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「これがあの女の家に?」
真由を実家に連れて行った後、瀬崎はすぐに亮と会った。真由の両親は、大荷物を抱えた真由の姿を見て、最初は戸惑っていた。こんなにも早く同棲期間が終了するとは、とでも思ったのだろう。しかし、真由に対するストーカーの話をすると、瀬崎の対応に両親は大いに感謝を示した。真由も両親の顔を見て、なんだかんだ言いながらも安心している様子だ。
結局、真由は仕事を辞めた。と言うよりも、瀬崎が辞めさせた。社員を教育、統率する立場の人間があの程度の器では会社の価値もたかが知れている。勿論、実際にやるかやらないかは別としてだが、会社、特に教室長に対しては法的措置を取る、という捨て台詞を残してだ。真由に対しては少し実家でゆっくりして、また働きたくなったら働けばいい、そう瀬崎が言うと、真由は笑顔で瀬崎を見送った。
亮と合流したのは瀬崎の行きつけのバー。顔馴染みのマスターと話をしたい時はカウンターに、内密の話がある時は席間の広いテーブルに。非常に使い勝手のいいバーなのだ。
「文字通り、EDENのマッチ」
「EDENって前に亮が言ってた薬物扱う危ないバーだろ?確か潰れたって」
瀬崎は亮が西川という友人から聞いた、という話を覚えていた。
「そう。兄貴、この女相当ヤバイかも」
「ヤバイ?EDENが裏で薬物を取り扱ってた店だってのは聞いたが、そこのマッチを持ってたからってあの女も薬物に関わってたとするのは安易じゃないか?」
瀬崎がそう言うと、亮はポケットからもう1つのマッチを取り出した。同じく、EDENと書かれている。だが、金森愛の家で拾ったと言われるマッチとは、色が違った。金森愛の家で拾ったマッチは黒地に赤い文字でEDENのロゴ。今、亮が出したマッチは黒字に白い文字でEDENのロゴだ。
「この色違いは単なるデザインの違いじゃないんだ」
そう言って、亮は赤い文字のロゴ、つまり金森愛の家で拾ったマッチを全部取り外し、マッチケース内面の白地の部分を十円玉で擦った。すると、小さな文字が浮かび上がる。
「<A8>?何だこれ?」
「パスコードさ」
「パスコード?」
「この白文字のEDENのマッチ。これは一般客も手に入れることが出来る、いわゆる宣伝用のマッチ。赤文字のEDENのマッチは薬物売買の権利を得る為のパスコードが記載されたマッチ。つまり、EDENを使って薬物を入手しようとする人はEDENからこのマッチを入手した後、このパスコードを使って薬物を取引するんだ」
「そういうことか。随分、危なっかしい取引方法だな。金森愛みたいに落としでもしたらすぐに足がつきそうだが」
「いや、実際の取引はそんな簡単なものじゃない。このパスコードは取引をする為の第一ステップみたいなものだよ。これを得てからどう取引をするのかはさすがに俺も知らないから友達に確認してる。でも、問題はこのマッチの入手方法さ」
「まぁ売人側がほいほい色んな人物に簡単に渡す事はないだろうな」
「うん。このマッチは薬物取引経験のある客の紹介からでしか得る事は出来ない」
「・・・なるほど。そういうことか」
瀬崎はこの時点で亮の言いたい事は分かったが、得意気に喋ろうとしている亮を止めることはしなかった。
「この女、金森愛は薬物取引を経験した客から紹介して貰った筈なんだ。しかも、金森愛自身が薬物を得る目的で。勿論、女本人じゃなく、女の家に訪れた友人なり知人なりが、うっかり忘れて行ったという可能性もあるけど、薬物需要者にしてはパスコードが記載された重要な物をそう簡単に落としたり、忘れたりしないだろうしね」
「その通りだな。金森愛本人が薬物を欲していたと考えるのがベターだろう。ただな、今や薬物はそこいらの主婦でも手に入れる時代だぞ?そこまで危険なのか?」
ごく普通の主婦が外国人の売人から薬物を購入する様を、警察密着の特番で見た覚えのある瀬崎は疑問に思った。亮は普段から物事を大袈裟に言う男ではない。その亮をここまで緊張させる理由は恐らく一つだけ。
「いや、取り扱う薬物の種類が問題なんだ」
瀬崎が心の中で回答を出して間もなく、亮が答え合わせをした。
「EDENが取り扱ってた薬物は麻薬や大麻などのいわゆる大衆的な違法薬物じゃない。詳しくは俺も知らないけど、東アジアで作られた新薬らしい。その効果も、副作用もこれまでの薬物とは一線を画すとんでもない代物って話を聞いたことがある」
「なんだそりゃ。そんな危ない物をたかが一介のバーが仕切ってたのか?」
「おかしいよね。だからそれも今調査中。どっちにしろ、その女が今の話に一枚噛んでるとしたら、結構危ないと思うんだよね」
「なるほど。それにしても薬物か。クスリをやるような女には見えなかったけどな。それとも転売目的か?」
「いや、それはないと思う。一般的な違法薬物だって転売はご法度なんだよ。もしそれが売人側バレたらそれこそ誰に狙われるか。まだ日本にそれほど出回ってない新薬だとするなら尚更さ」
「それもそうだな」
「兄貴、完全に身を守る為だけだ、というなら警察に任せた方がいいかもしれない。EDENの実態を知っている警察ならこのマッチを持って行けば単なるストーカーでは済まさないだろうし」
亮の言う事は最もだ。金森愛が薬物取引に関わっている可能性が出てきた。しかも、扱う薬物はまだ国内にそれほど出回っていない新薬。予想ではあるが、やはりそれに伴って多額の汚い金が動くのだろう。金森愛の周辺は既に真っ黒な世界が渦巻いているのかもしれない。
自分や亮、浩平が首を突っ込むような世界ではない。が、一方で、そこまで危険な女を警察に任せていいのだろうか?今、金森愛が逮捕されたとして、罪状は何だろうか?ストーカー、違法薬物。いずれにしても、彼女の体がまだ元気な内に再度社会に復帰するだろう。そうなっては困るのだ。
「それでも警察には言わない、としたら?」
瀬崎が言う。亮は瀬崎がそう言うのを分かっていたように頷いた。
「それなら真由さんの分も警察に言っちゃダメだ。真由さんのストーカーと、金森愛の事件は別件だとしても、兄貴の周りに警察がうろつく事は間違いないでしょ?」
「まぁ、そうなるだろうな」
「俺は裏で情報を得るしかない。裏で動く為には、兄貴の周りに警察がうろついてたら無理だ。俺が警察の世話になったのは随分昔の話だけど、俺が動かしてる連中は未だに警察に目を付けられている可能性が高い。そんな奴らが闇の深そうな今回の事件に巻き込まれてる兄貴と接点を持ってるなんて知れたら、お互いにとって利益はないよ」
瀬崎は黙る。悩むフリ、と言っては聞こえが悪過ぎるだろうか。警察を動かすのは瀬崎にとっても本位ではない。ただ、この様な話を聞いて、危険極まりない世界へ自ら飛び込む気もない。亮や亮の友人が動いてくれるのであればそれに越したことはない。
「分かった。その代わり、お前も友達も危ないと思ったらすぐに言ってくれ。そして、情報を得たら逐一連絡をくれ」
亮はニッコリと笑って、力強く頷いた。