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「くっそ、あのバカ女!」
瀬崎はそう言ってイヤホンを外し、携帯を切った。
「え、兄貴!?切っちゃって大丈夫なの!?」
「切れちまったんだよ!」
嫌な予感はしていた。藤江の言葉の中に<地下>という単語があったからだ。電話が通話状態で会話の内容が聞こえているからこそ、瀬崎は尾行がバレるのを懸念して大きく距離を取った。だから通話が切れる前に藤江とみなみが角を曲がって姿を見失っても、少し早歩きをする程度で焦って距離を詰める事はしなかった。その作戦が裏目に出てしまったのだ。
恐らく、みなみはどこかの建物の地下に入って行ったのだろう。少し考えれば、携帯の電波が無くなって通話が切れる可能性は分かっているのだから、店の名前なり、目印なりをそれとなく言葉に出すくらいの機転は利く筈だが。
「急ごう!」
そう言って、亮は走ろうとした。それが視界に入ると、ここにも馬鹿が一人いるのか、と瀬崎はため息をつきたくなった。
「馬鹿、よせ!」
瀬崎の言葉に亮は驚いて、足を止め、瀬崎を振り返った。
「で、でも」
「まだ電話が切れてすぐだ。思ったより離れてなかったり、地下でも地上の様子を窺える様な造りだったらどうするんだ。バレる可能性があるだろ」
「そう言われれば、そうだけどさ・・・でも」
「分かってる!」
早歩きで二人が消えた曲がり角まで向かう事が、瀬崎に出来る精一杯の事だった。決定的な発言はなかったにしろ、二人の会話の中にきっとヒントがある筈だ。足の動きを早めながら、瀬崎は必死に考えた。
階段を降りて、地下に辿り着くと、ドアが二人を出迎えた。このフロアには階段とこのドア以外には何も無い。明らかに怪しい。
「ここは、何なのですか?」
少し声が震えた。怖がっているのがバレているのかもしれない。怖いと思っている事を藤江に知られるのは、実は藤江の正体を知っている事を感付かせてしまうのか、それとも得体の知れない場所に連れて来られたという純粋な恐怖がリアルに伝わって逆に良いのか。みなみはもう演技を続けることが難しくなっていた。
「バーさ」
「バー?」
「会員制のバー。一見、分からないでしょ?酒の味が分かる大人だけが集まれる空間を作りたくてさ」
人通りが少ないエリアで、平凡的な雑居ビルの地下、素っ気無い階段に何の装飾もないドア、看板等は勿論出ていない。ここをバーと言って誰が信じるだろうか。隠れ家もいいところだ。
「中を見れば、あなたの誤解も解けると思うよ」
そう言って藤江はドアの鍵を開け、そのまま一歩中へ入った。
「大人の楽園、クリスタルへようこそ」
クリスタル。バーの店名だろうか。藤江がそう言って、店内の電気を点けると確かにバーという光景が広がった。窓が一切無い空間。重厚感のある長いカウンター。数えるのが大変な程の酒瓶。テーブル席のソファもテーブルも一般的な飲食店のそれとは違う高級感漂うものだった。
「すごい・・・」
身の危険を忘れ、思わずみなみはそう言った。
「何か飲むかい?」
店内の魅力に吸い込まれそうなみなみの顔を、自信満々の笑みを浮かべながら藤江は見た。藤江はそのままカウンターに入って、グラスを取り出した。
「え、あ、いや」
思わず、本来の目的を失いそうになった。ここは完全な密室。ここからの藤江とのやり取りは些細なミスが文字通り命取りになる可能性が強い。
「お水、頂けますか?」
「水?遠慮しないでいいよ、一杯くらいご馳走するから」
「そ、それより金森さんは?」
時間を稼ぎたいので、藤江の言う通り一杯ご馳走になった方がいいかとも思った。だが、本来の目的を忘れて、その事を口に出さなければ、余計怪しまれると感じた。
「奥の部屋にいる。先に私が君が来た事を話しておくから、君は一杯飲みなよ」
そう言う藤江の顔が今までとは明らかに違っていた。怖い。
「じゃ、じゃあ、オススメを・・・」
藤江は何も言わず、背後にある瓶を手に取り、慣れた手つきでグラスに注いだ。これが本当に遊びに来たバーであればこの男のこの手つきも自分を楽しませる要素になった筈だった。だが、今はこの手で首を絞められる事しかイメージ出来ない。
「レモンはどこだったかな」
そう言って藤江がカウンターの下を覗いた隙に、みなみは携帯に手を伸ばした。もう限界だ。しかし、携帯の画面を見て、思わず、「えっ」と声を上げてしまった。
電波が、無い。
「ああ、携帯は繋がらないよ」
みなみの声に反応してしまい、藤江に携帯を見ている事を気付かれてしまった。
「言ったろ?ここは大人の楽園。外界と遮断する為に、地下にしたんだ。この店には時計もない。当然、携帯が繋がるんじゃ現実逃避なんて出来ないからね」
恐怖と不安が一杯でそんな事にすら気付かなかったのか。亮から借りている携帯は繋がっているだろうか。切れているとしたらどこから切れているんだ?瀬崎達は自分がこの店にいる事は分かっているのだろうか。
「ちょっとトイレお借りしてもいいですか?」
「突き当たり、右ね」
鞄を持って、足早にトイレに行く。藤江が自分を疑っているとしたら、簡単にトイレには行かせないだろう。トイレに行かせるという事は自分を信じきっているか、それとも、トイレくらいでは外へ助けを呼ぶことなど不可能と思っているのか。
トイレの中に入り、鍵をかけ、鞄の中にある亮の携帯を取り出すと、やはり通話は切れていた。必死に階段を降り始めた事を思い出す。瀬崎は異常に頭が切れる。店の名前など出さなくても会話からヒントを見つけて答えを導き出せる筈だ。自分は、藤江は、この地下に来るまで、何を話した?必死に思い出したが、残念ながら答えは愚か、ヒントになり得るキーワードすら瀬崎には伝えられていないと察した。