ノーラル海 1
船が進むと海面は波紋を広げ、少しずつ見知った陸から離れていっていることを証明してくれた。物寂しい気持ちにもなるが、私たちには目的があった。ローナルを出た私達は、ユラの生まれ故郷であるソパールを目指している。被害のなかったローナルの上の階の人間は、下の出来事に気付いておらず陽気なものだったが、バレるのも時間の問題なので、ソパールと言う国を知っているかを道行く人に尋ねて行って収集した情報によると、レジェノの港から出港している船からノーラル海を抜けていけば、到着先がソパールだと分かった。レジェノに向かうのは躊躇われたが聞いた話によると、国自体は王を失い混乱しているが、庶民たちはこれといって変化はなく、いつも通りのようだ。これをよく思った私は、速攻で決断を下した。
ここら一帯の治安は明日にでも崩れる可能性を孕んでいる。それは、カイの問題もレヴァの問題も解決していないからである。だからこそミラもつれてきた。名目上は記憶を消されたくないので出張という扱いだが、あの国に戻る予定は今のところない。
「風が気持ち良いな。妾も海にはあまり縁がないから新鮮な気分じゃ。」
うーんと腕の筋を伸ばすようにするティリーンの瞳はずっと遠くを見ている。私に黙って付いて来てくれている彼女には感謝しきれない。元々の約束では、用事が終わったのだから帰ろうと言われても仕方ないのだが、私の意図を読んで気を遣ってそのことは特に不満を垂れていない。潮風が心地よく私達を包む。まるで、彼女の器の広さを表しているようだ。モーターで動く大型船はそんな風の中を進行していく。
「あっ、こんな所に居た!」
手をブンブンと振ったユラは走りながらこちらに向かう。見たところ、女も一緒のようだ。船首側の甲板に居た私達は彼女らに振り向く。
「パパぁあああ!」
ガッシリと抱きついてくる彼女を受け止めてから、気恥ずかしそうに歩み寄ってきた女にミラはどうしたのか聞くと、まだ気持ちの整理がつかないから部屋で休んでいるのだそうだ。それはそうか。当たり前のことを聞いて申し訳ないと思いながらも私はユラの背を擦る。それをチラチラと見ていた女はモジモジとしながらも何か言いたげだ。私が手を止めて見向くと、観念したように、そっぽを向きながらアタシにはカナという名前があるのだから、それで呼んで欲しいと言ってきた。そう思えば、名前を初めて知った。確かに名前を知っていないと不便なことがあるのは間違いないので、言い慣れるために試しに呼んでみると、カナは頬に浮かぶ朱を深くしながら黙りこむ。
「主様は人気者じゃのう」
端から見ていたティリーンは可笑しそうに笑う。様子を一歩引いた目線で見ていて、私達のやり取りが彼女のツボを捉えたようだ。彼女が恐ろしいのはケラケラと笑うだけに見せて、時折、艶めかしい目で乾燥した唇を舌で湿らして秋波を送ってくることだ。不覚にも胸が高鳴る。大人の厭らしさが滲み出るような生々しい誘惑は、私のような若輩者には荷が重すぎる。多分、ティリーンもそれを知りながらそうしているのだろうから、尚更質が悪い。
「リンちゃんとカナちゃんばっかりズルいよ!!ユラにも構って?」
うつつを抜かしていた私の腕を引っ張って、ユラが語気を強めた。因みに、リンちゃんというのはティリーンのことで、ティリーンという発音が難しいから言い易いリンの部分だけ取ってそう呼んでいる。所謂アダ名というやつだ。誂うのに満足したティリーンはユラの苛立つ様子に残念じゃと溢しながらも目線を海の方へ戻し、カナは目線を床に下ろした。完全に独り占め状態になったユラはいつも以上に甘えてきて、周りの客も何事かとこちらを見ているくらいだ。何事かと思う理由もわかる。身体の成熟した女性が幼子のように男に甘えてひっついている。ユラの現状を知らない人からすると、異様な光景だろう。流石に私もジロジロと見られては恥かしいのでユラにもういいかと問いかけたが、まだだよと幼い時にしたかくれんぼの掛け声のように言い返されたため、反論の思いつかない私の負けとなった。
結局そこから当分動くことが出来なかった。
「お、お帰り……なさい」
部屋に戻るとミラが正座をしてベットの上に座っていた。俯き加減の表情を見る限り、気分はあまり良くないみたいだ。相変わらず目を合わせられないし、もう無理に合わせるのも彼女にためにならない。諦めている私は手を繋いでいたユラと一緒に行動していたカナとティリーンを部屋において出ていこうと考えていると、ミラは身を翻した私の背中に大きな声をかけた。私が反応すると、身体は痙攣でもしているように震えているが、何かを伝えようと必死に口を動かそうとしている。無理はしてほしくないが、彼女が自分の力で何かを乗り越えようとしている。その事実は否定するべきものではないし、応援してあげたい。吶りながらも紡がれる言葉には恐怖や焦りが見え隠れする。
「身体が……ふ、震えるの……そんな、つもりないのに。……嫌だ、おとうさんと……離れたくない……のに」
汗が噴き出して舌は上手く回っていない。しかし、彼女の気持ちは一言一句齟齬無く伝わった。私が近付くと震える身体はとても正直である。あの場で、なぜ彼女だけがそうなったのか。答えは簡単だ。それが人間として当たり前の反応であるからだ。ティリーンはそもそも人間ではないし、カナは首謀者であり普通とはいえない人生を歩んできている。ユラは幼児退行を起こしており、物事の善悪もわかっていない。その中で唯一、ミラは世間知らずな部分があって才能を有しているが、基本的には普通なのだ。人の死というものに慣れていないのだから脳が混乱を起こす。私も死に慣れているわけではないが、様々なことを経験しながら段々とそういう感情を度外視するようになりつつある。自分が化け物にでもなっていっているような気になるが、それはそれで仕方がないことだ。
「結論を急ぐ必要はない。ゆっくり考えればいい。」
私は全員を置いて一人で部屋を出た。船長の話ではソパールまではそこまで距離があるわけでもないので、一日も掛からないと言っていた。この船旅も短いものになる。今のうちに船内を見て回っておこう。見慣れない人達に見慣れない景色。そして食べ物。自覚すると空腹が本当に限界であったことを思い出した。意識すると、もうどうにもならないレベルである。私はすぐに食堂の位置を貼りだされている地図を見て確認してから早速移動した。食堂に入ると、美味しそうな匂いが鼻を通って頭に伝わり、一気に唾液が分泌されていく。人が多くて席があまりないので早めに席を確保すると、横から大きな声が出された。驚いてそちらを見ると、私同様に飢えた顔をした男がこちらに手を伸ばしていた。残念ながらこの席は私が頂いた。そう切り替えてオーダーが来るのを待つ。男は周囲を見渡してから、私に声をかけてきた。
「ちょっと相席いいかい?」
何故ここなのかと思ったが、仕方がないので肯定すると男は嬉しそうに私の正面に座った。向かい合う形になって気まずく思っていると、丁度店員が来たため、適当に料理を頼んで気を反らした。しかし店員が去ると、再び沈黙が訪れる。
「いやぁ、有難い!腹が痛くてトイレ行ってる間に席取られたからどうしようかと思ったわ。けど、良い人でよかった。」
沈黙を破ったのは男の方だった。どうやらこの席は彼が私より先に確保していた場所だったそうだ。それならそうと、荷物なりを置いておけばよかったのにと思わないでもないが、荷物が盗まれる可能性を考慮すると、安牌を取るなら持って行ったほうが良いか。私が彼の立場でも同じことをする。納得しながら話を続けていると、意外に彼とは気が合い気付けば料理が届いていた。話によると彼は行商人として各地を回っているらしく、今回はレジェノに商売をしに来ていたようだけど、不穏な噂が多くなってきたのでソパール側に一旦離れて様子を見ようと考えているらしい。元々根無し草なので場所にこだわりはないらしく、物が売れるところが自分の居場所だとまで言った。彼ばかりに話させるのもいかないので、私も大分隠しているところが多いが、大雑把にどんな感じかを語った。
「へぇ。お前さん旅人なのか。見た目からして強そうだから傭兵でもしてるのかと思っちまったよ。」
頭を掻きながら正直に彼はそう言う。自分で言うのもどうかと思うが、鏡なんかで見ても言われた通り傭兵のようにしか見えないので否定出来ない。牢屋に入れられた時、鍛えぬいていたので筋肉が隆起している。しかも動くように必要な分を意識してつけたので、見世物めいた筋肉はつけていないし、実際に鍛錬は欠かしていない。よくよく考えると、自分は戦っていたほうがあっているんじゃないかとさえ思う。
「襲われたりすることもあるから結構腕っ節も要る。行商人しててもそうじゃないか。」
男は皿に乗った肉を大きな口を開いて噛み付き嚥下してからやれやれといった風に、手を開き首を振りながら口を開く。
「良いかい。普通そういう場合には護衛の人を付けるんだ。金は掛かるけど、襲われても自分は隠れておけば良いんだから安心して商売できるんだ。お前さんみたいに、襲われた時のために自衛力を高める人のほうが稀だぜ。」
呆れ顔の彼に反論できない私はそんなものかと自己完結させると注文していた料理に手を付けた。
食事が終わると彼と別れた。彼にもやることがあるし、私もそろそろ部屋に戻ったほうが良いだろう。船の窓からでも港がまだ小さいが見える程の距離まで来ている。荷物をまとめて船を出る準備をしておくべきである。丈夫に造られた廊下を歩きながら今のうちに下りてからの計画を立てる。何があるかわからないが、取り敢えずは今回の大きな目的であるユラの両親に対面することを遂行するためにユラの家を探す。危険云々でローナルを出てソパールに向かったといったが、その根底にはこの想いがあった。嫁にやった娘がこんな事になっているなど、想像していないだろう。ならば、知らせる必要があると考えたのだ。叱責を受けるのは覚悟のうえである。
「入るぞ。」
ノックをして扉を開くと、そこには何故か服の脱げた女達が居た。私の思考が完全に停止していると、こちらに気付いた次第に目を見開いて、大きな声とともに機能が封じられた魔道具を私の顔面に投げつけてきた。放心していた私はそれを受け止めきれず、思い切りクリーンヒットすると後方へ倒れた。鼻の奥からは何かしらの刺激のせいで熱いものが込み上げていた。




