9
「近くなんで徒歩でも平気でしょうか?」
藤江が喫茶店を出て言った。徒歩で行くのはみなみにとって好都合だ。瀬崎達との打ち合わせでは、藤江が場所を必ず変えてくる事は分かっていたが、問題はその交通手段だった。藤江の車やタクシーでの異動となると、瀬崎と亮が二人を追跡するのが難しくなるからだ。そして、打ち合わせの段階で車を交通手段に選ばれた時の最善策は結局出なかった。
「勿論です」
藤江が微笑んで歩き始めると、瀬崎の助言を思い出した。
「大袈裟かもしれないけど、歩く時は必ず横に並んで歩くんだ。少し後ろを歩いた場合、何かを君に話し掛ける度に奴はその都度、少し後ろを振り返る事になる。俺達がどのような尾行になるか分からない状況で、ちらちらと後ろを振り返られるのは心臓に悪い。それに、奴の視界に俺達が入る可能性もある。そうなればアウトだ」
瀬崎の言いつけ通り、みなみは藤江の横にピッタリとついて歩いた。
藤江がみなみを外に出るのが見えた。瀬崎と亮の片耳ずつに入れたイヤホンは瀬崎が両方する事にして、二人は店を出て、建物の影に身を隠した。
喫茶店から最初に出てきたのは藤江だ。店を出るなりきょろきょろと周りを見渡す。まだみなみを信用している訳ではないのか、それともみなみに危害を加える機会を伺っているのか。
「随分、慎重な奴だね」
「そりゃそうだろう。これから人を一人殺そうって考えてんだから。亮、そっち頼んだぜ」
瀬崎はそう言って、亮を向かいの道路に走らせた。亮は藤江とみなみにかなり近付く事になるが、藤江が亮の顔を知っている可能性がかなり低いので、安全だと判断した。それよりも、二人が車で目的地に向かう事を危惧して、二方向からすぐにタクシーを捕まえられるよう保全をかけた。
幸い、すぐに瀬崎の耳に目的地へは徒歩で向かうという藤江の言葉が入ってきたので、瀬崎は亮に小さく合図を出して、自然な流れで合流するよう指示を出した。
藤江とみなみは喫茶店のある裏通りから、ますます裏へと歩いて行く。みなみは瀬崎の言い付け通り、藤江の横にぴったりとくっ付いているので、藤江が後ろを振り返る様子は無い。未だにみなみが持っている亮の携帯から二人の会話が聞こえているので、瀬崎は二人を見失うリスクより、尾行がバレるリスクを優先し、二人から大きく距離を取った。
「あっちは小さい飲み屋街だな」
背後からそっと、そして自然に合流してきた亮が言った。
「知ってるのか?」
「うん、何年か前に何度か来たことがある」
その時、藤江が不意に後ろを振り返った。
「やべっ!」
亮が慌てて俯いた。
「バカ、焦るな」
「いや、だってあいつ」
「そんなリアクションをした方がよっぽど怪しまれるだろうが」
瀬崎は落ち着いて亮に言った。藤江が後ろを振り向いたのは単なる偶然だ。実際、二人の会話に不自然なところはない。
「亮。尾行する時は相手の上半身は見るな」
「え?」
「万が一、振り返られた時に無意識に目が合ってしまう可能性が高いからだ。だから、下半身、足辺りを見るか、横目で視野に入れる程度にしておけ。今のお前のミスはこの距離があと十メートル短かったら致命的なものだぞ」
「ごめん・・・」
普通の人は尾行の習慣などないのだから無理もないが、瀬崎も落ち着いているように振舞っているものの内心はかなり緊張していた。そして、その時はついに来た。
「ここだよ」
藤江が指を差したのは雑居ビルの地下だ。看板にあるテナントを見ると、キャバクラやスナックが入居しているようだ。
「お店、ですか?事務所とかじゃなくて?」
一見、藤江の言う地下に何があるのかすら分からない程怪しい。そもそも、周辺も小さな飲み屋街ではあるものの、渋谷の喧騒とは程遠く、人通りは少なく、むしろダークな雰囲気すら漂っている。夜の世界に身を置くみなみの直感が、みなみ自身に危険信号を送る。
「事務所なんかに見ず知らずの依頼人を匿う訳にはいかないでしょ。他の弁護士や事務員もいるんだから。ここは私が経営している店なんだ。地下の割には広いし、匿う部屋もあるからね」
心なしか、少し藤江の表情や口調がきつくなったような気がする。最初から何も怖い思いもせず、何も危険な目に遭わずに無事に帰れるとは思っていなかったが、やはりその場に直面すると慄く。瀬崎にはいざとなったら、瀬崎と繋がっている携帯を出して、場所を叫べと言われている。ただ、それは本当に最後の手段だ。例えば、刃物を突きつけられているような状況のような。実際、今の藤江の目と雰囲気は心の中で刃物を突きつけられている気分にすらさせる。でも、まだ早い。
「どうしたの?」
気が付くと、藤江は階段を少し降り始めていた。地下ならば、自分も逃げれないけど、藤江も逃げれないのは同じ。瀬崎達さえここに辿り着けば、立場は逆転する。
みなみはゆっくりと階段を降り始めた。
この雰囲気による緊張からか、初歩的なミスに気付きもせずに。