第5話:千二百年前の疫病村と、選ばれた少女の決断
廃病院をあとにするとき、夜空にはうっすらと雲が広がっていた。
星の光は、その向こうでぼんやりと滲んでいて、まるで視力検査のときに見えるぼやけたランドルト環みたいに見える。
霊柩車は山を下り、高速道路の入り口へと向かう。
夜のインターチェンジは、昼間とは違う顔をしていた。オレンジ色のライトが、アスファルトを柔らかく照らし、遠くを走るトラックのライトが流星みたいに過ぎていく。
「西に行くわよ」
シズクが宣言する。
「西?」
「日本列島の。
このあたりからだと、海が見えるまで、けっこう走るでしょう?」
彼女の声には、ほんの少しだけ高揚感が混じっていた。
不死の少女にも、旅への期待なんてものがあるのかと、妙におかしくなる。
「その前に、ちょっと寄り道」
ハンドルを切り、霊柩車はサービスエリアの出口へと滑り込んだ。
◆
深夜のサービスエリアは、奇妙に明るかった。
人影はまばらなのに、コンビニのガラス越しには煌々とした光がこぼれ、フードコートの看板が空しく光り続けている。
長距離トラックが何台も並び、運転手らしき男たちが自販機の前で缶コーヒーを飲んでいる。そのどれもが、僕と目を合わせることはなかった。
「降りて」
シズクが運転席から降りながら言う。
「君も、来るの?」
「当たり前でしょう。
人間の世界の『夜の食事』、けっこう好きなのよ」
そう言って、彼女は当たり前のような顔で自動ドアをくぐる。
フードコートはすでに閉まっていたが、コンビニだけは二十四時間営業だった。
店内に足を踏み入れた瞬間、蛍光灯の光に目が痛む。
ついさっきまで廃病院の闇の中にいたせいで、その文明の光がやけに攻撃的に感じられた。
「なにが食べたい?」
シズクは、スナック菓子やホットスナックの棚を興味深そうに眺めながら言う。
「僕は、別に……」
「じゃあ、私の分だけでいいわね」
彼女は、ほとんど迷いなく棚からいくつかの商品をピックアップしていく。
カレーパン、からあげクン、肉まん、ポテトチップス、プリン、ペットボトルのココア。
「あのさ」
思わず口を挟む。
「そんなに食べられる?」
「食べるわよ」
シズクは当然のように頷く。
「人間の食べ物は、魂ほどの栄養にはならないけど、退屈しのぎにはちょうどいいの。
味も、匂いも、食感も、毎時代ごとに少しずつ違うから」
「毎時代ごとに」という言葉の重さに、また胃が軽く締まる。
「お会計、お願い」
シズクは、僕の方を向きもせずに言った。
「えっ」
「人間の世界のお金、今は持ってないのよ」
僕はため息をつき、財布を取り出した。
入院生活で使い道のなかった紙幣たちが、ここでようやく姿を現す。
レジの若いアルバイト店員は、僕たちを興味なさそうに見て、ロボットのような声で金額を告げた。
「ちょうどお預かりします」
レシートを受け取りながら、ふと、これが自分の「最後の買い物」かもしれないという考えがよぎった。
くだらない。
でも、くだらないことほど、心に刺さる。
◆
霊柩車の後部で、二人向かい合って座る。
扉は少しだけ開けてあり、冷たい夜風がひゅう、と吹き込んでくる。
「はい、これ」
シズクがカレーパンをひとつ渡してきた。
「僕の分も?」
「もちろん。
『最期の願い』を叶えるんだから、最後の夜食もちゃんと食べさせてあげないと」
「……優しいんだか、ひどいんだか分からないな」
カレーパンの衣は、しっとりとしていて、噛むと中から温かいカレーが溢れ出す。
病院食の味気ないカレーとは、まるで別物の、安っぽくて強引な味。
おいしい。
たったそれだけの感想が、妙に胸に刺さる。
「ねぇ、シズク」
「なに?」
「君は、どうやってアンデッドになったんだ?」
ずっと気になっていたことを、ようやく口にする。
シズクは、肉まんをひとかじりしたまま、少しだけ目を細めた。
「千二百年前。
疫病が流行っていた村があったの。
山あいの、小さな村。
誰も来ない、誰も出て行けない、閉ざされた場所」
夜のサービスエリアの明かりが、彼女の銀髪にオレンジ色の輪郭を描く。
「村人は、次々に倒れた。
子どもも、大人も、老人も。
みんな、同じ熱に冒されて、同じ咳をして、同じ色の痰を吐いて死んでいった」
彼女の声には、風景をそのまま切り取ったような静けさがあった。
「私は、最後まで生き残った。
なぜか、私だけが、その病にかからなかった」
「……それは、よかったのか?」
「さあね」
シズクは、あっさりと首を振る。
「村人たちは、最後の方は私を見る目が変わっていった。
『あの子が疫病神だ』って。
『あの子がいるから、私たちは呪われたんだ』って」
肉まんの湯気が、彼女の指先の上でゆらゆらと揺れる。
「両親も、最後には私を抱きしめてくれなかった。
恐怖と、憎しみと、あきらめ。
私は、それらを一人で見続けた」
千二百年前の村の煙の匂いが、ふと鼻の奥を刺激する気がした。
ありえない幻覚。それでも、映像は鮮明に脳裏に焼き付く。
「だから、川に行ったの。
村はずれの、よく星が見える川原。
子どもの頃から、そこだけが好きな場所だった」
星。
その言葉に、胸の奥がわずかに反応する。
「私は、そこで決めた。
『神様なんていない。いるなら、こんな世界にはしない』って。
だから、自分で終わらせようと思った」
シズクは、プリンの蓋を器用に剥がしながら続ける。
「川に身を投げる前に、星を見上げた。
あまりにも、きれいだった。
誰もいない世界に残された、たったひとりの生き残りのために、星はいつも通り光っていた」
スプーンでプリンをすくい、その先端をじっと見つめる。
「そのとき、彼が来たの」
「彼?」
「その時代の『アンデッド』」
シズクの赤い瞳が、ほんの少し遠くを見た。
「彼は私に言った。
『あなたは、呪われているのではない。選ばれているのだ』って」
「どっちも似たようなもんだろ」
「そうね。
でも、その時の私には、それが救いに聞こえたの」
プリンをひと口、口に運ぶ。
その表情に変化はないが、どこか満足そうに見えるのは気のせいだろうか。
「『あなたの村は、誰も覚えていない。
でも、あなたがアンデッドになれば、その記憶を誰かに繋げることができる』
彼はそう言ったわ」
僕は、カレーパンを握りしめたまま、息を呑む。
村の記憶。
疫病で死んだ人たちの声。
笑い声も、泣き声も、怒鳴り声も。
そのすべてを、たった一人で抱えて生き続ける存在。
「私は、その手を取った。
死ぬのをやめて、死なない存在になることを選んだ」
夜風が、彼女の銀髪をさらりと揺らす。
「それから千二百年。
私は、ずっと見てきた。
戦も、飢饉も、流行病も、人間の愛も憎しみも。
でもね」
シズクは、小さく笑った。
「星だけは、いつもどこか同じなの。
何千年見ていても、いつも少しずつ違う顔を見せてくれるけれど、根っこは変わらない。
だから、私は星が好き」
その言葉は、僕の胸にまっすぐ突き刺さった。
「陽斗は?」
「え?」
「あなたは、なにが好き?
なにを、見て生きてきたの?」
僕は、しばらく口を閉じたまま、空を見上げた。
サービスエリアの駐車場から見える星は、街の明かりに邪魔されている。それでも、いくつかの星座は分かる。
「……星、かな」
「へぇ」
シズクが、少しだけ目を見開く。
「病院の屋上から、よく見てた。
夜中に眠れなくなったとき、こっそり抜け出して。
誰もいない、真っ暗な屋上で、一人で星を見てた」
言葉にしてみると、それは驚くほどささやかな思い出だった。
「学校にもほとんど行けなかったし、友達もいなかったし。
でも、星は、いつも同じところにあった。
病院が変わっても、季節が変わっても、夜の空だけは、裏切らなかった」
だから、星が好きだった。
だからこそ、死ぬ前にもう一度だけ、星空をちゃんと見たいと、どこかで感じていたのかもしれない。
「私も星は好きよ」
シズクが、当たり前みたいに言う。
「何千年見ていても、飽きない。
同じ星が、違う人間の上に落ちていくのを見るのが、面白い」
「違う人間の、上に?」
「そう。
千年前の誰かが見上げた星を、今、陽斗が見てる。
陽斗が死んだあと、その星を、また違う誰かが見る。
そうやって、星はずっと、人間を見守っている。
人間は、それに気づかないまま、勝手に生まれて、勝手に死んでいく」
冷たい言葉なのに、不思議と温度があった。
「ねぇ、外に出ましょう」
シズクは、そう言って霊柩車から降りた。
駐車場の隅。
灯りの届きにくい場所まで歩いていくと、空の星は、さっきよりもはっきりと見えた。
冬の星座。
オリオン。シリウス。プレアデス。
息を吐くと、白く曇る。
その白が、星の瞬きと重なって、一瞬だけ空に溶けて消える。
「……きれいだな」
思わず呟くと、隣でシズクが小さく笑った。
「陽斗」
「なに?」
「あなたがこの先の人生で見られるはずだった星空を、私はたぶん全部見てきたし、これからも見るわ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「でも、この旅で、少しくらい取り戻せるかもしれない。
本来なら、あなたが二十歳で見るはずだった星。
三十歳で見るはずだった星。
恋人と一緒に見るはずだった星。
子どもに教えるはずだった星」
シズクは、夜空から僕に視線を戻した。
「それを、全部じゃなくても、いくつか、あなたに見せてあげたい」
不死の少女の瞳に、星空が映り込んでいる。
赤い虹彩の中で、小さな星々が瞬いている。
僕は、その光景から目をそらせなかった。
*ああ。*
そのとき初めて、はっきりと自覚した。
*僕は、まだ生きたいんだ。*
余命三ヶ月と言われて、諦めたつもりでいた。
でも、こうして星空を見ていると、「まだ見たい」と思ってしまう。
もう少しだけ。
あと少しだけでいいから。
この奇妙で、歪んでいて、でも眩しい世界を。
「……ありがとう」
気づけば、そう呟いていた。
シズクは、少しだけ驚いたように目を瞬き、それからほんのわずかに微笑んだ。
「いいのよ。
どうせ、あなたは最後に私のごはんになるんだから」
冗談とも本気ともつかない言葉。
でも、その軽口が、なぜかひどく心強く感じられた。
夜のサービスエリアに、トラックのエンジン音が低く響く。
僕とシズクの影が、アスファルトの上で細長く伸びて、夜風に揺れていた。




