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準平の目が泳ぐ。言葉にしなくても答えは分かっていたが浩平は聞いた。
「準平、どうなんだ?」
「いや・・・」
「準平!」
「分からない・・・檜山と名乗ったのは確かなんだ。でも、その声が檜山さんと同じだったかどうか。それは・・・言われてみれば確信は持てない。今、檜山さんの声を思い出せと言われても思い出せないのも・・・・事実だ」
檜山の身に何かあったのかもしれない。準平が電話番号を読み上げた時から頭の片隅に現れた不安は、今、浩平の頭の大部分を占めている。試しに準平の読み上げた電話番号に電話を架けたら、そこは池袋にあるキャバクラだった。
池袋。そう、飯田の遺体が発見された現場に近い。
「こうしてはいられない。檜山さんの事務所に行くぞ」
浩平はそう言い、準平と亮も頷いた。急いで車に乗り、浩平の運転で檜山の事務所がある横浜市西区に向かって車を飛ばした。準平は声の違いに気付けなかった自分を責めているのか、俯いてピクリとも動かない。亮は亮で、準平のその姿にショックを受けているのか、それとも檜山達の事が気になるのか分からないが、黙って窓の外を見ている。
事務所から檜山の事務所まで、車で約一時間半。結局、誰一人として口を開く事はなかった。
「ここの二階だ」
そう言って浩平は車を駐車場に止め、走って階段を駆け上がった。準平と亮も浩平を追って走った。
古く、小さいビルでワンフロアに一つのテナントが入っている。二階に着くと、窓に『檜山探偵事務所』と書かれているドアに手を掛けた。
ガチャ。開いている。中は真っ暗だが、鍵が開いていた。心臓が胸を突き破るのではないかと思うくらい激しく鼓動している。
一歩、中に入ると異臭がした。思わず顔を背けたくなるほどの。
ここに来るまでに感じた不安、それが今、この暗闇と経験したことのない異臭によって更に浩平の心を侵食している。だが、ここで歩みを止めても意味がない。自分達はもう引き返せない所まで来ているのだ。浩平は携帯電話を取り出し、懐中電灯モードにして室内を照らした。
まず、浩平の目に入ったのが、浩平の足元の大量の血だった。
「わっ!」
思わず大声を上げてしまった。
「な、なんだよ兄貴!」
準平が頼りない声を上げる。浩平も気持ちは準平と同じだ。怖い。ゆっくりと、浩平は手に持った携帯電話を足元から上に上げていき、前方を照らした。
そこには壁に寄りかかった形で座っている血まみれの檜山と、その檜山に膝枕されるように倒れている顔がぐちゃぐちゃにされた人間がいた。
「うわああああああああ!!!!!」
かつてここまでの恐怖を感じ、大声を上げた事があっただろうか。刑事事件の弁護で死体の写真を見た事は何度もあるが、実際に見るのとでは大きく違った。
「み、見るな!!け、け、けいさ、警察を呼べ!!」
そう言って準平と亮を片手でドアの外へ押しやった。そして、自分も外に出て、ドアを閉めた。未だに震えが止まらない。ふと足元を見ると、恐らく血の海を踏んだのか、真っ赤な自分の足跡が出来ていた。
「兄貴!ま、まさかあれって!」
準平も見たのだろう。いや、見た筈だ。それを自分に確かめようとしているのは自身の目で見た事実を認めたくないからなのだろうか。
「ひ、檜山さんが、し、死んでる、んだ」
準平と亮が唖然としている。その顔を見て不思議と浩平の頭が回転した。
「準平!亮!お、お前らここを出ろ!」
「え!?」
「いいから!」
「何言ってんだよ、兄貴!」
「いいか、よく聞け!!ちらっとしか見てないが、檜山さんは・・・殺されてる!この前の、飯田と言い、俺達は狙われてるんだよ!!」
準平と亮は何も言葉を発しない。
「こ、このままじゃ俺達の周りの人間が危ない!俺達はきっと第一発見者だ。このまま警察を待ってたら、三人とも警察で事情聴取されるだろう。それじゃ危険だ!帰って、みんなの無事を確認してくれ!」
大袈裟かもしれないが、飯田と、檜山、そしてもう一人は恐らく桜川だろうが、犯人は三人もの人間をあっさりと殺した。殺された三人の共通点は金森愛、または有川保しかない。
このどちらか、あるいはこの二人は平気で人を殺せる人間なのだ。今、自分達がこうしてる間にも家族や友人、仲間が被害に遭ってる可能性が高いと浩平は考えた。
そして、第一発見者となってしまえば、今日だけでなく、何かとつけて警察へ事情聴取される可能性が高い。警察もいずれこの一連の事件の関連性に気付き、関係者を雁字搦めにするだろう。
そうなっては、もう自分達で金森愛と有川保を止める術は無い。
準平と亮。二人をこの現場から遠ざけ、少しでも自由の身である時間を作るのが最良の手段だと瞬時に判断した。
「いいから早く行け!」
準平は全てを悟った訳ではないだろうが、浩平の意図を少しは読み取ったようで目に力が宿ったのが分かった。
「亮、行くぞ!」
「正面玄関から出るなよ。容疑者に間違えられちゃ敵わん。人に見られないようにこの場を離れろ。正面玄関の向かい側に小さい勝手口がある」
「分かった!急ごう!」
準平と亮はそう言って、階段を駆け下りていった。二人の足音が消えると、浩平は二つ三つ、大きな深呼吸をした。
そして、何かを決意すると彼は再び檜山探偵事務所のドアを開けた。