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亮は正直、怖かった。西川の運転する車が新宿に近付くにつれて、渋滞に巻き込まれればいいのに、事故に巻き込まれればいいのに、そんな事を少し思った。
運転席の西川も緊張しているのが伝わる。時々サイドミラーに写る瀬崎の表情も今まで見た事がないくらい緊張している。今、自分達が向かっているのは、常軌を逸したストーカーであり、漆黒の闇を持つ女の居所である事を全員が感じている。
「もう近くなんでこの辺に車を止めましょう」
西川が言う。新宿は賑やかだ。亮も仕事や飲み会でたまに来る事はあるが、正にこの街は眠らない街だ。時刻は二一時になろうとしているが、この時間の新宿は昼間より活気がある。自分達だけがこんなに闇を背負ってるのではないだろうか。
いや、違う。この街には表に出てこない闇が所々に棲みついている。金森愛がいい例ではないか。
現場に金森愛がいて、何事もなく話し合いで解決してくれればいい。ここまで深刻化した事態で、そんな甘い事を考えている自分が笑えてきた。
「このマンションだ」
車を停めて、二分程歩いた。オートロックもない古いマンションだ。新宿駅から徒歩圏内なのでそれでも需要があるのだろうが、古いだけでなく、暗く、陰湿な雰囲気がしており、それが余計に亮の恐怖感を煽った。
「部屋は四〇三号室です」
瀬崎がそれを聞いて、エレベーターの四階を押した。
「警察は今日は来てないみたいだな」
西川がエレベーターで言う。
「そうみたいだな。ターゲットは金森愛じゃなかったのかもしれない」
瀬崎が答える。亮は既に口を開く余裕は無くなっていた。
「西川君はエレベーターを止めて待っていてくれ」
「え?」
「いや、部屋に金森愛以外に危険人物がいないとも限らないだろう。万が一の時、すぐに逃げる為だ」
「あぁ、なるほど」
「亮は俺と一緒に四〇三号室だ。ただ、部屋までは入ってこないでいい。玄関口で待機して、何かあったら突入してくれ」
「あ、兄貴大丈夫かよ」
「俺の問題だ。ここまで連れて来てくれただけでも二人には感謝してる」
瀬崎の指示通り、西川はエレベーターから半身を乗り出し、足でエレベーターのドアを止めた。本当に人の気配の無いマンションだ。自分なら絶対に住まないだろうこのマンションに女が一人で住んでるなんて理解が出来なかった。
前を歩く瀬崎の足が止まる。四〇三号室の前に来たようだ。瀬崎が振り向き、緊張した様子で亮の目を見る。
ここまで来たら腹を括ろう。そう思って、亮は力強く頷いた。瀬崎もそれに答える。廊下側にある窓からは部屋の中に明かりが確認出来る。人は、いる。
瀬崎がゆっくりとインターフォンを押した。金森愛が出るのか、友人とやらが出てくるのか、それとも二人ではない別の誰かが出てくるのか。緊張が高まり過ぎて、叫びたくなる衝動を抑える。
数秒経つが、インターフォンから返答はない。瀬崎がもう一度インターフォンを押す。しかし、やはり応答は無い。瀬崎がもう一度窓から部屋の光を確認する。部屋の光は間違いなくこの部屋のものだ。
「居留守か?」
覗き穴から瀬崎の姿を確認して居留守をしているのだろうか。四階なので窓から逃げるというような事はしないであろう。
「おいおい、ここまで来て」
と、言いながら瀬崎がドアノブに手をかけるとガチャリと音がした。思わず瀬崎と亮は顔を見合わせた。
「あ、開いてる・・・?」
瀬崎は少しだけドアを開けた。間違いなく開いている。鍵もドアチェーンもかかっていない。
嫌な予感がする。ドラマでよく見るシーンが亮の脳内にフラッシュバックする。瀬崎もどうするか迷っている。
「亮、ここまで来て、びびって帰るわけにはいかない。開けてもいいか?」
瀬崎が小声で言った。この状況でノーとは言えない。亮は頷いた。瀬崎はそれを確認し、再びゆっくりドアノブに手をかけ、ドアを引いた。
瀬崎の片足が玄関に入る。瀬崎の後ろに立つ亮にも少しずつ中の様子が窺える。
玄関は割と綺麗に片付いている。女物の靴が三足並べられている。瀬崎が完全に玄関に入る。亮も片足を踏み入れた。室内から音は聞こえない。単なる電気の消し忘れか?寝てるのか?
瀬崎が手で、ここで待つように合図する。ドアを完全に閉めず、亮は頷いた。エレベーターの方を見ると、西川が緊張した表情でこちらを見ている。
瀬崎が廊下を進む。廊下とリビングを仕切っているドアに手を掛ける。その先にはいよいよ金森愛がいるのか。慎重に、慎重に瀬崎がドアを開けた。
リビングに入っていく。何の音沙汰も、反応もないところを見るとリビングにはいないみたいだ。瀬崎がさっきより大胆にリビングから引き返してくる。リビングの隣の部屋も覗くが、覗いただけですぐにドアを閉めた。その要領でトイレ、浴室を覗いたが誰もいないようだ。
「くそ」
瀬崎が小さく言った。
「誰もいないの?」
「ああ」
瀬崎が立ち止まって考える。誰もいないと分かっても、亮はまだ部屋に入る気になれない。すると、瀬崎が何かに気付いたように視線を止めた。
「何だこれ」
瀬崎がリビングに足を戻した。
「あ、兄貴?」
瀬崎の姿がリビングに消え、途端に亮は不安になった。自分も部屋に入ろうか、ここに留まろうか。とにかく落ち着かない。
「り、亮!」
突然瀬崎が声を上げた。姿は見えないが、瀬崎の慌てた声が亮の足を動かした。靴を脱いで部屋に上がる。リビングに入る亮に背を向けた状態で瀬崎が立っている。近付くと、瀬崎は手に紙のような物を持っていた。
「兄貴?」
「こ、これ・・・」
瀬崎が亮に渡したのは一枚の写真だった。亮はそれを手に取る。写真の中に、血まみれの人間が倒れている。すぐに目を逸らした。
だが、その映像は亮の目から脳へ、瞬時に記憶を植えつけた。
たった一枚の写真、そして一瞬の映像ではあるが、 この写真の中の人物は恐らく死んでいる。
そう、これは人の死体の写真だった。