13
「瀬崎!?」
覚悟はしていた。これまで、悪事はしてきたが殺人にこの手を染めた事は一度もなかったからだ。平沼が何か悪事を働く時は慎重に慎重を重ね、緻密な計画を練る。そして、実行の際も平沼自身が実行前に定めた許容範囲外のトラブルが起きると、必ず中止する精神力を持っている。だから、衝動的に行った金森愛の殺害、そして、金森愛を殺害してしまったからこそ生じたみなみという女の殺害計画は自分でもずさんな計画と分かっていたからだ。
その動揺が今のこの結果を招いた。金森愛を殺害したあの時以来、平沼の心はずっと動揺していたのだ。みなみをこの店に入れた時も、店の玄関ドアの施錠を忘れるという初歩中の初歩レベルのミスをしたのもそれが原因だろう。
しかし、警察に追い詰められる事はあっても、まさかこの場に瀬崎が来るとは平沼の予測リスクには一切考慮されていなかった。
「私はビールをお願いしたいですね。亮は?」
「俺もビールで」
瀬崎と亮という男はゆっくりとカウンターに近付いてくる。やはり、みなみという女は罠だったのであろうか。罠だとして、それを仕掛けたのは瀬崎か?この期に及んでたまたまこのバーを見つけて遊びに来たというようなオチを期待している自分が情けなくて仕方ない。
とにかく、今は彼らが何を考えているのか、どこまで知っているのかが分からない。今、この現場だけを見れば若い女と酒を飲んでいたバーのオーナーに過ぎないのだ。彼らのペースに合わせて話を進め、情報を探るしかない。彼らのペースに合わせる、という発想に一抹の不安こそ過ぎったが、この状況では平沼はその方法に賭けるしかなかった。
平沼はゆっくりとカウンターから席を立って、ビールを注ぐグラスを用意した。
「この女性は?」
瀬崎がしゃがんでみなみを見た。
「せざき・・・さん?」
意識が朦朧とし始めている。薬が効いてきたのだろう。薬が効いてしまえば、数時間は何をしても目を覚ます事はない。とりあえず、この場は酒に酔ったとごまかして、何とかみなみの身柄を確保しておくしかないだろう。
「知人でな。少し飲み過ぎたようだ」
「知人ね・・・いいんですか?このままで」
「いや、ビールを出したら奥の部屋で休ませるよ」
「そうですか」
不自然にも程がある。
何故、突っ込む所がそこなのだ。何故、俺がこの店にいるのか、この店は何なのか、彼らはどうしてここにいる事が分かったのか。こんな女の存在以上に、突っ込むべき所はたくさんある筈だ。仕事上での瀬崎は非常に優秀な男であるが、仕事以外の面では頭が働かないのか?と淡い期待を抱いたが、それは一瞬にして砕かれた。
「俺達のビールには薬入れないで下さいね」
知っている。瀬崎は知っている。少なくとも、この女は瀬崎の差し金であることに間違いない。それはつまり、金森愛を殺したのは自分である事がバレている可能性が強い事を示唆している。
「どういうつもりだ?」
平沼はビールを注ぐ手を止めて言った。ここは先手を打つしかない。何を聞かれるか、何を言われるかを待っているより、こちらから積極的に探るべきだ。
「どういうつもり?とは?」
「とぼけるな。何故この場所にお前はいるんだ。この女もお前が仕向けたんだろ?それをどういうつもりだと聞いているんだ」
瀬崎が必要以上の事を知らないという前提で踏み込める所まで踏み込んだつもりだ。これならまだ何も知らないとしらばっくれる事も可能だ。
「それはこっちの台詞ですね」
冷たい声だった。聞いた事もない冷たい、瀬崎の声。その一言で背筋に寒気が走った。
「部長こそどういうおつもりですか?私に何か恨みでも?」
「なんのことだ」
「この期に及んでとぼけますか。いいでしょう。時間はたっぷりあります。私がどうしてここにいるか、何をしに来たのか、ゆっくりと時間をかけてご説明しましょう」
そう言って瀬崎はビールを注いでる途中だったグラスを取り、自分でビールサーバーのハンドルを握った。平沼を疑っている事を態度に示す為か、わざわざ途中まで注いであったビールを流しに捨ててからだ。
「頂きますね」
瀬崎は自分の分と亮というもう一人の男の分のビールを手に取り、一口飲んだ。
「へえ。バーの経営はちゃんとしてるんですか?このビールなかなかうまい」
「いい加減にしろ、瀬崎!」
会社では文句のつけどころの無い程に優秀で、従順な部下であったこの男が、まるで別人のように自分を馬鹿にし、見下しているような気がして非常に腹が立った。それと同時に、平沼はさっきの瀬崎の声に動揺して怯えている。それを紛らわす為にも声を張り上げた。
「まあまあ。時間はたっぷりあると言ったじゃないですか」
その顔が薄笑いを浮かべている。腹立たしいが、牙を剥く事は出来ない。圧倒的に自分が弱い立場にいる事が分かっているからだ。彼らのペースに合わせて話をしながら情報を探る、先程この考えに一抹の不安を覚えたのは、相手がこの瀬崎という男だったからだ。
こんな時に何故思い出すのか自分でも分からないが、考えてみれば瀬崎を相手に話をする時、どこか遠慮を強いられていたような気がする。仕事上の関係でいえば、瀬崎は異動してきたばかりのルーキー、自分は百戦錬磨の営業部長という圧倒的な身分の差があるにも関わらずだ。その遠慮が何なのかを考えたことはなかった。単に相性が合わないだけなのか、表現のしようのない威圧感があるからなのか、いずれにしろ明確な理由がある訳ではなかったからだ。
しかし、今、それがはっきりした。
この全てを見透かしているかのような目だ。その目は表情や仕草どころか頭の中や心の中、全てを覗かれているような気さえする。そして、相手の考えや主張を把握した上で、この男は相手にそれを気付かせないようにうまく転がり、従順な、気の利いた、都合の良い人間を演じる。
それがこの男の罠だと気付かずに。