第1話:潮女が消えた無人の浜で、不死の少女と余命少年はシャッターを切る
西へ向かう道は、思っていたよりも長かった。
霊柩車のフロントガラスの向こうで、世界はゆっくりと色を変えていく。
山を抜け、街を外れ、高速道路の標識が「西行き」を示すたびに、「もう戻れない場所」からの距離が、少しずつ増えていく気がした。
シズクは、ほとんど喋らない。
運転席でじっと前を見つめ、時折ナビ代わりに紙の地図をちらりと見る。その姿は、タクシー運転手というより、どこか葬列を先導する司祭のように見えなくもなかった。
「眠かったら寝てていいわよ」
窓の外の景色に見入っていると、不意にシズクが言った。
「今のうちに、休んでおきなさい。夕暮れまでには着くから」
「どこに?」
「海」
それだけを告げて、彼女はまた黙り込んだ。
◆
目を覚ましたとき、車内はオレンジ色の光で満たされていた。
霊柩車が止まっている。
エンジンは切れていて、わずかな潮騒の音だけが、車体の外から響いてくる。
「着いたわよ」
シズクが後部ドアを開けると、冷たい潮風が一気に吹き込んできた。
目の前には、海が広がっていた。
観光地のような派手さはない。
どこまでも続く、灰色がかった砂浜。
遠くに、小さな防波堤の影が見えるだけで、民家も店も何もない。
人の気配が、まるでなかった。
波の音と、風が砂を撫でる音だけが、世界を占めている。
「……本当に、誰もいないんだな」
「今はね」
シズクは、海風に銀髪を揺らしながら言った。
「千年前は、ここに小さな漁村があったの。
家が十軒もないような、小さな村。
それでも、朝になれば男たちが船を出し、女たちが浜で網を繕っていた」
彼女の声に合わせるようにして、僕の頭の中に、見たことのない風景が浮かび上がる。
「その海を、見守っていたアンデッドが、『潮女』」
「潮の、女?」
「そう。
彼女は、海で死んだ人の魂を拾うのが仕事だった。
嵐で沈んだ船。
遠くの異国から流れ着いた見知らぬ遺体。
深いところに沈んで、誰にも見送られなかった骨」
砂浜に足を踏み入れると、細かな砂粒がスニーカーの中に入り込んだ。
空は茜色で、太陽はもう海の縁に片足を浸している。
「シオメは、美しい歌声を持っていた。
彼女の歌声を聞いた魂は、迷わず天に昇ることができると言われていたの」
シズクは、まるで昔話を語る老人のように、淡々と続ける。
「漁から戻らない船があると、村人はこの浜に集まって、潮女の歌を聞いた。
帰ってこない夫のために。
帰ってこない息子のために」
波の音に、かすかに女の声が混じるような錯覚を覚えた。
「彼女は、ある日突然いなくなった」
「いなくなった?」
「朝、誰かが浜に来たら、いつも座っていた流木の上が空っぽだった。
歌声も、潮の香りも、なにもかも、いつも通りだったのに。
彼女だけが、まるごと消えていた」
海は、変わらない。
浜辺の形も、波の高さも、空の色も。
変わらないからこそ、そこからいなくなったものの輪郭だけが、くっきりと残る。
「シオメも、『存在の忘却』を選んだのかもしれないわ」
シズクは、波打ち際で立ち止まる。
靴の先に、白い泡が触れては引いていく。
「誰かに覚えていてもらうことは、ときどき、とても苦しいから」
彼女の横顔は、夕焼けの光を浴びて、ほんのりと赤く染まっていた。
銀髪も、瞳の赤も、いつもより柔らかく見える。
僕は、少しだけ躊躇してから、口を開いた。
「シズクは、どうして……そんなに、みんなのこと覚えてるんだ?」
「仕事だから」
即答だった。
「それに──」
そこで彼女は、ほんの少しだけ言葉を区切る。
「覚えていないと、自分が何者なのかも分からなくなるのよ。
人間の人生を、何百、何千と見ているとね」
海の色が、ゆっくりと藍色に変わっていく。
太陽は、今にも水平線の向こうへ沈もうとしていた。
「ねぇ、陽斗」
「ん?」
「写真、撮って」
「……は?」
思ってもみなかった言葉に、思わず変な声が漏れる。
「この海と、あなたと、私と。
今ここにいるっていう証拠」
シズクは、あくまで真顔で言った。
「そういうの、嫌いじゃないのよ。
人間の『記録』ってやつ」
「……いや、僕が言おうとしてた」
「じゃあ、ちょうどよかったわね」
珍しく、彼女の口元に分かりやすい笑みが浮かんだ。
スマホを取り出し、カメラを起動する。
久しぶりに見るカメラアプリの画面に、自分の顔が映る。やつれた頬、少し青白い肌。それでも、入院中よりはいくらか血色が良くなっている気がした。
「並べばいいの?」
「そう。
ほら、もうちょっと寄って」
シズクが僕の肩に軽く触れる。
その手はやはり冷たかったが、今はそれが妙に心地よかった。
背後には、オレンジ色に染まる海。
画面の中で、僕とシズクが並んでいる。
あり得ない取り合わせだ、とふと思う。
死にかけの高校生と、不死のアンデッド。
「撮るぞー」
「早くして。太陽が沈んじゃう」
シャッター音が、カシャ、と軽く響く。
画面を確認すると、そこにはちゃんと、二人分の顔が映っていた。
僕は、思わずホッとしたように笑う。
「よかった……」
「なにが?」
「いや、なんかさ。
吸血鬼とか幽霊って、鏡や写真に映らないみたいなイメージあるだろ。
もしかして、シズクもそうなのかなって」
「へぇ」
シズクは、スマホを受け取り、画面をじっと覗き込んだ。
「映ってる……」
彼女の表情が、いつもと違う意味で無表情になる。
「鏡には、普通に映るから。
でも、なんとなく、『私は写してはいけないもの』だって思い込んでたのかもしれない」
「ただの迷信だったってことだな」
「迷信が、全部間違いとも限らないけどね」
そう言いながらも、シズクは自分の映った写真から、なかなか目を離そうとしなかった。
「……変な感じ」
「なにが?」
「時間が、閉じ込められてる。
私が写った『ある瞬間』が、ここに固定されてる」
彼女は、指先で自分の映った部分をそっとなぞる。
「私、こういうふうに自分を見るのは、ほんとに久しぶり」
「嫌か?」
「いいえ。
不思議だけど、悪くない」
海の風が、画面の中の二人には届かない。
夕日の光も、波の音も、そこにはない。
それでも、確かに「ここにいた」証拠が、手の中に残っている。
「こうして証拠を残しておけば、僕が本当にシズクと旅をしたことが分かるだろ」
僕は、笑いながら言った。
「病院からもいなくなって、突然死んだって言われたらさ。
きっと誰も信じない。
『不死の少女と一緒に心霊スポットを巡ってた』なんて話」
「誰に信じてもらいたいの?」
シズクの問いは、するどかった。
「……さあ」
口ごもる僕に、彼女は視線を戻す。
「陽斗。
あなたが死んだあと、このスマホはどうなると思う?」
「どうって……」
「いつか壊れる。
バッテリーが膨らんで、画面が割れて、データは読めなくなる。
それが早いか遅いかの違いだけ」
シズクは、淡々と言う。
「たとえクラウドにバックアップしたって、そのサービスが永遠に続く保証なんてない。
サーバーが止まれば、世界中の写真は一瞬で消える」
言われてみれば、当たり前のことだ。
でも、それを千年単位で生きてきた存在に言われると、途端に重みが変わる。
「だから、結局、忘れられる。
あなたと私がここにいたことも。
この海も。
シオメも」
彼女の声は冷たかったが、その瞳の奥には揺らぎがあった。
「それでも、撮る?」
僕は、スマホを見つめた。
画面の中の僕は、どこかぎこちない笑顔を浮かべている。シズクは、ほとんど表情を変えていない。それでも、二人の距離はたしかに「隣」だった。
「撮るよ」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「たとえ壊れても、消えても。
今、この瞬間は、確かにあったから」
潮風が、少し強く吹いた。
砂が舞い上がり、頬に当たる。
「それに」
僕は、海の方を見た。
「もしかしたら、誰かが偶然このデータを見つけるかもしれないだろ。
何十年後か、何百年後かに。
そのときに、『こんな馬鹿なことしてた人間がいたんだ』って、誰かが笑ってくれれば、それでいい」
シズクは、しばらく何も言わず、僕を見つめた。
茜色に染まる赤い瞳が、いつもより深く見える。
「本当に、人間は面白い」
やがて、彼女は小さく呟いた。
「有限だからこそ、そんな賭けができる。
消えることが分かっていても、残そうとする」
沈みゆく太陽が、海と空の境界線を溶かしていく。
やがて、光は細い糸になり、最後の残光を海に落として、完全に姿を消した。




