ナナシ 2
お母さん。その一言に言葉を失う。確かにお姉ちゃんに似た面影があるが、それ以外の部分において同一の場所など存在しない。こんな暴力的女性の血が姉にも繋がっているとは到底思えない。勿論、自分にも。だが、真剣な眼差しのお姉ちゃんが嘘を吐いているはずがない。つまりは本当のことなのだろう。それでも、僕のお腹を無闇矢鱈と蹴り続けた人間が肉親であるとは、考えたくはなかった。不機嫌そうに顔を歪める女性であったが、お姉ちゃんを見ると、怒りを抑えこんで彼女の腕をとって外へ連れ出し始めた。僕が一番恐れていた事態が起きようとしていた。僕はお姉ちゃんだけは何としても失いたくない。その一心で姉の腕を掴んだ女性の腕に噛み付いた。叫んで怒り狂った女性に何度も鼻の頭に拳を落とされるが、挫けずに挑戦した。
「……もうやめなさい。」
お姉ちゃんから頬を打たれる事で、僕は抵抗を止めた。と言うより、思考停止に陥ったのだ。何故彼女が僕を打ったのか分からなかった。連れされるかもしれないのに、もしかして僕と一緒に暮らすより、この女性に付いていく事を選んだとでも言うのか。悲しさから涙が溢れる。項垂れるように座り込む僕を尻目に二人は玄関から出て行った。僕は自分の無力さを実感させられ、その日は一日中そこから動く気力が回復しなかった。気が付くと、外は暗くなり次に明るくなっていた。週に2日ある大切な休日の内の一日を項垂れて過ごしていた。このままではいけないと、身体を上げると、全身から激痛が走りまともに歩くことも出来なかった。込み上げてくる嗚咽が昨日の出来事が現実だったと証明する。
「僕が弱かったからだ……だから、何も守れない。」
何度も思い返す去り際のお姉ちゃんの悲しそうな表情。きっと僕を打ったことだって本意ではなかったはずだ。彼女にそんな思いをさせた女性が許せない。全ては自分が弱いことに対する言い訳。だが、それが頑張るための原動力になってくれるのなら、どんな相手にも八つ当たりするし、恨む。
純粋さを孕んでいた僕の瞳は段々と曇って行き、僕は生き方を変えることにした。どんなものでも利用して強くなってみせる。弱虫のままじゃお姉ちゃんを助けることは出来ないと、漠然と考えたからだった。しかし、それが僕を大きく変えた。
次の日から、僕の変貌に周囲が驚いていた。普段あまり真面目に受けていなかった戦闘の授業を受けるようになっていた。体力の無さと運動に対する才能がなかったから最初は唯殴られて蹴られて叩かれて、散々なものだったけど、姑息な術ばかりを魔法、気術の授業で洗練させて、戦績を上げていった。元より、戦争がない世界で、武力行使を行うのは、ゲリラなどの少数団体だけなので、戦闘という事態に陥る可能性は少ない。だから、この授業を真面目に受けているような生徒は軍人の子息位のものだったが、その中でも僕は目覚ましい成績を残す。地頭の悪い方ではなかったので、勉学も精一杯死ぬ気で身に付けた。あの卑劣で冷徹な母のお金で学校に通っていると思うと、虫酸が走る話だが、それでも姉の為ならば死ぬ気で何でも挑戦できた。
そうこうしていると、僕ももう中学を卒業する頃。年月はあっという間に過ぎて、来年から高等部に入る。あまり重要視してはいなかったが、切磋琢磨し合える仲間もできた。メキメキと才覚を見せ始め、周りに認められることで鼻を高くしていた僕は、そろそろお姉ちゃんについて本格的に調べる事にしようとした。それまでも、色々と調べ物をしたが、小さな少年では取り合ってくれる機関も少ない。役所などは保護者無しでは使い物にもならない。だが、今年で単独で閲覧できる歳になった。早速役所に向かって、我が家の家系図を参照させてもらう。
『ミラ・ノーマン』。それが、あの冷徹で残酷な女の名前だった。僕から一番大切な人を奪っていった、言わば宿敵とも言える相手。その情報を少量でも見つけ出した事に喜びを感じる。別に彼女にあの暴行の反撃を食らわせたい訳ではない。そんな日生産的な話ではなく、姉ともう一度一緒に暮らすチャンスがあるということの希望が見えたことに歓喜していたのだ。
取り敢えずこの人物について調べてみると、案外直ぐどういう人物なのか出て来た。この巨大都市ナナシの情報部門を管轄するエリート。あの女王や伝説の名無しの英雄とも交流があるそうだ。役所程度の場所ではこれ以上有用な手掛かりを見付けることは出来なかったが、確かな架け橋が見えた。軍に入って上部に食い込めば、なんとか取り入ることも可能かもしれない。何年掛かるか分かったものではないが、それで姉に手が届くならばやらない手はない。
「今日、女王様の重大発表が有るんだってよ!行かないか?」
「何でも、上層部が総出で出て来るんだろ?一体何の話するかしらないが、行かないほうがおかしいよ。」
喧騒に包まれる教室が何時も以上に五月蝿いため、考えるのをやめて、耳を傾けると、良い事を知った。上層部が顔ぶれを覗かせるというのなら、これ以上に嬉しいことはない。ミラ・ノーマンが出て来るかもしれないし、他の上層部を確認することも出来る。そうならば、取り入るべき相手を判断する材料になる。我ながら単純な思考回路をしているが、一庶民である僕が大掛かりな作戦なんて立てれるはずがない。だからこの程度のことから積み重ねていかないといけないのだ。意気込んでいると、授業開始のチャイムとともに入室した教師によって、予定の授業は中止されることが発表される。そして、今から学校のクラスごとに別れて例の重大発表とやらを聞きに行くのだそうだ。面倒くさそうな顔をしている人もちらほら居たが、大半は授業がなくなり、発表を心待ちにしている生徒が多かったので、歓喜の渦に包まれる。
僕も胸中で都合が良いとほくそ笑みながら、皆について廊下に出て、学校の前に停めてあるバスに乗り込んで、会場の方へ赴いた。別クラスの友達とも合流し、軽く挨拶しながら、時間を潰していると、大衆が所狭しと収集させていく。まるで、アイスクリームを落としたところに群がるアリのようだ。
「ローグ、此処に居たのか。」
前からメガネを掛けた凛々しい少年が歩いてくる。彼は僕の一番の親友であり、理解し合える仲だと言える、メケ・ルーディンである。成績優秀で武術も心得が有る。容姿は、中性より容貌なので人によっては好き嫌いが有るかもしれないが、顔は整っている。綺麗な肩口まで伸ばした金髪は、地毛らしいのだが、とても彼に似合っている。彼は僕の手を取ると、もう少し近くで見ようと言い、手を引いて最前列の方へ強引に向かう。何度か怒声を浴びせられたが、彼があまりにも威風堂々としているため、相手のほうが日和って逆に道を開けてくれた。彼のおかげもあり、大分近い距離で拝聴できる機会を得た。
「今回の発表、もしかしたらローグにとって嫌な思いする事になるかもしれない。だが、これだけは知っていて欲しい。ボクは何があっても君の味方で、理解している。」
大衆の喝采と共に幕が上がるなか、彼は意味深長な言葉を残した。だが、問い質すだけの余裕もなかったし、彼も返事を待っているようではなかったから、僕も特に返事を返さず、前を向く。
司会進行役がくどい説明を読み上げた後で、我らが女王が姿を現す。もう若くはない歳にも関わらず、一切衰えない容姿に観衆が沸く。僕としては、姉以上のものは存在しないと思っているで、どうでも良いから早く次の工程に進んで欲しいのだが、彼女の人気と力によってこの全世界は支えられているため、彼女のパフォーマンスの時間は長く割かれている。一通り手を振り終えるまで、その間、数十分が掛かった。僕としては、その傍らに無言で立つ男の方に注目が行く。絶対強者にして無敗の噂もある男。女王のお気に入りであり、彼女をずっと支え続けてきている逸材。名前は誰も知らず、書籍などでは、名無しの英雄と書き記されている。何を隠そう、姉に一番最初に教わり、気に入ったあの本の登場人物のモデルは彼であるのだ。だから、少なからず、羨望のような視線を向けてしまう。強くて自分の芯をしっかり持っている。僕の目標とも言える人間である。
彼女たちの登場を機に、次々と役員共が姿を見せる。テレビで毎日見るような議員から、裏に精通しているような要人まで、普段顔を見せない人間までが勢揃いである。余程の発表があるのか。一連の人達は、大衆に手を振ってから、指定の席に着席していく。そこまでは、特に興味もない。僕が相対すべき相手は別に居る。中々出てこないミラ・ノーマンに苛立ちを覚える。さっさと姿を見せろ。
「続いては、我が情報部最高責任者。ミラ・ノーマン。」
漸く出た名前に注視していると、舞台袖から彼女が現れた。僕も容赦なく蹴った時とは、別物の他所行きの面を張り付け、その手には、誰かの手がしっかりと握られていた。そちらに目を向けると、そこには僕の最愛の人の姿があった。焦点の合わぬ目で、黙って手を引かれている。明らかに正気ではない状態に追いやられている。僕が目を見開いて驚嘆していると、彼女と少しだけ目が合う。
無言で目元を緩めた彼女を見て、僕の今までの行動が間違っていたのではないかと、思い始めた。こんな時間を掛けたやり方では、彼女を救う前に、彼女が壊れてしまう。そんな儚さを僕は感じ取っていたのだ。今からでも遅くはない。僕は身を翻して裏道からステージを目指し、刺し違えてもあの女を殺してやろうと歩を進めようとした。しかし、メケがそんな僕の腕を掴んで制止する。
「……悔しいのは分かる。けど、今はまだ無理だ。」
振り切ろうにも離す事の出来ない手に僕は泣く泣く従うしかなかった。泣き虫な自分が溢れ出てきそうになりながらも、姉の前だ。すんでの所で耐える。そして、鋭い視線をステージ上の演者達に向け、今回の本題を聞く。