旧メナカナ高原 4
身を忍ばせて状況を窺う。僕は魔女の家に舞い戻っていた。あのケレガレニウスとかいう軽薄そうな男を呼び寄せてしまったのは、僕達の責任が大きい。なのに、僕らだけが安全な場所へ尻尾を巻いて逃げるというのは、人道に反する。今更、そんなものに囚われても仕方がないという気持ちもあるが、あの女性を見捨てることが最適解であるとは、僕には到底思えなかった。何か他の手段があるはずだ。それ程大した計画もなしに飛び出していた。草陰から家の方を覗くと、今も尚死闘が繰り広げられている。男の無数の突きを色とりどりの魔法で相殺し、時には、反撃にも転じる。だが、そのどれもが相手を捉えることは出来ず、空中で霧散していく。どう見ても相性が悪い相手であることは間違いなかった。遠距離攻撃主体の魔女に対して、相手は近距離専門。魔女には、墓のそばを離れられないという制限まで付いているように思える。即ち、彼女はその場を動けず、力も衰えた状況で最も戦いづらい相手と向き合わなければならない。
疲労の見える表情に戦いの終焉が近付きつつある事を悟る。ケレガレニウスもその事を存じていると言わんばかりに、大袈裟な仕草で彼女を挑発する。熟練された彼女にそんな酔狂な真似が通じるはずはなかったが、伝説の魔女を前にして、彼の余裕が覆ることはない。最早、コレ以上は唯の泥試合にすらならない事が予見できる。一方的な虐殺が執り行われる。僕は自分自身に問い掛ける。自分は何故此処に舞い戻ったのか。このまま彼女が一方的に嬲られるのを観ていて良いのか。良いはずがない。答えは即座に出る。僕の力が彼女の言っていた通りの力であるのならば、今こそ使うべき時である。
拳を握り締めて目を閉じる。そして、目の前の人を救うための力を願う。願いは僕の力になってくれるはずだ。予想通り、僕の全身に特有の熱さが再燃する。目を開くと、全身に刻まれた刻印が早く暴れさせろと、脈動していた。言われなくてもそのつもりだと胸中で呟いてから、僕はケレガレニウスと名乗っていた男に向かって突き進んだ。
「うおおおおお!!!」
結構な距離が開いていたように思えたが、強化された身体をもってすれば短距離。此方に注意を引いた彼に容赦のない拳を決め込む。完全に油断していた彼は、モロにそれを頬に受け、口内を切って血を流しながら地面に倒れ込む。此方も全力を尽くした一撃だったので、利き手の拳が逝かれてしまったが、この際時間を稼げたのならば仕方のない代償である。握れもしない拳を気合だけでどうにか踏ん張り、握りこぶしを形成する。武器なんて存在しない。痛みで脳味噌が揺さぶられるが、この程度で狼狽えていては、勝てる戦も勝てない。自分を騙すことに関しては、ある程度の自信を持っている。どんな手段を用いても自分が正義であると信じる。善悪と云うのは、モチベーションに大きく左右する。これがあれば、自分のためだと思わずに戦うことが可能だ。普通の人なら必要ない作業であるが、この使い勝手の悪い術に頼らなければならない現状、こうするのが最適な方法だと考えた。
「このガキィイイイ!!!」
勢い良く飛んだケレガレニウスだったが、地面から起き上がると元気な声を上げた。全然攻撃が通用していないと言うことが目に見えてわかる。心が億劫になっていくのを感じるが、僕が殺らなければいけないのだ。その心意気だけは決して崩さない。幾らあの遠吠えが迫力があるものであっても、僕に怯むという選択肢は端から存在しない。
魔女に向いていた敵愾心が僕を捉える。流石はあの女王の近衛団のメンバー、殺気だけで足腰が震え上がりそうだ。だが、そんな悠長な身体反応を許している程の余裕はない。幾ら怖くても進み、目標を破壊する。この呪いはそのためのもの。こちとら戦うだけで死を覚悟しなくてはいけないのだ。相手がどんなものであれ、緊張感のある僕と軽薄そうな彼では背負っているものが全く違う。彼も何かを背負って戦っている。そんな戯れ言は溝にでも捨てる。僕こそが一番重いものを背負っている。その覚悟で咆哮とともに駈け出したケレガレニウスにタイミングを合わせる。分かりやすく此方を標的にしてくれたので、タイミングは幾分か取りやすい。無数の突きが襲い掛かる。態々近付くようなことはせずに、慎重に間隔を開けながら冷静に回避していく。彼の無尽蔵な体力を前にして回避を選び続けるのは、自殺行為に近いが、僕は一対一で戦っている訳ではない。僕は、精一杯避けながらも好機を見付けて立ち往生している魔女に攻撃してくれと合図を出す。
『弾けよッ!!』
怒轟と共に強烈な風が槍使いを突き飛ばす。当然近くに居た僕にも被害があったが、魔法には多少の心得があるので、少量の魔力を用いて完璧なタイミングで受け身を実現する。風を発生させて受け止めてもらうように作用させただけではあるが、此処で攻撃が来ると思って攻撃を受けた僕と違い、禄に対策を講じていなかったケレガレニウスは身をバウンドさせながら平伏す。闘志の篭ったギラギラとした目が此方を睨み付ける。
「調子に乗ってんじゃ――ッ」
脅迫を言い終える前に急速に接近し、彼の顔面に蹴りを入れる。
「優勢なんだから調子に乗るよ。」
容赦も遠慮もない理不尽なまでの全力に丈夫な身体を有する彼も短い悲鳴を上げる。間髪入れずに攻撃を展開していく。まともに反撃できる機会を奪い、逃げ場と攻め手を塞いでいく。それでも、戦闘能力としては相手のほうが断然優れている為、時々、良い攻撃を喰らいそうになるが、そこは魔女の支援によって事なきを得た。疲労で視界が霞み始めるが、今手を緩めることは市に直結する。自分にまだもってくれよと問い掛けながら、トドメの一撃として顔面を脳を揺らす勢いで踏み付けた。
息を荒くしながらも完全に頭を捉えた足の感触に安堵を覚える。生死は判別できないところであるが、脳震盪くらいは起こせたと自負できる。一息つく。
『油断しては駄目じゃ!!』
呼び掛けに身体を震わせると、足の裏から激痛が襲い掛かる。思い切り振り抜いて、ケレガレニウスの頭から足を退けて後退すると、口から血を垂らしたケレガレニウスが狂気に満ちた目で此方を捉えていた。背筋が凍える錯覚に陥る。それに伴い発生した激痛に目を向けると、靴ごと噛み砕かれて足裏の一部が裂けて、流血していることに気付く。あの男、あの状況下で僕の足に噛み付いたのか。どんな顎をしているのか分からないが、靴ごと切り裂かれているため非凡な力が関わっていると見て間違いないだろう。
口の端から血を滴らせた男は、僕が臆したことに気が付いていた。その目は、嘲笑っている。だが、現状を把握しながらも突貫してこないところを見るに、彼のそれなりのダメージを負っているということだ。その事柄があれば、多少の余裕が出来上がる。痛みから震える足を手で叩いて叱咤すると、気丈に振る舞う。今更強がったところで簡単に看破されてしまうだろうが、相手にそう分かられていたとしても、気丈に振る舞う事に意味はある。
「散々楽しんでくれたみたいだが、もう容赦しねぇーぞ?ガキ」
何度も蹴り飛ばされて出来た怪我をまるで感じさせない気迫で下ろしていた腰を上げる。本気を出す。彼はそう言った。彼が本気を出せば僕では相手にもなれそうもない。だが、それは飽くまで一対一である場合に限る。此方には、魔女がいる。全盛期とはお世辞にも言えないが、その脅威は完全には薄れていない。策を練って挑めば、勝機は十二分にあるだろう。
ケレガレニウスの構えた槍の切っ先が僕を捉える。数瞬も必要なく、僕を貫くことが出来るであろうそれに怖気づきそうになる。だけど、動かなければ死ぬ以外の未来を失う。ならば、足掻いて意地でも生き延びてやる。全身に回った黒い痣が同調して新たな戦いを求めている。全身が熱くなり、放っておけばその内体の内側から焼けて僕は死ぬことになる。それを予期させるだけの熱量が体中に渦巻いているのだ。容易く死んでやるつもりなど毛頭もないので、拳を握り締めて自分の存在を痣に見せ付ける。戦闘が再開したのは、それから直ぐだった。両者が咆哮とともに掛け出す。
槍の切れる部分を避けるようにして、表面を拳で叩く。甲高い音を鳴り響かせるが、相手もその行動には検討をつけていたらしく、早期に対策として槍を引かれる。最初からこうやって受け止められることは察されていたのだろう。食えない男だとため息を吐きたくなるが、今は戦いに集中するべきで余裕が無い。連続で穿たれる槍に身を翻しながら対応する。引き続き魔女の援護は受けているが、なにせ彼との距離感を開けられていないので、変に魔法を放てない状況にある。僕が足を引っ張ってしまっている。自覚できるだけに此方も悔しい気持ちが込み上げる。それをバネにして反骨精神で食らいついて行くが、基礎能力の差が開いている事もあり、段々と彼に追い詰められていく。
「この程度で喧嘩売った訳じゃねぇーよな!?」
無駄口をたたく余裕ができてきたケレガレニウスが軽口を披露するが、大して僕の逆鱗を捉えていたものでもなかったため、感情を荒げることなく、慎重に戦いに臨む。
槍を突くように見せて、繰り出された回し蹴りが僕の目に捉えられる。しかし、知れたところで身体が付いて来ない。幾ら強化されても自分の凡夫な身体では対応しようがない。呆気無く回し蹴りは僕の腹部を直撃する。胃が突然圧迫されたことで、内容物が一気に込み上げてくる。胃酸が食道を焼き、喉が熱くなる。遅れて全身に衝撃が走った。どうやら僕は家の柵に叩き付けられたらしい。まともな受け身も出来ずにそこかしこの筋が脳に危険信号を発信する。だが、そのどれもを拒絶して僕は立ち上がる。まだ、全然戦えていない。それが逆に、僕の捻くれた心を喚起づけた。




