カレー大好き桜子さん――缶詰
7月20日は扇桜子の誕生日である。
彼女がメイドの仕事はじめてからそれなりの年月が経過しているが、毎年この日は、桜子の雇い主が直々に料理を振舞ってくれる。だから、今年もそうなるはずであった。
あったのだが、
『ごめん桜子さん、折衝が長引いてしまってね。今晩はご飯作るの、間に合いそうにないんだけど、どこか食べに行こうか』
そのような電話があったのは、午後6時ほどの話である。自室で1人ウル4をやっていた桜子は、もうそんな時間かと驚愕していた。
桜子は知っている。雇い主である石蕗一朗は、1年365日、常に都内のどこかしらのホテルのレストランをリザーブしているのだ。だから、彼が食べに行こうと言えば、豪華な夜景を見ながら素敵なディナーを楽しめる。それは、間違いない。
ただ、この時の桜子は、高級ホテルのディナーというものに、さほど魅力を感じてはいなかった。
「一朗さま、私、食べたいものがあります」
『ん、なんだろう』
「帰り、適当なコンビニで、カレーの缶詰買ってきてくれませんか?」
この程度で、言葉を失う石蕗一朗ではない。
彼は『それで良いの?』とも聞かなかったし、『他に買うものは?』とも聞かなかった。
ただひとこと、
『ん、わかった』
とだけ答えた。
「いいですか? 事前に調べてはダメですよ? スーパーでも構いませんけど……あまり、品揃えの良さそうなところは行かないように。帰り道、ふらっと入ったお店で、缶詰コーナーにあるカレーの缶詰を買ってきてください」
桜子は、ちらりと台所に視線をやる。炊飯器にご飯をセットするくらいは、やってしまっても良いだろう。
「あ、あとお酒買ってきてください。缶のやつ」
「ただいま」
「あ、お帰んなさい」
石蕗一朗が、コンビニのビニール袋を持って帰宅するという光景は、なかなかにレアだ。
桜子は既に、炊飯ジャーに4合の米を炊いて待機していた。一朗はリビングまで来ると、袋の中から何種類かの缶詰を取り出して、テーブルの上に置いていく。
「4種類置いてあったから、ひとまず全部買ってきたよ」
「ほうほう。どれも定番。オーソドックスですねぇー」
一朗が買ってきたカレーは、インドカレーが2種類とタイカレーが2種類。それぞれ別のメーカーで作られたものだが、カレーの缶詰と言えば確かにこのあたりが定番になるだろう。桜子は缶詰を手に取って、しげしげと眺める。
「レトルトじゃないんだね」
「レトルトカレーも極めるとなかなか良いものなんですけど、最近は缶詰をあまり食べてないなーと思いましてねー」
桜子は、カレーが好きだ。そこに貴賎は存在しない。有名店のカレーも、高級ホテルのカレーも、チェーン店のカレーも、レトルトカレーも、そして缶詰カレーも平等に愛するものだ。
この缶詰カレーというのは、一度触れる機会を失うと、なかなか食べるチャンスがない。カレーに限った話ではないのだが、真空パックやパウチをはじめ、様々な食品保存技術が発達する昨今、缶詰というのは保存食としてのアイデンティティを大いに揺るがされつつあるのだ。
だが、桜子は声を大にして叫びたい。
缶詰カレーには缶詰カレーの、レトルトパウチにはない良さがある。
この100グラム未満の空間に閉じ込められた、神秘の宇宙!
なんというかこう、手にとった時の重みが、レトルトとは違うのだ!
「温めようか。桜子さん、どれにする?」
「もちろん全部です。一朗さまは?」
「僕は、全部は多いかなぁ」
一朗は、右手にタイカレーのレッドを、左手のインドカレーのレッドを持って、それぞれ見比べる。
「パッケージでいったら、こっちのインドカレーの方が美味しそうだ」
「そうですねー。そこは、さすがに老舗レストランの缶詰、ってところですね」
『インドカリーチキン レッドマサラ』を販売しているのは、新宿に本社をおく老舗の食品メーカーだ。靖国通りにどんと店を構える、有名レストランでその名を知られる。パッケージには赤々としたカレーが写っており、ルーよりもゴロゴロとした具が目立つあたりは、実にインドカレーといった感じだ。
このメーカーのインドカリーチキン缶詰のパッケージで目を引くのは、なんといっても、そのゴロッとした具の横に押された『国産チキン炭火焼使用』の文字だろう。その文字が、写真に写る、ハーブの散らされた塊の味と食感を、脳裏に思い切り呼び起こすのだ。それが『炭火焼』であることを実証するかのように、わずかに焦げ目をつけた肉を寄せているあたりが、また小憎たらしい。
老舗レストランのロゴの下に、黒字で金箔押しされた『SPICE DELI』の文字。おしゃれなロゴも合わせて、確かにこのパッケージは食欲をそそる。
「ちなみに一朗さま、その缶詰、パッケージを見ているとあまり気づきませんが、ひよこ豆の存在感が思った以上に強いので、そこだけはイメージ間違えちゃダメですよ」
「ん、」
「缶詰を食べるときは、予想以上にパッケージのイメージに影響されやすいんです。頭の中で組み立てた情報と、実際に食べた時の食感のギャップは、なるべく小さく抑えておくのが、缶詰を楽しむコツです!」
もちろん、一度頭の中から視覚情報をデリートして食べるのも手段のひとつだが、桜子としては、缶詰はパッケージも含めて楽しむものであるからして、その方法には賛成しかねる。
ひとまず、具を楽しむなら、こちらのインドカレーで良いだろう。だが桜子としては、インドカレーに比べてパッケージのあまり冴えない、こちらのタイカレーの方も熱烈にプッシュしておきたい。こちらも、老舗食品会社のロングセラーシリーズだ。
なにより、このタイカレーは、
「タイで作ってるんですよ!」
「あ、本当だ」
一朗は、桜子の指摘を受け、缶詰の側面を確認する。そこには確かに『原産地:タイ』と書かれていた。
タイ風カレーではない。本物のタイカレーだ。
タイカレーは、もともとタイの香辛料スープをカレー風にしたものを、カレーと呼ぶようになったものだから、インドカレーとはまたかなり趣が違う。カレーというよりは、トムヤンクンに近い味わいがあるのだ。辛味と酸味、そしてココナッツミルクの独特のクセが、この缶詰の中にはぎゅっと凝縮されている。
「桜子さん、このカレー、ツナとタイカレーって書いてあるね」
「書いてありますね。すなわち、ツナ缶であり、同時にまたカレー缶でもあるのです」
「でも原材料名カツオだね」
「いーんですよ! 一朗さま! 一朗さまはこのメーカーのツナ缶にかける情熱を知らないんですか!? みんなツナ缶と言えばはごろもフーズみたいなこと言いますけどね! いえ、認めましょう。事実はごろもフーズは強いです! ですが、このメーカーは……やっぱやめときます」
「続けても良いのに」
桜子は短大生時代、こちらのメーカーのツナ缶に世話になることのほうが多かったのだ。
まぁ、カツオである。ツナ缶に使われるのはだいたいキハダマグロなので、厳密にはツナではない。だが、繊維の硬い食感はまさしくツナ缶そのもので、これは他のチキンやポークではちょっと楽しめない味わいなのだ。
ごろっと入ったカツオ肉に、トウガラシやハーブなどが、タイ風スープの中にひたひたになっている。アジア料理かくあるべしという、理想のような味わいだ。タイカレーは具よりもルーの酸味とまろやかさを楽しむものであると桜子は考えているが、このツナはそれを最大限に引き出している。
「ご飯と一緒に食べるならこっちのタイカレーですよー。これは色々と応用が利くのです。ヌードルにもできるし」
「インドカレーの方は?」
「もちろん美味しいです。味に優劣は付けがたいというか……。まあ、別ジャンルですからね! ただ、一般的なインドカレーよりもさらにルーが少ないので、おかずとか、おつまみって感じですねー」
「ふむ……」
一朗は桜子の言葉を受け、2つの缶詰を真剣に吟味し始める。
経済界のプリンスたる石蕗一朗である。カネを腐らせるほど持つ彼が、このように、100円や200円の缶詰を前に首をひねるというのは、これもかなり珍しい光景であったかもしれない。が、一朗は元来こうした人間だ。
「2つくらいなら食べられそうだから、2つとも食べようかな」
「はーい。じゃああっためますねー」
「僕がやろう。桜子さんは座っていて」
そう言って、一朗は缶詰を湯煎しに行く。桜子がビニール袋の中を覗き込むと、中には汗をかいたビールや発泡酒の缶が入っている。
一朗は、鍋を火にかけると、台所からグラスを持って戻ってきた。
「あっ、一朗さま。こういうのはこう……缶で飲みましょう!」
「そう?」
「クーラーも切りましょう!」
「ん、わかった」
誕生日だからこれくらいのわがままは、雇い主も黙って聞いてくれる。一朗は桜子の言うまま、リビングの冷房を切り、ベランダのガラスを網戸にし、更には部屋の電気も落とした。世田谷の夜景はさほど映えるものでもないが、それでも東京の夜であるから、明るい。
部屋の心地よい冷気が抜けていき、いい感じの蒸し暑さが、ゆっくりと部屋の中に蔓延していく。缶詰を湯煎する音が響く中、桜子はビール缶のプルタブを開ける。
ぷしゅ。
「思ったんですけど、これ、屋上で飲んだほうがよかったですかね」
「いいんじゃない。こういうのも」
一朗と桜子は、それぞれの持った缶酒をぶつけ合う。乾杯というにも冴えない音がした。
「桜子さん、誕生日おめでとう」
「ありがとうございまーす!」
「これで桜子さんもにじゅうは」
「はーい、ナンセンスナンセンス!」
手に収まるひんやりとした感覚を、一気に呷る。喉がぐいぐいと鳴って、身体が食道から一気に冷えていく。
「夏ですねー!」
「7月だからね」
一朗は『そろそろかな』と呟いて、再び台所に立つ。カレー皿にご飯をよそい、缶詰を未開封のまま、お盆に載せて運んできた。
「じゃあ、食べようか」
「はーい!」
桜子は4種類全部、一朗はインドカレーとタイカレーのレッドだ。桜子はタイカレー・グリーンの缶詰を手に取り、プルタブを引いた。
ぱりっ。
ぱりぱりぱりぱり。
発泡酒の時とは、また違う手応え。剥がれていく缶の上蓋が心地よい。宵闇に閉ざされたリビングで、グリーンカレーの酸味を伴う香りが、桜子の鼻腔をくすぐった。パステルな色合いをたたえた緑色の海に、トウガラシや、ハーブや、ツナ肉が浮かんでいる。
桜子は缶詰の中身をカレー皿に端の方にあけた。100グラムにも満たない中身であるから、すぐにカラになる。それでも、なるべく一滴も残さないよう、意地汚くスプーンで引っかき出した。最後はスプーンを舐めとって、口にくわえたまま、2つ目の缶を開ける。
一朗のやり方はもっとスマートで、2つの缶を既にご飯の上に開けていた。白いご飯の右側をタイカレーが、左側をインドカレーが占拠し、しかし敷かれているご飯はジャポニカ米という無秩序さだ。
桜子はついつい気になって、スプーンをくわえたまま一朗の仕草を観察してしまう。彼はスプーンを持ってカレーを、そしてご飯をすくい、ゆっくりと口に運ぶ。上品で洗練された食べ方。目を閉じ、ソファに背中を預けるようにして、石蕗一朗はゆっくりと缶詰カレーを味わった。
「……うん」
一朗は頷いて、もう一度タイカレーを口に運ぶ。意外と、お気に召したようだ。
タイカレーばかりを夢中になって食べていた一朗だが、すぐにインドカレーの方にも手を伸ばす。
桜子は、その様子を見ておおいに満足した。
「一朗さま、これね、両方混ぜたりしても美味しいですよ。タイカレーwithインドカレー。こんな食べ方、こういう時じゃないとできませんからね!」
「なるほど、試してみよう」
そう答える一朗の声は、どことなく弾んでいるように聞こえる。
桜子も、すべてのカレーをご飯の上にあけ終え、ようやく、夕餉にありつくことができる。
「それじゃ、いただきまーす」
ひとくち、口に含んだ瞬間、ぶわっと心地よい汗が噴き出てくる。外気の蒸し暑さに、カレーの辛さ。そして、時折身体を冷やす発泡酒。桜子はたまらなくなって、もう一度、言った。
「夏ですねー!!」
「7月だからね」
そういう一朗の声も、先ほどよりは楽しげで。
扇桜子、二十何回目かの誕生日の夜は、こうして更けていくのであった。
そんな桜子さんもちょっとだけ出る、アイスナの同人誌が夏コミに出ます。