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瀬崎法律事務所に着いたのは午後四時になるかという頃だった。新日本橋にある事務所に来るのはいつぶりだったろうか。法律事務所はビルにテナント入居するのが一般的だというのに、三階建とはいえ、自社ビルを建てたというのはやはりすごい事なのだろう。一階の受付に座っている女性は初めて見る顔だった。新人だ。瀬崎が真っ直ぐと進んでいくと、女性は席を立ってニッコリと挨拶をした。法律事務所といえど、きっちりと教育はされているようだ。
「こんにちは。ご予約の方ですか?」
「予約…といえば予約なのかな」
受付嬢は少し怪訝な顔をした。意地悪に答えてしまっただろうか。
「お約束されてる担当弁護士は誰でしょうか?」
「ああ、瀬崎浩平をお願いします」
「瀬崎…ですね。少々お待ちください。あ、お客様のお名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
「瀬崎です」
「え?」
「私も瀬崎です」
何を言ってるのか理解していないのだろう。瀬崎自身もちょっとしたいたづら心でちょっかいを出してみたに過ぎなかったので、兄を呼んでくれと言おうとすると、二階へ続く階段から見覚えのある人物が降りてきた。
「準平君?」
そう声をかけたのは瀬崎美鈴。浩平の妻だ。浩平とは三年前に結婚し、以来、事務員として瀬崎法律事務所で働いている。
「あ、お義姉さん」
「浩平さんと?」
「ええ。四時頃に約束してたんですけど、兄さん空いてますか?」
「うん。今、連絡してみるね」
そのやり取りを見て、戸惑っていた先程の受付嬢を見て美鈴が言う。
「あ、この方は瀬崎準平さん。所長の息子さんで、瀬崎先生の弟さんよ」
あ、なるほどという具合に手を叩いて、恥ずかしそうに準平を見る。想定通りのリアクションに瀬崎も笑顔で応える。美鈴が内線で浩平に連絡を取ると、二階に案内すると言って、瀬崎を先導した。
瀬崎美鈴は浩平と同い年の32歳。はっきり言って容姿端麗とは言えないが、銀縁の眼鏡が良く似合う賢い女性だ。法律に関しては素人に毛が生えた程度の知識しかないが、元々は会社経営に興味を持っており、所長である父の側で法律事務所の経営を学び、今では瀬崎法律事務所の経営に深く携わっている程だ。会話をしていても、ルール、理論一辺倒の父や兄と違って非常に柔軟な思考回路を持ち、瀬崎自身は彼女が一番頭がいいと評価している。美鈴に連れられ、第二応接室に通されると、浩平が難しい顔をしてパソコン画面を眺めていた。
「まだ入ったばかりの子なんだ。あまり苛めないでくれよ」
そう言って、浩平はパソコンの横にあるモニターを指差した。そこには事務所の玄関から受付辺りの様子を映す防犯カメラの映像が四分割で流されていた。その内の一つは先程の受付嬢を映している。
「随分物騒な法律事務所だね」
モニター画面を一瞥して、瀬崎はソファに腰掛けた。
「今日みたいな事があるからな。法律事務所には」
それが金森愛からの電話の事を指している、という事を暗に言ったつもりなのであろう。浩平は険しい顔をして、瀬崎の対面のソファに腰掛けた。
「どうなってるんだ、準平。何をした?」
見るからに焦っている。仕事柄、父も兄も身の危険を感じることは幾度となくあっただろう。でも、今、浩平が感じている危機感はそれと異なっている。身内の不祥事。それが浩平が感じている危機感の正体ではないだろうか。
「まず、今日の電話の内容を教えてくれ。不安なら先に結論を言うが、俺は何もしていない」
これまで、家族は勿論、警察や世間の手を煩わせるような厄介事など起こしたことのない瀬崎がそう言うのだからひとまず安心だろう、でも、今回の事はただ事ではない。と、言ったところだろうか、浩平の表情はあまり冴えない。
「分かった。最初に二回電話を取った事務員を呼ぼう。お前もその方がいいだろう」
そう言って浩平は内線で第二応接室まで来るよう指示を出した。一分もしない内にノックが鳴り、地味な女性が入ってきた。また瀬崎が初めて見る女性だ。ソファから腰を上げて挨拶をした。女性は木内と名乗り、電話に出たのは私だと言った。
「最初は所長を出すように言われました」
「待って下さい。出来れば、あなたが電話を受けた会話を再現するように教えて頂けませんか」
多少の主観や脚色が入るのは分かってはいるが、分析にはなるべく正確な情報が欲しい。瀬崎は遠慮なく木内に言った。
「ええっと、まず私が瀬崎法律事務所です、と言って電話を取りました。そうすると、相手の女性は瀬崎由伸さんはいますか?と聞いてきました」
「いきなりですか?」
「はい、いきなりでした」
瀬崎は口元に手を置いて目線を落とした。違和感だ。考えていると、木内が自分の様子を伺っていて話を進めないのに気付いたので、口元に置いた手を差し出すようにして話を続けて欲しいと合図した。
「所長名指しの電話は珍しかったので、つい聞き返してしまったと思います」
「父には滅多に電話はないのですか?」
「ええ。所長のお客様には瀬崎先生の奥様直通の番号をお伝えしていますから」
ここでいう瀬崎先生の奥様というのは母の理恵ではなく、事実上、父の秘書となっている浩平の妻、美鈴のことだ。
「なるほど。で、何と聞き返したのですか?」
「え?あ、いや・・・所長でございますか?・・・かな」
記憶を辿るように木内は答えたが、瀬崎はそこに鋭く突っ込んだ。
「所長と聞き返したのです?それとも瀬崎由伸と聞き返したのですか?」
「所長だと思います。瀬崎由伸だなんて所長の事を呼んだ記憶はないですし、ウチでは所長は所長。瀬崎先生と言えば浩平先生を差しますから」
「そうですか。それで?」
「いや、それだけで切れてしまいました」
「でしょうね」
瀬崎がそう言って、ソファの背もたれに寄り掛かると、浩平が不思議に思った。
「でしょうねってどういう意味だ?」
「あぁ、いや。要は確かめたかったんでしょ。瀬崎法律事務所の所長は瀬崎由伸なのかということを。勿論ネットには出てるけど、ネットの情報が昔の情報だった、なんて話はよくあるしね。それに、相手は所長に用事がある訳じゃないんだ。わざわざ所長の名前出して、こちら側に構えさせた上で根堀葉堀聞いたらこっちは怪しむでしょ?この時点では多分それを嫌がったというのもあったんだと思うよ」
理屈は理解出来るが、何故そんなことをするのかわからない。という、顔を浩平がしている。話せば長くなるので、まず木内の話を続けて聞こうと思い、再び木内に話を続けるよう促した。
「二回目の電話はその二時間後の十一時頃にあったと思います。たまたま私がまた応答しました。すると、瀬崎準平先生をお願いしますと言ったんです」
なるほど。随分うまい聞き方をするな、あの女も馬鹿ではなかったか。準平に思わず笑みがこぼれた。
「私は今まで瀬崎先生に弟さんがいることを知らなかったので、瀬崎準平は瀬崎浩平と間違えたのかな、と単純に思いました。だから、瀬崎浩平ではありませんか?と聞き返しました」
「そうしたら?」
「少し戸惑ってました。瀬崎、浩平?という感じで独り言を言うように。その後、すぐに瀬崎準平を知ってる?と聞かれました。その時は知らなかったので、当事務所には瀬崎準平という弁護士はおりません、って答えました。そうしたら、また電話が切れてしまったんです」
「切れた?」
「はい。さっきと電話の声が同じように感じたので同じ人なのかな、っていうのは私も思いました。何か変な電話だな、とは思ったんで隣に座ってる大平さんに言ったんです」
大平という事務員は40代半ばの女性事務員で瀬崎法律事務所に勤めて十年以上経つベテランだ。彼女は、事務所の忘年会でまだ学生だった瀬崎が顔を出していた頃を知っているので瀬崎準平が誰であるのかを理解していた。
「それで大平さんに言われて、瀬崎先生に相談するよう言われたんです」
「そこからは俺が説明しよう。もう質問が無ければ木内君には仕事に戻ってもらうけど?」
「ああ、構わない。お忙しいところありがとうございました」
瀬崎が立ってお礼をすると、木内も頭を下げ、浩平にも頭を下げてから部屋を退室した。瀬崎が再びソファに腰掛けると浩平が再び口を開いた。
「大した話じゃないと思ってたよ。学生時代のうちの家系を知ってるお前の旧友が、何か困っててお前が弁護士になってるんじゃないかと思って電話をしてきた程度のことじゃないか、とかな」
「まぁそうだろうね」
「でも、二回とも名乗らないし、電話を切るときも一方的だったっていうことで大平さんと木内君は気味悪がっててね。まぁ電話に出るくらい造作もないからと思って次に掛かってきたら俺に回すよう指示をしたんだ」
「そしたら早速掛かってきたと」
「そうだ。女の声で、準平の兄弟なのね、と言った。えらい落ち着いた声で確かに気味悪かったよ。俺は準平に何の用だ?ここには準平はいないと言った」
浩平はそこまで言うと、脇に置いてあったペットボトルの水を飲み干した。まだその続きを言わない。何を躊躇しているのか。痺れを切らして瀬崎は急かした。
「なんだよ、もったいぶるなよ。相手の女は何と言ったんだ?」
「いや…笑ったんだ」
「笑った?」
「ああ。甲高い声を上げて、大声で。寒気がしたよ。その間も俺は誰だ?何なんだ?と何度も聞いた。怒鳴りもした。でも、女は笑ってた」
確かに気味が悪い。これまで自分が接してきた金森愛と、浩平から聞く金森愛の話にギャップがありすぎて、その女が本当に金森愛なのかすら分からなくなってきた。
「最後にいきなり女は笑い声を止めて、言ったんだ。私の名前は金森愛。あいつに伝えて。だから言ったでしょってね」