トマーノヤ 9
耳元で息を溢す度に、彼女の身体が痙攣する。どうしたらもっと反応させられるのかという好奇心が脳内を駆け巡る。口から出した舌は、自然と凹凸を伝った。
「だ、駄目っ」
凛々しいいつもの姿はそこにはない。捕食される小動物のようにその動きは儚く愛らしい。守ってやりたいという父性と、自分だけのものにしたいという支配欲が燻ぶる。妖艶さに思わず舌で唇を舐めて、強引に彼女の細かいところの垢をしゃぶり落としていく。変態だと罵られても仕方がない光景だが、今の私にはそんなことは些細な事であった。目の前にこんな良い物があるのに、何故我慢しなければならないのか。相手も拒否しているというわけでもないのに。どんどん自分の中で正当化していく。醜い心が肥大化し、黒い欲望が段々と芽を出す。
制御できていた筈の感情がまるで言うことを聞かない。もうそれでも良いような気さえして来た。最初からこんな良い女に我慢などするべきではなかったのかもしれない。余計に抑えこまれた欲望は、長い時間を掛けてその大きさを増し、己の中で着実に大きなものになっていっていた。このまま身を任せる事になってしまっても仕方ないと、自分に言い聞かす。絶対それは無責任であり、結果的に私しか得をしない方法。唯、私が快楽を溺れるだけの話。私を慕ってくれていた他の人間など全て度外視したその場限りの我儘。考えれば考える程に冷静になっていく。そんな事があって良いのか。舐めしゃぶっていた耳から口を放すと、透明の橋がかかる。息を荒くしていたティリーンは、残念そうな顔をしてから振り返る。まだその時ではないと目だけで伝えるが、ちゃんと言葉にしてくれとの事だったので、しっかりと口に出して言う。
「まだ一人を愛する事が自分にできると思えない。そういうのは、もう暫く待ってくれないか。」
言葉にすると、間の抜けた話しである。一方的に求めたかと思えば、自己中心的な考えにより中断される。普通の人間であれば、そこで縁が切れてもおかしくない。彼女とは、契約のもとにお互いがあるので、もし不仲になった所で一生、若しくは、私が死ぬまでは一緒にいなくてはならない。彼女なら、何らかの方法を用いて私を殺害することも可能であろう。金の切れ目が縁の切れ目なんて言葉があるが、私達なら、愛情の切れ目が縁の切れ目。眼に見えないものだから更に複雑であり、しかしながら、ある角度から見ると、シンプル。要は嫌われなければ良いというだけの話である。だが、自分を抑えられずにいる私が何時か彼女に愛想を尽かされるという可能性はゼロではない。その時まで、私は精々必死なアピールをするしか無い。如何に滑稽でも彼女と添い遂げるのであれば、それくらいの心は必要なはずなのだ。残念そうにしながらも彼女は私の心配をしてくれた。
「主様が何を考えているか、なんとなくだが分かる。じゃが、その心配は無用じゃ。妾は何があろうとも主様から離れていくようなことはしないつもりじゃ。どんな関係になったとしても。」
ずばり考えていたことを的中されたので、心でも読まれたのではないかと赤面する。それすらも読まれてしまっているらしく、聖母のような眼差しを此方に寄越す。恥ずかしくなって顔を背けると、照れ隠し虚しくティリーンによって強制的にそちらを向かされた。両手で頬を挟まれたので抜けだそうと言う気にもならない。どうするつもりなのかと緊張する。しかし、愚直なまでに真っ直ぐな彼女は、そのまま赴くがままに唇を重ねた。驚いて離れようとした私を逃さないように抱き締めた。全裸の男女が他人の家の風呂場で口吻を交わす。第三者が見ていれば、不純な印象を覚えられることだろう。ゆっくりと唇を離した彼女に油断して口を開こうとすると、その中の舌を絡め取るように再び二人の距離は消失した。ザラザラとした感覚がとても気持ちが良い。まるで融け合っていって、一つになるのではないかと勘繰ってしまう程である。でも、私の意見を汲んでくれている彼女は、その次のステップに上がることはしなかった。それは、私が一歩踏み出してみなければいけない領分だ。交わった液を架け橋にして、二人の間にアーチが完成する。
「妾にここまでの事をさせたのじゃ。色の良い返事と態度を待っておるぞ。」
ニッコリと笑った彼女は、私を置いてお湯の張っている風呂釜に身を沈める。まだ髪しか洗っていないのだがと思いながらも、私は、自分の臭いを思い出し、早々に全体を洗い流し、彼女の横に身を寄せる。ニヤリとしながら寂しかったのかと誂ってきたので、そのとおりだと忌憚なき感想を吐くと、逆に彼女の方が言葉に詰まった。偶に素直に言葉を紡ぐのも良いものだ。珍しいティリーンの照れ顔を横目に見ながらそんな事を考えていた。
お風呂を上がり、身を拭くとリビングに向かう。当然ティリーンを伴って向かったため、婚前の乙女が同じ風呂には言ってはいけないと、貞操概念のしっかりしている明子からお叱りを受けたが、私達は悪い気分ではなかった。その後に、ルルがボクも一緒に入りたかったなと残念そうにしていたことには、特に掛けてやる言葉を思い付かず、スルーさせてもらう。
「仲が大変よろしいのは結構ですが、自重するということを学んでください!」
いびりながらもご飯をよそい、汁物を注いでくれているので可笑しな気持ちになる。前掛けをした彼女の後ろ姿は、正にお嫁さんと言っても過言ではない風格で、とても様になっている。毎日こなしていたのだということがありありと伝わる。あの子が結婚して新婚にでもなれば、あの華奢な体を後ろから抱きしめたりするのだろうなどと想像して、ニヤついていると、彼女に気持ち悪いと怒られた。そうこう言いながらも、注いだ飯を渡してくれるところに彼女の真面目さが溢れている。町中で出会った時は、どうなることかと思っていたが、私が思っているような阿呆ではなく、彼女は愛すべき阿呆であった。自信過剰だったりも、生活環境が原因であったことが分かったし、彼女の責任とはいえない。この国に居る間は彼女を守ってやろうと思っている。横で寄り添うティリーンや正面に座り彼女と話しているルルを見ても、二人が彼女を気に入ってくれていると自信を持って言える。ティリーンは、私の意見を尊重してくれているという方が大きいだろうが、自然な笑顔を浮かべてくれているので、不快感が有るというわけではない。
「うん、美味しい。」
彼女の料理は健康的な薄味の味付けがされていた。恐らく、外食だらけで不健康だった両親を家で食べる時くらいは身体に良い物を食べさせたいという子心から来ているのだと思われる。生ゴミを収めているゴミ箱の満帆具合を見る限り、子の心は親に届いていなかったように思えるが、彼女なりの配慮が料理にも出ている。元気盛りのルルにとっては、少し物足りない濃さみたいだが、私にとっては胃に優しくて丁度良い。旅に出る前は、比較的に濃い味付けで甘いものが好きだったが、長らく続いた断食とまともなものを食べていなかった時期のせいで、私の胃腸は非常に弱ってしまっていた。そこにこの料理はとても嬉しい。母が作ってくれる料理のように美味しいだけではない愛情を確かに感じ取れた。満足そうに食べている私をニヤけながら見ていた明子は、おかわりもありますから何時でも言ってくださいねと元気に微笑んだ。私は手元の食べ物を口に詰め込んで器を彼女に差し出した。
楽しい食事も早くに幕を閉じ、ルルは風呂へ。明子は皿洗いに移った。皿洗いくらいなら手伝うと申し出たのだが、それほど台所も広くないので、一人で十分と軽く返された。それでもと少し強引に押すと、台所は男子禁制だと古い習わしを持ちだされたので、おめおめと椅子に座ってだだっ広い部屋の天井を眺めている。膝の上にはティリーンが座っており、時折喉を鳴らしながら頭を擦り付けてくる。されるがままになり、終いには私が頭をスリスリと撫で回していた。彼女の術中にまんまと嵌ってしまったのだ。だからと言って、私に何かデメリットがあるというわけでもないので、流れで撫で続ける。
「主様は、あの娘っ子をどうしたいのじゃ?」
目を細めていたティリーンが急に素に戻ったかと思うと、そのクリっとした目で此方を見据えた。娘っ子と言っても、ティリーンの身体の原型であるメイカと名前も年齢も大して変わらない物だ。不自然な感じがしながらも彼女には誠実に今自分が思っている事をそのままに伝えておく。人ったらしという褒め言葉を頂いた。微妙そうな顔をしたが、それも数秒のことで、直ぐに私の意見に従うと返してくれた。どちらにせよ、彼女の祖父に修行を付けてもらうのだから、彼女と離れない暮らしが続くだろうと思う。宿代というのもばかにならない。だから泊めてくれる代わりに、軽度の厄介事程度には付き合ってやる所存だ。そうすれば筋が通るだろう。
「結局、主様は甘いの。でもだからこそ妾も主様とともにあるんじゃと思うよ。」
言いたいことだけ言うと、彼女は身を預けたまま何も喋らなくなった。よく見ると、寝息を立てていたので、寝ているようだった。天使のような寝顔に思わず目を細めて頭を撫でる。浴室で見せた妖艶さがウソのように幼い顔立ちは、庇護欲を誘う。実際のところ、私に守られる程彼女も落ちぶれてはいないが、無意識的にそう感じ取ってしまう魅力が有るのだ。いや、これは魅力というより魔力と言っても過言ではないのかもしれない。ぱちぱちと燻ぶる暖炉の薪の音を背景にして、眠りへ誘われる。少しだけ寝てしまおう。決心が着くと、意識が途切れるのは一瞬であった。全身が沼に浸かっていく感覚がどこか懐かしく思いながらも、それに身を委ねる。夢のなかで感覚があるというのも不思議な話ではあるが、私はこれを知っていた。ティリーンの思惑にまんまと引っ掛かったというだけのことである。そういうお茶目さも彼女の良いところであるので、此処は一つ、彼女に付き合ってやろうと決意し、夢の世界で目を閉じた。