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昼食を取った後、最近急成長を遂げているIT企業の自社ビル建設案件の為、すぐに客先に向かった。瀬崎にとって配属以来最も大きなプロジェクトだった。今朝の事などなかったかの様に順調に商談を進める事が出来たと手応えを掴んだ。他の大手業者にも何件か声を掛けているみたいだが、瀬崎と話した後、同社の社長は、「やはり全日本さんが一番いい話が聞けたよ」と、太鼓判を押してくれた。
早速、会社に報告の連絡をしようとして、携帯を取り出した時だった。着信履歴3件。全て浩平。兄の名前だった。一般的に言えばそんな驚くような件数ではないかもしれないが、普段電話で話すことなど特にない兄にしては珍しいものだった。会社への報告は後回しにして、浩平に電話をした。
「準平か?」
「何だよ、兄さん。珍しいな。何かあったのか?」
「お前宛に午前中から変な電話が何度も来てるんだよ」
「俺宛に?誰から?」
「金森愛って女性だったけど、何か気味が悪い奴だったよ」
ドクン。心臓の音が聞こえたようだった。
「お前、何かしたのか?」
「まだ電話は来てるの?」
「いや、午前中に二回来て、それは事務員が出たんだ。でも、気味が悪いって報告があって、次にかかってきたら俺に回せと指示をした。そして午後に一度かかってきたから俺が出た。誰なんだと相手に…」
「兄さん」
瀬崎は浩平が話終わる前に言葉を発した。いくら長く話しても、この話は電話では終わらないからだ。
「これから時間あるかな?」
「これから・・・か。一時間後なら空いてる」
「行ってもいいかな?」
「・・・わかった」
兄は恐らく誤解しているだろう。真由という婚約者がいながら女性問題を起こし、あわよくば弁護の相談に来るとでも思っているのだろう。そんな誤解はどうでもよいのだが、問題はやはり金森愛だ。普通ここまでするのだろうか。当て付けのような急な退職と、合成写真までは百歩譲ってまだ理解出来る。でも、今度は瀬崎法律事務所。そして、兄だ。いくらなんでもやり過ぎだろう。
急に不安に思って、瀬崎は真由に電話をした。仕事中でも比較的に携帯に出れる真由はすぐに電話に出て、いつものようにおっとりした声を出した。
「どうしたの?」
それだけで真由に何の問題がないことは分かったが、真由はまだ職場だ。念には念を押した方がいいかもしれない。
「いや、今日早く帰れそうなんだ。あれだったら一緒に帰ろうかと思ってね」
とにかく今日は嫌な予感がする。散々、自分を信じきってきた瀬崎だ、こういう時の根拠のない直感というのも重く受け止めることにしている。
「本当に!?じゃあ明日は準平もお休みだし、ご飯食べに行こうよ」
「そうだな。また終わったら連絡するよ。多分真由より早く終わると思うから迎えにいく」
真由との電話を終えると、平沼に電話を入れた。先程までの仕事の結果を報告する。
「さすがだな、瀬崎」
営業部では将軍平沼と恐れられる平沼は、部下を褒める時は実にシンプルでぶっきらぼうだ。
「ですが、部長。実は商談中から頭痛がひどくなりまして、早退をさせて頂きたいのですが」
「ああ、構わんよ。今朝のこともあったしな。明日も休みだし、ゆっくり休め」
結果を出さなければすぐにお払い箱となる本社営業部は休暇には非常に甘い。休もうが、サボろうが結果さえ出せば構わないのだ。その代わり結果が出ない人間は毎日朝六時に出社し、終電まで仕事をしようが切られてしまう。究極の成果主義なのである。
電話を切ると、瀬崎はすぐにタクシーを捕まえて、兄の待つ瀬崎法律事務所へ向かった。真由の件で一安心した事もあり、徐々に頭が冷静になってきた。そして、その冷静な頭で再度今回の事を考え直してみる。
まずは退職の事。まぁこれはよくよく考えてみればあり得ない話ではないだろう。確かに昨日、瀬崎は愛のプライドをずたずたに切り裂いたと言える。女として高いプライドを持つ愛が、あんな振られ方をして、翌日も平然と出社出来るかと言われれば難しいのかもしれない。むしろ、そう考えれば退職ももっと確率の高い行動として考慮しておくべきだっただろう。
次に合成写真。結局、偽造された物だというなら渡せないと言われ、平沼から写真を受け取る事は出来なかったが、実に精巧に作られていた。あれが偽者であると証明するには自身の体を見せて回らなければならない。一刻も早く基のデータを押さえないとまずいことになる。
そして、先程の瀬崎法律事務所だ。金森愛に個人情報に関わるような事はほとんど話していない。住所、真由の事、家族の事も。ただ、瀬崎の祖父、父、兄が弁護士で、大手法律事務所を経営しているのは全日本不動産の中でもかなり有名な話になっているので、インターネットで検索すれば事務所の電話番号や住所などすぐに分かる。
金森愛は事務所以外の連絡先、つまり実家や家族の個人携帯、瀬崎自身が住むマンション、真由。それら全てを知らない。瀬崎法律事務所に連絡をしたのは、愛に出来る精一杯の最後の悪あがきなのだろう。しかし、何故ここまでするんだろう。確かに傷はつけたかもしれない。金森愛をコントロールする為に甘い言葉をかけたこともあったのは事実だ。でも、彼女のやってることは犯罪の一歩手前だ。
そう考えた時に、ふと気付いた。金森愛の様にもはや人格破綻とも言える壊れた人間のサンプルを、瀬崎は持っていないという事に。