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五か月看病した婚約者に「恩着せがましい」と捨てられました。もう私がいなくても平気なのですよね?

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/19

「君に看病してもらったくらいで、一生、恩を返さなければならないのか」


 ロデリク様は、皆様の前でそうおっしゃった。


 療養院の庭で開かれた、小さな祝賀会だった。

 落馬で脚を負傷してから五か月。ロデリク様は杖を使えば長く歩けるまで回復し、まもなく療養院を出ることになっていた。


 白いテーブルには花が飾られ、近衛隊のご友人もいらしていた。

 彼の隣には、ご友人の妹君、シルヴィ様が座っている。


「違います。お戻りになる日程を、ご両親にもお知らせしてほしいと」


 私はそこまで言って、口を閉じた。

 ロデリク様が、大きく息を吐いたからだ。


「そうやって、また皆の前で世話を焼く。君は、僕一人では何もできないと言いたいのだろう」


 そんなことは思っていなかった。

 昨夜、彼から予定より早く退院すると聞き、お母様へ手紙を書いたら、知らなかったと返事が来た。

 迎えの馬車も、屋敷の部屋も、まだ準備されていないという。


 だから、ご自分で知らせてほしいと頼んだだけだった。


「母の名を出せば、僕が従うと思っているのか」


 シルヴィ様が、困ったように彼の袖へ触れた。


「せっかくのお祝いですもの。難しいお話は、また今度にしては?」

「そうだな。君は、セシルとは違って気が利く」


 私は、テーブルの端に置いた自分の手を見た。

 爪の横に、小さな傷があった。

 昨日、彼の荷物をまとめるために、旅行鞄の留め具を直したときのものだ。


「婚約は解消したい」


 顔を上げた。


「僕はもう回復した。いつまでも病人として扱われるのは、うんざりだ。恩着せがましい妻など欲しくない」


 周囲で、誰かが息をのんだ。

 彼はその静けさを、同意と受け取ったらしい。


「君も、婚約者の立場にしがみつくのはやめてくれ」


 私は口を開いた。

 けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


 彼に会いに行かなかった日は、五か月で何日あっただろう。


 痛みで眠れない夜に、同じ章を三度読んだ本。

 食事を残すので、厨房へ相談して変えてもらった献立。

 帰ろうとすると呼び止められ、夕食を食べ損ねた日。


 どれも、好きな人のために自分で選んでしたことだった。

 それが今、一生の恩を返せと迫ったことになっている。


「……承知しました」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


「両家の話し合いは、父を通してください」

「ああ。そうしてくれ」


 彼は、もうシルヴィ様を見ていた。

 これから乗馬を再開したら、皆で遠乗りへ行きたいと話し始めた。


 まだ、騎乗の許可は出ていない。


 言いかけて、やめた。


 私は自分の鞄を持ち、席を立った。


     *


 家へ帰る前に、庭の奥へ回った。


 玄関に馬車を呼べば、それでよかった。

 けれど、御者に顔を見られたら泣いてしまいそうだった。


 薬草園の横に、古い藤棚がある。

 初夏の花はもう終わり、葉の隙間から午後の光が落ちていた。


 腰掛けて、鞄を膝に置いた。

 口を開けると、ロデリク様に頼まれた品が入っていた。

 好きだとおっしゃった詩集。読みかけの頁に挟んだ栞。

 洗濯へ出しておいたハンカチもある。


 何をしに来たのだろう。


 鞄を閉じた。

 うまく閉まらず、もう一度、留め金を押した。

 三度目で、ようやく涙が落ちた。


 誰かの足音がして、私は顔を伏せた。


「そこへ座っても、いいでしょうか」


 聞き覚えのある声だった。

 療養院で、何度か顔を合わせた男性が立っていた。


 オスカー・ラゼル様。

 弟さんが入院されていて、見舞いに通っている方だ。


 最初に言葉を交わしたのは、窓辺で彼の弟さんが落とした色鉛筆を、私が拾ったときだった。

 それから会えば、挨拶をするようになった。


 私はうなずき、鞄を自分のほうへ寄せた。

 彼は腰掛けの反対側に座り、何も尋ねなかった。


 その沈黙がありがたくて、かえって涙が止まらなくなった。


 しばらくして、折り畳んだハンカチが差し出された。


「使ってください」

「……汚してしまいます」

「洗えるものですから」


 受け取って顔へ当てた。

 自分の鞄の中にも、何枚も入っている。

 けれど、それを取り出す気にはなれなかった。


「ルカ君は、お元気ですか」


 ようやく、そう尋ねた。

 彼の弟さんは十歳で、私が行くといつも、退院したら釣りへ行くのだと話していた。


「来週、家へ帰れます。今は、釣り竿を買う話ばかりで」

「よかった」


 言った途端、また涙が出た。

 彼は困った顔をせず、私が落ち着くまで待ってくれた。


 帰り際、馬車を呼んでもらうようお願いした。

 彼は立ち上がり、玄関の係へ声をかけてから戻ってきた。


「用意ができたら、ここへ知らせに来てくださいます」

「ありがとうございます。お見舞いの途中でしたのに」

「もう済んでいます。弟には、追い返されました」


 私が顔を上げると、彼は少し笑った。


「本を読んでいるから、兄さんも好きなことをしてきて、と」


 私には、その言葉がうまく飲み込めなかった。


 誰かを見舞ったあとに、好きなことをして帰る。

 そんな一日もあったのかと思った。


     *


 父は、私の話を最後まで聞いた。

 それから、今日はもう休みなさいと言った。


「ロデリクの家には、私から連絡する」

「お父様」

「お前があの男のもとへ戻りたいなら、話は別だが」


 首を振った。

 涙がまた出そうで、言葉にはできなかった。


 父は翌日、相手の伯爵家へ出向いた。


 婚約の解消は、六日後に正式に決まった。

 祝賀会に出席していた方々の証言もあり、先方からの申し出として扱われた。私に落ち度があるという説明は、父が認めなかった。


 ロデリク様のお母様からは、詫びる手紙が届いた。

 入院中の息子が、私に甘えすぎていたことに気づきながら、止めなかったと書いてあった。


『あなたまで毎日通わなくていいと、何度か申し上げました。けれど、息子が呼び止めるのを見ても、私は帰してあげなかった。それを、あなたの意思だけの問題にしてはいけませんでした』


 私はその手紙を、しばらく膝に置いていた。


 たしかに、休んでいいと言われたことはあった。

 けれど次の日に行くと、ロデリク様は不機嫌だった。


「昨日は退屈で仕方がなかった」


 そう言われると、また行かなければと思った。

 看護人に頼めることも、私がしたほうが喜んでもらえると、引き受け続けていた。


 彼が痛みで八つ当たりすることも、仕方がないと思った。

 自分の好きなことを我慢しているつらさが、私には分からないから。


 それでも、あの日の言葉まで、仕方がないとは思えなかった。


 返事には、お見舞いを終えることと、病室へ置いてある私の本や手仕事の道具を送り返してほしいと書いた。

 鞄に残っていた彼の品は、父に頼んで返した。


 婚約が解消されたあとも、療養院にいらした方から、噂が伝わってきた。


 彼を束縛した。

 療養中に尽くしたことを盾に、結婚を迫った。


 ロデリク様が、ご友人たちにそう説明しているらしかった。


 悪役令嬢という言葉まで、耳に入った。

 私は、窓を閉めた。


 机の上には、返されてきた画帳があった。

 植物を描いていたものだ。


 見舞いの合間に描こうと持っていったのに、最初の数頁しか埋まっていなかった。

 病室で広げると、そんなことをするなら話し相手になってくれと言われたから。


 私は、乾いて固くなった筆を水に浸した。


     *


 オスカー様と再会したのは、それから十日ほど後だった。


 お借りしたハンカチを返すため、私は療養院に手紙を預けていた。彼の連絡先を知らなかったからだ。

 彼から返事が届き、弟さんの退院後の診察に付き添う日に、庭で会うことになった。


 藤棚のそばで待っていると、先にルカ君が来た。


「セシル様、見て。歩いて来たよ」


 以前は、長い廊下を移動するときには椅子で運んでもらっていた。

 今日は自分の足で、兄の隣を歩いている。


「ええ。お帰りになれて、よかったですね」

「釣りはまだ駄目なんだって。だから、池の魚を見るだけ」


 少し不満そうに言ってから、ルカ君は庭の池を指した。

 彼らの家の侍女が、日傘を差して後ろからついてきていた。


 オスカー様が、弟さんへ声をかけた。


「あちらで待っていてくれるか。俺もすぐ行く」

「ゆっくりでいいよ」


 返事をしてから、ルカ君はなぜか私に笑いかけた。


 二人になって、私は包みを差し出した。


「ありがとうございました。助かりました」

「もう、お加減は?」

「私は病気では……」


 そこまで言って、黙った。

 彼は急かさなかった。


「よくなりました。あの日よりは」


 ようやく答えると、彼はうなずいた。


「それなら、よかった」


 帰ろうとして、鞄に画帳を入れてきたことを思い出した。

 あのころ、ルカ君に池の花を描いてほしいと頼まれていたのだ。


「弟さんに、これを」


 切り離した一枚を差し出した。

 家の庭の鉢を見て描いた、黄色い睡蓮だった。


「池のものとは、少し違うのですけれど」


 オスカー様は、紙の端を持って、しばらく見ていた。


「セシル様が?」

「ええ。趣味です」

「あいつが喜びます。……俺も、見せてもらっていいですか。他の絵を」


 鞄の中で、画帳の角に指が触れた。


「退屈ではありませんか」

「見たいので、お願いしています」


 私は、画帳を取り出した。


     *


 オスカー様は、男爵家の次男で、王都の水道局に勤めていた。

 図面に慣れているからか、私の絵を細かいところまで見た。


 最初の感想は、美しいでも、上手でもなかった。


「この葉の裏は、こんなに色が違うんですね」


 私は、思わず頁へ身を寄せた。


「そうなのです。表だけだと、全部同じように見えるのですけれど」


 そこで、話しすぎたと思って止まった。

 彼は画帳から顔を上げ、続きを待っていた。


 私は、おそるおそる次の頁を開いた。


 ルカ君が池から戻ってくるまで、花の話をしていた。

 帰り際、オスカー様は私の家へ手紙を出してもいいか尋ねた。


「ルカ君からのお返事ですか」

「それもあると思います。俺からも」


 何の手紙だろうと考えているうちに、彼が言った。


「植物園に、新しい温室ができたそうです。よければ、ご一緒しませんか」


 私はすぐには返事ができなかった。


「弟さんも?」

「弟は、もう少し体力が戻ってから連れていきます。今回は、あなたを誘っています」


 ルカ君が、兄の背後で侍女の手を引いた。

 少し離れていく足音が聞こえた。


「……どうして、私を」


 尋ねると、オスカー様は少しだけ言葉に詰まった。


「もっと話したいからです。療養院で会うときは、いつも時間を気にされていたので」


 私は、鞄を持ち直した。


「婚約を、解消したばかりなのです」

「はい」

「よくない噂も、あると思います」


 彼は私の顔を見た。


「少し聞きました。ですが、あの話だけで、セシル様がどんな方か分かったつもりにはなれません」


 断っても構わない、と彼は続けた。

 無理に今日決めなくてもいいと。


 私は、画帳の入った鞄を胸へ寄せた。


「行きたいです」


 言ってから、本当に行きたかったのだと分かった。


     *


 初めて二人で出かける日、私は鞄を二つ用意した。


 外出の約束は、前もって父にも話していた。

 父はオスカー様を応接間へ迎え、しばらく話してから、玄関へ出てきた私に声をかけた。


「楽しんでおいで」


 私はうなずいて、二つの鞄を持ち直した。


 一つには、画帳と鉛筆。

 もう一つには、予備のハンカチや裁縫道具、読み物、念のための薄い膝掛け。


 迎えに来たオスカー様が、それを見て尋ねた。


「泊まりがけでしたか」


 私は鞄を見た。


「いえ、その。何か必要になるかと」


 彼は笑わなかった。

 自分の肩に掛けた、小さな鞄を開けて見せた。


「俺も水と、雨具は持っています。重いものは置いていきませんか。植物園で足りなければ、係の人に聞きましょう」


 私は、二つ目の鞄を玄関に置いた。


 温室には、大きな葉の植物が並んでいた。

 案内係の説明を聞いていると、オスカー様が横から小声で尋ねる。


「今の名前、覚えられましたか」

「いいえ」

「俺もです」


 二人で、鉢の前の札をもう一度読んだ。


 奥の花を描いてもいいと許可をもらい、腰掛けに座った。

 オスカー様はそばに立っていたけれど、私が気にして顔を上げると、向こうも見てきますと言って歩いていった。


 彼を退屈させていないか、何度も気になった。

 けれど、戻ってきた彼は、水道管の通り道が面白かったと嬉しそうに話した。


「ここは冬でも暖かくするために、いろいろ工夫してあるそうです」


 私は、彼の指差すほうを見た。

 花ばかり見ていて、気づかなかったものがあった。


 昼の鐘が鳴ると、彼は画帳の邪魔にならないところへ紙袋を置いた。


「食堂へ行くなら、今が空いているそうです」

「もう少しで終わりますから、先にお食事を」


 言いながら、鉛筆を動かした。

 朝から何も食べていなかった。緊張して、朝食が入らなかったのだ。


 彼は画帳を閉じさせようとはしなかった。


「それなら、これを。食堂で買ってきました」


 紙袋には、小さな丸いパンが二つ入っていた。


「俺も一つ食べます。ここなら飲食していいそうなので」


 彼が先に食べ始めたから、私も鉛筆を置いた。

 一口かじると、急に空腹を感じた。


 あまりおいしくて、何も話さずに食べてしまった。

 彼は自分の分を食べ終え、私の絵の続きを見ていた。


「……すみません」

「何がですか」

「私、食べることに夢中で」


 オスカー様は不思議そうな顔をしたあと、笑った。


「よかった。選んだ甲斐がありました」


 私は残ったパンを見た。

 もう冷めているのに、喉の奥が温かくなった。


     *


 ロデリク様から、使いが来たのは、その翌月だった。


 私は応接間へ出なかった。

 両家の取り決めで、連絡は父を通すことになっていたからだ。


 父が受け取った手紙には、短く書かれていた。


『話がある。今度こそ二人で、落ち着いて話したい。

 屋敷へ来るなら、あのスープの作り方も持ってきてくれ』


 私は、その一行を何度も読んだ。


 あのスープは、療養院の料理人が作ったものだった。

 彼が食べやすいよう相談したことはあるけれど、私が調理していたわけではない。


「行く必要はない」


 父が言った。

 私はうなずいた。


「作り方は、療養院へお尋ねください。それだけ、お伝えいただけますか」


 父は手紙を畳んだ。


 彼が困っている事情は、後から先方の伯爵様に聞いた。

 ロデリク様は、予定どおりには近衛隊へ復帰できなかったのだ。


 退院そのものには、医師の許可があった。

 けれど、騎乗や遠乗りは別だった。


 彼はそれを無視して馬に乗り、脚の痛みがぶり返したため、復帰に向けた訓練を休むことになった。必要な訓練を終えられず、復帰審査は次の期へ延期された。

 近衛隊のご友人たちも、一緒に働く話を急がせるのはやめたそうだ。


 家には看護人も、料理人もいた。

 必要な世話がなくなったわけではない。

 ただ、夜遅くまで話を聞き、気分が変わるたびに予定を組み直す私が、いなくなった。


 シルヴィ様に会いに来てほしいと頼むと、彼女は見舞いにはいらした。

 けれど、午後にはご自分の約束へ出かけた。


「君なら、僕を一人にしないと思っていた」


 引き留めたロデリク様に、彼女は答えたという。


「セシル様が同じことをなさったら、恩着せがましいとおっしゃったではありませんか」


 彼女と婚約する話は、そもそも両家の間で進んでいなかった。

 彼だけが、私との婚約を解消すれば、その先があると思っていた。


 伯爵様は、父の前で頭を下げた。


「息子の甘えを、令嬢の献身で埋めさせていた。申し訳なかった」


 その席へ、私も呼ばれた。

 関係を戻す相談ではなく、流された噂の訂正について、私の希望を聞くためだった。


「皆様に、あの日のことを、そのままお伝えください」


 私は言った。


「私が結婚を迫ったのではなく、ロデリク様から婚約を解消したいとおっしゃったこと。それから、退院の日程をご家族へ伝えてほしいとお願いしただけだと」


 伯爵様は、必ずと答えた。


     *


 それから半月ほどして、療養院から封筒が届いた。

 院長先生のお名前で、秋の庭園公開へ招いてくださるものだった。


 毎年、退院した方やご家族を招き、寄付で整えた庭を公開している。

 私は返事を迷った。


 行けば、あの日の場所を通る。

 ロデリク様も来るかもしれない。


 オスカー様に話すと、彼のところにも案内は届いていた。


「ルカが行きたがっています。池の花がどうなったか、見たいそうで」


 私が描いた睡蓮は、額に入れて弟さんの机へ飾られているという。


「俺は、セシル様とも行きたいです。でも、別の日でも構いません」


 私は招待状を見た。

 庭園の片隅には、新しく花壇を作ったと書いてあった。


「行きます。ルカ君に、絵のお礼もいただきましたから」


 大きな魚を釣っている自分を描いた手紙を、もらっていた。

 岸には小さく、私とオスカー様もいた。


     *


 秋の庭は、夏とは違う色をしていた。

 ルカ君は、兄と私に池を見せると、侍女と一緒に知り合いの庭師のところへ走りかけた。


「走るなよ」

「分かってる」


 返事をして、今度はちゃんと歩いていった。


 私たちは、案内図を見ながら新しい花壇へ向かった。

 途中で、ロデリク様に会った。


 ご両親と一緒だった。

 そばには、あの祝賀会にいらした近衛隊のご友人もいた。庭園公開を手伝っているようで、案内図を何枚も腕に抱えている。

 ロデリク様は杖をついていたけれど、顔色は悪くなかった。


「セシル」


 名前を呼ばれて、足が止まった。

 オスカー様は私を見ると、少しだけ距離を空けた。

 すぐそばにはいるけれど、代わりに答えるつもりではないと分かった。


 ロデリク様の父君が、こちらへ礼をした。


「訂正は、あの席にいた者と、息子が話をした相手へ伝えました。遅くなって、申し訳ない」


 父からも聞いていた。

 手紙だけではなく、ロデリク様自身にも説明させたという。

 お祝いの席で、ロデリク様が恩着せがましいと切り捨てた私が、それまで何をしていたのか。ご友人たちも、改めて聞いたはずだった。


「ありがとうございます」


 私が答えると、ロデリク様は杖の握りを変えた。


「僕も、悪かったと思っている」


 声が低かった。


「君がいなくなってから、よく分かった。君は、僕を一番分かってくれていた」


 胸が、少し痛んだ。

 その言葉を、五か月の間に一度でも聞きたかった。


「もう一度、考えてくれないか」


 父君が口を開きかけた。

 私は、その前に首を振った。


「戻るつもりはありません」

「だが、君は」


 ロデリク様は、私の隣を見た。

 それまで黙っていたオスカー様が、一礼した。


「ラゼル男爵家のオスカーです」


 名を聞いて、ロデリク様の眉が寄った。


「あのときの、見舞いに来ていた……。もう、他の相手がいるのか」


 声に混じったものを聞き、私は顔を上げた。


「あなたと婚約していた間は、挨拶を交わしていただけです。今は、私がご一緒したくて、お会いしています」


 オスカー様のほうは、見なかった。

 見たら、最後まで言えなくなりそうだった。


「僕のためにしてくれたことは、何だったんだ」


 今度は、答えが出た。


「あのときは、好きでした」


 ロデリク様の口が止まった。


「だから、できることをしたかったのです。でも、これからも同じように好きでいてほしいとは、もうおっしゃらないでください」


「君にいてほしいと、今は言っているだろう」


 私は、鞄の持ち手を握った。


「退屈なときに、お話を聞くためですか。屋敷の料理人へ、献立を伝えるためですか」

「そうではない。君となら、これまでどおりに」

「私は、これまでどおりには暮らしたくありません」


 彼の言葉を、初めて途中で止めた。


「あなたが眠るまで本を読んで帰ると、家ではもう、夕食が片づいていました。次の日に何を描こうと思っていたのかも、忘れてしまっていました」


 彼は、私の鞄を見た。

 少しだけ口元が緩んだ。


「なら、屋敷で描けばいい。本を読む時間も、短くして……」

「その相談をできる相手と、これから一緒にいたいのです。私を人前で追い払ってからではなく」


 彼の口元から、笑みが消えた。


「いつかは、戻ってくれると思っていた」


 誰に言うでもない声だった。

 私は首を振った。


「ご自分から、私と結婚したくないとおっしゃいました。私は、それを受け入れました」


 彼はご友人へ目を向けた。

 その方は、何も言わなかった。


 彼は何か言おうとした。

 けれど父君が、その肩へ手を置いた。


「ロデリク。詫びるために来たのだろう」


 しばらくして、彼はうつむいた。


「……セシルが結婚を迫ったという話は、嘘だ。僕が、そう言っていた」


 隣のご友人にも聞こえる声だった。


「君が世話をしてくれるのを、当然だと思っていた。恩着せがましいと言ったのも、悪かった。すまなかった」


 私は彼の顔を見た。

 謝ってもらえれば、あの五か月が戻るわけではない。

 でも、私が何かを要求したせいで捨てられたのだという話には、もう、うなずかずに済む。


「お詫びは受け取りました」


 それだけを返した。

 彼は顔を上げたけれど、私は彼のそばへ戻らなかった。


 礼をして、歩き出した。

 振り返らなかった。


     *


 新しい花壇には、白や紫の花が植わっていた。


 私は立ち止まったけれど、何も見えていなかった。

 膝に力が入らず、案内図を持つ指が震えた。


「少し、座りたいです」


 言うと、オスカー様は近くの腰掛けを示した。


「あちらへ」


 座って、しばらく息を整えた。

 彼は隣に腰を下ろした。


「私、冷たかったでしょうか」


 尋ねると、彼はすぐには答えなかった。


「戻りたくないと、伝えていました」


 それだけ言って、膝の上の自分の手を見た。


「俺が何か言ったら、あなたの返事の邪魔になると思って、黙っていました。でも、怖くなかったわけではないです」


 私は、彼を見た。


「怖い?」

「戻ると、おっしゃるかもしれないと」


 彼は恥ずかしそうに笑った。


「すみません。これでは、今の話のあとに困らせてしまいますね」


 首を振った。


「さっき、私がご一緒したくてお会いしていると、言いました」

「はい」

「聞いていてくださいましたか」


 彼の顔が、少し赤くなった。


「聞いていました」


 私は、案内図を畳んだ。

 膝の上へ置くと、ようやく指の震えが小さくなっていた。


「今日は、私が少し甘えてもいいですか」


 オスカー様は、姿勢を正した。


「何をしましょう」

「手を、つないでいてほしいです」


 差し出された手に、自分の手を重ねた。

 彼は指を曲げ、私が離すまで待つように、静かに握った。


 風が吹いて、足元へ落ち葉が来た。

 私はそれを見ていた。


「セシル様」

「はい」

「俺は、あなたが好きです」


 手を、握り直した。


「初めから立派なことを考えていたわけではありません。弟に渡す色鉛筆を、一本ずつ削ってくださったでしょう。そのとき、もっと話してみたいと思いました」


 覚えていた。

 拾った鉛筆の芯が折れていて、そのままでは使えなかったのだ。


「それから、会うたびに。あなたがいつも時計を見て帰ってしまうのが、少し残念でした」


 彼の目を見た。

 ずっと、私の返事を待っている目だった。


「私は、まだ、すぐに結婚の約束はできません」

「はい」

「でも、これからも、お会いしたいです。あなたのことを、もっと知りたい」


 彼が笑った。


「俺もです」


 私は、つないだ手を見た。


「次は、あなたの好きな場所へ連れていってください」


 彼は真剣に考え始めた。

 それから、ためらいがちに答えた。


「水門でも?」


 私は、思わず笑った。


「見てみたいです。あなたが何を面白いと思うのかも」


 庭師のところから、ルカ君が戻ってきた。

 私たちの手を見て、一度立ち止まり、それから何も言わずに反対側へ座った。


「セシル様、来年の夏も、池の花を描いてくれる?」


 私はオスカー様を見た。

 彼は、私を見ていた。


「ええ。今度は、咲いているところを一緒に見ながら」


 答えてから、来年の夏を楽しみにしている自分に気づいた。


     *


 冬になるころ、オスカー様はあらためて父を訪ねた。

 私たちが会っていることは父も知っていたけれど、今度は、いずれ結婚することを望んでいると伝えるためだった。

 その話を父にしてもよいか、彼は前もって私に尋ねてくれた。私は、うなずいていた。


 私が伯爵家の娘で、彼が男爵家の次男であることを、彼は気にしていた。

 家を継ぐ予定はなく、いずれ結婚すれば、役所へ通える町の家で暮らすことになるとも説明した。


 父は、彼が帰ったあと、私の気持ちを尋ねた。


「私、あの方といると、お腹がすくのです」


 言ってから、説明になっていないと気づいた。

 けれど父は、少し黙って、それから笑った。


「それは、いいことだな」


 私はうなずいた。

 食べたいものがあり、見たい場所があり、描きたい花がある。

 彼と会う日は、自分の鞄に、自分の使うものを入れて出かける。


 ロデリク様からの使いは、もう来なくなっていた。

 父から、私の答えを最後の返事として伝えてもらったからだ。


 その後の復帰がどうなったか、私は知らない。

 先日、伯爵夫人から届いた便りにも、そのことは書かれていなかった。病室から返してもらった私の道具に、置き忘れたものはなかったかと、気遣う言葉があった。

 すべて届いていると返事を書き、最後に一行だけ添えた。


『ロデリク様にも、どうぞお元気でとお伝えください』


 今度は、その先の予定を尋ねなかった。


 翌日、私はオスカー様と川沿いを歩いた。

 約束していた水門を見に行くためだった。


 彼の説明は、少し長かった。

 途中から分からなくなって正直に伝えると、彼は慌てて、もっと短く言い直した。


「仕事の話になると、つい」

「また、少しずつ教えてください」


 彼は、嬉しそうにうなずいた。


 帰りに、どこで昼食を取るか相談した。

 私は温かい煮込み料理を、彼は焼き魚を食べたかった。


 店先の献立を見て、両方ある店を探すことにした。

 つないだ手を揺らしながら、私は通りの先をのぞき込んだ。


 ~完~


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