トマーノヤ 3
サウナに入ると常連の猛者達が私を出迎えた。不敵な笑みを浮かべる男たちは、新たな挑戦者に自身の意地とプライドをぶつけているように思う。これは易易と負けてやる訳にはいかないなと笑みで返し、階段状になっている開いているスペースに座す。予想以上の熱気が上下左右から溢れ返り、逃げ場は一切ない。息苦しさに喘ぐが、顔を上げても余計に熱気を浴びて苦しくなる。慣れるのには暫く時間を要することだろう。だが、これしきの事でへこたれるような鍛え方はしていない。どっしりと構えてゆっくりとした呼吸を繰り返す。空気が薄い空間で、短い呼吸を繰り返すと、呼吸のサイクルが狂い、気分が悪くなりやすくなる。これは私の経験則に基づくものなので、実際のところどうなのか検証した試しがある訳ではないが、熟練者も同様の動きを見せる人が随所に見えるので、正解の一つでは有るのだろう。
下を向いて只管耐えること数十分。段々と環境に身体が馴染んできたのか息苦しさが緩和されていき、このままならば何時間だろうといれそうな感覚に陥る。感覚が麻痺しているだけかもしれないが、大粒の汗を流す男たちも目を見開いている。この辺りで若い衆は段々と脱落していく。私よりも早くから居たというのもあるが、その体には我慢のせいで軽度の火傷でもしたように真っ赤になっている者さえ居る。根比べとは云え、身体に被害がある前に出たほうが良かったのではと彼に疑問を抱いたが、現場にいれば、彼の気持ちも汲み取れないでもない。出て行ってはいけないような雰囲気が、この場を支配しているのだ。誰がどうと言ったわけではないが、そういうものが蔓延している。鼻から垂れ落ちる汗から目を逸らすと、第二波がやって来たことを自覚する。終わりだと思っていた苦しみは、倍に増して私の両肩にのしかかった。適応しようとして気を抜いた身体が自動的に何かを見誤った。頭の中ではそんなイメージが浮かぶ。
「ふぅ……」
ここに来て、私は大きく息を吐く。体の中の温度も外と近づけることによって、外気と同化する作戦を練る。体の温度が平熱を上回ると、異常を検知して警告を行うものだが、魔改造にも近い行為を繰り返したこの体は、普通ではない。一度もやったことはなかったが、思い付きで実施する。
先ずは、口を通して五臓六腑に熱い空気を取り込む。正気を疑うような目が周囲から確認できる。それでも、私は躊躇いなく深い呼吸を繰り返す。ある程度すると、頭に血が上ったように顔が熱くなっていくが、周囲と同化することを考えながら徐々に慣れさせていくと、自然と正常時に収束した。大きな自信がそこで生まれた。俯いたまま研鑽する。数度倒れそうになりながらも、着実に暑さを感じなくなっていった。余裕を手に入れた私は清々しい顔を先人の好敵手達に向ける。受けて立つという風に睨み返す者も居れば、苦笑いする者も居る。反応は十人十色だったが、全員が挑戦を請け負った。長い戦いが始まった。
一時間を過ぎたところで、大体の人間は冷気を求めて外へ出て、あの冷水に飛び込んだ。最後に残ったのは、私と痩せ細った爺さんだった。適応したと言っても、徐々に誤魔化していた感覚がおかしいことに気付き、軌道修正をかけ始めたので、額には一縷の汗が伝っていた。相対する爺さんも微動だにしない代わりに、その身体には代謝はそれほどもう良くはないだろうに、大量の汗が吹き出ていた。逆に、異様な出方だったので、途中で病気なんじゃないかと思い、声を掛けようとしたところ、此方を見て余裕そうな目で見遣ったので、何かを発症している訳ではない。恐らく、汗を大量に掻くことで、急速に体温調節を行い続けている。何が一番凄いかというと、そんなに汗を掻いているのに、脱水症状の一つも出していないというところである。
頭を使うと急速に熱さがぶり返してきた。それからも長々と耐えてはみたものの、流石に彼よりも先に音を上げた私は、ゆっくりと立ち上がると、爺さんを一瞥する。まだいけそうな彼に頭を下げながらサウナを出た。扉を閉めるまでの緩やかな動きとは裏腹に、俊敏な動きで水風呂に飛び込む。先客が居たが、皆が拍手で迎えてくれた。
「よぉ若いの。あの重爺とあれだけ根比べ出来たな。オメェが初めてだぞ。彼処まで競ったのは。」
先に出ていた男に強めに肩を叩かれながらそう言われた。あの爺さんは有名なのかと訊ねると、彼は有名なんてものではないと腕を組んだ。あの男は、早朝からこのサウナを訪れて、閉店前まであの特等席で只管に忍耐力を試しているのだそうだ。此処に通う常連からすれば、伝説の爺さんという扱いらしい。あの男に挑んだ男は数知れず、誰もがあの男が出て来る姿を拝んでいない。名前も、偶然店の人が彼をそう呼んでいたからそう呼ばれているだけなのだそうだ。増々謎の多い男ではあるが、あの汗を自在に操る術は恐れ入るものだったし、私は完全に白旗を揚げざる得なかった。出来れば、あれをどう実現したのか訊ねてみたくもあったが、流石に彼のリラックスの時間に横槍を入れる行為は、此処の暗黙の規則に違反するので、又の機会にすることにした。私が上がることを告げると、冷水に浸かっていた男たちはまた来いよと粋な声を掛けてくれる。
心地好く冷えた身体に温かいお湯を掛けて、暖めてから脱衣場に戻る。ここも前回の所同様に、備え付けのバスタオルがあったので、それを手に取り、身体を丁寧に拭っていく。余韻を楽しむことも大事ではあるが、それで風邪を引いてしまっては元も子もない。
少々手間取りながら風呂屋を出ると、もう外は真っ暗だった。色綺羅びやかに光るのは、夜まで営業している店のお陰だ。壁に背を預けて、二人が出てくるのを待つ。先にいないと言うことは、まだ出てきていないと言うことだと判断した。しかし、その予想が外れている事が第三者によって分かる。体を少し丸くして夜風を避けていた私のもとに、店の従業員が近付いてきた。彼女は、私にティリーンとルルが遅いのに痺れを切らして、先に違う風呂に行ったことを伝えてくれた。ライバル店の情報など言いたくないだろうに、彼女は何処に向かったのまで教えてくれた。彼女に御礼を言ってから、歩き出す。また待たせて悪いので早歩きで。
順当に巡って行っていたのに、彼女らは此処に来て全く予想外の店に行っていた。裏通りに抜けた方みたいだ。教えられた道を進むと、観光客より地元民の通路のようだが、知る人ぞ知る名湯がそこにあるのだとしたら、味わってみたいと思うのが、人間というものである。恐らく彼女らもあの従業員に教えてもらいこの先の名湯を目指したのだと思う。私も後に続くつもりで歩く。指示通り、曲がり角を曲がろうとした時、突然体当たりして来た人にぶつかる。此方も気を抜いていたので尻餅をついてしまった。ケツを抑えながら立ち上がると、焦点の合わないほどに疲労した女がそこに倒れていた。頬を叩いて反応をみたが、荒い呼吸を返すばかりで碌な反応を見せない。これでは私が悪いことをしてしまったみたいではないか。実際にぶつかってしまったのだから、一端は担っているかもしれないが、全部私のせいにされては堪ったものではない。取り敢えずは、人目につきにくい細い路地に彼女を連れ込む。第三者に目撃されて通報でもされたら私にとっておしまいだ。それだけは何としても回避しなければならない。重くはない女性を壁に立て掛けるように置くと、もう一度往復ビンタをかます。
「ん……」
漸く女性は焦点を合わせて此方を見上げた。周囲を確認し、大きく喉が躍動するのが見えた。大急ぎで右手で口を塞ぐ。呻く女性に叫んだら殴ると脅迫し、無理やり同意させる。手を放してやると、指示には従うみたいで固く閉じた口はちゃんとチャックをしたままだった。利口だなと感心しながら、何があったのか。説明を求める。確実に尋常な状態ではなかった。何かに追われていたのか。はたまた、自身が何か事件を起こして逃走して来たのか。どちらかのような雰囲気だ。予想としては追われていたに一票。
「あの……追われているんです。助けてください!」
やはり予想は的中した。全然嬉しくないが的中してしまった。どうしたものかと頭を抱える。何から助けて欲しいのかもわからないし、それによって私にメリットも得にない。あるとしたら、散々待たせたティリーンやルルからお叱りを受けるというデメリットしかない。話だけは聞くとだけ言う。その内容によって彼女を助けるか判断しても遅くはないと思ったのだ。
言うことが中々重たい内容なのか、彼女は中々口を開こうとはしなかった。戸惑っている彼女を見て、これは絶対に面倒な話だと感じ取り、逃げようとするが、彼女がガッチリと私の服の袖を掴んでいるため、逃げ出すことが出来ない。そんな時に、路地に垂直に繋がる通路から複数人の黒いスーツの男たちが、此方に気が付くと、居たぞと大声で叫んだ。彼女はそれを見て絶望していた。どうやら彼女は彼らから逃げてきたらしい。見付かってしまったのなら、鬼ごっこは終わりだ。私が助けるまでもなく、終了した。残念と声を掛けようとすると、彼女は思いがけない言葉を口にする。
「娼婦にはなりません!わたしのボディガードが貴方達の相手になります!!」
ボディガードなどいたのか。初耳だ。左右を見渡してみたが、それらしい人影は見付けることが出来ない。そして、彼女は私の背後に隠れた。嫌な予感が頭の中を反芻する。もしかしなくてもそういうことだろう。勘弁してくれと弱音を吐きたいが、彼女の挑発に感化された男たちは、一斉に私を仕留めようと動く。もし、占い師に今の私を見てもらえば、間違いなく運が無いから自宅から出ないほうが良いくらい言われるだろう。普段占いなどは信じないが、次にそう言われた時に心掛けて行動する。半ばヤケクソを起こした私は、やれば良いのだろうと言う感覚で男たちを薙ぎ倒しに掛かった。