ナナシ 1
此処数十年間で、時代は大きく変わり転換期を迎えた。少し前まで特定の国が独占していた技術が溢れ出し、全国共通のものとなると、一気に文明が開花した。それにより産業は潤い雇用は促進される。飢饉などもう本の中の出来事でしかなくなっていた。僕が生まれた時には、義務教育という物が始まり、子供はどんなに貧困な家庭でも学校に通えるようになっていた。子供にとってみれば、それが良いことなのか定かではないが、裕福な時代になったということは間違いないだろう。まだ初等部を今年卒業する程度しか生きていない僕がこんな悟ったようなことを言っても、鼻で笑われるだけだろうけど、良い時代だ。
外で走り回るより、室内で本を読んでいる方が好みである僕は、いつもの様に学校の図書館で本を読んでいた。それはまだ女王によって全国統治がされていなかった時代のお話し。皆、いつまでもそんな夢物語に見惚れているなよと言うが、僕はこの本の世界に浸っている時間が何よりも好きだった。それに――。
「ボーとしてる、もうお眠かな?」
優しく微笑んでくれる僕より二歳年上のお姉ちゃんは、エレティナ・ノーマン。僕、ローグ・ノーマンの実の姉で、自慢の姉でもある。才色兼備の才女でありながら、性格も天然なところを含めて大好きだ。そんな彼女が教えてくれたものだから僕もこんなに本というものが好きになったのだと思う。この世界最大の都市、ナナシに彼女と一生暮らせていけるのならば、こんなに嬉しいことはない。僕達を置いて何処かに行ってしまった母親など、要らない。お姉ちゃんだけが僕の支えで、一生一緒に居たい唯一の人間。彼女もそう思ってくれていたら良いなと心の底から思いながら、姉に身を寄せて甘える。
「本当に、甘えん坊なんだから……ローくんは」
口ではそう言いながらも優しい抱擁で僕を温めてくれる。こうされるのが好きで、何時もこうやって甘えてしまう。彼女がそれを毎度許してしまうので、僕がこれを克服するのはまだ先の話になりそうだ。本当に寝てしまいそうになっていると、僕は手に持っていた本を机に落としてしまった。物を大切に扱えと躾けられているので、お姉ちゃんに怒られるかと思い、身を竦ませる。だが、お叱りはなく、彼女はその本を手に取ると、これが好きなのかと聞いてくる。それは、お姉ちゃんに初めて勧められた本で、大切な思い出があるから何度も繰り返し読んでいたものだった。僕が頷くと、クスリと笑う。
「やっぱり男の子は格好良いヒーローが好きなんだね」
頭を撫でながらそう問い掛けてくる。それも間違ってはいないが、僕がそれを好きな理由は少しだけ違う。僕はモゴモゴと口篭りながらも、彼女に真意を打ち明ける。
「違うよ……お姉ちゃんが教えてくれたモノだから好きなんだよ。」
チラリと照れた顔を上げながら確認すると、彼女は嬉しそうに僕の頭を包み込んだ。運動が苦手で外に出ないため、真っ白な僕よりも更に白い絹のような肌が僕に重なる。とても心地よくて、この瞬間は死んでしまっても良いと思えてくる。抱擁が解かれると、そろそろ帰ろうかとお姉ちゃんの一言が掛かった。本を元の場所へ返却してから二人仲良く手を繋いで、二人だけの家への帰路を歩く。道中もあの話が面白かっただのなんだの何時でも話せるような内容を長々と家に辿り着くまで続いた。
「ただいまぁ」
お姉ちゃんの柔らかい声だけが寂しい家の中に響く。無駄に広いこの屋敷は、母が昔稼いだお金を惜しみなく使って建てた家らしいのだが、暮らしているのは、現在僕とお姉ちゃんだけだ。こんな広い敷地があったところで使い様がなく、逆に寂しさを増長させていく。顔もよく知らない母というものの管理下に置かれているようで、気味悪く思うことすらある。しかし、それもお姉ちゃんと生きていくためには耐えなければいけないことだ。僕は嫌気の差す家を出来るだけ遮って、お姉ちゃんだけを見るようにして過ごす。
夕食の準備を始めたお姉ちゃんをリビングとくっついた所にある居間のソファから眺めながら、どうでも良い世界情勢のニュースを片手間に聞く。宛もなく付けられたテレビは誰に伝えるでもなく、勝手に情報を垂れ流す。大体の内容は、毎日変わらない。専ら経済的な話。世界統治が行われる前は、あちこちで戦争というものが執り行われていたそうなので、争いの模様がテレビに写っていたのかもしれないが、今では、世界は唯一絶対の存在である女王によって支配され、抗ったものには、死が用意されている。言い換えると、彼女に逆らわない限り、何時迄も安寧の中で行きていけると言う事だ。お姉ちゃん以外に興味が無い僕にとって、そのあたりは関係のない話かもしれないが、聡明なお姉ちゃんなら別の意見を持つことだろう。
「ご飯できたよ?」
ぼんやり見ていたせいで彼女接近してきている事に気付かなかった。少し恥ずかしさもあったが、それよりもこれだけ気を許して近付いてきてくれているお姉ちゃんに、感謝する。まだ経済的な地位も何もない僕だけど、彼女を養っていく為に、いっぱい勉強して、立派な大人になるつもりだ。首をかしげるお姉ちゃんに頬が緩むのを感じながらも誘われる様にして食卓へ招かれた。いただきますの合図と共に食事を開始すると、手が止まらない。僕の胃袋は完全に支配されていて、逆に彼女の手料理以外は全て同じものに見えるくらいだ。その後、仲良く手伝うことを許されている皿洗いを肩を並べて終わらせ、風呂に入る布団に入る全てを一緒に行う。一つの布団に二人で入ると、彼女の暖かみを独り占め出来ているような気がして、心が安らぐ。
「ローくん、おやすみなさい。」
まるで天使の囁き。辛うじて残った意識で、おやすみなさいを返すと、そのまま就寝する。中学生のお姉ちゃんにとっては、まだ寝るには早い時間だと言うのに、ちゃんと僕に合わせてくれている。そんな細やかながらも大事な気配りに歓喜するのは、毎度のことである。
こんな日常が何時までも続く。いや、続かせてみせると、そう考えていた。だが、僕は自分が無力な唯の子供であることを自覚できていなかった。意見をする術を持っていない社会的弱者でしかないことを。
何時もより早く起床した僕は、お姉ちゃんを起こさずに禁止されていないトースターを使って、先に朝ごはんを作って驚かせてやろうと企んでいた。お姉ちゃんは誉めてくれるだろうか。幼い子供の思考回路なんて単純なもので、それだけで気持ちが高揚する。お姉ちゃんが起きたらどんな話をしようか。そんな他愛もない事に頭を使っていると、玄関のインターフォンが静閑な朝の静けさに割り込む。普段は、こういう場合、モニターで人を確認して、知らない人だったらお姉ちゃんを教えてと言われているのだが、今はお姉ちゃんは気持ち良さそうに寝ているし、起こすのも忍びないと思った。だから、一人でモニターを見て怪しそうな人だったら、無視しようと考えた。モニターを覗くと、そこには妙齢の女性。顔は帽子の上から羽織られたヴェールで見えないが、美人そうだ。でも、明らかに怪しいのは分かったので、僕は通話ボタンも押さずに、放置することにした。その内諦めて帰ってくれるだろうと、簡単に考えていた。すると、インターフォンの方が勝手に通話モードに移行した。何故か理由が分からず狼狽えていると、スピーカー越しに冷たい声が響く。
『ボタンも押せないの?……やはり駄作ね……』
モニター越しの目がしっかりと、僕の目を捉えていた。背筋が凍る。慌てふためいて腰を抜かすと、玄関の方から施錠が解錠される音が鳴る。余計に心拍数が増す。上手く呼吸ができないほどに、息が詰まり、涙が込み上げる。足音がドンドンこちらに近付いてくる。遂には、僕の居るリビングの前の扉の半透明。ガラスにそのシルエットを写し出す。
恐怖で言葉を失っていると、扉がゆっくりと動き出す。開いた先にいたのは、お姉ちゃんをそのまま成長させた大人の女の人だった。二重で驚きを隠せない僕は、何も出来ずに尻餅をついていると、ヴェールから素顔を覗かせながら、見下す。そして口を開く。
「あの子は……何処?」
あの子、そう言われて真っ先に出てきたのはお姉ちゃんだった。しかし、恐らくこの女性は良からぬことを事を考えている。僕は、誰も事だか分からないと発言する。すると、左肩を蹴り抜かれる。凄い音を立てて壁に衝突すると、体の各所が切れて、傷跡を残す。それでも、お姉ちゃんにもし被害を与えるかもしれない案件であるのならば、こんな事で挫けたりはしない。僕は立ち上がり、女性に僕以外は住んでいないと虚言を吐く。不快感を覚えた女性は、もう一度殴る蹴るを繰り返すが、決して屈しない。
「いい加減にして……私も暇じゃないの」
そういうとお腹を力一杯蹴られる。幼く成長しきれていない臓器が異常信号を放ち、口からは際限なく胃液が垂れる。それでも彼女が僕の相手をしている間は、お姉ちゃんに向かえない。つまりは、僕の思惑の通りに進んでくれる。彼女も暇はないと言ったので、時間が経過すれば、スケジュールの関係で帰らざる得なくなるだろう。時間稼ぎとして僕が暴行に耐え続ければ、お姉ちゃんを守れる。その一心で痛い攻撃を受け続けた。執拗に蹴ってくるので、もう泣くことも出来ない状態に追いやられていたが、お姉ちゃんを守るためならば、なんでも耐えれる。女性が汗を掻き、諦め掛けていた頃、僕の安堵とは裏腹にリビングの扉がひとりでに開いた。そこには最愛の姉が居て、僕を見て絶叫し、僕を庇うように覆いかぶさった。これでは、折角ここまで頑張ったのに、意味が無い。僕がお姉ちゃんに逃げてと叫ぼうとしたが、その前に彼女によって黙らされる。
「ローくんに手を出さないで!やめて、言う事聞くから……お母さん」