第3話:不死の少女と交わした三ヶ月の契約
国道を離れて、霊柩車は郊外の道を走る。
窓の外の風景は、あっという間に減っていく街灯と、闇に沈む山影に塗り潰されていく。
後部座席からは、運転席に座る彼女の後ろ姿が見えない。
声だけが、ときどき、暗闇を横切る。
「ねぇ、名前は?」
唐突に、彼女が尋ねた。
まるで受付のような、事務的な口調。
「……佐倉、陽斗」
「ヨウト。いい名前ね」
褒めているのかどうかも分からない声音だった。
僕は窓ガラスに額を預け、流れていく闇をぼんやりと眺める。
「君は?」
「私は、シズク」
ほんのわずかに、棘のない柔らかさが混じった声。
「名字は?」
「必要ないから、捨てたわ」
それきり、彼女は黙った。
エンジン音だけが、一定のリズムで車内を満たす。
しばらくして、僕はたまらず口を開いた。
「さっきの……『死にに来たの?』って」
「うん」
「あれ、なんで……分かったの?」
自分の声が、乾いている。喉が張り付いて、言葉の形をうまく作れない。
前方から、くすりとも言わない声が飛んできた。
「ここ、そういう人が多いから」
「……ここ?」
「夜中に、病院から抜け出して、国道をふらふら歩いて、車の前にふっと現れる人たち。あなたで、そうね……三百二十四人目くらいかしら」
さらりと言われて、背筋が冷たくなった。
三百二十四。
それほどの数の「僕」が、この道をさまよってきたというのか。
「そんなに、いるのか……」
「いるわよ。死ぬのって、面倒だから」
あまりにもあっけらかんとした言い方に、思わず眉をひそめる。
「……面倒?」
「そう。死ぬって、すごくエネルギーがいるの。生まれる時と同じくらい。
だから、人間はよく迷う。自分で終わらせるか、他人に終わらせてもらうか。それとも、何もしないで、ただ流されるか」
シズクの声には、どこか他人事のような冷たさがあった。
「あなたは、自分で選びたかったんでしょう?
誰かの手で終わるにしても、『誰か』を自分で選びたかった。だから、私の車の前に出てきた」
心臓がドクンと鳴る。
図星を刺されると、痛みは二倍になるんだな、と妙に冷めた頭の一部が分析していた。
「……偶然じゃ、ないの?」
「あなたの病院、この道沿いにあるでしょう?」
「ああ……」
「私は毎晩、この時間にここを通るの」
「……毎晩?」
「仕事だから」
その「仕事」という言葉が、妙に引っかかった。
僕はシートに背中を預け、できるだけ落ち着いた声を装う。
「君、何者なの?」
しばしの沈黙。
やがて、ウインカーの音と一緒に、シズクの声が落ちてきた。
「私はね、『アンデッド』よ」
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……アンデッドって、ゾンビとか、そういう?」
「人間はすぐゾンビって言うわね」
かすかに呆れたような響きが混じる。
「私は、死んでいるけど、死ねない。
でも、生きているとも言い難い。
だから、『不死』なんて綺麗な言葉より、『アンデッド』の方がしっくりくる」
冗談を言っている声色ではなかった。
だからこそ、余計に現実味がなかった。
「アンデッド……」
「人間の最期の願いを叶えて、その魂を天へ送る役目を持つ存在。
それが、私たちの仕事」
僕は思わず笑ってしまう。
乾いた、ひどく情けない笑い声だった。
「魂を天へ送る、ね。宗教勧誘にでも来たの?」
「私はチラシも配らないし、お布施も取らないわ」
シズクは淡々と返す。
「ただ、魂を食べるだけ」
空気が、一瞬だけ、凍りついた気がした。
「……食べる?」
「そう。人間の魂を食べることで、私たちは存在し続けている。
でもね、その前にすることがあるの。
その人の『最期の願い』を、できる限り叶えてあげること」
それは、あまりにも歪んだ慈悲だった。
魂を食べるために、願いを叶える。
最期の温情は、捕食のための前菜。
「なんで、そんなことを?」
「魂はね、満ち足りているほど、味がいいのよ」
冗談とも本気ともつかない声。
「未練が強すぎると、苦くなる。
絶望しすぎていると、えぐくなる。
でも、ある程度満足して、ある程度諦めて、それでも少しだけ心残りがあるくらいが、一番美味しい」
僕は言葉を失って、ただ口を閉ざす。
魂の味。
そんな話、どこのホラーゲームだよ、と心の中で吐き捨てる。でも、彼女の声には一片の虚勢もなかった。
「陽斗、あなたの余命は、もう長くない」
名を呼ばれた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「さっき、病院のカルテ、見たから」
「勝手に見るなよ……」
「いいじゃない。どうせ、もう戻らないんでしょう?」
図星を刺されて、何も言えなくなる。
「ねぇ、陽斗。あなたの最期の願いは、なに?」
問われて、僕は初めて、自分が「何も用意していなかった」ことに気づいた。
死にたい、とか、消えたい、とか。
その程度の曖昧な言葉は、頭の中にいくつも渦巻いている。
でも、「最期の願い」となると、途端に形を失う。
なにが欲しい?
なにを見たい?
誰に会いたい?
頭の中に浮かぶべき問いが、砂になって指の間からこぼれ落ちていく。
僕はようやく、掠れた声で絞り出した。
「……心残りの、ないように……死にたい」
それは、願いというより、逃げ口上だったかもしれない。
でも、今の僕には、それしか言えなかった。
しばらくの沈黙のあと、前方から小さなため息が聞こえた。
「抽象的ね」
「……悪かったな」
「でも、嫌いじゃないわ、そういう答え。
欲張りで、臆病で、ちゃんと人間らしい」
次の瞬間、ハンドルを切る音がした。
霊柩車は国道から外れ、山道へと入っていく。
「どこに行くんだ?」
「私の用事に、付き合ってもらうわ」
シズクの声が、少しだけ楽しげになった気がした。
「心霊スポットって、知ってる?」
「……まあ、一応」
「これからしばらく、そういう場所を巡る予定なの。
そこには、かつて私と同じ『アンデッド』だった仲間たちが眠っている」
山道は、どんどん細く、暗くなっていく。
窓の外には、もう街の光は見えない。月さえも、木々に隠れている。
「あなたの『心残り』を、少しずつ剥がしていく旅になると思う。
病院のベッドで死ぬよりは、退屈しないでしょう?」
僕は、乾いた喉をどうにか動かした。
「……そんな、余裕が……あるのか?」
「あるようにするのよ。さっきから言ってるでしょう。
私は、人間の魂を美味しく食べたいだけ」
あっさりと言ってのけながら、その声には奇妙な優しさが混じっていた。
「陽斗。あなたが死んだら、私はあなたの魂を食べる」
背筋が、ぞくりとした。
それは、宣告であり、約束だった。
「そうすれば、あなたは私の中で、数千年は生き続けられる。
私の記憶が続く限り。
私が世界を見続ける限り」
恐怖と、安堵が、同時に胸の中でぶつかる。
僕が死んだあと。
誰も僕を覚えていない世界が、確かに怖かった。
両親でさえ、いつかは僕を思い出す回数が減っていく。その事実が、何よりも残酷だった。
でも。
「あなたが消えるのが怖いなら、私の中に逃げ込めばいい。
そんなに悪い話じゃないと思うけど?」
シズクは、フロントガラスの向こうに広がる闇を見据えながら、淡々と言った。
「だから、その代わり。
余命が尽きるまで、私の旅に付き合って」
僕は、窓の外を見た。
闇の向こうには、もう病院の光も、家の灯りも見えない。ただ、黒い森と、細い道と、前を走るヘッドライトの光だけ。
戻れる場所は、もう置き去りにしてきた。
「……余命、三ヶ月だぞ。すぐ、終わるかもしれない」
「三ヶ月もあれば、けっこう色んなところに行けるわ。
それに──」
シズクは、少しだけ声を潜める。
「あなたの時間は、私がどうにかしてあげる」
意味深な言葉。
けれど、それを問いただす気力は、もう残っていなかった。
僕はゆっくりと目を閉じる。
揺れる車内、遠ざかる日常、近づいてくる「終わり」。
「……分かった。
余命が尽きるまで、だ」
闇の中で、シズクの横顔が、ほんの一瞬だけ笑ったように見えた。
「契約成立ね、陽斗」
霊柩車は、夜の山道を、静かに登っていく。
それが、僕と不死の少女の、「終わりの旅」の始まりだった。




