納得した。ありがとうカセミナト、カミジョウユカリ、ヤマノジュウゴ」
ムトの首が元に戻った。しかし、十吾から物言い。
「それはいいけどよ、つーか前から思ってたんだけどよ、その、ヤマノジュウゴとかって長くねえか? なんで名前全部なんだよ」
「と、言うと?」
また首が曲がってきたムトに、湊が解説した。名前には姓と名があり、呼ぶときに全て言うのは稀だということ。堅苦しいということ。
「ミナト、ヨシオ、ユカリ、ジュウゴ。これでいいか」
「おう。ばっちりだぜ」親指を突き立て、十吾が笑った。
違う。ムトに下の名前で呼ばれても何も思わない。どうして? なぜか切迫した気持ちになる自分を、ゆかりはわからないでいた。
「今のが先生、というものか?」ムトが訊ねた。
「湊くんはそうかもね。十吾くんは……うーん」見ると、「センセイー、おれセンセイー」とすっかり十吾は浮かれていたので、吉男はムトに耳打ちした。「十吾くんは違うよ」
「でも、僕たちがムトに教わることも沢山あるよね。言葉遣いだって、僕らにとっては難しいものが多いし。ムトは一体どこで言葉を学んだんだい?」
湊が訊くと、ムトは上を指差した。「この上にあるスナック、というものに夜が更けると人々が集うだろう。この部屋は音を通しにくいが、天井に身を届かせれば会話が聞こえるのだ」
「聞いて覚えたってこと?」
「そうだ。常連客の中に、大学の教授、という者がいるらしく、特にその者から吸収する。私の喋り口調とは、その大学教授や、他の客の真似事によってできている」
「教授かあ。どおりで大人っぽいわけだ」白衣を着た中年男性がグラスを持って語らう姿を、ぼんやり吉男は想像した。
「日本語は難しいらしいけど、さすがに四十年も聞いてれば覚えるのかな」
湊が言うと、「そうなのか。こんなことも出来るが」とムトは居ずまいを正し、咳払いのような仕草をしてみせた。そして、歌いはじめた。
おそらくは、常連客のうちの誰かの十八番なのだろう。部屋中に響き渡るほどの声量であり、やけにこぶしが効いている。曇天を渡る海鳥の鳴く声が聞こえてきそうな物悲しいマイナーコード。目の前の少年から、哀愁漂う演歌が放たれていた。しかし、誰もその曲を知らなかった。まさか、宇宙人相手に世代の違いを感じるとは思わなかった。
土曜の授業後、そして日曜と、いずれも昼一番からビルに行った。早い時間の来訪の理由を訊ねられたついでに話した、学校の休みや時間割のことを、ムトは興味深そうに聞いていた。生活習慣の異なりが気になるらしく、自分たちが普段気に留めていない点をよく訊くため、その度に皆は色々と考えた。もっとも十吾は結論を急ぐか放棄していたし、ゆかりは他に気がかりがあったので、自然と湊の回答が多くなった。吉男も考えるが、結論を出すのが遅い上に言葉にするのが下手なため、回答者足りえることはなかった。形成途中だった答えは湊の話によって大抵は覆り、同調した。それでは自分の意見が無いのと同じだ、などと吉男は思わない。湊の答えが、心の底から同意できるすっきりしたものだからであったし、未提出とはいえ自分も回答すべく頭をひねったという手応えだけで充分なのだった。
それに、吉男には未確認ノートがあった。湊が持っていないものであり、自分なりに書き進めていける点が特に気に入っていた。少しずつ余白が埋まっていくノートを後から読み返す時、達成感と希望を感じられる。自己の存在や個性を認められる道具であり、拠り所になりさえした。しかし、だからこそ、未確認ノートの否定は自己の否定にも繋がる。
月曜、二時間目が終わってすぐ吉男は松尾先生に呼ばれた。係の仕事だ。クラスには「委員」の他に「係」という役割がある。美化委員が校内の清掃活動を担うように、係は各教科に関しての雑事を受け持つ。吉男は算数係だった。宿題のプリントを集めて職員室に持ってくるよう先生に頼まれたのだ。先に教室を出ていく先生が、プリントは矢田のところへと言ってくれたため、吉男は声を張らずに済み、その点は安心した。しかし、嫌な予感がしていた。いつも休み時間には湊と一緒なので大丈夫だが、一人になってしまう。狙われる危険があった。けれど、たかがプリントを運ぶだけでついてきてもらうのも、さすがに臆病が過ぎる気がする。第一、湊に理由を説明できない。やはり一人で行くしかないのだ。
吉男は集まったプリントを掴むと、だし抜けに教室を出た。とはいえそれは、吉男にとっての不意と思われるタイミングであり、安全性が確保されるわけではない。早歩きで廊下を進みはじめてすぐ、背後でドアの開く音がした。休み時間であり、人の出入りは多いため誰とも限らない。だが吉男は振り向かなかった。おそれから、事態が決定的になるのを避けたのだ。誰であろうと職員室にたどり着けばいいと考えたのは、前向きではなく逃避の部類だった。
三階の階段を駆け降り、職員室のある一階へ向かう。手すりを頼りに踊り場を勢いよく曲がり、最下段は一段飛ばしにして進む。輪唱するかのように、上階の方からも階段を降りる音が聞こえてきた。今は中休みで、十五分もあるんだ。教室から遠出する人もいるんだから、彼らとは限らないはず。などと思いながらも、吉男は歩みを早める。しかし、わずかずつ足音が大きくなっていく。相手の方が早いことにまた焦り、鼓動が高鳴る。一階に着いた。背後で上履きのきゅっ、という音が聞こえたとき、職員室に駆け込むことができた。
息を切らせ、うなだれがちの吉男に対し「廊下は走っちゃいかんよ」と注意し、松尾先生はプリントを受け取った。「ありがとう。戻っていいよ」
出たくはないが、職員室にも生徒が滞在しにくい独特の空気があり、居心地は良くなかった。ドアに張られた磨りガラスのため、廊下の様子はわからない。そうだ、せめて入ってきた時とは逆側のドアから出れば、待ち伏せされていたとしても時間を稼げるかもしれない。そうだ、そうだ、階段もだ。珍しく頭の冴えた吉男は、先生たちの不思議そうな視線に耐えながら職員室を横断した。
身を滑り込ませるようにして、開いたドアから廊下へ出た。先生に見咎められては事だと思い、決して走らず最大限の早歩きで逆側の階段を目指す。しかし、出る時に元来た方向に誰もいないのが見えた。だから急がなくてもいいのだが、焦心のためになかなかすぐには切り替えられない。でも、よかった。思い過ごしだったんだ。そう思いながら角を折れると、階段の前に彼がいた。
「よう、矢田」
顔を見る余裕もなく、驚きのまま吉男は引き返そうとした。ところが、背後からぬうっと影が覆った。
「よう、矢田」
同じ科白を吐く彼にじりじりとにじり寄られ、なす術もなく吉男は囲まれた。挟み撃ちだ。東側の階段を使った吉男を追ったのは一人だったが、西側の階段にもう一人回り込んでいたのだろう。どう足掻いても逃げ場などなかったと思い、吉男は脱力する。
「こんなところで奇遇だなあ」と、野呂隆明が言った。
「こんなところで奇遇だなあ」と、野呂秀明が言った。
同時だった。わざとらしさも同じであり、吉男は二倍うんざりした。一階の階段前はやや薄暗く、長身の双子に挟まれた吉男には一回り暗く、そして視界がずいぶん狭くなったように感じられる。細身だが、身長だけなら十吾より上である。すでに、威圧感に押しつぶされはじめていた。
兄の野呂隆明が顎をさすりながら言った。
「そういえば矢田あ、お前まだ未確認生物とやらを探してるのかあ?」
意味もなく何気なさを装っている。「そういえば」などと当てつけに他ならない。まともに取り合わないことにして、吉男は答えた。「そんなの、どうでもいいでしょ」
「おやおや、こいつは」兄が言うと弟が続く。「素直じゃないねえ」
「加瀬とまた何かやっているんだろう?」
「休み時間の度にノートを持って」
「あのぼろっちいノート」
「妄想ばかり書きつづって」
「いやしないのに。なあ」
「なあ」
「それしかやることがないんだ」
「他にすがるものがないんだ」
「勉強も運動もできない」
「妄想しかできない」
「証明できなきゃうそだ」
「証拠がなきゃうそだ」
「おい、うそつき」
「おい、うそつき」
延々と嫌味は続いた。
野呂兄弟は、未確認生物や妖怪に傾倒する吉男を、いつも頭ごなしに否定してくる。存在の可能性を肯定せず、虚言妄言だと罵倒する。科学的根拠が無い、確かな証明がなされていないなどの理由は、持ってはいるが建て前にしか過ぎず、自分たちより弱い人間をいたぶる為の、糾弾の皮を張り付けた戸板のような盾でしかない。
以前、湊と居る時にいちゃもんをつけてきた野呂兄弟が、理路整然とした反論の芽のない湊の抗弁の前に退散するといったことがあり、それから彼らは吉男が一人の時を狙うようになった。湊の話というのは、言い回しや言葉の選択を含め、裏打ちされる知識によって効力を発揮している点が大きかったが、吉男には威力のある知識などなかった。だとしても、不必要な言い掛かりなのは明らかであり、反駁に正当性はあるはずである。今までは実際に発見していないこともあって、強い反撃に転じられずにいた。だが、今はムトという未確認生物と出会っている。たとえこの場で証明できなくとも、ぐっと突っぱねることは可能なはずだ。
しかし、声が出なくなっていた。頭上から呪詛のような言葉を浴びせられ続けるうち、暗澹とした気持ちに陥っていく。どんどん視界が狭く、胸が苦しくなってくる。どうにか言おうとするも、喉全体に粘着質の膜が張り付いており、力がまるで込められない。相手からの圧力より以上に竦んでしまういつもの感覚がしていた。
湊には相談できない。言えば、自分が反論したために一人の時を攻撃され、苦しんでいると思うからだ。だから、ぼくが何とかしなくちゃいけない。なのに。なのに。
責任感を含む戦意は、やがて見えなくなるほど萎み、狭まる視界の狭間へ没した。追いかける気力は失われ、さんざ罵った野呂兄弟が去ってからチャイムが鳴るまで、茫然と吉男は立ち尽くした。いずれムトのことを世に発表すれば。その時には。下卑た希望が浮かんでいた。
「焦土の中を歩いていた。進むごとに足元から灰が舞い散り、降りつのる灰と反目する。周囲の熱気は重く、ざらざらとしている。苦々しく焦げくさい匂いがしていて、煙霞のために景色は不鮮明。時折、轟音と共に立ち昇る噴流が、煙の向こうに赤くちらつく。遠目にも分かるほど激しい炎上だ。溶解を伴い、原型を忘れかけた岩石が無作為に降り注ぎ、灰にまみれながら山坂を転がっていく。勾配は緩やかだが道のりは果てしない。どれほど歩いたか、時間という概念が無いので判然としない。しかしとても長い時間だ。自然には無関係であり、無関係という言葉すら無い。また火の手が上がった。目の前だ。ごく小規模なその火柱は、立ち昇るなり静止し、赤黒い姿のまま宙空で凝固した。急速に冷えているのかもしれない。じっと眺めていると、地形の震動に合わせてがらがらと崩れさった。溶岩の質が変わってきたようだった」
ムトの話を聞きながら、湊たちはかつてムトが歩んだ道のりを体験している。これまでにどのような星を巡ってきたのかという話題になり、並んで座る四人へムトの手が伸びてきたのだった。ムトの解説は難しい言葉が多く、特に吉男や十吾には難易度が合っていなかったが、実際にムトが見た視点をそのまま体感しているので、言葉がなくとも充分伝わる。息を呑む光景の連続であり、およそ人間がまともに立ち入ることなどできない環境だった。その臨場感、緊張感たるや、凄まじいの一言では片付けられない。視覚だけではなく、ムトが聞いた音や感じた匂いまで追体験しているのだ。ムトの話が聞こえる程度に音量は抑えられているし、香気も微かなものだが、やはり迫力がまったく違っていた。以前、都会の空に居た時はほとんど視覚のみだったので、おそらくはムトが調節しているに違いなかった。
ムトは大抵の環境下で生きられる。どんな気候や悪天候でも生命活動に影響はない。寒暖や大気の差を感じる器官は備わっているが、それだけだ。身体が傷ついても、たちまち元の姿へ再生できる。それゆえに、どんな場所であろうと物怖じせずに進むことができるが、人間である湊たちにはとても刺激が強かった。そこらじゅうからマグマが噴出するような道を歩いたことなどあるはずもなし、胸の鼓動は早まるばかりだ。しかし、不思議とさほど怖くはなかった。ムトが余りにも平気に進むものだから、錯覚しているのかもしれない。前回、早々に中断した吉男も、噴火のたびに身をびくつかせたりはするものの止めないところから、なんとか耐えられるつくりになっているのだろう。そんなことを考えながら、湊は話の続きに集中する。
「歩き続け、次第に噴煙の量が減ってくると、荒涼とした山肌に、凝固する溶岩柱の連なりが見えた。見渡せる範囲全てに多少の間隔を置きながら居並ぶその様は剣山のようでもあり、墓標のようでもある。壮観だがどこか物悲しい。遠くで咆える地鳴りによって、僅かずつ欠損が進行し、遅々として崩壊に近づいている。それらを横目にひたすら上へ上へと進む。私はとうとう山頂に辿り着いた。星そのものとも言えるこの山の頂に立つまでの道程は、険しく長大だった。ここまでに生物は何もいない。石と土と炎だけだ。しかし私は山頂にて、まるで誂えたようにある、洞穴の入口を発見した。固まった火柱が根元から瓦解した跡かとも思ったが、伸ばした手を入れてみると、ずいぶん奥まで空間があるようだった。そのままでは胴体が詰まりそうだったので、全体を細長く成形した私は、上向きに小さく歪な口を開けている穴へ、その身を進入させた。長い長い落下が始まった。一片の光も届かない暗黒の穴の中を、生温い風を切りながらひたすら下る。落下の速度に形態変化が間に合わず、歪んだ壁に身を擦りながら、私は落ちていった。だがそれらは前半のみで、いつしか空気が冷たくなり、左右に広がりが生まれるようになっていった。登った分よりも下っているのでは、と感覚を確かめていると、突然、きらと輝くものがあった。光だ、と思った瞬間、私は水に沈んでいた。激しく泡をまとわりつかせながらの沈潜。ひどく冷たい水の中は底知れぬ深さがあるようだった。身を反転させ、微かに白む水面へ向かう。顔を出すと、光の正体が一帯に広がっていた。悠久の時を経て生まれたであろうその美麗な水晶群は、窪みのような空間を埋め尽くしていた。それら一つ一つが放つ微光が水面に反射し、一帯を神秘に映し出している。近くに陸地を認めた私は、そこへ上がって辺りを見回した。壁面から尖塔状に突き出しながら、鈍く輝くそれら一つずつの光はとても弱いものだ。だが幾万に重なることで、日の下にも匹敵する輝きを生む。もっとも太陽の眩しく暖かな光とは異なり、静謐で穏やかな光だ。近くには小さな虫もいる。ここならば、と思った。ひときわ大きな水晶の袂に鎮座した私は、探し求めていたその場所で、瞑想を始めた」
ムトの話が終わっても、湊たちはいつまでも不思議な感覚にとらわれた。夢の中を覚醒状態で体験するような、はっきりとした幻は矛盾しているようで、しかし共存していた。洞穴の景色が消え、部屋のみの視界になっても浮き足立ち、皆が思い出したように呼吸をするのだった。見ているだけだったとはいえ、思いがけず消耗し、吉男などはその場にへたり込んだ。互いの様子を見る余裕もなかったが、大まかな気持ちは共有していた。
もっと見たい。
ゆかりでさえ、好奇心が沸き立っていた。だが、十吾がせがむと、それまで全員を見ていたムトは俯いた。
「いや……思っていたより負担が大きいようだったので、また今度にしよう。無理はしない方がいい」
初めてムトに断られ、はっとした。他人に指摘されると、余計に疲れを実感する。心配させてしまったようだ。しゅんとしながらもムトの気遣いを無駄にしないようにと先んじて湊が了解すると、ゆかりも吉男も同意した。我が身の興味を恥じながら、本来の職務に戻ったゆかりは、未だに文句を垂れる十吾を半ば強引に引き上げさせた。ちょうど、帰る時間になっていた。
帰路、その日のムトとの出来事を話すのが、いつの間にか通例になっていた。ましてや今日はとても消化しきれないほどの気持ちを抱えていたため、吐き出さずにはいられない。皆が別れる十字路の真ん中で談話がはじまった。
「すごかったね。なんというか、とにかくすごかった」湊が感覚的に語るのは珍しいが、他の三人も同様であり、ムトの記憶に圧倒されていた。「煤けた手の質感とか、噴火の勢いとかすごく鮮明で……ムトはあんなところを旅してきたんだね」
「考えられないよね。溶岩なんてじごくみたいな色してたもの」怖々としながら吉男が言う。「でも、水晶はきれいだったよね」
「そうね。あれは本当に美しかった」瞳の奥に水晶光を宿しながらゆかりが応える。「幻想的で」
「んなことよりよ、あの穴に落ちるのおもしろかったよな」ゆかりの話が終わりきらないうちに十吾が割り込む。「スリル満点だったぜ」
話を遮られたことに抗議しようとしたが、さっきは好奇心が膨らみすぎたせいでムトの気を煩わせてしまったのだと思い直し、自身への反省も込めてゆかりは嘆きの眼差しを送るに止めた。だが、危険性については言い含める必要があると思った。ところが機会を窺っていると、思いがけず湊が言った。
「でもあれは、ムトだから平気だったんだよ。とても人間が行けるような場所じゃないからね。同じふうに考えちゃいけないと思う」
確か以前にも絶妙なタイミングで湊が代弁してくれたことがあった。単なる偶然なのに、なぜ嬉しいのかゆかりはわからなかった。ただそれと相反する気持ちもまたあるのだ。
「ぼくはずっとびくびくしちゃったよ」情けない声で吉男が言った。「噴火のたびに、どれだけこわかったか」
「そりゃおめえがびびりなだけだぜ。どっかんどっかんして楽しかったじゃん」
「見てるだけだからよ。実際にあんな火山地帯を歩けば、あなただって怖いに違いないわ」
気を取り直し、緊張感を与えた声でゆかりが叱る。
「少しは危ないって感じなきゃだめよ。大体、その見てるだけでもあたしたち随分疲れてるんだから」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く十吾。だが、体力自慢の十吾も疲労を覚えていた。あの映像を見終わってから、身体が少し重い。皆にどっと疲れが出ていた。いかに見ているだけだったとはいえ、その迫力たるや現実と見紛うほどであり、日常から瞬時に切り替えられるほどの耐性などあるはずもない。印象に残る場面はそれぞれ違えど、間違いなく心に残る体験であり、刺激的と言えば楽しげだが、行き過ぎると毒になる。あらためてムトの判断は賢明だと、ようやく冷静になって湊は思った。そして、前々から危惧していたことを口にした。
「ねえ、みんなはムトのことを人に話してないよね?」
湊の問いかけに三人が頷く。
「僕も言ってない。これから先も誰にも言わない方がいいと思うんだ」
その言葉で、吉男の頭は空白になった。なぜ。どうして。だって。そんなことしたら。ぼくは。
「ムトの映像を見ている間、ずっと思っていたんだ。あんなに大変な道のりを行ってまで何をするのかって。ムトにとっては苦ではないのかもしれないけれど、でも僕たちにとっては違うよね。人間が生きていける環境じゃないし、きっと何年も、何十年も登り続けたんだ。僕らにとってはやっぱり『そうまでして』って言えることだと思う。それほど、瞑想は大事なことなんだよ。前に都会の映像も見たよね。でもムトは今この町にいる。これは想像だけど、都会は騒がしすぎて、だから移動したんだと思う。僕たちが毎日ムトのところに行って話をしているのも、ムトは瞑想の一環と言ってくれるしそれは本当なのだろうけど、度を過ぎれば瞑想の邪魔にならないとも限らない。今より人が増えて妨げになれば、ムトはどこかに去ってしまうかもしれないよ。ムトの暮らしのためにも、これ以上は騒がしくしちゃいけないと思う」
アスファルトの道へ視線を彷徨わせながら、吉男は茫然と湊の話を聞いた。それはわかる。でも。だとしたら。ぼくはどう。どうしたら。
「おう、そうだな。たしかにさわがれちゃつまんないもんな」十吾がにやりと笑って腕組みした。「おれはだいたい楽しけりゃいいんだし」
「そうね。瞑想の助けになれる範囲で、ムトと関わるべきよ」湊の意見に合わせているわけではなく、自分なりに考えて同意することを意識しながら、ゆかりが頷く。「あたしは、あなたたちが危険を冒さないかも見ないといけないし」
「ありがとう。そうだね、僕もムトのことを知りたいというだけで、別に世の中に発表したり、有名になることはどうでもいいからね」
いやよくない。だってそうしなきゃ。ぼくはどうしたら。次にあいつらが来たら。どう。
「よしおはどうなんだよ」
うなだれた吉男の心情には気付かず、十吾が何気なく問う。どうする。正直に。いや。言えばもう。ここにはもう。それだけは。
「ぼ……ぼくも湊くんと同じ」
嘘というわけではなかった。知識欲は持っているし、好奇心の疼きもある。だが、唯一すがりついていた希望を失った喪失感は大きく、湊の話への納得が、かえって失望を深めた。
たかが、名前を呼ばれただけのこと。なんでもない。なのに、どうしてこうも気になるのか。目で追ってしまうのか。わからない。どうしても。
ゆかりにとって一番解せないのは、理由らしい理由がなさそうなことだった。名前なら誰にだって呼ばれているからだ。自分のことで意思が定まらないのも初めてであり、しかし己の中のぶれのようなものは感じることができた。対抗心は失っていないが、違う感情が介入したことで、割合としては下がってしまっている。それは嫌だ、とゆかりは思った。今の状態になる前、もっと集中していた時でさえ勝てたためしが無いのに、このままでは何もかも中途半端になってしまう。だから、一刻も早くこの気持ちの正体を見つけ、処理しなければならない。それが適わぬとしても、抑える術は身につけるべきだ。余計な感情を抱えると、前回ムトに心配された時のように、本来の役目がおろそかになる恐れがある。それはよくない。やるべき仕事と感情は関係ないのだ。もっと没頭しなければ。少なくとも正体不明のもやもやに執心しないように。
そう考えたゆかりは、先生に振られた作業にしめたとばかりのめり込もうとした。しかし、やはり捗らなかった。意識しないようにすることは意識することと同義であり、無意識とは思考の働きによっては生まれないからだ。でも、これは自分の仕事だ。自分がやらなければならないと、ゆかりは思い込んでいた。
いつもなら休み時間内に終わる作業は、ついに放課後へ突入した。やむなく吉男に遅れる旨を告げ、再び自席に戻ったゆかりに、クラスメイトの木下里子が声を掛けた。
「ゆかりちゃん。なんだか大変そうだけど、手伝おうか?」
おっとりした声で、おずおずと里子が言う。「今日は校内美化活動ないの」
里子は美化委員だった。校内美化活動は月に一度なので、仕事の頻度は低い。ゆかりとはたまに会話を交わす程度の仲だが、放課後にまで作業を長引かせるのは滅多にないので、その点で心配りをしてくれたのかもしれない。他意はなさそうだ。仕事の少なさを匂わせることで気を遣わせないようにもしている。優しい子だな、とゆかりは思った。だが、なおのこと頼るわけにはいかない。他人に頼るということは、自分の欠陥性、能力の不足を認めるということに他ならないからだ。まして、プリントの整理などという簡単極まりない作業をわざわざ手伝ってもらうのは、きっと違う。これはやはり自分のみで完遂しなければいけない事柄なのだ。
「いえ、大丈夫よ」ぐっと里子を見上げてゆかりは言った。「一人で大丈夫だから」
「で、でも、一人より二人でやった方が早いよ」
気は弱そうなのに、意外と食い下がる里子。頑として断る必要があると思い、ゆかりはまくし立てた。
「本当に大丈夫なの。途中まであたしがやったんだから、今さら他の人に入られても間違うかもしれないわ。だいたい、一から説明もしないといけないし、だったらその間に続けた方が早いに決まってる。本当に一人でいいのよ。事情も知らないのにいい加減なこと言わないで」
拒絶を感じさせる張りつめた眼光を向けられた里子は、衝撃に固まり、弱々しく呟いた。
「そう……」
手に持ったプリントを見つめ、気遣わしげな瞳をして去る里子の悲しい一瞥を、ゆかりは背に受けた。
「手伝った方がよかったかな?」と、ビルの前まで来て湊は言った。
「ほっとけよ。見張りがいなくてせいせいするぜ」十吾は軽くなったと言わんばかりに肩を回す。「あー楽ちんだぜ」
「ぼくも、放っておけばいいと思う。男子に言われたって受け入れるわけないよ」
半ば投げやりに吉男が言う。吉男は今それどころではなかった。次に野呂兄弟が襲いかかってきた際の身の振り方がさっぱり思いつかない。どうやって身を守る? どうやって逃げる? そんなことばかり浮かんで、具体的な考えは何も出てこない。ゆかりの男子に対する厳しさなら多少は知るところなので、少しためらいながら湊も納得する。「確かにそうだ。親切の押し売りも良くないものな」
ただ一つ気がかりがあった。今までエレベーターに乗った時は四人揃っていたが今日は違う。果たしてムトの住処まで行けるのか、と湊は思った。というのも、初日に辿り着いた時は数十回もの試行回数の上だったが、二日目以降は三回前後で安定はしているものの回数自体はまちまちなので、何か条件があるのかもしれないと考えたのだ。その条件に人数、もしくは総重量などが含まれていた場合、どうあっても行けないことになる。
そう思いながらエレベーターに乗り込み、不安になりはじめた五回目になって、ムトの住処へ着いた。いまいち規則がつかめない。まず、ムトを見つけた。
「こんにちは」ムトがいつも通り眠そうな眼をしながら挨拶をし、湊たちもそれぞれ返す。ムトの一族には挨拶という習慣が無いらしく、人間のその習わしを知った時からやってみたかったのだそうだ。今では毎日やっている。
ゆかりが遅れると告げてから、湊が訊ねた。
「早速なんだけど、この部屋に着くまでのエレベーターの上下回数が日によって違うのはなぜだい?」
「人に見つかりにくくする為の、住処の仕掛けの一つだ。早く言えば、私の存在をどれだけ認識出来ているかで、回数が変動する」
「どういうことだい?」
「例えば君達が初めて来た日は、相当数を繰り返しただろう。それは私の存在を半信半疑、むしろほとんどない可能性に賭けるような状態だったからだ。ところが今は私がここにいることが分かっているので、ずっと少ない回数で来られる。もっと言えば、居るかもしれないという考えすら持たない人間がここに辿り着くことは絶対に無い」
「ははあ、よくできてるなあ」
感心しつつも、やはりムトは静かな生活が望ましいらしいことを湊は再確認した。
「でもよ、あのエレベーターいつもあそこにあるけどよ、一階のやつがエレベーターよんだら下からエレベーター来るんだから、下があるのわかっちまうんじゃねえの?」十吾が後ろを指差した。「だったらムトのことしってるとか関係ないよな」
「あ、それ面白そうだね」その発想はなかったとばかり、湊が身を乗り出す。「ちょうど上条さんが遅れて来るわけだし、二手に分かれて実験してみないかい?」
「いいぜ。でもおれが上に行くのはかんべんな。あいつとふたりっきりなんてぞっとする」
寒がる素振りをしながら、十吾は階上に行くことを拒否した。
「ぼくもやだな。あの人苦手だもの」
いつもならもう少し遠慮がちに言うところを、吉男は臆面もなく投げやりに言った。だが湊は、吉男が前にゆかりを怖がっていたことを思い出し、さして気には留めなかった。
「わかったよ。じゃあ僕が上に行ったら、吉男くんたちはエレベーターを呼んでみてほしい。まずその時にどうなるかを見てから、一階でエレベーターを呼んでみるよ。というわけでこれを渡しておくね」
そう言って湊はリュックからトランシーバーを出し、片方を十吾に渡した。「ここを押せば話せるから」
子供用の玩具であり、通話状態は良好とはいえないが、連絡を取り合うだけなら充分な代物だった。「とりあえず上条さんと合流したら知らせるね」
「おう。わかったぜ」
十吾と吉男に見送られ、湊はエレベーターに乗り込んだ。結果について知っているであろうムトは口出しをせず、成り行きを見守っていた。口頭で結論のみを教えるのではなく、きちんと実体験させるあたり三人の気持ちを汲んでおり、こちらがムトの気持ちを考えはじめたように、ムトもまた皆への理解をはじめていた。
一階に着き、前の道を覗くと、ちょうどゆかりが来るところだった。己の体たらくにやきもきしながらビルへ向かっていたゆかりは、件の湊が一人で立っていることにうろたえた。まさかあたしを待ってくれていた? などと考えてしまった自分を直ちに律し、半ば強制的に締め出した。
「上条さん。来たんだね」
こういう時に名前を言うのはやめてほしい。卑怯だ。と、理屈に合わないことをゆかりは思った。
「ちょうどよかった。今から実験をするんだ」
内容を聞かされ、ゆかりはがっかりしてしまった。実験のためか。そうか。だが、すぐさまその方が好都合であることを内心で主張し、そろそろだというエレベーターを注視した。
「十吾くん、聞こえるかい」
ざあざあと雑音混じりの声が聞こえる。「あー、あー、こちら十吾隊員。押してもいいか」
くだらない。何になりきってるつもりかしら。心の中で強めに悪態をつくゆかり。
「うん。いいよ」
ところが湊が言うと、エレベーターは上へ行ってしまった。
「あれ、おかしいな。まさか上の階に人がいて、先に呼んだのかな? 十吾くん、そっちはどうなってる?」
「あー、あー、エレベーターこちらにとうちゃく。どうかしたのかよ」
「おや?」
エレベーターは上へ向かったはずだが、地下にいるはずの十吾はエレベーターが降りてきたという。動きが食い違っているのはあきらかだ。
ちょっと思案してから、湊は言った。「二人とも。今度は僕が一階で呼ぶから、エレベーターがどうなるか見ててくれないかい」
十吾の了解を聞いて、湊が呼び出しボタンを押した矢先、飛び上がるような声が黒い端末の奥から聞こえた。「わわあっ」
吉男の声だった。上からきたエレベーターを見ながら、すかさず湊がたずねる。「どうかしたのかい」
「あの、その」驚きの余りかすぐに言葉が出てこないようだった。「エレベーターが」
要領を得ないので直接聞いた方が良さそうだと判断し、いつもの手順で住処に戻ると吉男に告げ、湊はゆかりに向き直った。「じゃあ行こうか」
なんだか勝手だと思い、ゆかりは腹が立った。妙なことが起こっていて気になるのはわかるのだが、それにしたって一人で進めすぎているのではないだろうか。もう少しこちらに意見を求めては。そう感じながらも、いざ狭い箱内で二人きりになるとえもいわれぬ居心地の悪さがあり、文句を言ったとしても、事態が好転するようには思えなかったのでやめた。頭はそれなりに冷静なのに、どうにも胸がむかむかした。
住処に着いて顔を合わせてから吉男が続きを言った。「き、消えたんだ」
「ほんとだぜ。いきなりなくなっちまった」十吾も横で身振りをまじえて大きく感嘆した。「たまげた」
二人の話では、突然エレベーターが消失し、がらんどうになったという。信じがたくも、湊はムトの言葉を思い出した。ムトは、仕掛けの一つと言ったのだ。これもまた先ほどの回数変動のような、住処の秘匿性を守るための措置なのだろう。いや、もはや装置と言った方が近いかもしれない。
湊が後ろで難しい顔をしているゆかりに回数の件を教えると、ゆかりはさらに険しい面持ちになった。そういう配慮はできるのに。なんでこう、もっと。ああ、もう。
しかし湊はゆかりの表情が、話の非現実性に向けられたものだと解釈した。まあ無理もないな、とも思った。自身はどうしても見たくなり、吉男にお願いした。
「僕もぜひ消えるところを見てみたいんだけど、上へ行って同じふうにエレベーターを呼んでみてもらえないかな」
遅ればせながらやってきた、いかんともし難い胸の高鳴りを抱えていた吉男は、元気よく引き受けた。「いいよ。任せてよ」
一人エレベーターに駆け込み、上へ向かいながら、先の喜ばしい驚きをまだ噛み締めていた。現在の苦悩とは無関係の、どうしようもない心からの楽しさを感じていた。そして、ムトを世間に公表するなどという事は売りものにしている事と同じだと自覚し、利己を恥じた。また、もっとここに居たいと思った。
野呂兄弟のことは解決せず、相変わらず、どうすればという言葉だけが堂々巡りに不安を掻き立てていたが、以前より絶望感は和らいでいた。
吉男と同じく、湊もエレベーター消失を目撃し、その不思議なうれしさに魅せられた。仕組みを訊ねると、ムトは「そういうふうに出来ている」とだけ言った。原理や理屈などは通じず、やはりそういうものであるとしか言えないのだろう。だとしたら、先入観にとらわれず、目の前の事象のみを見つめていく方が良いのかもしれないと湊は思った。実際に起こってしまえばそれが現実なのだ。