トマーノヤ 12 ※ティリーン・メイカ視点
主様と繋がった後、妾は嬉しさを隠すことも出来ず、布団の中に身を潜らせた。ニヤついた表情が直っていないのを感じる。全てを受け入れてくれるような抱擁感に全身が痺れて、照れ隠しくらいは出していしまったが、主様もその程度の小さいことは特に気にしたりしないだろう。もう一度彼の部屋を訪ねて、口説くべきかとも思い至る。部屋を出て、一直線に彼の部屋に向かう。指定された場所は直ぐに記憶していたので、迷いはない。まっすぐ辿り着くと、そこには先客が居た。明子あたりかと思っていたが、そこに居たのは、意外にもルルだった。彼女は主様に対して特別な感情を抱いている様な感じではなかったので、油断していたが、彼女も彼の魅力を前にしては行動を起こさずにはいられなかったのだろう。気持ちは分かるが、残念ながら、彼は少し前に妾と深く確かめ合った直後だ。部屋に招き入れてもらえる筈がない。根拠もなくそう確信していたのだが、あっさりと彼女は色の良い返事を頂き、入室を許可された。開いた口が塞がらないとは、この事だった。
でも、部屋に入れられたのも何か相談事に乗ってもらっているだけという事もありえる。あの優しい男なら、ソッチの方が当たっている気さえする。微妙に開かれていた扉を気持ち一個分開けて、中を覗く。会話までは聞き取れないが、何をしているかくらいは見える。目を細めて見ていると、ルルが主様の手を取り、恐れ多くも自身の胸に押し付けた。意味がわからないが、主様も満更ではない表情で、次第に二人の距離は縮まる。
もうこれ以上見ていたくなかった。覚悟を決めていた筈なのに、涙が込み上げてきていた。昔ならば良かった。主様をちゃんと主人として見れていたから。だが、現在はどうだろうか。ちゃんと彼を主として見ることができているのだろうか。回答を返すのならば、答えはいいえ。恋心を自覚してしまってから妾の心臓はガッチリと掴まれたように、彼の行動の一挙一動で揺さぶられる。こんなに自分が弱くなってしまうとは思わなかった。最初彼を認識した時、この恋心はただの借り物だった。メイカという少女の心が妾にそういう感情を上書きしただけ。そうだと分かっていたから、彼を束縛したいだとか、独り占めしたいだとか悩まずに済んだ。それが今ではどうだろうか。端から見れば、面倒くさい女でしか無い。自覚していしまうと、更に塞ぎ込んでしまう。彼が誰と交わっていても構わない。最後に妾のところに帰ってくれれば。そんな甘い考えは打ちのめされた。ルルや明子に構う彼を見ていると、嫉妬で狂いそうになってしまう。
「これではまるで人間じゃ……」
自室のベッドの上に体操座りをして呟く。自分が下に見ていた人間達とこれでは変わらない。このままでは主様に見捨てられてしまうのではないだろうか。一つの考えが段々と駄目な方向に想像されていく。考えたくないと耳を塞いでも、幻聴が聴こえてくる。もう必要ないとかなんとか。もう何も考えたくない。気付けば妾は、深い眠りについていた。
目を開く。視界に自分の手を持ってきて、ニギニギと閉じて開いてを数回繰り返すと、自分の体として扱えている事を自覚する。昨夜のティリーンの苦悩を見ていただけに、気分は重いが、自分の番が来たのだ。しっかりと活用させてもらおう。屈伸をして腱をしっかり伸ばしてからリビングへ歩を進める。先ず、目に入ったのは、やっぱり一番動向の気になるお兄さん。息巻いて挨拶をしようとしたのだが、その傍らにルルが居るのに気付く。昨日のこともあり、若干気まずいあたしは、シレッと横を通りすぎてリビングへ入る。明子に挨拶をして、怯える彼女には悪いけど急ぎであたしの分の朝ご飯を出してもらい、さっさと食べてあたしは外出する。あたしとティリーンの心は二つに分かれているように見えるが、その実、二つは共存し、両者の感情が両者に伝わる。彼女が嫉妬すればあたしも嫉妬する。彼女が苦しめばあたしも苦しむことになる。
「はぁ……、どうしようかな」
勢い付けて出て来たのは良いけど、別段行きたい所があるという訳ではない。ふらふらと放浪するのは生産的ではないし、何かすべきことは無いだろうか。ざっくりとした考えで進んでいると、懐かしい魔素の伝達を肌に感じる。それはあたしを誘導するようにして、裏道へ続いていく。罠である可能性が高いが、今のあたしならそれを蹴散らすくらい造作も無いことだ。敢えて罠に乗ってやる事にした。入り組んだ迷路のようになっている道を案内通りに進んでいくと、行き止まりに突き当たる。何処かに彼が居るはずだ。気配を探ると、真上にそれを感じ取る。顔を上げると、そこには実の弟であるカイがあたしを見下し、片手に持ったパンを貪っていた。拳で空気圧を飛ばしてそこに放つ。
「よっ……と、久しぶりの挨拶としては中々乱暴じゃないか。姉さん?」
そうされるであろう登場の仕方をしておいてよく言う。両手をポケットに突っ込んだ状態で、軽々と攻撃を避けた彼は少し大人っぽくなっていたが、まだ少年を残した顔立ちをしていた。昔、共に研鑽に励んだ時の彼の面影も有る。しかし、彼に愛情を向けることは出来ない。
「何処でなにしてたんだか知らないけど、いきなり出てきて、なんか用?」
鋭い眼光を向けると、冗談っぽく怖がりながら彼は交渉を持ちかけてきた。今までの行動は悔い改めるから、自分も仲間に入れてくれと宣ったのだ。自信満々の彼にノーを突き付ける。最初からそんな与太話を信じる相手だとは思っていなかったのだろう。彼の表情には余裕が浮かんでいた。弟のくせに姉に反抗しようとは、大した根性だと褒めてやりたいが、生憎もうそういう間柄というわけでもないのだし、声を掛けてやる事はない。そんなあたしに態とらしく囁く。
「あーあ、そうか。それは残念だ。もし許してくれるのなら、最近上手く行っていないみたいのお兄さんとの間を取り持ってあげようと思っていたのに。したいんでしょ?お兄さんを独り占めに。ぴったりな呪術を開発したんだけどな。」
あたしの揚げ足でも取ったつもりなのか。情報をどこから仕入れたのかは定かではないが、まだ姉離れができていないように思える。ニヤついた顔が精神的に不安定なあたしを揺さぶる。別に彼の案に賛同したくなったという意味ではない。性根の腐った弟を口も開けないほどに壊してしまいたいと身体が震えていた。元々、彼のせいであたしは色んな物を失った。元凶は、母であったが、あんな小物の話はするまでもない。状況を最悪にしたのは彼がそう仕組んだせい。大体、彼が居なければ、あたしは自分の体を失われるような状況に陥る事もなかったのに。全ての事象をこじつけて彼のせいにしていく。それが一番楽になる方法だとわかっているから。
ティリーンの気持ちがよく分かる。もう考えたくない。そういうのを思考停止だとか言うみたいだが、これはそれとはまた別の感情なのかもしれない。あたしの胸に込み上げてくるのは、こいつの首を持って帰って、お兄さんに褒めてもらいたい。そして、あたしだけを見て欲しい。それだけの願いが蔓延している胸中を、果たして思考停止なんて馬鹿な言葉で片付けて良いのか。いいや、そんなはずはない。これはもっと高尚な気持ちのはずである。
「カイ、悪いけどお姉ちゃんのために死んでくれないかな?」
尊い犠牲ではあるが、これもあたしが彼に求めてもらうために必要なことだ。大事な肉親の言う事に従ってくれることを信じる。カイは、一時あたしを眺めてから笑い出す。一通り笑い終えると、ごめんと一言挟んでから漸くその薄汚い口を閉じた。だが、それはもう一度開き、あたしを馬鹿にする顔で見下す。
「まるで新興宗教に取り憑かれた狂信者のようだ。姉さんはあの人を中心に新しい宗教団体でも作るつもりなのかな?それだったら止めたほうが良い。彼には向いていないから。」
知ったような口を叩く彼に初動作なしの一撃を浴びせる。カイが気づかないほどの速度で接近して、その土手っ腹を蹴り抜いてやった。流石に予想外だったであろうカイも、壁に衝突して血反吐を吐いている。あたしだけならまだしも、お兄さんの悪口まで言われては本気を出さざる得ない。お兄さんなら何でもできる。それが宗教団体の教祖であろうと何であろうと。彼に出来ないと言ったカイはもう頭が悪いから仕方ないのだが、それは姉であるあたしの責任でもある。ちゃんと彼に教育して、その体に教え込んでやるしか無いだろう。
呪術ばかり鍛錬して、他を疎かにしている彼では格闘戦であたしに勝てる筈がない。何度も殴打を繰り返す。倒れて動かなくなった彼に嘆息していると、彼はいきなり口角を上げた。
「やっぱり、脳筋の相手は楽じゃないね。」
ゆっくりと立ち上がってきたので、もう一発殴ろうとすると、身体が動かなかった。どういうことだ。呪術は心得が有る者には効かないはずだ。必死に身体を揺さぶるように動かしてみるが、一切自由がない。
「ああ、こんなに簡単に引っかかってくれるとは思わなかったよ。これが、新しい呪術。いや、寧ろもう別物であるから、それの上位術とでも言うべきか。改良に改良を加えて完成させたんだよ。これは、呪術が使える。心得が有る人間にしか効かない魔法だよ。その代わり効果は絶大でね。自分にも使ってみたけど、最高だよ。使い方で、毒にも薬にもなる。当然自分には薬になるように使ってるんだけど、流石に姉さんに同様には使用できない。どんな気分だい?」
自分の中の理性という線がブチブチと切られていき、もうカイを倒すことなどどうでも良くなってきていた。それよりも圧倒的な力を手に入れて、お兄さんを自分だけのものにする算段を考え始めていた。運命共同体であるティリーンは許してやるが、他は何人たりとも許してやるつもりはない。カイを見ると、彼にはその術を教えることが出来るという意志が見える。奥へ進んでいく彼に付いて行くと、数ヶ月にも及ぶ鍛錬が待っていた。