第4話:廃病院に眠る火鳥という名のアンデッド
霊柩車の窓ガラスには、僕の顔と、夜の森が二重写しになって映っていた。
痩せこけた頬の上に、黒い木々の影が縞模様を描く。まるで、自分自身がすでに棺の中に横たわっているみたいな光景だ。
「どこに行くんだ?」
運転席との仕切りはない。声をかければ、すぐに届く距離。
シートベルトは締めていない。こんな車で事故に遭っても、もう笑うしかないけれど。
「廃墟になった精神病院」
シズクの答えは、あまりにも自然だった。
「昔は、山奥の結核療養所だったけど、そのあと精神科病院になって、最後は誰にも使われなくなった。
今は、心霊スポットって呼ばれてるわ」
テレビで見たことがあるような、ないような場所。
夜中に若者が肝試しに行って、噂話をネットに書き込むタイプの廃墟だ。
「なんで、そんなところに?」
「そこにね、『火鳥』が眠っているから」
聞き慣れない名前に、僕は首を傾げる。
「火鳥?」
「私の仲間。アンデッドの一人。
六百年前に、この国で『火』を扱うアンデッドとして活動していた女の子」
六百年前。
その数字の重さは、病室の時計の秒針よりも現実味がなかった。
「彼女はね、焼かれた人たちの魂を集めて、空へ送っていたの。
戦火、火事、火刑。
炎の中で形を失った体には、ちゃんと居場所を用意してあげないといけないでしょう?」
声には淡々とした響きがあるのに、言葉の内容はこの世ならざるものばかりだった。
「火鳥は、優しかったわ。
特に、心を壊した人たちに対して」
「心を、壊した人たち?」
「精神病院って、そういう人たちが集められる場所でしょう?
この廃病院がまだ生きていた頃、彼女はよくここに来て、患者たちの隣で炎を灯していた。
小さな炎を。彼らが暗闇に飲み込まれないように」
シズクの横顔が、フロントガラスにぼんやりと映る。
表情は、やはり薄い。けれど、火鳥のことを語るその声には、かすかな温度差があった。
「六百年前から……今まで?」
「いいえ。アンデッドもね、いつまでも同じ形ではいられないの」
シズクは、カーブを曲がりながら言った。
「私たちは死なない。
でも、忘れられる」
その言葉は、深い井戸の底から響いてくるようだった。
「忘れ、られる?」
「陽斗、人間の世界には、名前も墓も残っていない人がどれくらいいると思う?
家族さえその存在を忘れてしまった人たち。
歴史の紙からはみ出した、無数の顔のない骨たち」
シズクの声が、わずかに低くなる。
「アンデッドも同じよ。
どれだけ長くこの世界にいても、誰にも覚えていてもらえなくなったら──
私たちの存在は、少しずつ世界から剝がれていく」
そのイメージが、妙にくっきりと頭の中に浮かんだ。
壁紙が、年月とともに少しずつ剥離していくように。ペンキがはがれて、下地がむき出しになるように。
「それを、私たちは『存在の忘却』って呼んでいる」
「存在の……忘却」
言葉にすると、やけに冷たい響きがあった。
「火鳥はね、六百年前に、最後の人間に看取られて、ここで眠りについた」
霊柩車の速度が、わずかに落ちる。
山道の先に、建物の影が見え始めていた。
「『私のことを覚えていてくれる人が、もう誰もいない』って。
だから、最後にたった一人だけ、彼女を覚えている人間の隣で、静かに炎を消したの」
シズクの言葉は、鋭くも淡い。
「それ以来、彼女の名前を呼ぶのは、アンデッドだけ。
人間の世界から、火鳥という存在は完全に消えた。
でも、私たちの間では、まだ彼女は『眠っている』ことになっている」
「じゃあ、君は……」
「私は覚えてる。
だから、彼女はまだ、私の中では死んでいない」
その瞬間、胸の奥がきゅっと縮むような痛みを覚えた。
*忘れられたら、消える。*
それは、人間にも当てはまる真理だ。
有名人も、無名の誰かも。
名前を呼ばれた最後の瞬間から、ゆっくりと「存在の忘却」は始まる。
僕は──僕のことを、誰がどれだけ覚えていてくれるだろう。
母と、父。
担当医。
もしかしたら、何度か同じ病室になった患者。
それ以外に、誰がいた?
友達の顔が、一人も浮かばない。
教室の風景も、文化祭の記憶も、卒業アルバムのページも、すべてが空白だ。
学校は、ほとんど行けなかった。
行けても数日で倒れて、また病院に戻る。その繰り返し。
気づいたら、出席日数は足りなくなっていた。
僕の十八年は、ほとんどこの国道から見える病院の中で終わっている。
そんな僕を、誰が覚えている?
誰が、何年後かにふと名前を思い出して、胸のどこかを痛める?
考えるほど、答えは薄くなっていく。
「怖い?」
不意に、シズクの声が降ってきた。
「人に、忘れられるのが」
僕は、言葉を詰まらせる。
「怖くない」と嘘をつくには、あまりにも間が悪かった。
「……分かるのか、そういうの」
「分かるわ」
シズクは、あっさりと言った。
「だって、私もそうだから」
霊柩車は、山の斜面を削るようにして建てられた巨大な建物の前に、ゆっくりと止まった。
コンクリートの塊。窓ガラスはほとんど割れていて、黒い穴がいくつも口を開けている。
病院。
でも、生きている人間の匂いは、もうどこにもない。
「着いたわ」
エンジンが止まり、世界から一瞬、音が消える。
その静寂の中で、僕の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
◆
廃病院の中は、思ったよりも冷たくなかった。
湿った空気と、古い薬品の匂いと、カビの臭気が、薄く混じり合っている。
床にはガラス片と紙切れが散乱していた。
「面会時間」のプレート、破れたカルテ、汚れたマスク。
過去にここで何千回も繰り返されたであろう「日常」の、劣化した断片。
シズクは、迷いなく廊下を進んでいく。
僕はその後を、ふらつく足取りで追いかける。
「ここにはね、たくさんの魂が残ってる」
彼女は、軽い調子で呟いた。
「でも、ほとんどは静か。
時間が経って、形をなくして、ただの『気配』になっている」
病室の扉をひとつひとつ、軽く指で叩いていく。
トン、トン、と乾いた音。その度に、目に見えない何かがわずかにざわめく気がする。
「怖いかしら?」
「……正直、怖さを感じる余裕は、あんまりない」
自分でも驚くほど、素直な言葉が口から出た。
死が、あまりにも近くにあると、幽霊の存在なんて、逆にぼやけて見える。
シズクは、一番奥の病室の前で足を止めた。
扉には、かすれたペンキで「重症隔離病棟」と書かれている。
「ここ」
彼女は、そっとドアを押した。
蝶番が軋み、暗闇が口を開ける。
中に入ると、壁一面に鉄製のベッドが押し込められていた。
そのひとつひとつに、番号が振られている。
窓は厚い鉄格子で覆われ、外の光はほとんど入ってこない。
シズクは、その部屋の中央に立ち、目を閉じた。
空気が、ゆっくりと変わっていく。
気温は変わらないはずなのに、肌に触れる空気の密度が増していくような感覚。
胸の奥で、胸骨の裏側を、なにか冷たい指がなぞるような。
「火鳥」
シズクは、静かにその名を呼んだ。
「来たわよ。久しぶり」
返事はない。
でも、気配があった。
誰かが、遠くからこちらを見ているような。
誰かの笑い声が、耳の奥でかすかに反響するような。
「彼女はね」
シズクは、目を閉じたまま言葉を紡ぐ。
「この病院がまだ動いていた頃、いちばん苦しい人の隣に座って、一晩中話をしていたの。
『あなたは悪くない』って。
『あなたが弱いわけじゃない』って」
空気の密度が、さらに濃くなる。
息を吸うのが、少しだけ難しくなる。
「でも、誰も彼女のことは覚えていない。
この病院の職員も、患者も。
彼女の名前を呼べるのは、もう私たちだけ」
シズクは、軽く笑った。
「それでいいって、彼女は言っていたわ。
『私はあなたたちアンデッドの記憶の中でだけ、生きていればいい』って」
僕は、その言葉の残酷さと優しさに、胸を締め付けられる。
*誰かの記憶の中だけで生きる*。
それは、死と生の中間に引き伸ばされた、細い綱の上を歩き続けるようなものだろう。
もし僕が死んだあと、誰にも覚えられなかったら。
僕の人生は、それでも「あった」と言えるのか。
ふと、シズクがこちらを振り向いた。
「陽斗。あなたが死んだあと、誰もあなたのことを覚えていなくても、ひとつだけ保証してあげる」
赤い瞳が、暗闇の中でまっすぐ僕を射抜く。
「私が、あなたの魂を食べる。
そうすれば、あなたは私の中で数千年は生き続けられる。
火鳥と同じように」
その言葉に、僕は一瞬、呼吸を忘れた。
彼女の中で生き続ける。
彼女の見ている世界を、僕も一緒に見続ける。
それは、あまりにも異常で、あまりにも魅力的な提案だった。
「……君の中で、僕は……どうなるんだ?」
「私の記憶の一部になる。
笑い方、泣き方、好きなもの、嫌いなもの。
この旅で見た景色。
全部、私の中で混ざり合って、ひとつの『陽斗』になる」
シズクは、小さく首を傾げる。
「それが怖い?
自分じゃなくなっていくみたいで」
僕は、しばらく考えた。
「自分」が何でできているのかなんて、今まで深く考えたことがなかった。
病気になったのも、入院生活も、いつか「治れば」忘れてしまうはずの一時的な異常だと、どこかで信じていたから。
でも、もう治らない。
この「異常」こそが、僕の人生の大部分だった。
「……分からない」
正直にそう言うと、シズクはほんの少しだけ目を細めた。
「分からないって言える人間、嫌いじゃないわ」
火鳥の眠る病室の真ん中で、彼女はそっと床に手を触れた。
その指先から、かすかな光がにじみ出す。
青くもなく、白くもなく、淡い橙色の、炎の残り香みたいな光。
「火鳥。
私はまだ、あなたのことを忘れてない。
だから、もう少しだけ、眠ってて」
光は床に吸い込まれ、部屋の空気がゆっくりと解けていく。
さっきまで重く圧し掛かっていた密度が、もとの薄さに戻る。
僕は、知らない誰かのために、そっと頭を下げた。
「……なにしてるの?」
「なんとなく。
ここにいた人に、失礼かなって」
「そう」
シズクは、少しだけ微笑んだように見えた。
「じゃあ、あなたにもひとつ、約束しておく」
彼女は、僕の目の前まで歩み寄り、右手を差し出した。
「これから、心霊スポットと呼ばれる場所を巡って、かつての仲間たちに挨拶をする旅をするつもり。
付き合う?」
その手は、相変わらずひどく冷たそうだった。
でも、伸ばされた手を無視できるほど、僕は強くなかった。
余命三ヶ月。
その言葉はいまだに、胸の奥で鈍く光っている。
けれど、それ以上に。
*誰かが、僕を「一緒に来い」と言った。*
それは、十八年の中で数えるほどしかなかったやさしさだ。
「……余命が、尽きるまで」
僕は、その手を取った。
氷みたいな冷たさが掌に走る。でも、その奥には、微かな脈のようなものがあった。
彼女には心臓がない、とあとで知るのだけれど。
それでも、確かに何かが「ここにいる」と主張していた。
「約束ね、陽斗」
廃病院の外では、風が、遠くの木々を揺らしていた。
静かで、誰にも祝福されない約束だったけれど、それは紛れもなく、僕の人生で一番「濃い」約束になった。
こうして、僕と不死の少女の「心霊巡礼の旅」が、本当に始まった。




