プロローグ
瀬崎は気だるそうに煙草に火を点けた。目の前の相手に自分の理屈が通じない時、瀬崎は自分自身の感情をコントロールする為に煙草に火を点ける事がある。勿論、医学的な面では煙草にその様な効果がない事は理解しているが、火を点けて、大きく一口目を吸うと、落ち着くのだから仕方がない。
「最初から付き合う気なんてなかったんでしょ?」
大きな目を充血させ、金森愛が必死に声を絞り出して言った。瀬崎は愛の目を一瞬見て、背を向けた。目の前に広がるロマンチックなお台場の町はいつでも若い男女で賑わう街だ。今、この時でさえ瀬崎が見る限り、この場所で修羅場を迎えているのは恐らく自分達だけだった。
「君も考えは同じだと思っていたけど」
呆れるように瀬崎は笑った。こういう場面で、薄笑いを浮かべて反論されるのが、相手にとってどれだけ腹立たしい事なのか、彼はよく分かっている。
「どういう意味よ!!」
案の定、愛は取り乱した。周りの男女も、愛の叫びに気付いたようだ。方々からの視線を感じる。
「そうやってすぐ感情的になる。そういう所がたまらなく嫌なんだ。君はいつもそう。自分の感情がコントロール出来ない。自分の思い通りにならないと、目を潤ませ、時には泣いて、大声を出す。そうやって今までは何とかなってきたんだろうけど、俺は思い通りにはならないよ」
愛に反論の隙すら与えさせないように息継ぎもせず、一気に、少し早い口調で捲くし立てた。これまで、瀬崎が自分に厳しい意見をする姿を見たことがなかった彼女は驚いて言葉を失っている。
「付き合うとか、付き合わないとか、そういう次元じゃない。君が仕事で行き詰まっていて、相談があると言って俺を誘ったのがきっかけじゃないか。それをあたかも俺が君を利用したような言い方をするのは勘弁してほしいね」
面を食らって、言葉が出てこない彼女に対し、瀬崎は更に言葉を続けた。こうなればもう瀬崎のペースだ。
「君は少し勘違いをしてないかな?君は確かに会社では家庭に居場所のないようなオッサンたちに媚を売ってるからチヤホヤされてはいる。でも、それは君が特別に美人だからとか、魅力的だからということが理由ではないと思うよ」
瀬崎は国内最大手の不動産会社、全日本不動産に勤めている。その中でも29歳にして、本社営業部の一員として大型ビルの用地仕入れから、建設に至るまでの大きなプロジェクトを任されている非常に優秀な人物だ。
全日本不動産の本社営業部所属という肩書きは、各支店は当然のこと、全国の不動産業者にも羨望の眼差しを受ける地位にあり、若冠20代にしてそれを得ることが出来たのは長い社歴の中でも瀬崎が唯一無二の存在であった。
一方で、愛も本社営業部に籍を置くが、こちらは単なる契約社員。受付やお茶出しなど、本社に訪れる顧客の目に触れる以上、相応の容姿を備えておくべきだ、という社長の方針で20代前半の容姿端麗な女性のみを最長3年という有期で雇用をしているのだ。だから愛は自分の容姿には自信があった。容姿が雇用条件にあるということは世間に浸透しているからだ。
「帰りは自分で帰れるね?君も今さら俺に送ってもらうことなんて望んではいないだろうけど」
そう言えば、愛が無言で立ち去っていくのを確信していた。
「絶対許さない…絶対復讐してやる…」
目に涙を浮かべながらも精一杯瀬崎を睨みながら、瀬崎に背を向けて去って行った。どこまでも気の強い女だ。あまりに幼稚な捨て台詞とはいえ、瀬崎の想定していない発言を彼女が発したのは今回が初めてだったかもしれない。 それでも、結果的に自分の想定の範囲内に事を終えた瀬崎は悠々と愛車の待つ駐車場へ歩いていった。
愛車に乗ろうとした時、瀬崎の携帯が鳴った。ディスプレイには真由と出ていた。
「もしもし」
「準平?まだ仕事?」
「いや、仕事は終わったけど、会社の後輩の相談に少し付き合っててね。もう帰るよ」
「そう。急なんだけどお母さんが来てるの。久しぶりに準平にも会いたいってなかなか帰らないのよ」
「そうなんだ。もう遅いし、今日は泊まっていってもらったら?」
「いいの?お母さんも喜ぶと思うわ」
「もちろん。じゃあお母さんの好きなケーキでも買っていくよ」
「ありがとう。早く帰って来てね」
瀬崎には婚約者がいる。婚約者の真由は24歳で予備校で事務をしている。先月、瀬崎は夏休みを利用して引っ越しをし、真由と同棲を始めた。同棲をするなら結婚をしろ、と真由の母親は言ったが、真由が「こんな暑い中で毎年結婚記念日を祝うのは絶対に嫌」と主張し、入籍は夏が終わったらとなった。結局、9月の下旬になっても暑さは収まらず、せっかくだから12月の二人の交際が始まった記念日に入籍をしようという話になったのだ。
ケーキ屋の住所をカーナビに設定しながら、瀬崎は実に順調な自分の人生に改めて満足感を得ていた。