ウシナイノ沼 2 ※ティリーン視点
主様が引きずり込まれた。目の前で一番大切なモノを失った。守ろうと思っていた人物に守られた。一気に目の前が真っ暗闇に包まれる。どうせなら二人仲良く沼に沈められた方が良かった。彼と一緒に死ねるのなら本望であった。それがどうだ。現実は、沼に沈められる直前、死を悟った彼は妾を手放した。妾だけでも助けるためにそうしたのだろうが、それは何だか二人の見えない線が途絶えたように思えて、とても悲しい気持ちが込み上げた。死に際まで妾の事を想ってくれた彼には感謝してもしきれないのだが、一緒に死んではくれなかった。
『悔シイカ?』
人外の類いの気配を感じる。声の方を見遣ると、そこは沼の丁度中心地に位置する所で、気味の悪い悪趣味な眼球が一つ浮いていた。此方をその剥き出しの目玉で繁々と見てくる。声はとても低く、恐らく男の声だと思われる。この類いのものに性別を気にする事自体がおかしな話であるが、そんな下らない事でも考えていないと、やってられない。
「ああ、悔しい。何なら今からお前のその目玉を吹き飛ばしたい気分じゃ。」
八つ当たりとして力を込め始めた瞬間、場を読んだように目玉はやめた方がいいと助言を述べた。そして、それは妾に一つの挑戦権を与える。目玉は口もないのに独りでにこう言ったのだ。先程の男はまだ死んでいない。助けたいのならそうすれば良いと、そう言った。衝撃的な事実に妾は耳を動かして関心を抱く。
目玉は語る。この沼に飲み込まれたモノがどういう経緯を辿るのか。此処は呪いの沼。しかし、人によっては楽園でもある。理由は、飲み込まれた者の感性に大きく左右される様な状況をこの怨念の塊によって作り出されるからだ。目玉曰く、その人の一番大切なものを増長させる代わりに、それ以外の全てと命を此処で奪われるのだそうだ。でも例外も存在する。この沼に飲み込まれた事を想起されるモノは例外的に思い出せないようになるのだ。何故そんな面倒な作りになっているか、それは現実世界に繋がることを思い出すと、この沼から出れるようになっているからなのだそうだ。と言うことは、主様もそれを思い出せば此方に帰って来れるというわけだ。これは意外にも出来そうな気がしてきた。そんな妾を嘲笑うかのように、目玉は雄弁に語る。
『期待ヲ込メテイル所悪インダケド、今迄コレデ帰ッテ来タ奴ハ居ナインダ。』
余程良い夢が見れるんだろうねと他人事のように付け加えたソイツを睨み付ける。難易度が高い何て問題ではない。殆ど無理な程にそこに囚われてしまうのか。一体どんな夢を見せられるのか。とても気になってきた。目玉はそれを見抜いて妾に君も行ってみるかいと提案してくる。何か裏が有るように感じるが、今はソイツの指示に従う他、主様を救出する手段はない。睨みつけながら頷くと、それは沼から触手を生やして妾のもとに送る。ブヨブヨとしたそれに触れると、目玉はじゃあ君の主様とやらの夢に繋ぐから、精々頑張ってねと軽口を叩いた。その軽薄な言葉を最後にして妾も意識が一旦途切れた。
ふわふわとした空間にて目を覚ました妾の目に写ったのは、沢山の女と戯れる主様の姿だった。よく見ると、見知った顔ばかりで、中にはもうこの世に居ない者も存在した。これが彼の夢なのか。此方から声を掛けるが、それは誰にも届かない。どうやら此方からアチラに干渉することは出来ないみたいだ。これでは唯彼のハーレムを外側から見ているというだけの寂しいものになる。しかも、その中に自分は居ないことから更にその気持が掻き立てられる。ユラと口付けを交わしている。あの唇は妾のなのに。広い器を自負していた心がその光景を只管見せ付けられるだけで張り裂けそうになる。次々とキスするその中に自分の入りたいと切に願う。だが、そこに妾の姿はない。胸が締めつけられて、涙が頬を伝う。なぜか知らないが、いつもなら我慢できる感情が我慢できない。手を伸ばしても彼にそれが届くことはない。彼が抱き上げている子供が自分の子供だったら。そんな事も考えてしまう。
「主様、主様……主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様主様……」
彼を呼ぶが当然反応はない。分かっているのに呼ぶことを止めることが出来ない。理性では無意味だと理解できているのに、本能が勝手に言葉を吐き出す。返答のない言葉は無意味に消費されていくのみ。何の生産性もなく、宙に舞う。
それからも地獄は続いた。幸せな彼の生活に自分が混ざっていないことに憤りすら感じた。そして締めは彼らの情交。激しく求め合う光景に目を瞑りたくなる。反らしたくなる。耳を塞ぎたくなる。もうやめてくれと端たない叫び声が洩れる。だが、鳴り止まぬ嬌声や喘ぎに妾の心がパンクしそうになる。人数が人数だからか、長時間に渡ったそれが終了した時には、大体の人間が眠りについていた。主様はそんな彼女らを確認してから眠りについた。やっと終わったと真っ青な顔隠さずに妾はその場に倒れこむ。
今迄なあなあにしていた部分が晒されていく感覚に寒気がする。どう言っても、どう繕っても、自分が主様を独占したいという気持ちは心の深層に確かに存在していた。しかしそれを許すのが器量というものだと勝手に考えて、言い訳していた。そんな恥部が曝されている。まるで誰かにそれを指摘されているみたいで腹立たしい。でも、それに対抗する言葉を持たない自分が一番惨めである。涙が滲むが拭ってくれる大切な人がそこには居ない。届かないとわかっていても又手を伸ばしてしまう。そんな妾の手が予想外にも主様の腕に触れる。驚きや戸惑いもあるが、欲する一心で妾は彼を自分の方へ無理やり引き摺り出す。彼の身体から霊体だけが妾に引っ張られて出てくる。そして目を閉じる主様を揺すって起こそうとする。目が若干開かれる。これはチャンスだと思って思いの丈を存分にぶつける。そして一緒に帰ろうと諭す。反応のない彼に不安を覚えながらも決死の説得を続ける。しかし最後まで彼が妾を、ティリーンを見てくれることはなかった。
結局主様は向こうの世界で起床し、霊体は戻されていった。本当の意味で生きる意味を失いそうになった。
『きっと悪い夢だったのだから忘れてしまって正解です。』
目覚めた彼に対して雌狐はそう告げる。とても腹立たしいが、苦しそうな彼のことを思うと強ちそれが間違ったことでもないように思える。そして苦痛な一日が始まる。又彼女らが主様に愛される状況をじっと眺め続ける一日が始まる。それがどれほど辛いものかは前の一日分で身を持って味わっている。何時終わるかも分からないこれがもし永遠に続くのだとしたら、果たして妾は生きていくことに耐えることが出来るのだろうか。不安が頭の中を駆けまわる。直ぐそこに居る最愛の人に手が届かないことがここまで心身共に追い込まれるものだとは思わなかった。これが人間の感情なのか。もしかするとこれは天罰なのかもしれない。神獣の癖に人間のように振る舞い人間に恋をしてしまった妾への。元々は借り物の身体に借り物の感情。彼への恋慕も元は身体の持ち主のもの。全てを偽ってきたツケが此処で回ってきたのやもしれない。
「それでいいんですか?」
妾以外に誰も居ないはずの空間に聞き覚えのある声が木霊する。慌てて振り向くとそこには自分と同じ赤髪を肩口まで伸ばした女性が寂しそうな顔をして立っていた。心臓が速く鼓動を打つ。彼女が何故ここに居るのか。絶対に居たらおかしい理由なんてこんな訳の分からない空間ではないのだが、何故よりにもよって彼女なのだ。
「どういうことじゃ。……メイカ。」
そこに立っていたのは、何を隠そう妾の身体と感情の元持ち主。メナカナ高原の魔女の孫であるメイカその人だった。彼女に会ったのは、妾がこの人の形をしていない時だった。そして妾は契約を強引に執行し彼女を食らった。そして彼女という存在を手にしたのだ。彼女は二十歳にもならぬ歳で体を奪われた。彼女の人生を奪ったのだ。彼女の恋心も全て妾は奪った。恨んでいないはずがない。ボロボロの心が完全に弱音を吐く。でも、最後の根気を振り絞って目は逸らさない。
「そんな簡単にお兄さんを諦めた振りをして、失望させないでっ!」
突然冷静さを失ったメイカは瞳孔が開いたような目で此方を睨み付ける。これには思わず妾もたじろぐ。
「貴方はあたしの身体を奪ってまでここに居るのに諦めるの!?挑戦も出来なかったあたしのこと考えてよ!!」
少女の怒りが伝わる。最もな話である。自分のしてきた所業に悔いなんてないと考えてきたが、最初に王女を襲った時から妾は後悔を続けているのだとしたら。簡単に心の中で纏めていた整頓済みが第三者によって掻き回される。妾が諦めている。そんなはずはない。妾は主様とともに在り続ける事を選んだ。この妾である。否定も黙秘も許さない。鋭い意思をメイカにぶつける。メイカはそれに笑顔で応えて、やっと本調子ですねと気さくに笑い掛けてくれた。妾はそこで自分が彼女に試されていた事に気付く。
「それではここからはあたし達の反撃といきましょう。あたしたちにしか出来ないやり方で。」
手が差し伸べられる。光彩を一切纏わぬ瞳を向ける彼女に妾は自然と手を伸ばしていた。
それがどんな結果を呼ぶかは今のところ誰にも分からない。もしかしたら主様を不幸にしてしまうかもしれない。それでも自分を止められずに居るのは、恐らく、妾が彼を男として愛してしまったからだろう。消えても尚執念を燃やすメイカに見習い、妾も自分に嘘をつくのを止めようと思う。不思議と妾の目からも一切の光彩が消え去った。