ローナル国 9 ※ユラ視点
何でもそうだが世の中は上手くいかないように仕組まれている。彼がここを発った後、私達は時間も忘れるほどに働いていた。何時になるか分からないが、帰ってくる彼が不自由しないように。お金は節約もして着実に貯まってきている。しかし、彼が私達の元を離れてからもう一年と数ヶ月が過ぎている。私の中で彼が私たちを見捨てて何処かに行ってしまったのではないかという不安が頭の奥に鈍い痛むを走らせる。最近は、失敗も多くなってきていて、今日も皿を何枚か割ってしまった。店主に謝ると、そんなこともあると慰めてくれたので大事にはなっていないが、このまま録な働きが出来なくなったら、解雇されてしまう。そうなれば、私は体を売るくらいしか出来ることがなくなってしまう。しかし、卑しい私の心は彼以外に抱かれることを断固として拒んでいる。
「ハァ」
漏れた溜め息は室内を漂う。
店主が気を利かせて早退をさせてくれたため、私は今、一括支払いで購入した家の自分の部屋のベッドの上にいる。私は相変わらずあの店で働いているが、もう私があれこれせずとも立派な有名店になっているので、優秀なスタッフ達が店を回している。店主が気を遣って高い給金を出してくれているが、そんな大層な仕事をできている自信はない。貯蓄が増えるとともに虚しさが押し寄せてくる。
「おかあさん……どうしたの?」
私の様子を心配したミラが自分の部屋から態々こちらに赴いてくれた。彼女は今ではメロルの研究所を出て、単独の研究室をもらっている。しかもその才能の御蔭で特別枠にまで入れてもらっている。何を隠そうこの家の資金も殆どが彼女持ちなのだ。質の良い布団を指先で弄りながらも私は娘にここでよく相談をする。今日の仕事がどうだっただとか。あのお客さんは嫌いだとか。そんな愚痴から彼に関することまで。ミラは私の悩みの全てを理解している。どんなことを言っても彼女は私に優しく微笑んだ。ここ一年で身体も成長して、遺伝のせいか胸やお尻はあまり育たなかったが、身長が伸びてモデル体型にスラリと成長していた。それに伴い、包容力が飛躍的に伸び、今では研究所の部下にも慕われている。彼女には年齢関係なく包み込んでしまうような雰囲気がある。
「あの人が、もしこのまま帰ってこなかったら。そう思うと。」
あんなに大きかった彼の存在が私の中で段々と小さくなっていっているのを感じ、それがたまらなく恐い。このままあの人を忘れてしまったら。最近ではそんな悪夢を見てしまうこともあった。俯いた私にミラは優しい目で見つめながら口を開く。
「もう……あの人が好きじゃ……なくなった?」
そう言葉にされると、私の胸がズキリと痛む。まるで心の奥底を見透かされたようだった。
「そんなわけ、ない」
しかし私ははっきりとそう言う。小さくなっている彼の存在ではあるが、彼を思い出すだけで胸は高鳴るし、頬は紅潮する。体も心も求める。でも、それが身近に居ないものだから欲求不満を起こした身体が精神を守るために、わざと彼の存在を心の隅に追いやっているのだ。もう心が壊れてしまいそうである。ミラはそれにふぅんと返して、ニコリと顔を破顔させた。少し前までは笑顔なんて全然見せなかったのに、近頃はこういう顔もできるようになっていた。変わっていないのは話し方と烏の濡羽色の長髪くらいか。
「じゃあ、もう少し……待とう?」
手をギュッと握ってくる。その手は震えており彼女も不安であることをここで知った。全てを見通したような顔をする彼女でもやはり不安はある。そんな当たり前をここに来てから忘れてしまっていた。娘の背に手を回して背中をトントンと叩くと、抱き締めた娘から静かにスンスンと鼻を鳴らす音が聞こえた。つられた私も涙を溢れさせて、親子二人で声をからすほどに泣き明かした。
次の日、抱き合ったまま寝ていた私達は空腹で目を覚ました。そう思えば昨日は夕方に帰ってきてから、ご飯も食べずに寝てしまった。上半身を起こすと、覆い被さるように寝ていたミラもその反動で起床した。お互い目が赤くなるまで泣いたので少し気恥ずかしいが、何故か二人して見合うと、笑いが溢れる。
「これじゃあ出先で泣いたことバレちゃうね。」
「うん……でも、それでもいい。」
手を繋いでベットから出ると、私達はお風呂に向かう。風呂釜にお湯を流し、溜まる間に洗面台に二人並んで歯磨きをする。お金を惜しまずに買っただけあって、最初は戸惑ったがこの家には各地の最新鋭の物が揃っている。娘が言うには、身を清めるものにはお金を惜しまない。もしおとうさんが帰ってきた時には、綺麗な自分を見せたいから。内面は外見に影響するというし、とても良いことだろう。それに逢い戻りは鴨の味と言う。気持ちが途切れたわけではないが、長い時間会っていなかっていないのだ。再び再開した時に綺麗な身体を見せつければ、前以上に私達を愛してくることだろう。
私が妄想に浸っていると、先にうがいまで終えたミラが私の服を引っ張ってお風呂が溜まったことを知らしてくれた。私は慌ててうがいを済ませると、娘とともに服を脱いでお風呂へ向かった。
お風呂に浸かると自然と声が出たが、そんなことは気にせずにゆっくりと肩まで浸かる。先に身体を洗ってから入るのがマナーらしいのだが、どうせ私達二人しか居ないのだし、一気に熱い風呂に入った時のあの魅力には勝てない。親子だからかそれは娘も一緒で二人揃って最初に風呂に浸かるのがいつもの流れである。広めに作ってある風呂釜は二人で入っても余裕があり、欲を言えば彼も入れて三人で入りたいと思ってこの大きさにした。実現したことがないのが一番ネックなところではあるが、この広さはとても寛げるので今では前傾姿勢になって前の縁に身体を預けながら寛ぐのが日課になりつつあるので結果オーライである。でもこの姿勢になると、歳の割には付いていない胸が気になる。昔は気にしたこともなかったが、異性を意識し出してからこういう部分が気になり始めた。良く言えばスレンダーとも言えるが、これで彼が興奮してくれるのか。自分で手を添えてみると、揉めるほどはあるが大きな手で覆うと恐らくスッポリと隠れてしまうくらいの大きさだ。馬鹿らしく思いながらも大きくなれと揉みしだく。そこには一片の性欲も関係なく、只ひたすらに一縷の望みを掛けた女の姿があった。ミラも真似して同じことをしていたが、お互いそのことに関しては触れないでいた。
風呂から上がった私達は朝食を軽く摂ると、各々の仕事に向かう。ミラは研究室のある地下二階に向かい、私はそのまま地下一階のあのお店に出向いた。
「もう大丈夫なんですか?」
真っ先に近寄ってきたのは店主だったが、その後も他の従業員も大丈夫かと心配してくれた。私は元気よく大丈夫であることを伝えると、従業員の一人がやはりユラさんが居ないと寂しいですと言ってくれたので、私は嬉しくなっていつも以上に気合を入れて接客に取り組んだ。そして、お客さんが疎ら(まばら)になるピークの過ぎた昼過ぎには店を出て、チラシを片手に深い紫の丈の長いワンピースに白のエプロンという店の衣装で出歩く。道行く人に声をかけて行きチラシを渡す。時折、口説かれたりもするが、夫と娘が居ることを伝えて諦めてもらう。それでも諦めない場合には、研究所で絶対的な権力を握っているミラやリーダーなどの名前を出すと、大体の人間は尻尾を巻いて逃げる。
「よろしければ、いかがですか?」
その日もいつも通りにチラシを配っていく。今声かけたのはフード付きの外套を深く被った女性で、私が声をかけると、目を泳がせて挙動不審な態度をとったと思ったら、急に私の腕を掴んだ。私が離してと叫んでも彼女は反応を見せず、逆に私の口元に布を押し当てるようにして黙らせた。強い力で引っ張られたのは店と店の間に存在するスペース。普段人が立ち入らないようなところであり、私は身の危険を感じて必死に声を上げる。しかしその声は無情にも布で遮られて碌な音になっていない。
「これで、これで、これで」
一切表情を変えない女性はフードを取ると、そこからは少し目元に皺のある赤髪の女性が顔をのぞかせた。彼女は懐から綺麗なガラスの球体を持ち出すと、私を壁に押さえつけてぶつぶつと何かを唱え始めた。
「んーー!!んーーー!!!」
暴れながら抵抗するが拘束が解ける気がしない。それどころか掴まれているところが青じんで掴まれた先の腕の感覚が麻痺してきている。とてもではないが、女性の力ではない。明らかに異常である。
「大人しくしろ!!」
痺れを切らした女性に頬を叩かれる。あまりの威力に地に倒れこむと、ニヤリと笑った女性が私を跨ぐようにして座りニヤニヤした顔をしてガラスの球体を前に出し何かを念じた。すると、体全身に痛みが走る。どうなっているのか分からないが、まるで全身の血管を手で無造作に引っ張られているようだ。あまりの激痛に声も出ない。女性はそれをよく思ったのかまた何かを念じ始める。次は脳みそが砕けるような痛みが走る。涙が出てきて無意識に彼を思い出す。助けて。助けて。それだけが頭の中を埋め尽くす。
「あーいやいや、痛いだろう。実験に付き合ってくれてるんだ。これくらいはサービスしてやろう。」
痛みが唐突になくなったと思うと、彼女は注射器のようなものを取り出した。中には半透明な薬が入っており、少し押すとそれが一滴二滴と溢れる。パニックを起こしている頭でもあれが危ないものであることは分かる。女性は私の反応を伺いながら、ゆっくりそれを私の手首に近付けていく。
「やぁああ!!」
舌の回らなくなった口は上手く言葉を吐けない。涙が出で、鼻水も垂れ流しであるし、緩んだ口からは涎も溢れている。目を瞑って必死に祈るもその祈りが届くことはなかった。針は私の手首を捉えて突き刺さる。そしてそこから液体が注入されていく。頭がおかしくなりそうなほどの刺激が全身を襲う。女性が何かを言っていたが、何も耳に入らない。きっとこれは夢だ。そう考えていると、目の前に彼が見えてくる。微笑んでくる彼に名前を呼びながら手を伸ばすがその手に触れることが出来ない。幼い子供のように泣き叫ぶが彼はそのまま振り向くと離れていく。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。思考が狂っていく。
「さぁ、楽しもうじゃないか。」
彼女がそう口角を上げたところで私の意識は完全に途切れた。




