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ずっとこのままトイレにいる事も考えたが、この狭い空間に閉じ込められる事も恐怖だった。
「出来てるよ」
トイレから戻ったみなみに藤江は言った。みなみが座っていたカウンターに、オシャレなグラスに鮮やかなオレンジ色のカクテルが置いてあった。
「いただきます・・・」
藤江はロックグラスにウイスキーを注いで飲んでいる。みなみも一口カクテルに口をつけるが、恐怖の余り味は分からない。
「どうしたの?」
藤江が疑いの目で見ているような気がした。携帯電話が切れていた事による動揺がきっと表情に出ているのだろう。自分でも何となくそれに気付いている。どうした、と聞かれてももはや何を答える事も出来ない。
「察しがいいのかな」
藤江が言ったが、みなみにはその意味が全く分からなかった。聞き流して、再びカウンターに置いた携帯を確認したがやはり電波が入る気配は無い。
すると、携帯の画面にいきなり何かが突き刺さった。みなみはそれが何なのか、一瞬時が止まったような感覚に陥った。
「携帯は無駄だって言ったろ」
ドスの利いた低い声だ。そして、携帯に刺さっているのはさっきまで藤江が使っていたアイスピックだと分かった。
「え・・・」
「あの女はここにはいないよ」
「え?」
「俺が殺した」
みなみは自分が頭が悪い事を知っている。そんな自分でも、何故ここにきて藤江が金森愛を殺した事をカミングアウトしているのか、すぐに分かった。
「私も・・・殺すの?」
「俺にとってはラッキーだったよ。お前がわざわざ電話をくれたんだからな。お前の存在はあの女からは聞かされてなかったし、当然俺も知らなかった。自ら教えてくれるとはね」
これが罠だとは藤江は気付いていない。いや、罠の筈だった。この電話さえ切れていなければ。自分のミスによって作戦は失敗したのだ。
「何故、彼女を殺したの?」
「お前に話す必要は無い」
「あなたは何者なの!?」
「もう黙れ。これから死ぬのにそんな事を知ってどうする?」
時間を稼ぐ方法もないようだ。藤江はバーカウンターからゆっくりと歩いて出てきた。手にはアイスピックを持って。
「そのカクテルを飲め」
藤江はみなみの隣に座って、言った。
「え?」
「そのカクテルには強烈な睡眠薬が入ってる。お前も痛みや苦しみの中で死んでいくのは嫌だろう。その薬でお前が熟睡している間に、あっさりと俺が殺す。別に殺人が趣味じゃないんでね。要はお前が死んでくれればいいだけ。殺しなんて俺だって元々したくないんだよ」
確かに、藤江の言う通り、どうせ死ぬなら楽に死にたい。それならば眠っている間に殺してもらおう。もうみなみの中に生きるという選択肢はなかった。みなみはそのカクテルを手に取り、一気に飲み干した。
「それでいい」
藤江はそう言ってアイスピックを置いた。
「五分もすれば眠くなる。お前の人生、最後の五分だ」
まだ体に変化は無い。むしろ眠いなどとは全く思わない。
自分の人生もあと五分。思えば、何も目的を持たず、ただ生きていただけだった。その時に楽しいと思える事のみをやってきて、辛いことや苦しいことはほとんど逃げてきた。両親とは喧嘩別れ状態だったが、今となっては最後に一言申し訳ないと謝りたかった。
これまでの人生を振り返るのに、五分という時間は余りに長かった。たった五分。自分の人生は振り返ってもたった五分の思い出すらないのか。
「もう殺して」
そんな人生にぴったりの終わり方かもしれない。他人に、しかも初対面の他人に殺される。何故かそれが無性に情けなくもあり、悔しくもあり、涙が溢れた。
藤江は何も言わないし、動かない。最後のお願いすらも聞き入れて貰えないのか。
体が急にだるくなり、椅子に座ってる事が辛く、倒れるようにフロアに横になった。倒れた痛みも感じない程、意識もぼんやりとしてくる。
だが、その声だけはみなみの耳にハッキリと聞こえた。
「部長、私にも一杯奢って貰えませんかね?」