転科勧告と一つ目の壁
『転科勧告』という紙が、目の前にある。
ーー登校してすぐに目の前に出されたのは、鮮烈な通達だった。
「そんな……! この書類は、一体何なんですか!?」
「須賀谷君。……残念ながら君は、今年は普通科に行って貰う事になるのだ。……この意味が分かるかね?」
家から出て数時間後。冷房の効く緋奥学園の事務室の中で、目元にたるみのある太った中年の学年筆頭主任兼事務総長『渡辺』の無情な宣告を須賀谷は肩を震わせながらも耐えていた。
俯くように視線を下げると渡辺の出ている下腹が、非常に目につく。
裏で生徒を食っているとも噂される汚い男……。その汚物のような男が目の前にいる。
俺の前に出された書類には、印鑑を押して期日までに出せと書いてあった。
「――降格、結果的にはそう言う事だよ」
「……ッ! 病み上がりだというのにこの仕打ちはあんまりじゃないですか……!」
自分の罹っていたのは錬成合宿後の想定外の急病だった。死亡率5%の秘匿指定C目、『堕落の肺炎』による4週間の入院闘病生活からようやく数日前に解放をされたばかりだというのに。
39度の高熱と嘔吐感により食事すらまともに通らない酷い病気、連日血を取られ、死すらも覚悟をした。
それから快癒したところで、こんな仕打ちだというのか。
――冗談じゃ無い。こんな事実があってたまるか。
「……俺が特進Bから落ちるって……嫌です! 公欠で申請をしていたはずですよ……!」
言われた事が理解できずに声が大きくなり、思わず立ち眩みをしそうになる。……あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になっていた。
「まだそう言うのか。君は自分で、何故その処分を下されたのか分からないのか?」
「……っ」
「では、逆に聞こう。君が落ちないという……要素があるのかね?」
「それは……」
それに対しては言い返す事が、出来ない。自分は特に優秀でも、なんでもない生徒だ。
「決定した事だから、な。仕方ないという奴だ」
「くっ、俺が……入院してテストや授業に出られなかったからってそんな事で!」
あまりにも自分にとって酷い決定に、合点がいかないと声を大きくして訴える。
……だがしかし、目の前の教員は相変わらずの涼しい事務的な態度で告げる。
「いやねぇ。いくら君が絶対安静で入院をしていたからって、君より特進に上げるべき人間が居るのだよ。第一そもそも、君の成績はクラス内では低い方だったじゃないか……。総合成績で学年50位から落ちた以上、君は特進Bクラスには入れないのだよ。君の席は無い、それは、明白な事実だ」
……冷たい言葉が、槍のように突き刺さった。
「そ、それはそうですけど……! 受けてないじゃなくて受けさせてくれなかっただけじゃないですか! 代替のものでチャンスを下さい! 再試をどうか一つ!」
息を飲みつつも、そこですぐに言い返す。こちらは自分の生活が掛かる。このままではイフットと一緒に居れなくなる……それだけに必死だ。
だがしかし渡辺はそのままの表情で、こちらの頼み込みを無視してプリントを強固に受け取らせようとしてきた。
偉そうに一息をついてから、野太い声を飛ばす。
「クックッ……君が納得しているとか、納得していないとかは問題では無いんだ。……ともかく君は、本年度は3組に行ってくれたまえ、涙を飲んで貰う必要があるのだ」
……その顔色からは、言葉の裏に『えぇい、邪魔だと言うのに楯付いてくるのか、お前のような無礼者が』という厄介者を見るかのような意識が籠っていた。
――無常だ。こんな事では自分がみじめだ。あんまりだ。気分が悪い。
「……っ」
あまりにも酷い仕打ちに顔を歪ませて口を噤むが、意味はない。
「さぁ、駄々をこねずに行ってくれたまえ。嫌ならば余所の学校という手もあるんだぞ? 故郷に帰って畑を耕すという手もあるんだ」
だがその場を動かないでいると、貧乏揺すりをしながら早く行けと渡辺による追い打ちの言葉が入ってきた。
「……しかし!」
「文句は勝手だが……。君はこれからの単位が……欲しくないのかね? あまり文句を言われると個人のハードルも上がることになるが」
「……ッ!」
渡辺の申し訳程度に薄い髪が盛ってある頭が、蛍光灯に反射して光っている。
少し濁った彼のその目の様子からは、これ以上煩わせるなという態度がアリアリとして出ていた。
弁明の機会も貰えず、不服の申し立ても出来ないとは。どうにもできない状況に憤りを感じ、歯を食い縛る。どうやら相手に譲歩するという気は、絶対にないようだ。
(――拒否権はない。このまま張り合うと反省文以上かよ……。クソッ、汚ねぇ……!)
言葉が止まってしまう。……選択肢など、最初からなかったという事なのか。
「……くっ、分かりましたよ……俺なんかは落ちればいいんでしょう……!?」
須賀谷は嫌々ながらも、へりくだりながらプリントを受けとる。そして本当なら悔し紛れに捨て台詞を吐きたいところを我慢しながらも、屈辱に肩を震わせて事務室から出ていった……。
「……やれやれ、これだから最近の視野の狭い人間は困る。何でこんなに使えないのやら。忠誠心が欠落している強情な若い人間も増えるし、やはり学生気分というのはよくないな、無教養にも過ぎる。やはり従順に動かせない者ほど愚かしいことはないな」
ーー部屋を出ると、舌打ちと共に背後からそんな嫌味な声が壁越しに聞こえてきた。
(……クソが!)
瞬間的に頭に血が上ってくる。……サボっていた訳ではなく生死の境を一度は彷徨ったというのに。自分には怒るだけの理由もある、本当ならば殴り倒したい、そんな衝動がよぎるが、それを須賀谷は必死で我慢していた……。