エピローグ ──終わりの翌日に始まる、二人だけの永遠の旅
国道沿いの夜は、相変わらず落ち着きなく光っていた。
コンビニのネオン。
トラックのヘッドライト。
安いラーメン屋の看板。
どれもこれもが、眠らない街の断片だ。
その国道の端で、一台の小さな車がハザードを焚いて止まっていた。
ボンネットを開けて、途方に暮れた顔で中を覗き込んでいるのは、二十代前半くらいの女性だった。
仕事帰りらしいスーツのジャケット。
足元は、少し履き慣れていないパンプス。
「……なんでこんなときに」
彼女は、冷たい夜風に負けないくらい冷えた声で呟いた。
スマホを取り出し、ロードサービスに電話をかけようとする。
けれど、画面には嫌な表示が出ていた。
『圏外』
「うそでしょ……」
街灯はあるが、周囲に店はない。
歩いて戻るには、少し距離がある。
心細さと、苛立ちと、少しの恐怖が混ざり合う。
そのとき──
後方から、ゆっくりと近づいてくるヘッドライトがあった。
スピードを落とし、彼女の止まっている車の十数メートル手前で停まる。
黒い車だった。
セダンよりも少し大きく、バンよりも少し低い。
どこか古めかしいフォルムの、黒塗りの車。
運転席のドアが開く。
そこから降りてきたのは、銀髪の女性だった。
肩までの髪が、街灯の下で淡く光る。
瞳は、ほんのりと赤みを帯びているように見えた。
黒いロングコート。
白い肌。
夜の闇よりも静かな足取り。
彼女は、困惑している女性の前で足を止め、ふわりと微笑んだ。
「困ってる?」
「あ、はい……その、車が急に止まっちゃって」
なぜか、初対面の人間にしては、異様に落ち着いて答えられた。
彼女の纏う空気が、警戒心よりも安心感を先に呼び起こしたのかもしれない。
「ロードサービスは?」
「繋がらなくて……圏外で」
「そう」
銀髪の女性は、国道の向こう側をちらりと見る。
山に遮られて、電波が届きにくい場所らしかった。
「乗る?」
「え?」
「目的地まで、送ってあげる」
黒い車の方へと顎をしゃくる。
「どこへ行きたい?」
その問いかけは、不思議な響きを持っていた。
ただの「送迎」ではない、何かを含んでいるような。
「……家に、帰りたいんです」
思わず、本音が口をついて出た。
今日、上司に理不尽に怒られたこと。
仕事で失敗したこと。
帰っても誰も待っていない部屋。
それでも、「帰りたい」と願っている自分に、今気がついた。
銀髪の女性は、少しだけ目を細めて笑った。
「いいわ」
その笑みには、どこか安堵の色が混じっていた。
「家まで送りましょう」
◆
黒い車の後部ドアが開く。
中は、意外なほど広かった。
白い内装。
どこか古い教会のような、乾いた香り。
彼女は、少しだけ躊躇した。
「これって……もしかして、霊柩車?」
「そうよ」
運転席に回り込もうとする銀髪の女性が、あっさりと言う。
「死体は乗ってないから、安心して」
「あ、いえ、その……」
変な安心のさせ方だったけれど、なぜか妙に説得力があった。
後部座席に腰を下ろすと、柔らかなクッションが背中を受け止めてくれる。
ドアが閉まり、エンジンがかかる。
「シートベルト、忘れずに」
前方から、落ち着いた声が飛んでくる。
「は、はい」
言われるままにベルトを締めると、車は滑るように国道へ戻った。
しばらく、静かな時間が流れる。
ラジオも音楽もかかっていない。
聞こえるのは、エンジンの低い唸りと、タイヤがアスファルトを擦る音だけ。
やがて、彼女は意を決したように口を開いた。
「あの……さっきは、ありがとうございました」
「いいのよ」
運転席の女性は、フロントガラスの向こうだけを見つめている。
「こう見えて、夜のドライブは慣れてるから」
「お仕事、なんですか? 送迎とか」
「昔はね」
少しだけ、含みのある言い方だった。
「今は、ただ旅をしているだけ」
「旅、ですか」
「うん」
赤いテールランプを追いながら、彼女は続ける。
「私はシズク。この車で、いろんな場所を回ってるの」
「シズクさん」
不思議な名前だ。
でも、彼女にはよく似合っていた。
「何のための旅なんですか?」
それは、ごく自然な質問だった。
銀髪の女性──シズクは、しばらく黙っていた。
国道の外灯が、一定の間隔で車内を照らし、また暗くする。
そのリズムがいくつか繰り返されたあと、彼女は左手をそっと自分の胸に当てた。
「大切な人の心臓が見たがっている景色を、見せてあげるための旅」
その答えは、どこか物語の一節みたいに聞こえた。
「……心臓?」
「うん」
シズクは、指先で軽く胸元を叩く。
「ここにいるの。
少しうるさいけど、悪くない同居人よ」
そう言って、ほんの少し照れくさそうに笑う。
彼女のその仕草に、なぜか胸がきゅっとした。
「その人は……どこに行きたがってるんですか?」
「たくさん」
シズクは、少し遠くを見る目をした。
「昔、病院の屋上から見た街の夜景。
子どもの頃に一度だけ行った海。
友達と行きたかった遊園地。
行けなかった修学旅行先の古い町並み」
それらをひとつずつ、確かめるように辿っているのだと、彼女は淡々と話した。
「全部を巡るには、私の時間でも足りないかもしれないけどね」
「でも、行くんですね」
「行くわよ」
シズクは、あっさりと肯定する。
「約束だから」
その言葉の重さが、車内に静かに沈んだ。
◆
夜明けが近づいていた。
東の空が、少しずつ白んでいく。
国道沿いの建物の輪郭が、灰色から色を取り戻し始める。
彼女の家は、郊外の小さなアパートだった。
「ここで、いいです」
シズクに伝えると、車はゆっくりとスピードを落とし、アパートの前に停まった。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
頭を下げると、シズクは「いいのよ」と短く返した。
ドアを開け、外に出る。
冷たい空気が、夜の残り香を運んでくる。
ふと振り返ると、窓越しにシズクと目が合った。
「ねぇ」
思わず、声をかける。
「はい?」
「あなた、家に帰りたいって言ったわね」
「ええ……」
シズクは、少しだけ目を細めた。
「ちゃんと、帰れた?」
その問いに、彼女は自分の胸に手を当てた。
上司の顔。
仕事のストレス。
誰もいない部屋。
それでも。
「……はい。今は、帰りたいです」
そう答えると、シズクは、満足そうに微笑んだ。
「それなら、よかった」
エンジンが、低く唸る。
別れの挨拶を言うべきだと分かっていた。
でも、「さようなら」と言ったら、二度と会えない気がして、喉がすくんだ。
「また、会えたり……しますか?」
気がつけば、そんな言葉が口から出ていた。
自分でも驚いた。
シズクは、少しだけ考えるようなそぶりを見せた後、首を横に振った。
「どうかしら」
はっきりとした否定でも、肯定でもない。
「でも」
彼女は、空を見上げた。
そこには、夜と朝のあいだの、薄青いキャンバスが広がっている。
まだ消えきっていない星が、いくつか点々と残っていた。
「時々、空を見て」
シズクは、静かに言った。
「星がきれいな夜に。
あるいは、どうしようもなく苦しい夜に。
それだけで、じゅうぶん」
それは、「さようなら」の代わりのように聞こえた。
「……はい」
彼女は、小さく頷いた。
黒い車のウインカーが、短く光る。
霊柩車は、静かに国道へと戻っていった。
アパートの前にひとり残され、彼女は空を見上げる。
東の地平線が、金色に縁取られていた。
その上の薄青い空に、ひとつだけ残った星が、かすかに瞬いている。
胸の奥で、なにかが小さく動いた気がした。
生きる意味を、見失いかけていた何かが、ほんの少しだけ形を取り戻すような感覚。
「……行ってきます」
誰にともなくそう言って、彼女はアパートの階段を上った。
◆
一方その頃。
国道を離れた霊柩車は、郊外の細い道を走っていた。
空はすっかり明るくなり、雲の隙間から陽の光が差し込んでいる。
運転席のシズクは、ちらりとバックミラーを見た。
「見えたでしょう、陽斗」
胸元にそっと手を当てる。
鼓動が、変わらずそこにある。
「今夜も、星がきれいになりそうよ」
遠くの山並みの上に、まだ薄く月が残っている。
あの女性を降ろす前、シズクは一瞬だけ夜空を見上げていた。
そこには、満天の星が広がっていた。
彼女の赤い瞳には、それがくっきりと映り込んでいる。
「あなたが見損ねた海。
あなたが行けなかった町。
あなたが夢見た、どうでもいい夜景」
ひとつずつ、指折り数えるように呟く。
「全部じゃなくても、いくつかは、ちゃんと見せてあげる」
エンジン音が、静かに高まる。
黒い霊柩車は、また新しい夜へと走り出す。
それは、死を運ぶ車ではなくなっていた。
記憶と心臓を乗せて、世界中の星空をめぐる「旅の車」だった。
シズクは、フロントガラス越しの空を見上げながら、ほんの少しだけ唇を動かした。
「これが、私たちの永遠の形ね」
胸の中で、陽斗の心臓が、ゆっくりと、しかし確かに鼓動している。
ドクン。
ドクン。
そのリズムに合わせるように、世界は回り、夜は更け、また新しい朝がやってくる。
「夜葬紀行」は、今日も続いている。
終わりと始まりのあいだで。
記憶と忘却のあいだで。
生と死の境界線を、静かに、確かに走り続けていた。
***「Fin」***
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
陽斗とシズクの旅は、一見すると「死に向かう物語」ですが、
書いているあいだ、私の中ではずっと「生の密度」の話でした。
たった数週間でも、
十八年や、千年さえ塗り替えてしまうほど濃い時間はある。
そんな想いを、この旅に込めています。
もし、
どこか一場面でも心に残った
陽斗やシズクの言葉が、少しでも引っかかった
読後、ふと夜空を見上げたくなった
そんな瞬間があったなら、作者としてこれ以上の幸せはありません。
ブックマークや評価、感想などをいただけると、とても励みになります。
次の物語へ踏み出す力になりますので、ひと言だけでも残していただけたら嬉しいです。
それでは、
またどこか別の夜と物語でお会いできましたら。




