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人間が壊れるというのはこういう事なのだろうか?亮はこれまで見た事がない、正に壮絶と言えるほどの男の断末魔を目にしていた。壁一面に綺麗に並べられた色とりどりの酒のボトル。それを右へ左へなぎ倒し、カウンターの上部から吊るされたグラスにも喚きながら殴りかかる。平沼の絶叫と、グラスやボトルが割れるガラスの音。店内は地獄と化していた。そして、そこまでの状況になりながらも、平沼にとって敵である自分達、特に瀬崎に一切の攻撃をしようとしないのは、そんな状況でも平沼が瀬崎に何らかの恐怖を覚えているからなのだろうか。
この一連の事件の黒幕がEDENのオーナーではないか、と気付いたのは亮だった。だが、警察が血眼になってもその正体は掴むことが出来なかった。亮も、裏世界に精通しており、特に薬物関連の情報には詳しい西川と散々調べ尽くしたが、EDENのオーナーはその尻尾を出す事はなかった。
そして、瀬崎にEDENのオーナーが平沼だと聞いたのは今朝だった。亮が、平沼はもしかしたら金森愛の共犯者なのではないか、と疑問を持った頃、瀬崎は谷本に平沼の素性を徹底的に洗わせた。そこまでは亮も知っていたのが、そこから瀬崎がどういうルートを辿ったかは知らないが、今朝、谷本から送られてきたメールでEDENのオーナーが平沼であるという事が判明したのだ。
瀬崎の話では、まず谷本が平沼を調べていて違和感を覚えたのは、平沼の経歴だったらしい。平沼の成績は業歴の長い全日本不動産の中でもトップクラスだったと言う。しかし、同社にいる役員の内、営業部門を担当する取締役は平沼より成績の劣る者も複数おり、中には成績、年齢、学歴どれを取っても平沼以下の人物もいたと言う。つまり、平沼がまだ営業部長のポストにいるのは不自然だった。
そうなると、まず頭に浮かぶのがプライベートでの不祥事だ。瀬崎から金森愛の事情を聞いていた谷本は平沼が過去にも社内で女性問題を起こしていないかを調べたが、その記録は無かった。実際、金森愛との事も金森愛が在籍していた頃は問題になっていなかった事もあり、本当に記録通り問題を起こさなかったか、または表面化しなかったのかもしれない。そんな完璧な経歴を持つ平沼に、ただ一点の傷があった。項目はクレームだった。クレームの詳細を調べようとするも、そこから先は一定の役職者しか閲覧出来ないようパスワードが設定されていた。
通常、顧客や同業者からのクレームが来たとしても、そのクレーム内容は対象の担当者の名前や、特定出来る現場等は出来る限り伏せて公開された。クレームの内容を吟味し、次に生かすことも企業として成長する為には必須だからだ。つまり、この伏せられたクレーム内容は一般的なクレームではないという事を意味している。
平沼、クレーム・・・そう聞いて、谷本は瀬崎の話を思い出した。
<成和建設の社長、昔、平沼部長に一杯食わされてるらしいんだよ>
成和建設は、建設業界トップクラスの大企業だが、全日本不動産との仕事は一切無い。本来、密接な関係にある建設業界と不動産業界の仲でその業界のトップクラス同士が事業で一切手を組まない訳はは二つの業界では最大のタブーとなっていた。
不意にとんでもない考えが思いつく。瀬崎の話が事実で、成和建設と全日本不動産の両社が敵対する理由を作ったのが平沼であると仮定すると、平沼が瀬崎を恐れるのも理解出来る。何故なら、瀬崎はその業界最大のタブーを破り、成和建設と業務提携した事業を成功させ、友好な関係を築くきっかけを作り、両社に多大なる恩恵をもたらした存在だからだ。当事者の平沼からすれば、瀬崎が成和建設サイドに何をどうして提携を結ぶまでに至ったのか、気が気じゃない筈であろうから。
仮に、そんな不明確で理不尽な理由で平沼が瀬崎を追い込もうと考えているのなら、谷本は平沼を許せなかった。人一倍、正義感が強く、友情に熱い谷本は、元々使えない人間は切り捨てる社風の全日本不動産に見切りをつける事を決意した。元々、営業職の道が閉ざされた時に、退職しようと思っていたのを瀬崎の生き方に惹かれて思い留まっただけだ。後悔はない、と。
谷本は数日間かけて、平沼と役員の一人のパスワードを盗み見る事に成功した。新たなシステムの設定や、不備の点検等、不自然な程にその二人に近付き、パソコンを自らが触れる機会を作った。それまで、事務職員として珍しく腐らず、どんな嫌味を言われても笑顔で対応していた谷本だからこそ、多少怪しい動きをしても疑われる事がなかったのかもしれない。
谷本は、役員から盗み見たパスワードを入力して、平沼のクレーム内容を閲覧した。クレームの相手は成和建設の長島という人間だった。今の成和建設の社長だ。瀬崎の話とリンクし、鳥肌が立った。クレームの内容は簡略化されていた。
<成和建設の営業社員長島課長代理は本社営業部平沼係長を通じて当社からさいたま市に大型レジャー施設を建設するプロジェクトの共同事業の打診を受けた。
長島課長代理は何度か取引のあった平沼係長、そして業界トップの当社を信頼し、尚且つ当社の社印を押した共同事業内諾書を平沼係長から得ている事もあり、当該プロジェクトに約一ヶ月半の時間、労力、そして約四千万の資金を投入したが、成和建設に事業収入の配分が与えられなかった。長島課長代理は平沼係長に確認した所、共同事業の話などしていないという回答から、クレーム、訴訟を提起された。
しかし、成和建設側で有力な証拠として提出された共同事業内諾書は当社の社印ではなく、当社の勝訴で完結している。尚、平沼係長からの聴取では、本件プロジェクトは神崎というブローカーからのルートであるとの事であり、当社の取引に関わったのは本件のみである事から、何らかの事情を知っていると考えられる。>
これが事実ならとんでもない話だ。確かに、記録上ではさいたま市のレジャー施設建設のプロジェクトは大成功に終わり、全日本不動産は莫大な利益を得ている。その功績はこのプロジェクトの担当者であった平沼一人にあった。但し、この記録には成和建設から訴訟を提起されたという記述は一切ない。
成和建設の長島の主張が単なる空想であれば、通常と同様に訴訟の記録も残っている筈だ。その記録だけが残っていない、あるいは公開されていないという事は長島の話が事実で、全日本不動産の上層部が封印していると考えるのが自然だ。
そして、これがもし平沼が取締役に就任しない理由であるのならば、長島の話は事実で、しかも何らかの裏や全日本不動産にとって都合の悪い事情が必ずある筈だ。そうでなければ実際に訴訟で勝訴し、何ら被害をもたらさなかったのだから平沼の人事に影響するとは言い難い。そうは言っても、これ以上の情報はデータそのものが存在しないのか、それともより厳重なロックがかかった別の場所に保管してあるかで谷本には探りようがなかった。
仕方なく、この曖昧な情報を瀬崎に報告すると、瀬崎は嬉々とした。瀬崎からは金森愛や平沼の事を聞いてはいたが、詳しい話までは聞かなかったのもあって、この情報で何を掴んだかまでは分からなかった。
谷本が、瀬崎が何故その情報を聞いて喜んだのか分からなかったのは当然だ。確かに、谷本の情報では昔平沼が長島を騙した可能性があり、そのせいで全日本不動産と成和建設の取引が無くなった可能性がある、というだけのものだ。
しかし、瀬崎と一緒にこの事件を追って来た亮にも、瀬崎が喜んだ理由は分かる。神崎という名に聞き覚えがあるからだ。
ブローカーの神埼。
亮、瀬崎、西川、そして飯田。この四人が初めて出会って、酒を飲みながらこの事件を解決しようと誓い合ったあの日だ。死んだ飯田から神埼の名前が出ていたのだ。
飯田は、有川保が、神崎という名前を使ってEDENで働いていたという情報を得ていたのだから。