ラスファイアス~炎の祭典 前編
激痛で目が覚めた。
瞼を開けると満天の星空が凝縮して一気に大脳の裏側に突き刺さるような錯覚を起こした。
これは……夢ではない。本当に真夏の夜空を見上げた状態で僕は無造作に大地に放り出されていた。
「ぅ……ぶっ」
声にならないほど微かな声がのどの奥から漏れ出た。次の瞬間、吐き気とひどい痛みが同時に襲ってきた。身体に力が入らない。起き上がれない。何だ? 何が起きた? 怪我……してるのか?
駄目だ。冷静にならなければ駄目だ。全身くまなく、隅々まで神経を集中してみた。仰向けの状態のまま、ようやくの思いで動かすことができる右手で頭の先から下半身へと順に状態を確認してみることにした。頭部は……大丈夫だ。少し、こぶができているが出血はない。脳内に損傷はないだろう。いや、ないことを切に願う。……次に胸をさすってみた。途端に鋭い痛みが電気信号になって脳の痛点を刺激した。肋骨にひびか、もしくは折れているのかもしれない。呼吸をする度に痛みが増していくようだった。……浅めの呼吸を心掛けることにした。その方が痛みが少し和らぐ気がした。
ああ、そうだ。思い出した。崖の上から落ちたんだ。途切れていた記憶が徐々に蘇る。岩の上に落として壊れた携帯を拾おうとして、うっかり足を滑らせ落ちたんだ。
目線を上に向けると頭上にそびえ立った崖が現れ雲ひとつない生粋の星空の情景に、ふてぶてしく割って入ってきた。
身体を確認する掌が腰のあたりで、ヌルッとした感触を捕らえた。出血していた。折れた肋骨が内臓に刺さってしまったからか。……いや、違う。そうじゃない。そんなことじゃない。もっと下からだ。
ゆっくりと頭を持ち上げ目線を下に向けると左大腿部から出血しているのが判明した。木の枝か何かが刺さっていて、そこから出血していた。不思議なことに足には、さほど痛みは感じなかった。暗くてそれが動脈からの出血なのか静脈からなのかまでは確認できなかった。崖から落ちたときは、まだ陽があって明るかったから少なくとも三時間以上は経っている筈。出血が始まって三時間以上経過。かなりの量だと容易に推測できた。四百……八百……いや、千二百CCーーそれ以上か。
もっともっと大量に出血しているのは明白だった。死が近づいているという歴然とした事実。恐怖が時間経過と共に無意識に、いつの間にかその事実を認めないこととしていた。失血死がどういうものか、この後どうなっていくのか、不幸にも僕は詳しく知っていたのだ。
ふん。馬鹿馬鹿しい。
誰かが言ってたな。人間は極限状態になると思考が単純化するって。まさに、今の自分自身がそれだな。
まず、傷口を止血しないと。今、考えるべきことはそういう建設的なことだ。傍らに落ちていた登山バッグからタオルとハンカチ、着替え用のシャツを取り出し無作為に傷口に当てがった。だが、傷口の上に被せるのがやっとで止血効果はほとんど望めなかった。
駄目だ。気休めだな。こんなの。
「苦しいこと、困ったことがあると、すぐに諦め逃げ出す。お前の悪い癖だ!」
ふと、厳格な父の、いつもの叱咤が脳裏に浮かんだ。そう、父よ、あなたの言うことはいつも正しい。正確だ。正確無比だ。そして、いつも何をしても情けない僕はこんなにも綺麗な星々を見上げながらひとり寂しく死んでいくんだ。
違う違う。大量出血のせいで朦朧として弱気になってるだけだ。
ーー意味のない自問自答を繰り返していた。
精神がいよいよ諦めの境地で満たされてしまった頃、遠くに光が見えた。自動車のヘッドライトらしかった。
やがて懐中電灯の光が近付いてきて、スラリと伸びた足が目の前にあった。
「崖から落ちたのね。すぐに手当てするから」
見上げると、長い髪の女性だった。不思議なことに髪の毛が赤みがかったブロンドに見えた。薄暗いせいだろうか。それとも、僕の意識が定かではないからだろうか。年齢は、僕より少し上に感じた。
風になびいた髪をかきあげる仕草が印象的で、それにとても綺麗だった。僕はこんなに切迫した状況にもかかわらず彼女の自然で流麗な仕草に見とれていた。
僕は胸の痛みを我慢して、ようやくと声を出すことができた。
「傷口の……血の色教えて」
「血の色?」
「黒っぽい血か……それとも鮮やかな色しているのか……教えてほしい」
彼女は、懐中電灯で出血部位である足の傷口周辺の確認をしてから優しい微笑みを向けて答えた。
「うん、大丈夫。動脈からのじゃないから、大丈夫よ。こんなことぐらいでは死なないから……それより、声だすと辛いんでしょう。もう、無理に喋らないで……任せて」
彼女の「死なない」という言葉に意識が勝手に反応してしまったのか、僕は不覚にも安堵の涙が出てしまった。
彼女は傷口に重ねてあったハンカチを拾い上げると、それで自らの髪の毛を後ろでひとつに束ねてから手際よく止血処置などを始めた。本当に馴れた手際の良さだった。
「あなた、K医科大の学生でしょ? バッグ、山岳部のよね。昔、祖父もK医科大の山岳部だったの。同じマーク見たことあるわ」
マーク? 山岳部の鳥のマークのことか? 大学の部室のドアや壁に描いてあったな。そういえば、バッグにも刺繍してあった。部長が言ってたな。山岳部に代々伝わる幸運の白い鳥だって。羽を広げた姿は、鳩にもカモメにも鷹や鷲などの猛禽類にも見えた。実際、何の鳥なのかは、もはや部員の誰も知らないが。僕が、入部する、ずっと前から存在していた鳥だった。ただ、はっきりしてるのはバッグに刺繍するのが伝統になっていることだ。
応急処置を終えた彼女は、僕が涙を流していることに気がついたようだった。
「大丈夫。安心して……任せて」
彼女はそう言うと、僕の頭を膝にのせ優しく包み込むように抱きしめてくれた。ほんのりと柑橘系のいい香りがした。彼女の吐息と少し速めの心臓の音が共鳴して、耳元で心地良いリズムとなって聞こえた。まるで上質の音楽を手入れの行き届いた楽器で奏でるような、懐かしい心地良さ。僕はキリスト教の信者じゃないけれど、もし、現代に聖母マリア様がいるなら、今、この瞬間の、この人がそうなのだと思った……生まれて初めて、心の深淵から琴線が震えた気がした。そして……いつの間にか、僕は安堵という名前の、優しい揺りかごの中で再び気を失っていった。
「……私は、看護師だから……大丈夫……」
薄れゆく意識の中で、僕を励まし続ける優しい声が響いていた。
どれくらい眠っていたのだろうか。視線を感じて目が覚めた。ベッドに横たわっていた。腕には点滴の針が刺さっていた。
ここは……診療所だった。山間の小さな診療所。
目前の開放された窓枠に小さな猛禽類がとまっていた。視線の主はそいつだった。怖くはない。そいつは鳩くらいの大きさしかなかった。ジッと、身じろぎせず、こちらを見据えていた。
「……鷹?」
一瞬、置物なのかとも思ったが目が合うと少し動いた。生きていた。ちょっと、びびった。
「その大きさで大人の鷹なのよ。ツミっていう種類の小型の鷹なの……この診療所に住み着いてるようなものね」
背後から声がした。振り返ると、僕を救ってくれた彼女だった。意識を失う前に感じた通りの優しい雰囲気を全身にまとった、端整な顔立ちで清楚さを醸しだしている女性だった。そして、やはり、あの時は見間違いだったのか、今見る彼女の髪はブロンドではなく、着ている純白のワンピースに映える艶やかな黒髪だった。
僕は身体の、胸の痛みはずいぶんと和らいで自由に声が出せるようになっていた。そして彼女に対する感謝の気持ちで一杯だった。
「本当にありがとう。助けてくれて……もう駄目だと……うっ」
崖から落ちて絶望的だった状況を思い出して、また泣きそうになり、それ以上言葉が出なかった。まったく、僕はなんて弱虫なんだ。
「お礼なら、その子に言って。あなたの本当の恩人は、そのツミなのよ」
「それは、どういう?」
「あなたの上空をいつまでも、ぐるぐる旋回して教えてくれたの……夜なのにね」
夜? ああそうか、確かに、あんな新月の夜に鳥って飛ぶものなのか。それとも、鷹は暗くても普通に飛ぶのか。ちょっと疑問に思った。でも、先ずはこの鷹にも礼を言わなければならないと、素直に思った。
「この鷹、名前あるんだよね?」
尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「名前? えっと、ツミって呼んでるわ」
「それって、鷹の種類だよね」
「ふふ……犬に犬、猫に対して猫って呼ぶようなものよね」
まあ、とにかくそれはさておき僕は真摯な気持ちでツミに礼を言った。
「ありがとう。ツミ、ありがとう」
ツミの目を見ながら人間に話しかけるように言った。すると、僕の言葉がわかるかのようにツミは甲高く一声あげると、バサバサと羽ばたき緑濃い山間へ飛び立って行ってしまった。
「何だか人間みたいでしょ。言葉がわかってるのかなって、時々思うわ」そう言いながら彼女は優しい笑顔でツミを目で追っていた。
そんな彼女の横顔に僕は無意識に、またもや見とれていた。が、ひとしきりツミの軌跡を追っていた彼女が振り向き目が合った。僕は照れくさくて視線をはずすと子供のようにどぎまぎして慌てて尋ねた。
「あ、名前、何て呼べば……僕は本間浩」
「コウ? じゃあ、コウくんて呼ぶね。私は、礼香。鈴木礼香。レイカでいいよ」
「年齢は?」
「初対面の女性に聞くものじゃないわね。その質問」
「ごめん、あ、いや、すみません……礼香さん」
「ふふふ、ウソウソ、冗談。私は二十八歳」
「えっ! 僕より一、二歳くらい上かなって思ってた」
「あら、お世辞でも嬉しいわね。ありがと、コウくん」
礼香さんはお世辞と思ったようだが、本当に彼女の容姿は若々しかった。とても二十八歳には見えなかった。それは僕の率直な感想だった。ちなみに、この時、礼香さんは僕のことを十八、九歳の新入生、つまり大学一年生と思ってたとのことだった。二十歳の僕にとって十代に見られてるというのは、まるで子供に見られてるようであり、全然嬉しくはなかった。
礼香さんの話しによると僕が気絶した後、彼女は知り合いの医者に連絡しこの診療所へ運んだということだった。ここは礼香さんの祖父の経営していた診療所で、その人は最近亡くなったとのことで、この数カ月間は開店休業状態が続いていたらしかった。僕にとって運が良かったのは診療所が事故現場から自動車で五分とかからない近い場所にあったことだ。医者の診断によると僕の肋骨二本にひびが入っていることと左足の刺し傷、他は軽い打撲とすり傷とのことだった。その医者は一週間後にまた診察に来てくれるとのことだった。気を失って、そのまま寝ていたので二十四時間以上経つから、あと六日後になるのか。
礼香さんは、僕の残り少なくなった点滴を片付けながら言った。
「必要な薬は十分に揃ってるからこれ飲んでね。点滴は、もう必要ないわね」
渡された薬は、クエン酸鉄の錠剤だった。左足、大腿部からは、けっこうな量の失血だったが輸血はしていなかった。それは僕にとっては有り難かった。なぜなら四年前、僕が高校生の時に血液の病気で死んだ母が治療の際の輸血による副作用に、とても苦しんでいたのを目の当たりにしていたからだ。輸血による弊害、或いは未知の病気内包の可能性、これは医学的に未だに解明仕切れていないと僕は常々考えていた。だから礼香さんの調理してくれた玄米中心の食事と鉄剤による自然な造血はとても安心できて有り難い思いがした。
礼香さんの左手薬指を見ると指輪はしていなかった。結婚はしてないのかなと思った時、右手には包帯が巻かれているのに気付いた。僕は少しハッとして尋ねた。
「その手どうしたの?」
「足に刺さったのを抜く時に、ちょっとね。トゲがあったみたい。あ、コウくんの傷は大丈夫よ。異物は入ってないから。ちゃんと消毒したから」
何ていい人なんだろう。僕は、僕のために怪我までして申し訳ないという気持ちと、とっても愛しいという気持ちがごちゃ混ぜになって、どうしても、もっともっと礼香さんのことが知りたくなった。
「礼香さんて独身だよね?」
「また、そんなこと聞くの……」
「……」僕は答えを待った。
「……独身……結婚してないけど」
「恋人は、付き合ってる人は?……」僕は固唾をのんで答えを待った。
「……いないけど」礼香さんは渋々答えたようだった。
やった、やったあ! 飛び上がりたい衝動に駆られたが、この身体の状態では無理なので気持ちの中だけで小躍りした。でも礼香さんの話しには続きがあった。
「でも、婚約者いるよ。スペインに」
礼香さんは日本人の父親とスペイン人の母親を持つハーフだった。名前も正式には鈴木エレーヌ礼香と言った。「エレーヌ」と言う名前が何だかスペインぽくないなと思ったら母親方の祖母がフランス人でそんな名前をつけられたそうだ。うーん、何だかややこしい。礼香さんは普段、スペインのバレンシアという地方の小さな村で看護師をしていて、この日本の診療所の祖父である亡くなった鈴木寿一朗さんが二年前から具合が良くなかったため毎月のように来日しては手伝いをしていたのだとか。
礼香さんは、亡くなった寿一朗さんをとても尊敬していて、自分が看護師になったのも元々はその影響なのだとか。
「はぁ……婚約者かぁ……」
僕は何度もため息混じりに落胆した。でも、こんなに落ち込んでいる僕を見て礼香さんは終始笑顔で、なんとなく楽しんでいるようにさえ見えた。
「ねえ、コウくんて私のこと……好きなの?」
「…………うん」ドキッとした。
「私、二十八歳なのよ。八歳も上なのよ」
「だから?」
「いいの? それでも?」
「うん」
僕の気持ちを確認した礼香さんは、少し照れたような、少し困ったような表情を見せて婚約者のことについて真実を話し出した。
「婚約者って言っても、一度も会ったことがないの」
「え?」
「フランスの祖母がね、OMSに勤めてる、とってもいい人がいるからって勝手に話を進めてるだけなの。祖母が決めた婚約者の、その人とは会ったことがなくて、帰国したら正式に断るつもりだったの」
「OMS」とは、確かフランス語での世界保健機関のことだ。「WHO」の方が我々日本人にはきっと馴染み深いなと思った。あれ? そんなことよりもこの話しどこかで聞いたような話しだと思った。
「じゃあ、礼香さん、誰とも付き合ってなくて、フリーってこと?」
「まあね」
「じゃあ、改めて…………僕と付き合ってください」
つい、勢いで言ってしまった。だけど、今、言わないと後悔するような気がした。
礼香さんは、それからさんざん悩んだ末に、ひとつの提案、というか返事をくれた。
「そうねえ、じゃあね、その身体が治って、まだ気持ちが変わってなければ、その時、また告白してくれたら、答えるってことでいいかな……それまでは……お試し期間ということでいいかな」
「お試し期間……」
「ところで、私、スペインに住んでるのよ。どうするの?」
「あ、遠距離恋愛になるのか……」
「日本とスペイン……超遠距離だね」
僕はとりあえず遠距離だとかそんなことはどうでも良かった。とうでもいいことに思えた。お試し期間だろうが何だろうが礼香さんの気持ちの中に僕自身の存在が、少しは特別な存在として今現在、確かにあるんだということが妙に嬉しくて、その事実に酔ってもいた。
「礼香さんに聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「何?」
「血液型は何?」
「……B型」
「好きな色は?」
「白と赤……かな」
「好きな花は? 好きな国は? 好きな数字は?」
「ちょっと、ちょっと待って。そんなことが聞きたいの? あなた中学生?」
「いいだろ。だって、礼香さんのすべてが知りたいんだ。で、好きな数字は?」
「……もう……三十六・一……」
礼香さんは、それから暫く間、僕の他愛ない質問責めに付き合ってくれた。
朝から小雨が降っていた。
雨は診療所裏にある露天風呂のお湯に降り注ぎ、水面に大小幾つもの輪を描いて、それが何だか風情たっぷりだった。僕は裏の戸を開けると見えるこの情景が凄く気に入っていた。この露天風呂には半分くらい屋根のある部分が存在するため、その下にいる限り、例えどんな土砂降りだろうと悠然と湯に浸かることができる仕組みになっていた。さらにこの露天風呂は側面の岩盤の自然な形状を利用して湯を流した「打たせ湯」まで完備していた。亡くなった寿一朗さんのセンスの良さというか人柄の良さがビンビンに伝わってくるような、ちょっとした保養設備を兼ね備えた診療所だった。僕は早く身体を治してこの小洒落た温泉に入ろうと思っていた。それがとても楽しみだった。
「電話しなくていいの?」
礼香さんは僕が父親に連絡しないことを気にかけて何度も尋ねた。診療所の電話でとにかく連絡するよう促された。明後日には電話も解約されて使用できなくなるからとのことだった。
「普段、父は僕のことなんかまったく気にしない人だから例え三カ月、いいや半年くらい行方不明でも気がつかないんじゃないかな……大学入ってから夏休みに家に帰ったこともないし」
僕は大学に入ってからは夏休みどころか冬休みも春休みも帰省したことはなかった。ああ、そういえば唯一、年末年始の二日間だけは実家で過ごしたか。父に会ったのはこの二年間で一回だけだった。普段から僕に無関心な、そんな父が数日連絡がつかないくらいで今更心配してるとは到底思えなかった。それにもまして今回の夏休みだけは帰るわけにはいかなかった。今回、単独で山登りに入る前日に珍しく父から電話があった。
「浩、お前に会わせたい女性がいるから夏休み中に帰ってこい」
父が再婚でもするのだろうかと思ったら、僕の婚約者を決めたから会わせるなんて言い出しやがった。まだ学生だぞ、僕は。いつも、何に対しても強引で、強引であるだけでなく間違いを起こさない自信家の父であったが、さすがにこの馬鹿げた見合い話しには付き合いきれなかった。だからこの夏休みだけは帰るまいと思った。礼香さんのスペインの婚約者の話しがどこかで聞いたような気がしたのはこのこととオーバーラップしたからだった。それでもまた父はしつこく電話してきた。
「浩、大学入ってから付き合っていた清美という娘とは別れたんだろう。だったら、一度会ってみなさい。婚約とかは、まあ、この際どうでもいいから凄くいい女性だから一度会ってみなさい」
父は、なぜだかわからないが、わずか三カ月だけ付き合ってた僕の彼女のことを知っていた。清美とは大学に入ってからゼミが一緒で意気投合しすぐに付き合い始めて、それからすぐに自然消滅していた。仲のいい友達みたいな関係でそれ以上の男女の、恋人同士の関係にまではならなかった。今でもゼミは一緒なので友人としての関係として気兼ねなくやっている。父はそんな他愛ない僕の学校生活をなぜか知っていた。
そう言えば、父と疎遠になったのはいつからだったのだろう。母が死んだ時、父は臨終に立ち会わなかった。仕事を優先して地方へ出張中だったのだ。いや、それよりも前、母が入院して不治の病気だと分かってからも、それ以前からも父は仕事優先で滅多に見舞いにくることはなかった。勿論、仕事人間の父をすべて否定するつもりはない。父のお陰で生活が成り立っていることくらい、子供じゃないんだから理解している。でも、僕が物心ついた頃から、記憶のある限り辿ってみても父が母に対して優しかったことがなかった。僕は小さな頃から母を守らなければならないと思っていた。仕事優先人間の父を一種のライバルとさえ考えていた。
礼香さんはそんな僕と父の話しを聞いていたがひとしきりしてから尋ねた。
「聞いたことある。そういうの何て言ったっけ? 何とかコンプレックス」
「……? エディプスコンプレックスのこと?」
「そう! それ!」
「実は、一斉にも言われたことがある。あ、一斉てのは大学の友達なんだけど」
同じゼミの本城一斉。高校時代からの友人だ。もし、一斉が礼香さんに会ったら、真っ先に、すぐに口説くんだろうな。ゼミで一緒の女の子は全部で七人いるんだけど、全員一度は一斉に口説かれた経験があるらしかった。これは、例の清美に聞いた話しだから間違いない。僕と清美が少しの間だったけど付き合ってた頃に口説かれたという話しでもあった。一斉は清美が僕と付き合ってることを知らずに口説いたことを後から聞いて一生懸命謝ってたらしかった。一見すると何だかだらしない奴とか、優柔不断な奴だとか思われがちだけど高校時代から僕とは不思議と気が合う奴だった。それになぜか口説かれた女の子からの悪口や苦情は一度も聞いたことがなかった。それは清美からもだった。
その夜、夢を見た。
高校時代の夢だった。登場人物は僕と一斉、それに一斉の父方の祖父の本城膳行さん。僕らは「膳爺」と呼んでいた。現実では、今年九十五歳になるけどとっても元気な爺さんだ。若い頃は軍人で「隼」という戦闘機のパイロットだったと聞いた。陸上部だった一斉が中距離の練習でグラウンドを走り何周かしてると、遠くから叫び声が聞こえてきた。やがてグラウンド脇の茂みの中から膳爺が現れて杖をブンブン振り回して怒鳴りながら一斉目掛けて突進してきた。一斉は走るのを止めてキョトンとして見ていたが、迫ってきた膳爺に杖で叩かれそうになり再び走り出し逃げた。
「この馬鹿者! 大馬鹿者があ!」
鬼のような形相で叫びながら膳爺は一斉を追いかけていたが、まあ、追いつける筈もなく、やがてゴホゴホと咳き込んでその場に倒れ込んでしまった。
一斉は暫くの間、離れた所から膳爺の様子を窺っていたがまったく動かなくなってしまったことに慌てて駆け寄り揺さぶった。
「おい! 大丈夫か! 膳爺! おい……」
膳爺はカッと目を見開き一斉を羽交い締めにすると手に持っていた杖でガツガツを頭を叩きながら恫喝した。
「おう! こら! 餓鬼が! 百年早いわ!」
一斉が当時付き合っていた同級生の女子を妊娠させてしまったという噂を聞きつけた膳爺が怒っていたのだ。結果から言うと、妊娠というのはデマ、単なる噂話しだったのだが。この後、一斉は散々痛めつけられていた。周囲にいた陸上部員が止めに入ってようやく一段落した。
雨は降り続いていた。
礼香さんは朝早くから身仕度を整えていた。今日はどこかへ出かけるらしい。手際よく食事の仕度も済ませて言った。
「昼と夜の分、用意したから、食べたらおとなしく寝てるのよ」
「あ、何かいいね。こういうの」
「……?」
「新婚さんみたいな感じ……しない?」
「もう、バカ。何言ってるの」
少し赤くなって照れている礼香さんは可愛らしかった。
礼香さんが自動車で出かけると間もなくツミが飛んできた。ツミは一時間くらい雨宿りしていたが気付くといなくなっていた。午後になるとまた一度ツミはやってきた。食べ物を差し出すと食べた。
真夜中に水しぶきの音がして目が覚めた。礼香さん帰ってきて温泉に入っているんだな。裏の戸が少し開いていた。
礼香さんが見えた。
ハッとした。
何ていう美しさだろう。雨の降る中、少しだけ取り戻された月明かりの下で、僕のつたない形容詞ではぜんぜん表現できないほどの美しい裸体を見た。露天風呂のほぼ中央で立ったままの状態で天を仰いでいる薄く蒼白く照らされた身体。大自然の中に溶け込む立ち居振る舞い。世界中にこれ以上美しいものが他にあるのだろうかとさえ思った。
ああ、やっぱり好きだ。なんだか、もはや俗な次元を超えて好きになっていた。僕はすっかり礼香さんに魅了されていた。
ただ、気になることがあった。天を仰いで雨に濡れてる礼香さんが泣いているようにも見えたのだ。