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瀬崎はそのまま客先に訪問に行くと言って、駅の方へ向かったので、谷本は一人で会社までの道のりを歩く。思えば、瀬崎が自分を頼ってくる事はこれで二度目だ。初めて瀬崎に相談をされたのは、婚約者の真由と痴話喧嘩をした際の仲直りの仕方だった。当時、谷本は瀬崎に対して壁を一枚設けていたが、この事がきっかけで彼に対しての警戒心が無くなった事を思い出した。
元々、谷本にとって瀬崎準平は煙たい存在だった。谷本は、全日本不動産にはやっとの思いで入社した。内定が出た際は、両親、親戚が集まって祝いの宴をしたほどだ。
最初は東京都町田市の支店に配属された。一年目はたった一件の実績を上げることすら出来なかった。当時の町田支店の支店長は一年目だから仕方ないと理解のある話をしてくれていたのだが、一方で瀬崎は一年目の冬から全国支店の売上上位者に名前が載った事もあった。その時から谷本は瀬崎準平という名を活字の上で知っていた。
二年目になって少しずつ案件も増えてきたのだが、運悪く町田支店の支店長が代わり、代わりに来た新しい支店長には目の敵にされた。いつもいつも瀬崎の名前を引き合いに出され、「ウチにもお前みたいな給料泥棒じゃなくて、瀬崎みたいな若手が欲しかったよ」と、酒の席でも延々言われたのは今でも鮮明に覚えている。案の定、二年目の途中で茨城県の田舎支店に飛ばされ、以来一件も成約を取ることは出来なかった。
そして、三年目の終わりに事務畑への転向の辞令が出た。そして、瀬崎と出会った。入社式で顔を合わせてるとはいえ、ほぼ全員が初対面。しかも、当時は200人近くいた同期だ。その中から誰が消え、誰が残ったのか、そしてそれが誰であっても大抵は顔と名前など一致しないだろう。つまり、ある意味この日開催された同期の飲み会が、本当の「同期」との顔合わせになるのだ。入社一、二年目の社員が同じ支店に配属される事はないので、今まで「同期」として売上を比較されてきた連中の顔を今日ここで初めて見る事になる。
だが、瀬崎だけは違った。一年目の年度末、最優秀新人として社報で瀬崎の顔写真とインタビューが載せられていたからだ。だから、瀬崎が飲み会の会場に入ると、全員が彼に注目した。
あれが、瀬崎準平か。全員の羨望と嫉妬の眼差しを受け、瀬崎は薄笑いを浮かべていた。その態度に腹を立てる同期も多かったが、谷本は違った。採用の段階で狭き門である全日本不動産。そして、ここにいる連中は全員が過酷なサバイバルを生き残ってきた数少ない精鋭社員だ。その生き残った精鋭社員の中でも、さらに事務部門に落とされる者もいる。そんな厳しい環境の中で、世代ナンバー1の名を二年間守ってきた瀬崎準平。彼は入ってきただけで全員の注目を浴び、部屋の空気を一変させた。そして、殺伐とした空気の中で浴びせられる視線に対し、挑戦的な笑みまでこぼした。その実績に裏付けられた圧倒的な自信と、プライドが、全身から滲み出ていた。一方で自分は上司に徹底的に叩かれ、田舎支店に飛ばされ、毎日毎日ポスティングや書類整理の日々。挙げ句、営業マン失格の烙印を押され、この時はまだ谷本も転職を視野に入れていた。
しかし、瀬崎のその姿を見て、心底羨ましく思えた。人は、結果を出して自信を持てば、こんなにも輝くのか。逃げてばかりだから自分は輝けないのか。自分でもこんなに輝く事は出来るのだろうか。いや、自分も必ずここで花を開いてみせる。事務職だっていいじゃないか。俺はこの道を極めてやればいい。まさか、たった一瞬、人を見ただけで、ここまで自分の気持ちが変わるとは思わなかったし、当然初めての経験だった。
そして、その飲み会では、何故かその瀬崎がやたらと自分に話をかけてきた。最初は警戒した。エリート街道をひた走る彼が、たった三年でレールから落ちた自分と親しくする意味がない、そう思っていたからだ。二人で酒を飲むようになってもその警戒心はなかなか無くならなかった。俺はこいつにいつか騙されるんじゃないか、そんな事すら思う時もあった。
そして、その日が来た。瀬崎が彼女と痴話喧嘩をしたと愚痴って来た時に、すごく親近感が沸いた。こいつもただの人間なんだ。そう思うと、今まで雲の上の存在の様に感じていた瀬崎が、自分と同じ地面に立っている事に気付けたのだ。そこからは警戒心など全く無くなった。仕事のことは別にしても、互いに互いを認め合ってる事が分かったからだ。そして、瀬崎の本社異動が決まった時も、もはや嫉妬はしなかった。瀬崎が史上最年少で本社営業部に配属になったなら、自分は史上初の事務職専門出身での事務部門の所属長を目指せばいい。そう思うようにすらなった。
瀬崎と付き合うようになって、自分がすごく成長したことを実感している。現に営業の時は得られなかった評価を今は得ている。そんな瀬崎が、今、表舞台から引きずり降ろされようとしている。自分に出来ることはやってやろう。そう強く思って、再びデスクに戻った。
「谷本」
昼食を終えてから三時間程が経過した頃だ。谷本は人事部次長の寺田に呼ばれた。人事部は部長が病気で長期休暇を取っており、今は次長の寺田が所属長となっている。
「金森君の事を聞いたのはお前だったよな。退職手続進めてくれるか?」
「え?まだ報告書の確認をしていませんが?」
通常、退職者が出ると退職希望報告書を所属長が作成し、それを最終的に社長まで回覧をする。そして、社長の回覧が終わると、その報告書の原本は人事部に渡る。給与関係は勿論、年金や社会保険の手続が必要になるからだ。しかし、平沼が作成した金森愛の退職希望報告書は未だ人事部には来ていない。
「ああ、あれは今回はブラックで回してるからこっちには来ない。これで代わりに進めてくれ」
渡されたのは退職日等が手書きで書かれたメモ用紙だった。ブラックで回した?
ブラックというのはブラックバインダーの通称だ。通常、稟議書や報告書関係は透明のクリアファイルで回覧や書面合議が行われる。しかし、極めて重要な案件の稟議書や、機密性の高い報告書等は中身が見えないよう黒のバインダーに綴じられて回される。黒のバインダーは一定の役職者でないと触れることすら許されない、いわゆるパンドラの箱だった。人事関連でブラックバインダーが使われるのは、役員や管理職の自己都合退職や、会社の名誉を著しく低下させるような不祥事による異動等、滅多に使われるものではなかった。そこまでするのか?谷本は何故ここまで事が大きくなっているのか、全く理解が出来なかった。