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静かな夜だった。まだ引越を済ませたばかりで、部屋はダンボールで溢れている。今日は荷物を片付けようと思い、スーパーで掃除用品等を買い込んだが、買っただけで満足してしまい、その帰り道に買った缶ビールを片手にベランダに出た。澄んだ空に満月が光る。満月を見ながら、男は思った。
君を見続けてきて、もう一年以上経つ。君の隣にいるのはいつもあの冷たい目をした男だ。僕ではなく。君は時々、僕に助けを求めた。言葉に出さなくとも、僕には分かる。あの男の、あの目。あの目は人を人と思わない、冷酷な目をしている。僕には君が獲物に目を付けられた小鹿にしか見えないんだ。
僕があの男と初めて逢ったのは半年前だった。君はいつもよりずっとお洒落をしていて、すごく綺麗だった。君のその純粋な目は、恵比寿のオープンカフェで一人でコーヒーを飲む僕を見つけてくれた。透き通る少女の様な声で、僕を呼んだ。その隣にいたのが、あの男だった。その時も男は僕を冷たい目で見ていた。
男の存在は元々知っていた。同僚教師や事務員が、君の男を羨ましがっていたからね。でも、彼女達は男を年収や顔、勤務先で選ぶ低俗な女だ。君はきっと男のそれ以外の部分に惹かれたんだ、だから仕方ないんだと必死に自分を言い聞かせてきた。あの男の、あの目を見るまでは。
あの男は、愛想も良く、僕に挨も丁寧に挨拶をした。普通の人が見れば、愛想のいい好青年、そう映るだろう。でも、僕には見える。その薄ら笑いを浮かべた目の奥の方に潜む狂気が。それを見て僕は確信した。君を、守らなければいけないと。
そして、僕は思いを伝えた。
全ては君を解放してあげる為だった。あの男によってかけられた君への呪縛から解放するのは困難を極めた。だから、何度も、何度も試みた。でも、君への呪縛は僕の予想以上に強かった。それなら僕も本気で、全力で君にぶつからなければならない。
だから、僕は昨日仕事を辞めた。君の為だ。君の呪縛を解くには仕事の片手間では出来ない。僕の人生を、全て君に捧げる覚悟がなければならない。大丈夫。君の呪縛を解き、無事に僕の元へ来る事さえ出来れば、勿論再び職に就くから。あの男ほどではないかもしれないけど、僕も世間一般でいえば、優秀な人間と呼ばれる側にいることは間違いないだろう。
そして、退職願を出したその足で、君に初めての贈り物を送った。あれは、僕が君を見続けてきた、という唯一の証。あの男との時間を過ごしている君の顔を赤いマジックで塗り潰すと、まるで君の呪縛の鍵が一つ開錠されるかのようで、僕はひどく興奮した。今なら思う。ある意味、僕は君に拒まれて良かったのかもしれない。もし、君の呪縛が残ったまま、君が僕を受け入れていたら、きっと僕は君を傷つけたと思う。それも、直接的に。それほどまでにあの男の呪縛は強力なのだ。
今は、君と接する時間は奪われてしまったけど、その分、君だけの事を考える時間が増えた。そのおかげで、今では僕と君は心の部分での繋がりを感じる事が出来る。今も、きっと君は僕と同じ様にこの夜空に輝く美しい満月を見つめ、僕の贈り物について思いを馳せていることだろう、そう信じている。
今は、君が少しずつ自由になれるように回りくどい方法でしか君を救えないけど、時が来たら、必ず迎えに行くよ。
大丈夫。「あの男」とは目的は同じだから。
床はダンボールが溢れているが、壁はどうやらこの男にとって既に住む部屋として完成しているようだ。壁、そして天井一面に、顔を赤く塗り潰された女の写真が貼られた部屋で、男が一人、人とは違う形でその嫉妬心を増幅させていた。